オムロン の歴史

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創業 1933年
創業者 立石一真
創業地 大阪市都島区
創業
1933年5月、立石一真氏が大阪市都島区でレントゲン写真撮影用タイマの製造を始め、立石電機製作所を創業した。1945年6月に工場を京都市右京区へ移し、1948年5月には資本金200万円の立石電機株式会社へ改組する。1955年には販売部門と研究部門を分離し、独立専門工場を並べるプロデューサ・システムを始めた。同じ1955年、55歳の一真氏は社員110人・年商2億4千万円の会社で、日本にまだ言葉すらなかったオートメーションの市場開拓へ入る。1959年1月に商標をOMRONと定め、1962年4月には京都・大阪の両証券取引所へ上場した。
決断
世界初の製品で市場を作り、育った事業は他社へ譲渡してきた。1960年に世界初の無接点近接スイッチで制御機器メーカーへ転換し、保護継電器という単品への依存から抜ける。1967年3月には制御技術を社会インフラへ広げ、阪急北千里駅で世界初の無人駅システムが動いた。1963年にはストレス学説の権威ハンス・セリエ博士とモントリオール大学実験医学研究所で共同研究契約を結び、1973年の血圧計1号機へつなげている。ところが2019年10月には車載電装部品事業をニデックへ、2021年3月にはATM事業を日立製作所へ譲渡した。世界初を出す速さで広げた事業の幅は、2010年代には売却の対象へ置き換わった。
現況
1,054億円を売る電子部品事業が、残した利益は3億円である。2026年3月期の売上高は7,674億円、営業利益526億円、当期純利益285億円である。直前の2025年3月期の内訳は制御機器3,608億円、ヘルスケア1,459億円、社会システム1,456億円、電子部品1,054億円、データソリューション427億円で、セグメント利益はそれぞれ363億円、175億円、168億円、3億円、28億円であった。利益率は制御機器の9.9%、ヘルスケアの12.0%に対し、電子部品は0.3%にとどまる。2024年3月期は純利益が前期の739億円から81億円へ落ち、同年2月に約2000人の人員削減を含む構造改革「NEXT 2025」を発表した
競合
世界で首位を取れているのは、制御機器ではなく血圧計である。ヘルスケアは2024年度に血圧計を世界で2,315万台販売し、130カ国以上で医療機器の認証を取得した。事業の売上の7割を血圧計が、13%をネブライザが占める。一方の制御機器は半導体とEV向け2次電池の設備投資に関わる大口顧客への集中が深く、2023年度の中国の減速をそのまま受けた。同じセンサーを売るキーエンスは数十億円規模の製品市場を積み上げて売上1兆1,693億円を確保しており、オムロンの制御機器の3倍を超える。社会システムでは蓄電システムで国内首位に立つが、その競争は住宅市場に閉じている。世界で数を出せる商品を持つ事業と、特定の顧客に深く入る事業とで、業績の振れ方が分かれた。
オムロン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 立石一真氏と世界初を連発した京都の発明会社 (1933年〜)

九尺二間から京都へ ── 創業・戦災・33人の谷

1933年5月10日、立石一真氏は[1]33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業した。社員は工員と徒弟の各1人、長屋の2階に住み込んで階下を土間とし、作業台に万力を据えただけの零細な町工場だった。最初の製品は自ら開発したレントゲン写真撮影用タイマである。しかしレントゲンの市場は小さく、早々に電力用保護継電器の専門工場[2]と銘打って電力業界へマーケットを切り替えた。立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器専門工場[3]と称された。この転換が当たり、1936年には大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転し、1945年には社員250人を擁する規模へと伸びた。[4]

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1933年5月10日、立石一真が33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業(最初の製品はレントゲン写真撮影用タイマ)
    • [4]1936年に大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転、1945年時点で社員250人規模
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [2]レントゲン市場の小ささから電力用保護継電器の専門工場へ事業を転換
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器(保護継電器)専門工場と位置づけられた

