創業1912年、立川勇次郎が岐阜県大垣市で揖斐川電力を興した。揖斐川の水力で他地域より安い電力を起こし、その電力を使う先として大日本紡績ら紡績工場を大垣周辺に誘致した。電力を売るだけでなく、安価な動力を欲しがる繊維産業を自ら呼び込んで需要そのものを作り出す。発電と需要創出を一体で設計したことで、大垣は繊維産業の集積地として育った。
決断戦時の統合再編で売電を取り上げられた後、立川が築いた電力事業は途絶えたが、自家の電力と電気炉技術は手元に残った。イビデンはその技術を別の産業へ転用し、カーバイドからメラミン化粧板、プリント配線板へと要素技術をつないだ。1987年には主流のセラミックに逆らってプラスチック基板の量産に挑み、採用は8年伸び悩んだが、1994年に全社の研究予算と40代エース50名をインテル攻略へ集中させ、顧客の素材転換と噛み合って大量受注を得た。
- 歴史詳細 3章・3,919字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 59件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 経営の転換点 2件
重要な経営判断と経営統合を時系列で整理
- 長期業績 1971〜2026年(56カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2003〜2025年(23カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 4名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2010〜2025年(16カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1955〜2024年(70カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2005〜2025年(21カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1912年の揖斐川電力は発電と需要創出を一体で設計したのか
- A 揖斐川電力が発電と需要創出を一体で設計したのは、当時の大垣周辺に電力を使う産業がほとんど無く、発電所を建てるだけでは電気が売れなかったからである。1912年11月、立川勇次郎氏が岐阜県大垣市で揖斐川の水力電源を開発したとき、他地域より安価な電力を武器に大日本紡績ら紡績工場を大垣周辺に誘致し、電力の買い手そのものを呼び込んだ。電力を売るのでなく需要を自ら作るこの発想が、のちに事業を次々と転換するイビデンの原型となった。
- Q なぜ1994年に全社の研究開発費をインテル一社へ集中投入したのか
- A 1994年にインテル攻略へ全社の研究開発費を集中投入したのは、1991年に最後の電気炉の火が消えてカーバイドという本業を失い、半導体部材に会社の活路を求めるほかなかったからである。同年に社長へ就いた遠藤優氏は、研究開発予算をほぼ全額パッケージ基板事業に振り向け、40代のエース社員50名を選抜して2年での量産化を課した。1995年にインテルが基板をセラミック製からプラスチック製へ切り替えると、1996年に数百万個規模の大量受注を獲得し、賭けが報われた。
- Q なぜ2000年前後に半導体基板の会社がDPFというセラミックス部品へ進出したのか
- A イビデンが2000年前後にDPFへ進出できたのは、カーバイド時代から電気炉で培った炭化珪素などのセラミックス技術が手元にあり、欧州のディーゼル排ガス規制強化が新しい需要を生むと読んだからである。1999年に乗用車向けDPFを実用化し、SiC製フィルターは2000年にプジョー607へ世界で初めて量産採用された。2005年にユーロ4が発効すると欧州で搭載が急増し、半導体基板に偏った収益を自動車セラミックスで補う二本柱が整った。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1912年〜1969年 電力会社からカーバイドメーカーへの転身
水力資源を核とした地域産業の創出
