保護継電器メーカーから制御機器メーカーへの業態転換と世界初の無接点近接スイッチ

まだ日本になかったオートメーション市場に、立石一真氏はなぜ55歳で賭けたのか

更新:

時期 1960年
意思決定者 立石一真 社長
論点 事業の再定義と技術先行の経営
概要
1953年、立石電機の立石一真社長が、創業商品である電力用保護継電器の単品メーカーから、日本にまだ存在しなかったオートメーション(自動制御)用の機能部品市場へ賭け、1960年に世界初の無接点近接スイッチを開発して制御機器メーカーへ事業を再定義した経営判断。
背景
創業以来の保護継電器は終戦で需要が消え、1950年に社員が33人まで落ち込んだ。単品への依存から抜け出す次の市場を探していた1952年、立石社長は能率学の権威・上野陽一氏から米国の無人工場(オートメーション)の話を聞いた。
内容
1953年に機能部品(マイクロスイッチ・リレー・タイマ)の本格開発へ着手し、1958年には研究部へ5年の期限で無接点スイッチの開発を指令した。1960年春、金属が近づくだけで開閉する無接点近接スイッチを完成させ、米GE・ウェスチングハウスに1〜2年先行した。
含意
既存市場での競争ではなく市場そのものを自らつくる先取り経営の原型となり、制御機器(FA)を事業の柱に据えた。プロデューサ・システムによる分権生産と合わせて売上を5年で約10倍に伸ばし、後発の松下電工の参入がこの市場の有望性を裏づけた。
筆者の見解

市場を持たぬところに市場をつくる

この判断の核心は、既存の市場で競うのではなく、市場そのものが存在しない領域へ先に踏み込んだ点にある。立石社長が保護継電器の単品依存から抜けるために選んだのは、他社の後を追う多角化ではなく、日本にまだ言葉すらないオートメーションという需要を自ら定義することであった。制御に使う機能部品を片端から自前で開発し、無接点近接スイッチで世界の大手に先んじた選択は、技術で市場を先取りする経営の型を早い時期に定めたものとみることができる。

もっとも、市場を切り開いた先行者が、そのまま果実を取り切れるとは限らない。無接点スイッチも、後発の大手が数年遅れで追随した。それでも、保護継電器という一本足から制御機器メーカーへ立ち位置を移したこの決断は、その後のオムロンがFA・社会システム・ヘルスケアへ事業を広げる母体となった。市場を追うのではなく市場を先につくるという問いを、創業者が55歳で事業の中心に据えた点は、今日から見ても示唆に富む。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

保護継電器という単品への依存

立石電機は1933年、立石一真氏が大阪で立石電機製作所として創業した。自ら開発したレントゲン写真撮影用タイマを最初の製品としたが、市場が小さく、早々に電力用保護継電器の専門工場へマーケットを切り替えた。わが国最初で唯一の継電器専門工場と称された会社は、1936年に大阪・野里へ工場を移し、1945年には社員約250人を擁するまでに伸びた。事業は創業商品である保護継電器の一本で立っていた[1]

だが単品への依存は谷も深かった。1945年5月に大阪工場が空襲で全焼し、京都・御室の疎開工場へ本拠を移す。終戦で継電器のような生産資材の需要は消え、1948年に立石電機株式会社へ改組しても再建は進まず、1950年には社員が33人まで落ち込んだ。電力用機器の需要回復を待って再建に入ったものの、創業商品の保護継電器だけでは大きな飛躍は望みにくく、立石氏は次の有望なマーケットを探していた[2][3]

オートメーションという未知の言葉

転機は1952年に訪れた。能率学の権威・上野陽一氏を囲む京阪神の経営者の集まり「落穂会」で、立石氏は、米国に作業員のいない自動工場が現れ、原材料を入れると製品となって出てくるという話を聞いた。日本にオートメーションという言葉すら知られていない時期である。立石氏はこの技術に強く引かれ、長く頭の中で温めた末に、これを将来有望なマーケットになるとみなした[4]