だが1945年5月、大阪の工場は終戦を待たず空襲で全焼する。前年から京都・御室にあった映画撮影所を譲り受けて疎開工場の改修を進めていたため、立石電機はここへ本拠を移した。今日オムロンが京都に本社を置く直接の経緯であり、後に制定する商標『OMRON』も御室の地名に由来する。[5]終戦で継電器の需要は消え、1948年5月に資本金200万円で立石電機株式会社へ改組したものの再建は進まず、[6]1950年には社員がわずか33人まで落ち込んだ。[7]電力用機器の需要回復を待って、ここから本格的な再建が始まる。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]商標「OMRON」は本社所在地・御室の地名に由来
    • [6]1948年5月、資本金200万円で立石電機株式会社へ改組
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [7]1950年(昭和25年)に社員が33人まで減少

疎開先に京都を選んだ理由は三つあった。立石氏が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁があったこと、文化遺産が多く空襲の恐れが小さいと見たこと、西陣織や清水焼の伝統産業があり、組立作業に向く器用な手を見込めることである。[8]御室の疎開工場を開いたのは1944年4月で、大阪工場の焼失を受けて1945年8月にこの京都工場が本社工場へ昇格した。[9]本命の誘導形保護継電器は戦後数年、需要がまったく消えたままだった。1947年6月に政府が示した電力危機突破対策要綱に沿って電力会社から電流制限器を受注し、電熱器やヘヤアイロン、電気ライタなどの家庭用品を売って急場をしのぐ。その電流制限器も1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた。[10]

  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [8]京都を疎開先に選んだ理由は、立石一真が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁、文化遺産にめぐまれ爆撃の心配がほとんどないこと、西陣織・清水焼などの伝統郷土産業があり組立作業に必要な手先の器用さが期待できることの3点
    • [9]1944年4月に御室へ疎開工場を開設、大阪工場焼失を受けて1945年8月に京都工場が本社工場へ昇格
    • [10]戦後数年は本命の誘導形保護継電器の需要が消え、1947年6月の政府「電力危機突破対策要綱」に基づく電流制限器の受注と家庭用電気器具(電熱器・ヘヤアイロン・電気ライタ等)で急場をしのいだ。電流制限器は1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1933年5月10日、立石一真が33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業(最初の製品はレントゲン写真撮影用タイマ)
    • [4]1936年に大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転、1945年時点で社員250人規模
    • [5]商標「OMRON」は本社所在地・御室の地名に由来
    • [6]1948年5月、資本金200万円で立石電機株式会社へ改組
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [2]レントゲン市場の小ささから電力用保護継電器の専門工場へ事業を転換
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器(保護継電器)専門工場と位置づけられた
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [7]1950年(昭和25年)に社員が33人まで減少
  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [8]京都を疎開先に選んだ理由は、立石一真が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁、文化遺産にめぐまれ爆撃の心配がほとんどないこと、西陣織・清水焼などの伝統郷土産業があり組立作業に必要な手先の器用さが期待できることの3点
    • [9]1944年4月に御室へ疎開工場を開設、大阪工場焼失を受けて1945年8月に京都工場が本社工場へ昇格
    • [10]戦後数年は本命の誘導形保護継電器の需要が消え、1947年6月の政府「電力危機突破対策要綱」に基づく電流制限器の受注と家庭用電気器具(電熱器・ヘヤアイロン・電気ライタ等)で急場をしのいだ。電流制限器は1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた

オートメーションへの賭けと分権制経営

再建の途上にあった1952年、立石一真氏は能率学の権威・上野陽一氏から[11]、米国に作業員のいない自動工場が現れたという話を聞く。日本にオートメーションという言葉すら知られていなかった時期である。立石氏はこれを将来有望なマーケットと見定め、1955年、すでに55歳で社員110人・年商2億4000万円[12]の会社を率いながら、まだ存在しない市場の開拓に乗り出した。マイクロスイッチやリレーなど制御に使う機能部品を自前で開発する道であり、新商品の研究開発を最優先する『経営基本五原則』とともに、後年オムロンを支えるR&D先行の経営はこの決断から始まる。[13]立石氏は後年、扱う商品が創業以来の保護継電器のままでは大きな飛躍は望めず次の有望マーケットを探していたと述べ、本当の意味の創業は戦後の1955年だったと振り返っている。[14]

  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [11]1952年、立石一真が能率学の権威・上野陽一から米国の無人工場(オートメーション)の話を聞く
    • [13]新商品の研究開発を最優先する「経営基本五原則」
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [12]1955年、社員110人・年商2億4000万円でオートメーション市場の開拓に着手(立石一真55歳)
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [14]立石一真は、創業商品の保護継電器のままでは大きな飛躍は望めず次の有望マーケットを模索していたとし、本当の意味の創業は戦後の1955年(オートメーション事業への進出)だったと述べた

