1942年〜 水産18社を束ねた統制会社の発足と、冷力を核とした食品への拡張
ニチレイの業績推移:単体
- 1942年 帝国水産統制を設立
- 1945年 日本冷蔵に商号変更
- 1949年 東京証券取引所に株式上場
- 1951年 冷蔵倉庫業から「冷力を核とする総合食品企業」への転換 戦時統制から受け継いだ製氷・冷蔵の装置を、木村社長はどんな事業へ組み替えようとしたか
- 1956年 畜産事業に参入
- 1970年 設備投資を継続
水産大手18社の陸上部門を束ねた統制会社
ニチレイの前身は、1942年5月19日公布の水産統制令[1]に基づき、海洋漁業に伴う水産物の販売、製氷・冷蔵業などの中央統制機関[2]として設けられた帝国水産統制株式会社である。水産会社を中心に18社などが出資[3]し、資本金50百万円で1942年12月24日に設立された[4]。もっとも会社の系譜はさらに古く、1884年には日本で最初の製氷会社である東京製氷が創立[5]され、1897年に設立された機械製氷と1907年に合併して日本製氷となった[6]。以来の合併と吸収が同社の母体[7]であり、全国に散在する冷凍工場はその歴史を物語る[8]。翌1943年4月、水産物の買入・販売と製氷・冷蔵・凍結事業を開始した[9]。
- 株式会社ニチレイ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1942年5月19日 水産統制令の公布
- [2]設立目的 海洋漁業に伴う水産物の販売・製氷冷蔵業などの中央統制機関
- [3]帝国水産統制株式会社 水産会社を中心に18社などの出資
- [4]設立時資本金 50百万円/1942年12月24日設立
- [9]1943年4月 水産物の買入・販売並びに製氷・冷蔵・凍結事業の開始
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [5]1884年(明治17年)東京製氷の創立 日本で最初の製氷会社
- [6]1897年設立の機械製氷と1907年に合併して日本製氷
- [7]日本製氷が当社の母体で以来合併・吸収を継続
- [8]全国に散在する冷凍工場が合併の歴史を物語る
戦争によって同社は、保有していた製氷能力の43%、冷蔵能力の42%、凍結能力の31%と、海外における全事業網を失った[10]。1945年11月30日の水産統制令の廃止[11]を受け、同年12月1日に商法上の株式会社へ改組し、社名を日本冷蔵株式会社へ改めた[12]。1948年2月には過度経済力集中排除法による該当企業の指定を受けた[13]が、その後に指定取消の見通しがつき、1949年3月へ1億円を増資して資本金を1億5,000万円とした[14]。あわせて当時としては大量といえる約1,000名の人員整理を断行[15]し、同年10月にはさらに3億5,000万円を増資して資本金を5億円とした[16]。1949年5月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ株式を上場[17]した。
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [10]戦争により製氷能力43%・冷蔵能力42%・凍結能力31%と海外全事業網を喪失
- [13]1948年2月 過度経済力集中排除法による該当企業の指定
- [14]1949年3月 1億円増資で資本金1億5,000万円
- [15]約1,000名の人員整理を断行
- [16]1949年10月 3億5,000万円増資で資本金5億円
- 株式会社ニチレイ 有価証券報告書【沿革】
- [11]1945年11月30日 水産統制令の廃止
- [12]1945年12月1日 商法上の株式会社へ改組し日本冷蔵株式会社へ社名変更
- [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ株式上場
- 株式会社ニチレイ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1942年5月19日 水産統制令の公布
- [2]設立目的 海洋漁業に伴う水産物の販売・製氷冷蔵業などの中央統制機関
- [3]帝国水産統制株式会社 水産会社を中心に18社などの出資
- [4]設立時資本金 50百万円/1942年12月24日設立
- [9]1943年4月 水産物の買入・販売並びに製氷・冷蔵・凍結事業の開始
- [11]1945年11月30日 水産統制令の廃止
- [12]1945年12月1日 商法上の株式会社へ改組し日本冷蔵株式会社へ社名変更
- [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ株式上場
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [5]1884年(明治17年)東京製氷の創立 日本で最初の製氷会社
