キーエンスの創業者である滝崎武光の経歴は異色で、最終学歴は高校卒業(尼崎工業高校)であり、高校在学中は学生運動における指導的立場にあった。だが、滝崎武光は「イデオロギー」では世の中は変化しないと観念し、ビジネスを通じて「世の中を変化させる」道を模索する。
高校卒業後、滝崎武光は外資系のプラント制御機器メーカーを経て、1度目の起業にチャレンジするも倒産の憂き目にあった。この時の事業は「電子機器メーカー」であった。
続いて、2度目に起業のチャレンジを試みるも、1度目と同様に倒産した。2度目の事業はメーカーの組み立て下請けである。
このため、1972年のキーエンスの創業は、滝崎武光にとって「3度目」の起業のチャレンジジとなった。キーエンスの創業当時、滝崎武光の年齢は27歳で、創業時の主力事業は電線メーカー向けの自動線材切断機で、最新の電子制御によって従来は大型だった機械の小型化に成功し、ようやく事業が軌道に乗った。
キーエンスの歴史における転機は、1974年のトヨタ自動車へのセンサー納入である。
1970年代初頭のトヨタ自動車はプレス加工において、板金の二重送りという失敗によって高額な金型が壊れるという事故に悩まされていた。このことを知った滝崎武光は、トヨタ自動車に板金の二重送りを未然に防ぐ「センサー」を提案し、無事に納入を果たすとともに、リード電機を株式会社化した(=キーエンスを設立)。
この成功により、キーエンスは「センサーを活用し、顧客工場に対する生産改善をコンサルティングする」事業を主軸として、センサーの直販営業会社として業容を拡大する。
1982年3月期のキーエンスの売上高は9億円、経常利益は3億円であり、設立10年目ですでに高収益体質を確立している。なお、コンサルティングでは優秀な人材が不可欠であるため、キーエンスは積極的な中途採用などによって「30歳前後で年収1000万円」という高額報酬を提示することで人材確保を試みた。
1982年の時点でキーエンスの創業事業である「自動線材切断機」は営業利益率が20%(1989/5/22日経ビジネス)の高収益事業であったが、滝崎武光はセンサー事業(営業利益率40%)よりも収益性が低いことを理由に撤退を決断した。
また、1982年から1983年にかけて、キーエンスは取引先の一極集中によるリスクを防ぐために、当時、キーエンスの売上高の20%を占めていた某機械メーカーとの取引縮小を決断するなど、特定企業に依存しない経営体質の構築を試みた。
1986年には社名をリード電機からキーエンスに変更しており「製造業」であることと決別した。
キーエンスは設立15年目の1987年に株式上場を果たすとともに、景気動向に左右されない利益体質を確立する。1991年にキーエンスは任天堂の株価を凌駕して「株価日本一」の称号も手にするなど、日本を代表する高収益企業へとして認知された。
なお、創業者である滝崎武光は財界とほとんど関わりがない「ステルス経営者」であり、メディアインタビューについても2003年頃を最後に、滅多に表舞台に姿を表さなくなった。このため、現在に至るまでキーエンスには「秘密のベールに包まれた企業」という印象が定着している。
なお、2019年の時点で、キーエンスの大株主は滝崎家の資産管理会社と創業者の滝崎武光であり、滝崎武光は高額納税者の常連としても知られている。
1990年代までのキーエンスは国内での事業展開が中心であり、海外進出については、海外に工場を新設する日本企業に付随して進出することが多かった。このため、2000年前後のキーエンスの売上高のうち、80%は国内で、海外は20%に過ぎなかった。加えて、キーエンスの売上高が1000億円を突破した段階で、社内では「これ以上の売り上げの拡大は一筋縄にはいかない」という認識が共有されつつあり、売上の拡大のために「非連続な打ち手」の必要性が生じていた。
そこで、2000年代を通じてキーエンスは主に北米と中国を中心に海外展開を積極化させる。2001年には中国に現地法人を設立し、日本と同様に「センサーによる生産設備の付加価値の向上」というビジネスを直販によって展開した。続いて、1980年代に進出していた北米に関しても、本格的な販売網の構築に着手したものと推察される
この結果、2010年代までにキーエンスは海外における売上高比率を上昇させ、2020年3月期には海外売上比率52%を達成する。加えて、日本と同様のビジネスモデルを構築することによって、利益率の水準を落とすことなく、世界での事業展開を成功させた。ただし、キーエンスは地域別の営業利益を公表していないため、各国における利益水準は不明である。