事業の急拡大に対し、立石氏は1955年1月、独自の組織論『プロデューサ・システム』を創案した。販売と研究を別会社として分離し、生産を品目別の独立専門工場へ分社する分権型の運営方式で、生産子会社は最終的に9社に及んだ。[15]立石氏はこれを単なる分社ではなく、人間が個性を発揮する場をつくる経営思想として位置付けている。システムが軌道に乗った5年間で売上はおよそ10倍に伸び、[16]1959年には御室に由来する商標『OMRON』を制定、[17]1962年4月には京都・大阪証券取引所市場第二部へ上場して、開発投資と資金調達を両輪で回す体制を整えた。[18]

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1955年1月、分権型の生産運営方式「プロデューサ・システム」を創案。生産子会社は最終的に9社
    • [17]1959年に商標「OMRON」を制定
    • [18]1962年4月、京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [16]プロデューサ・システム導入後の約5年間で売上は約10倍に拡大

分権の実像は数字に残っている。プロデューサ・システムを始めた1955年の全社員は185人、プロデューサ工場は二つで、1工場あたり40〜50人にすぎなかった。[19]工場が増えて借工場から新築へ移ると本社からの集中管理では手が届かなくなり、1962年9月には本社の部長級を工場へ送り込む工場専務制を敷く。販売会社からの注文も本社を経由せず工場へ直接入るよう改め、資材や一部の管理業務も工場へ移した。[20]儲かる商品が現れると各社がなだれ込む業界にあって、自ら技術で商品を開発し市場も自分で開拓する遠回りの道を選ぶ──1973年時点で、その研究テーマは一貫して省力化と無人化に置かれ、外れた新規投資がないと評価されていた。[21]

  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [19]プロデューサ・システム創設時(1955年)の全社員は185人、プロデューサ工場は2つで1工場あたり40〜50人規模
    • [20]1962年9月に工場専務制を実施し本社管理部門の部長クラスをプロデューサ工場へ派遣。販売会社から工場への直接発注、資材および一部管理業務の工場移管を1961年後半〜1962年にかけて実施
  • 日経ビジネス 1973年9月2日号
    • [21]独自の技術開発で新商品を開発しマーケットも自主開拓する「遠回りに見える」経営戦略が高成長・高収益の源泉で、研究テーマは一貫して省力化・無人化に置かれ、当たらない新規投資はなかった(1973年時点)
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [11]1952年、立石一真が能率学の権威・上野陽一から米国の無人工場(オートメーション)の話を聞く
    • [13]新商品の研究開発を最優先する「経営基本五原則」
    • [16]プロデューサ・システム導入後の約5年間で売上は約10倍に拡大
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [12]1955年、社員110人・年商2億4000万円でオートメーション市場の開拓に着手(立石一真55歳)
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [14]立石一真は、創業商品の保護継電器のままでは大きな飛躍は望めず次の有望マーケットを模索していたとし、本当の意味の創業は戦後の1955年(オートメーション事業への進出)だったと述べた
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1955年1月、分権型の生産運営方式「プロデューサ・システム」を創案。生産子会社は最終的に9社
    • [17]1959年に商標「OMRON」を制定
    • [18]1962年4月、京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [19]プロデューサ・システム創設時(1955年)の全社員は185人、プロデューサ工場は2つで1工場あたり40〜50人規模
    • [20]1962年9月に工場専務制を実施し本社管理部門の部長クラスをプロデューサ工場へ派遣。販売会社から工場への直接発注、資材および一部管理業務の工場移管を1961年後半〜1962年にかけて実施
  • 日経ビジネス 1973年9月2日号
    • [21]独自の技術開発で新商品を開発しマーケットも自主開拓する「遠回りに見える」経営戦略が高成長・高収益の源泉で、研究テーマは一貫して省力化・無人化に置かれ、当たらない新規投資はなかった(1973年時点)