- [6]1897年設立の機械製氷と1907年に合併して日本製氷
- [7]日本製氷が当社の母体で以来合併・吸収を継続
- [8]全国に散在する冷凍工場が合併の歴史を物語る
- [10]戦争により製氷能力43%・冷蔵能力42%・凍結能力31%と海外全事業網を喪失
- [13]1948年2月 過度経済力集中排除法による該当企業の指定
- [14]1949年3月 1億円増資で資本金1億5,000万円
- [15]約1,000名の人員整理を断行
- [16]1949年10月 3億5,000万円増資で資本金5億円
連合軍への冷力提供から総合食品企業への転換
平和条約が結ばれる1952年までの間、企業の自主的な経営には制約が残り[18]、日本冷蔵も約60前後の残存冷蔵庫を連合軍の進駐利用へ振り向けた[19]。冷力の利用を漁業の付帯的な業務と考えていた同社は、このとき冷力が食品に果たす役割の大きさを知り[20]、冷蔵業の発展への確信と、冷力を利用した食品分野への進出とを両立させる方針[21]を定めた。1948年12月には事業目的へ缶詰、肥料、飼料及び油脂の製造・売買と水産物の輸出入を加え[22]、1951年8月に缶詰工場を設置して食品生産事業を開始した[23]。1952年10月には調理冷凍食品の販売を始め[24]、1956年5月に畜産事業へ参入した[25]。
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [18]1952年の平和条約締結までは企業の自主的経営に制約
- [19]約60前後の残存冷蔵庫を連合軍の進駐利用へ振り向け
- [20]冷力の利用を付帯事業と考えていたが冷力が食品作用に果たす役割の大きさを学んだ
- [21]冷蔵業の将来への確信と冷力を利用した食品分野への展開の両立を決意
- 株式会社ニチレイ 有価証券報告書【沿革】
- [22]1948年12月 事業目的に缶詰・肥料・飼料及び油脂の製造売買と水産物の輸出入を追加
- [23]1951年8月 缶詰工場を設置し食品生産事業を開始
- [24]1952年10月 調理冷凍食品の販売開始
- [25]1956年5月 畜産事業の開始
木村鉱二郎氏を中心とする再建[26]のもとで、戦前の水準まで戻した冷凍部門は第一次五カ年計画と第二次三ヵ年計画によって世界的水準へ引き上げられ、事業場の再配置を経て全国に有機的に連結された冷凍工場網ができた[27]。日本冷蔵はこの工場網を基盤に独自の『コールド・ベルト』を形づくり[28]、海外でも早くから遠洋の水産資源に着目して子会社や漁業基地を設け、日本漁船の誘致や漁獲物の洋上輸出も手がけた[29]。冷凍部門を土台に商事部門が鮮魚などの販売業、缶詰・ハム・ソーセージ・冷凍食品の製造販売、畜産物と配合飼料、海外事業へ広がり[30]、年間取扱高は1967年度に437億円へ達した[31]。国内事業場は支社10・冷凍工場136・食品工場6・販売所24・海外事業場5・研究所の合計183カ所[32]を数えた。
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [26]木村鉱二郎氏が中心となり再建へ努力を重ねた
- 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)
- [27]第一次五カ年計画・第二次三ヵ年計画で冷凍部門を世界的水準へ引き上げ全国連結の冷凍工場網を構築
- [28]冷凍工場網を基盤とする独自の「コールド・ベルト」の形成
- [29]海外に子会社・漁業基地を設け日本漁船を誘致し漁獲物の洋上輸出も実施
- [30]冷凍部門を基盤に商事部門が鮮魚販売・食品・畜産・海外事業へ展開
- [31]年間取扱高 1967年度 437億円
- [32]国内事業場 合計183カ所(支社10・冷凍工場136・食品工場6・販売所24・海外事業場5・研究所)
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [18]1952年の平和条約締結までは企業の自主的経営に制約
- [19]約60前後の残存冷蔵庫を連合軍の進駐利用へ振り向け
- [20]冷力の利用を付帯事業と考えていたが冷力が食品作用に果たす役割の大きさを学んだ
- [21]冷蔵業の将来への確信と冷力を利用した食品分野への展開の両立を決意
- [26]木村鉱二郎氏が中心となり再建へ努力を重ねた
- 株式会社ニチレイ 有価証券報告書【沿革】
- [22]1948年12月 事業目的に缶詰・肥料・飼料及び油脂の製造売買と水産物の輸出入を追加
- [23]1951年8月 缶詰工場を設置し食品生産事業を開始
- [24]1952年10月 調理冷凍食品の販売開始
- [25]1956年5月 畜産事業の開始
- 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)
- [27]第一次五カ年計画・第二次三ヵ年計画で冷凍部門を世界的水準へ引き上げ全国連結の冷凍工場網を構築
