1933年5月10日、立石一真氏は[1]33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業した。社員は工員と徒弟の各1人、長屋の2階に住み込んで階下を土間とし、作業台に万力を据えただけの零細な町工場だった。最初の製品は自ら開発したレントゲン写真撮影用タイマである。しかしレントゲンの市場は小さく、早々に電力用保護継電器の専門工場[2]と銘打って電力業界へマーケットを切り替えた。立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器専門工場[3]と称された。この転換が当たり、1936年には大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転し、1945年には社員250人を擁する規模へと伸びた。[4]
だが1945年5月、大阪の工場は終戦を待たず空襲で全焼する。前年から京都・御室にあった映画撮影所を譲り受けて疎開工場の改修を進めていたため、立石電機はここへ本拠を移した。今日オムロンが京都に本社を置く直接の経緯であり、後に制定する商標『OMRON』も御室の地名に由来する。[5]終戦で継電器の需要は消え、1948年5月に資本金200万円で立石電機株式会社へ改組したものの再建は進まず、[6]1950年には社員がわずか33人まで落ち込んだ。[7]電力用機器の需要回復を待って、ここから本格的な再建が始まる。
疎開先に京都を選んだ理由は三つあった。立石氏が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁があったこと、文化遺産が多く空襲の恐れが小さいと見たこと、西陣織や清水焼の伝統産業があり、組立作業に向く器用な手を見込めることである。[8]御室の疎開工場を開いたのは1944年4月で、大阪工場の焼失を受けて1945年8月にこの京都工場が本社工場へ昇格した。[9]本命の誘導形保護継電器は戦後数年、需要がまったく消えたままだった。1947年6月に政府が示した電力危機突破対策要綱に沿って電力会社から電流制限器を受注し、電熱器やヘヤアイロン、電気ライタなどの家庭用品を売って急場をしのぐ。その電流制限器も1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた。[10]
再建の途上にあった1952年、立石一真氏は能率学の権威・上野陽一氏から[11]、米国に作業員のいない自動工場が現れたという話を聞く。日本にオートメーションという言葉すら知られていなかった時期である。立石氏はこれを将来有望なマーケットと見定め、1955年、すでに55歳で社員110人・年商2億4000万円[12]の会社を率いながら、まだ存在しない市場の開拓に乗り出した。マイクロスイッチやリレーなど制御に使う機能部品を自前で開発する道であり、新商品の研究開発を最優先する『経営基本五原則』とともに、後年オムロンを支えるR&D先行の経営はこの決断から始まる。[13]立石氏は後年、扱う商品が創業以来の保護継電器のままでは大きな飛躍は望めず次の有望マーケットを探していたと述べ、本当の意味の創業は戦後の1955年だったと振り返っている。[14]
事業の急拡大に対し、立石氏は1955年1月、独自の組織論『プロデューサ・システム』を創案した。販売と研究を別会社として分離し、生産を品目別の独立専門工場へ分社する分権型の運営方式で、生産子会社は最終的に9社に及んだ。[15]立石氏はこれを単なる分社ではなく、人間が個性を発揮する場をつくる経営思想として位置付けている。システムが軌道に乗った5年間で売上はおよそ10倍に伸び、[16]1959年には御室に由来する商標『OMRON』を制定、[17]1962年4月には京都・大阪証券取引所市場第二部へ上場して、開発投資と資金調達を両輪で回す体制を整えた。[18]
分権の実像は数字に残っている。プロデューサ・システムを始めた1955年の全社員は185人、プロデューサ工場は二つで、1工場あたり40〜50人にすぎなかった。[19]工場が増えて借工場から新築へ移ると本社からの集中管理では手が届かなくなり、1962年9月には本社の部長級を工場へ送り込む工場専務制を敷く。販売会社からの注文も本社を経由せず工場へ直接入るよう改め、資材や一部の管理業務も工場へ移した。[20]儲かる商品が現れると各社がなだれ込む業界にあって、自ら技術で商品を開発し市場も自分で開拓する遠回りの道を選ぶ──1973年時点で、その研究テーマは一貫して省力化と無人化に置かれ、外れた新規投資がないと評価されていた。[21]
オートメーション用の機能部品で築いた制御技術は、1960年代に応用製品の『世界初』を次々に生み出した。1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964[22]年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発し、制御技術を交通インフラの領域へ広げる。1967年3月には阪急電鉄北千里駅で世界初の無人駅システムが稼動し、自動改札機と券売機[23]を組み合わせたこの仕組みは日本の鉄道自動化の原型となった。1965年7月にはクレジットカードによる自動販売システムを開発し、その技術を世界最大の自動販売機メーカー[24]である米キャンティーン社へ輸出している。交通制御はその後、都心の120か所の交差点に探知機を置いて車の通過量を測り、警視庁の計算機で信号を一斉に出す無人の仕組みへ進む。[25]工場の自動化を担うFAと、社会インフラを担う社会システムという、現在まで続く二つの事業の柱がこの時期に形を取った。
三つ目の柱となるヘルスケアの源流は、1963年のハンス・セリエ博士の招聘にさかのぼる。ストレス学説の世界的権威を一私企業が招いて健康工学を共同研究する試みは医学界の反響を呼び、立石電機はカナダのモントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を結んだ。[26]東洋医学の経絡や脈診を電子的に測る研究から簡易血圧計の開発へと進み、1973年の血圧計1号機[27]、そして電子血圧計や電子体温計『けんおんくん』へとつながった。健康機器への参入は、立石氏が掲げた社憲『よりよい社会をつくりましょう』の具現化と位置付けられた。[28]