「世界初」の連発と健康工学・社会貢献の源流

オートメーション用の機能部品で築いた制御技術は、1960年代に応用製品の『世界初』を次々に生み出した。1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964[22]年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発し、制御技術を交通インフラの領域へ広げる。1967年3月には阪急電鉄北千里駅で世界初の無人駅システムが稼動し、自動改札機と券売機[23]を組み合わせたこの仕組みは日本の鉄道自動化の原型となった。1965年7月にはクレジットカードによる自動販売システムを開発し、その技術を世界最大の自動販売機メーカー[24]である米キャンティーン社へ輸出している。交通制御はその後、都心の120か所の交差点に探知機を置いて車の通過量を測り、警視庁の計算機で信号を一斉に出す無人の仕組みへ進む。[25]工場の自動化を担うFAと、社会インフラを担う社会システムという、現在まで続く二つの事業の柱がこの時期に形を取った。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発
    • [23]1967年3月、阪急北千里駅で世界初の無人駅システム(自動改札機・券売機)が稼動
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [24]1965年7月、クレジットカードによる自動販売システムを開発し、世界最大の自動販売機メーカー・米キャンティーン社へその技術を輸出
  • 日経ビジネス 1985年8月19日号
    • [25]交通制御システムでは銀座界隈から国会議事堂まで120か所の交差点に探知機を取り付け、車の通過量を測定して警視庁の大型コンピューターで演算し、120か所の信号を制御する無人化を実現(1985年時点)

三つ目の柱となるヘルスケアの源流は、1963年のハンス・セリエ博士の招聘にさかのぼる。ストレス学説の世界的権威を一私企業が招いて健康工学を共同研究する試みは医学界の反響を呼び、立石電機はカナダのモントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を結んだ。[26]東洋医学の経絡や脈診を電子的に測る研究から簡易血圧計の開発へと進み、1973年の血圧計1号機[27]、そして電子血圧計や電子体温計『けんおんくん』へとつながった。健康機器への参入は、立石氏が掲げた社憲『よりよい社会をつくりましょう』の具現化と位置付けられた。[28]

  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [26]1963年にハンス・セリエ博士を招聘して健康工学を共同研究、カナダ・モントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を締結
    • [28]社憲「よりよい社会をつくりましょう」
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]東洋医学の経絡・脈診の電子計測研究から簡易血圧計を開発、1973年に血圧計1号機

社会への貢献を事業の形にする発想は、ほかにも現れた。1972年2月には障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立し、[29]1960年代後半にはサリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発している。[30]規模の拡大は別の悩みを生んだ。1983年、立石氏は許認可も会議も増えて受注から代金回収までが延び、小回りのきく新興企業に勝てなくなったとして、事業本部へ大幅に権限を移すと語る。[31]見本品を届けるまでに3か月かかり、2〜3週間で応じる中小に小口の商売を奪われ始めていた。[32]一方で1988年4月には東京支社を東京本社へ昇格させて二本社制とし、オランダ・シンガポール・米国に地域統轄会社を順次設けて、1989年にグローバル3極統轄体制を整えた[33]。国内で世界初を重ねた京都の発明会社は、1980年代末に世界市場を見据えた制御機器メーカーへと立ち位置を移した。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [29]1972年2月、障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立
    • [33]1988年4月に二本社制へ移行、欧州・アジア・北米に地域統轄会社を設け1989年に3極統轄体制を完成
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [30]1960年代後半、サリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発
  • 読売新聞(1983年1月22日)
    • [31]1983年1月、立石一真は中央集権化で許認可事項も会議も増え受注から代金回収までの時間が延びて小回りのきくベンチャービジネスに勝てなくなるとし、事業本部への大幅な権限移譲で会社全体を中小企業の集まりにすると述べた
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [32]制御機器部品の分野で中小のライバルに小口の商売を奪われるケースが増え、注文から見本品を届けるまで自社は3か月、ライバルの中小企業は2〜3週間だった(1983年時点)
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発
    • [23]1967年3月、阪急北千里駅で世界初の無人駅システム(自動改札機・券売機)が稼動
    • [27]東洋医学の経絡・脈診の電子計測研究から簡易血圧計を開発、1973年に血圧計1号機
    • [29]1972年2月、障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立
    • [33]1988年4月に二本社制へ移行、欧州・アジア・北米に地域統轄会社を設け1989年に3極統轄体制を完成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [24]1965年7月、クレジットカードによる自動販売システムを開発し、世界最大の自動販売機メーカー・米キャンティーン社へその技術を輸出
  • 日経ビジネス 1985年8月19日号
    • [25]交通制御システムでは銀座界隈から国会議事堂まで120か所の交差点に探知機を取り付け、車の通過量を測定して警視庁の大型コンピューターで演算し、120か所の信号を制御する無人化を実現(1985年時点)
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [26]1963年にハンス・セリエ博士を招聘して健康工学を共同研究、カナダ・モントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を締結
    • [28]社憲「よりよい社会をつくりましょう」
    • [30]1960年代後半、サリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発
  • 読売新聞(1983年1月22日)
    • [31]1983年1月、立石一真は中央集権化で許認可事項も会議も増え受注から代金回収までの時間が延びて小回りのきくベンチャービジネスに勝てなくなるとし、事業本部への大幅な権限移譲で会社全体を中小企業の集まりにすると述べた
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [32]制御機器部品の分野で中小のライバルに小口の商売を奪われるケースが増え、注文から見本品を届けるまで自社は3か月、ライバルの中小企業は2〜3週間だった(1983年時点)