同じ1952年、立石氏は西式健康法の西勝造氏から、もう一つの耳新しい言葉を聞いた。米マサチューセッツ工科大学のウィーナー博士が提唱したサイバネティクス、すなわち動物と機械における制御と通信の理論である。自動制御にフィードバックを与えるとオートメーションになり、そこへ電子計算機を組み合わせるとサイバネーションになる。二つの情報が同じ年に飛び込んだことが、立石電機の進む道を左右した[5]

決断

まだない市場へ「ゴー」の号令

1953年、立石氏はオートメーションを新しいマーケットとして開発すると決めた。いずれ日本にオートメ工場ができれば必要になるのは制御用の継電器であり、マイクロスイッチやマグネットリレー、タイムリレーを本格的に開発すればよい。従来の保護継電器の技術と設備で踏み出せると読み、まだどこも手がけていない冒険と承知のうえで全社員に「ゴー」の号令をかけた。1955年、すでに55歳、社員110人・年商2億4000万円の会社を率いての船出であった[6][7]

この賭けを支えたのは、1948年の法人化時に定めた「経営基本五原則」であった。第一に新商品の研究開発を優先すること、続いて借金をせず自己資金でやりくりすること、部品はすべて外注に依存すること、大企業の系列に入らないこと、大企業と共存共栄すること。とりわけ研究開発を優先するという第一原則のもと、必要なスイッチもリレーもタイマも自前で開発する方針を貫き、立石電機はR&D先行の企業と呼ばれる素地をここに得た[8]

世界初の無接点近接スイッチ

オートメ化が高度になるほど、スイッチの反応速度と寿命に桁違いの向上が求められた。接点を持つスイッチは開閉のたびに火花で摩耗し、当時のマイクロスイッチの寿命はせいぜい十万回程度で、その千倍が欲しいという要望に応えられない。立石氏は、いっそ接点をなくすほかないと考えた。1955年8月、ソニーのトランジスタラジオを買い求めた立石氏は、フィラメントの切れる心配がないトランジスタを使えば無接点スイッチができると気づいた[9]

立石氏は1958年5月の創業25周年記念式で、研究部に5年の期限を切って無接点スイッチの開発を指令した。2年後の1960年春、金属が近づくだけで開閉する無接点近接スイッチが完成する。米国に先立つこと2年、国内他社にも先んじた画期であった。立石氏はこれを「夢のスイッチ」と名づけて国際見本市へ出品し、大きな反響を呼んだ。米ウェスチングハウス社もGEも、1〜2年遅れて同種の開発に到達したという。保護継電器の単品メーカーから制御機器メーカーへ事業を再定義する核が、ここに据わった[10][11]

結果

市場の独占と急成長、R&D体制の確立

立石電機は、開拓したオートメ用機能部品の市場を数年間ほぼ独占した。プロデューサ・システムによる分権型の少種多量生産と合わせて、1954年度に約1億3000万円だった売上は1959年に約13億円へ、5年で約10倍に伸びた。1960年10月には約2億8000万円を投じて京都府長岡町に中央研究所を竣工し、資本金の4倍を研究開発の拠点に振り向けた。世界初を連発する技術の土台がここに整った[12][13]

数字の裏づけも整っていった。会社年鑑によれば、1961年3月期の単体売上は約8億円、純利益は約2億4000万円であり、1962年には大阪・京都の証券取引所市場第二部へ上場して資金調達の道を開いた。後発の動きも、この選択の正しさを映した。立石電機が手をつけて6年後の1959年、松下電工がマイクロスイッチの生産を始める。立石氏は、開発した市場が有望であることを天下の松下電工が裏書きしたものと受け止めた[14][15]

出典・参考
  • 私の履歴書 経済人15「立石一真」(日本経済新聞社, 1981)
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
  • 立石電機の30年(立石電機株式会社社史編纂委員会編, 1963)
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号「立石一真が語る“飛躍の条件”」
  • 立石電機 会社年鑑(単体業績)