社会への貢献を事業の形にする発想は、ほかにも現れた。1972年2月には障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立し、[29]1960年代後半にはサリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発している。[30]規模の拡大は別の悩みを生んだ。1983年、立石氏は許認可も会議も増えて受注から代金回収までが延び、小回りのきく新興企業に勝てなくなったとして、事業本部へ大幅に権限を移すと語る。[31]見本品を届けるまでに3か月かかり、2〜3週間で応じる中小に小口の商売を奪われ始めていた。[32]一方で1988年4月には東京支社を東京本社へ昇格させて二本社制とし、オランダ・シンガポール・米国に地域統轄会社を順次設けて、1989年にグローバル3極統轄体制を整えた[33]。国内で世界初を重ねた京都の発明会社は、1980年代末に世界市場を見据えた制御機器メーカーへと立ち位置を移した。
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|---|---|---|---|---|
| 1933〜1989年立石一真氏と世界初を連発した京都の発明会社 | 立石一真が大阪で立石電機製作所を創業 | ★★ | ||
| 工場を新設移転 | ★ | |||
| 工場を移転 | ★ | |||
| 株式会社に改組 | ★ | |||
| プロデューサ・システム(分権型生産子会社方式)を創案 | ★★ | |||
| 商標「OMRON」を制定 | ★ | |||
| 保護継電器メーカーから制御機器メーカーへの業態転換と世界初の無接点近接スイッチ 1953年、立石電機の立石一真社長が、創業商品である電力用保護継電器の単品メーカーから、日本にまだ存在しなかったオートメーション(自動制御)用の機能部品市場へ賭け、1960年に世界初の無接点近接スイッチを開発して制御機器メーカーへ事業を再定義した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 中央研究所を竣工 | ★ | |||
| 京都・大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 世界初の電子式自動感応式信号機を開発 | ★ | |||
| 制御技術を社会インフラへ広げる社会システム事業と世界初の無人駅システム 1967年3月、立石電機がオートメーション用機能部品で培った制御技術と電子計算機を組み合わせ、阪急電鉄北千里駅で世界初の大規模な無人駅システムを稼動させた経営判断。工場の自動化にとどまらず、駅務・交通・金融という社会インフラの自動化を新たな事業の柱に据えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| オムロン太陽を設立 | ★ | |||
| オムロンの血圧計1号機を開発 | ★★ | |||
| 東京支社を東京本社に昇格し二本社制に移行 | ★ | |||
| 北米地域統轄会社を設立 | ★ | |||
| 1990〜2010年オムロン株式会社への改称と事業再編 | 社名を「オムロン」に変更 | ★ | ||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 初の独資生産会社オムロン大連有限公司が稼動 | ★ | |||
| 事業部制を廃止しカンパニー制を導入 | ★ | |||
| 京阪奈イノベーションセンタを開設 | ★ | |||
| 作田久男 | ヘルスケア事業を分社しオムロンヘルスケアを設立 | ★ | ||
| 作田久男 | BITRONを子会社化し車載電装部品事業を拡大 | ★ | ||
| 作田久男 | 共同新設分割によりATM等の情報機器事業を日立オムロンターミナルソリューションズへ承継 | ★ | ||
| 作田久男 | リーマンショックで純損失▲291億円を計上 | ★★ | ||
| 作田久男 | 事業別分社化を推進 | ★ | ||
| 2011〜2022年山田義仁社長の集中と切離し | 山田義仁 | 山田義仁氏が代表取締役社長に就任 | ★ | |
| 山田義仁 | 米Delta Tau Data Systemsを子会社化 | ★ | ||
| 山田義仁 | Adept Technologyを子会社化 | ★★ | ||
| 山田義仁 | 産業用カメラメーカーのセンテックを子会社化 | ★ | ||
| 山田義仁 | 米Microscan Systemsを子会社化 | ★ | ||
| 山田義仁 | 世界初のウェアラブル血圧計を発売 | ★ | ||
| 山田義仁 | 車載電装部品事業をニデックへ譲渡 | ★★ | ||
| 山田義仁 | 日立オムロンターミナルソリューションズ株式を日立に譲渡 | ★ | ||
| 山田義仁 | MEMS事業を分社しミツミ電機に譲渡 | ★ | ||
| 山田義仁 | 辻永順太氏が代表取締役社長CEOに就任 | ★ | ||
| 山田義仁 | 医療統計データの株式会社JMDCと資本・業務提携を実施 | ★ | ||
| 辻永順太 | JMDCを子会社化 | ★★ | ||
| 辻永順太 | 制御機器不振下の構造改革「NEXT 2025」と約2000人の人員削減 2024年2月26日、オムロンが構造改革プログラム『NEXT 2025』を発表し、国内外で計約2000人の人員削減に踏み切った経営判断。主力の制御機器事業が中国市場の低迷で急失速したことを受け、辻永順太社長が固定費の圧縮と事業構造の立て直しを主導した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(オムロン)