- [28]冷凍工場網を基盤とする独自の「コールド・ベルト」の形成
- [29]海外に子会社・漁業基地を設け日本漁船を誘致し漁獲物の洋上輸出も実施
- [30]冷凍部門を基盤に商事部門が鮮魚販売・食品・畜産・海外事業へ展開
- [31]年間取扱高 1967年度 437億円
- [32]国内事業場 合計183カ所(支社10・冷凍工場136・食品工場6・販売所24・海外事業場5・研究所)
冷凍と食品を半々にする利益体制への組み替え
1970年1月時点の冷蔵能力は37万トンで、全国能力290万トンに対する13%を占め[33]、水産大手4社の合計能力14万8,000トンを上回った[34]。もっとも朝長嚴社長は、償却の進んだ冷凍設備で利益をあげている姿を反省[35]し、冷凍分野の運用資産を時価へ修正すると利益率は約20%から4%へ下がる[36]と述べた。そこで冷・食補完を掲げ、食品分野でも冷凍部門の純益24億円と同額の利益を確保するよう社内へ求め[37]、そのための設備投資を続けた。結果として利益の構成は冷凍54%・食品46%となり、冷凍部門が全体利益の93%を占めた時代から変わった[38]。関連企業は51社を数え、これを含めた実体は売上854億円・利益28億円[39]であった。
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [33]1970年1月時点 冷蔵能力37万トン・全国能力290万トンに対しシェア13%
- [34]水産大手4社(日水・日魯・大洋・極洋)の合計冷蔵能力 14万8,000トン
- [35]朝長嚴社長 償却の進んだ冷凍設備で利益をあげている姿への反省
- [36]冷凍分野の運用資産を時価修正すると利益率は約20%から4%へ低下
- [37]冷・食補完 食品分野でも冷凍部門の純益24億円と同額の利益体制を要請
- [38]利益構成は冷凍54%・食品46%へ/かつては冷凍部門が全体利益の93%
- [39]関連企業51社/これを含めた実体は売上854億円・利益28億円
1972年1月末の冷蔵能力は44万トンで、朝長社長が就任した時点の26万トンから5年で18万トン増えた[40]。全国の設備能力に占めるシェアは14%前後だが、大都市や主要港湾など重要地域では35%から40%を占めた[41]。同社は5、6年前から原料対策の重要性を認識して輸出を抑え輸入体制へ重点を切りかえており、輸入9・輸出1の比率になっていた[42]ため、円切上げでは1億3,000万円から1億4,000万円の為替差益を得た[43]。冷凍食品では業界のシェア35%を占めて首位[44]にあり、100%出資の子会社54社を含めた連結ベースの売上高は1,275億円、純利益は約30億円[45]であった。
- 証券アナリストジャーナル 1972年10巻4号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [40]1972年1月末 冷蔵能力44万トン/社長就任時26万トンから5年で18万トン増
- [41]全国設備能力シェア14%前後/重要地域では35〜40%
- [42]原料対策の重要性から輸出を抑え輸入体制へ重点を転換し輸入9・輸出1の比率
- [43]円切上げで1億3,000万円〜1億4,000万円の為替差益
- [44]冷凍食品の業界シェア35%で首位
- [45]100%出資子会社54社/連結売上高1,275億円・純利益約30億円
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻2号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [33]1970年1月時点 冷蔵能力37万トン・全国能力290万トンに対しシェア13%
- [34]水産大手4社(日水・日魯・大洋・極洋)の合計冷蔵能力 14万8,000トン
- [35]朝長嚴社長 償却の進んだ冷凍設備で利益をあげている姿への反省
- [36]冷凍分野の運用資産を時価修正すると利益率は約20%から4%へ低下
- [37]冷・食補完 食品分野でも冷凍部門の純益24億円と同額の利益体制を要請
- [38]利益構成は冷凍54%・食品46%へ/かつては冷凍部門が全体利益の93%
- [39]関連企業51社/これを含めた実体は売上854億円・利益28億円
- 証券アナリストジャーナル 1972年10巻4号(日本冷蔵社長 朝長嚴)
- [40]1972年1月末 冷蔵能力44万トン/社長就任時26万トンから5年で18万トン増
- [41]全国設備能力シェア14%前後/重要地域では35〜40%
- [42]原料対策の重要性から輸出を抑え輸入体制へ重点を転換し輸入9・輸出1の比率
- [43]円切上げで1億3,000万円〜1億4,000万円の為替差益
- [44]冷凍食品の業界シェア35%で首位
- [45]100%出資子会社54社/連結売上高1,275億円・純利益約30億円