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オムロンの沿革1933〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1933〜1989年立石一真氏と世界初を連発した京都の発明会社立石一真が大阪で立石電機製作所を創業★★
工場を新設移転
工場を移転
株式会社に改組
プロデューサ・システム(分権型生産子会社方式)を創案★★
商標「OMRON」を制定
保護継電器メーカーから制御機器メーカーへの業態転換と世界初の無接点近接スイッチ

1953年、立石電機の立石一真社長が、創業商品である電力用保護継電器の単品メーカーから、日本にまだ存在しなかったオートメーション(自動制御)用の機能部品市場へ賭け、1960年に世界初の無接点近接スイッチを開発して制御機器メーカーへ事業を再定義した経営判断。

詳細を読む
★★★
中央研究所を竣工
京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
世界初の電子式自動感応式信号機を開発
制御技術を社会インフラへ広げる社会システム事業と世界初の無人駅システム

1967年3月、立石電機がオートメーション用機能部品で培った制御技術と電子計算機を組み合わせ、阪急電鉄北千里駅で世界初の大規模な無人駅システムを稼動させた経営判断。工場の自動化にとどまらず、駅務・交通・金融という社会インフラの自動化を新たな事業の柱に据えた。

詳細を読む
★★★
オムロン太陽を設立
オムロンの血圧計1号機を開発★★
東京支社を東京本社に昇格し二本社制に移行
北米地域統轄会社を設立
1990〜2010年オムロン株式会社への改称と事業再編社名を「オムロン」に変更
本社を移転
初の独資生産会社オムロン大連有限公司が稼動
事業部制を廃止しカンパニー制を導入
京阪奈イノベーションセンタを開設
作田久男ヘルスケア事業を分社しオムロンヘルスケアを設立
作田久男BITRONを子会社化し車載電装部品事業を拡大
作田久男共同新設分割によりATM等の情報機器事業を日立オムロンターミナルソリューションズへ承継
作田久男リーマンショックで純損失▲291億円を計上★★
作田久男事業別分社化を推進
2011〜2022年山田義仁社長の集中と切離し山田義仁山田義仁氏が代表取締役社長に就任
山田義仁米Delta Tau Data Systemsを子会社化
山田義仁Adept Technologyを子会社化★★
山田義仁産業用カメラメーカーのセンテックを子会社化
山田義仁米Microscan Systemsを子会社化
山田義仁世界初のウェアラブル血圧計を発売
山田義仁車載電装部品事業をニデックへ譲渡★★
山田義仁日立オムロンターミナルソリューションズ株式を日立に譲渡
山田義仁MEMS事業を分社しミツミ電機に譲渡
山田義仁辻永順太氏が代表取締役社長CEOに就任
山田義仁医療統計データの株式会社JMDCと資本・業務提携を実施
辻永順太JMDCを子会社化★★
辻永順太制御機器不振下の構造改革「NEXT 2025」と約2000人の人員削減

2024年2月26日、オムロンが構造改革プログラム『NEXT 2025』を発表し、国内外で計約2000人の人員削減に踏み切った経営判断。主力の制御機器事業が中国市場の低迷で急失速したことを受け、辻永順太社長が固定費の圧縮と事業構造の立て直しを主導した。

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出典・参考
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日経ビジネス 1973年9月2日号
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
  • 日経ビジネス 1985年8月19日号
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
  • 読売新聞(1983年1月22日)

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