1912年11月、立川勇次郎ら地元有力者グループの発起により、揖斐川水系の水力電源を開発して電気供給事業を営む目的で、岐阜県大垣市に揖斐川電力株式会社が設立された[1][2][3][4]。揖斐川の水力資源を活用した水力発電事業に参入し、他地域より安価な電力を武器に、大日本紡績をはじめとする紡績工場を大垣周辺に誘致する戦略を取った。発電事業と電力需要創出を同時に設計する地域産業モデルで、大垣はやがて繊維産業の集積地として発展し、高度経済成長期まで続く地域経済の基盤がこの創業期に築かれた。電力会社が発電設備を保有するだけでなく、みずから地域産業の創出主体として振る舞う発想は当時としては異例で、のちのイビデンの事業設計の原型を成した。
1917年に大垣工場を新設してカーバイド製造を開始し、自社発電によるコスト優位を活かした垂直統合型の事業モデルを築いた[5]。1918年からは自家発電電力の有効利用をはかってカーバイド・合金鉄の電気炉工業を、翌1919年には炭素工業を起こし、1935年からは石灰窒素の肥料も兼業して、水力で得た電力を化学品へ転じた[6][7]。1921年に商号を揖斐川電気へ変更し電力と化学の二本立てを掲げ、1940年1月には揖斐川電気工業へ改称した[8]。戦時中の水力発電会社の統合再編で独立企業としての電力事業継続が困難となり、1942年に五つの発電所のうち二つを電力統制会社(現中部電力)へ譲渡して創業以来の電気供給事業を廃止し、東横山・広瀬・川上の三発電所(2万4000KW)の自家発電を中核とする電気化学工業へ転じた[9][10]。創業の原点である電力事業を時局の要請で手放した経験は、のちの事業転換を繰り返すイビデン独自の企業文化につながった。残された水力由来の自家電力と電気炉技術は、次の半世紀の化学・素材事業を支える資産となった。
建材参入が準備したエッチング技術の蓄積
1939年、大同電力取締役だった宮寺敏雄が不振の揖斐電に専務として入り、会社を化学工業へ全面的に切り換えた[11]。彼の発案で青柳工場に建設した映画カーボン用の電気トンネル窯は当時の日本で唯一の優秀な設備とされ、化学会社としての基礎を成した[12]。戦後の1949年に東京証券取引所に上場し、カーバイド製造を主力事業として高度経済成長期を迎えた[13]。1960年に建材分野に参入してメラミン化粧板の製造を開始し、1965年には三井化学工業と技術・業務両面の提携を結んで建材部門を重点にした体質への転進を始めた[14][15]。メラミン化粧板の製造工程で必要となる精密なエッチング加工技術は、一見すると建材とは無関係な領域への寄り道のように見えたが、後年のプリント配線板参入における技術的基盤となった。一つの事業で蓄積した要素技術が次の事業領域で別の形で活用される連鎖の構造が、ここで輪郭を現した。
1982年に商号を揖斐川電気からイビデンへ変更し、旧来の電力会社や化学メーカーのイメージからの転換を内外に示した[16]。水力発電のコスト優位がカーバイド製造を可能にし、そのカーバイドの化学加工技術がメラミン化粧板事業につながり、メラミン化粧板の工程で培われたエッチング技術がやがてプリント配線板参入を支えるという技術の連鎖転用が、イビデンの事業変遷を貫く構造である。どの段階でも一見すると無関係な新事業のように見える選択が、実際には前段階の技術的な蓄積を前提としてはじめて成立していた点に、この企業の独自性が表れている。連続する事業転換は、手持ちの技術資産を別産業に投げ直す試行の積み重ねだった。
1970年〜2007年 プラスチック基板の逆張りと半導体部材への転身
プラスチック素材の逆張りとインテル攻略
1970年にイビデンはプリント配線板への参入を決めた。建材分野で蓄積したエッチング加工技術を転用する形で新事業を立ち上げ、1972年に実用化にこぎ着けた[17]。1976年にオイルショック後のカーバイド需要減退を受けて緊急合理化対策を発表し、200名規模のリストラを実施する苦渋の判断を下した。長年の主力であったカーバイドの構造的な行き詰まりが、結果として半導体関連への事業傾斜を後押しする圧力となり、イビデンは電子部材メーカーへの変身に方針を変えた。主力事業の衰退という逆境が次の事業軸の形成を促す構図がここで現れ、以降の経営判断の枠組みが定まった。
1987年にプラスチック製パッケージ基板の生産を開始した。当時の市場ではセラミック製基板が主流で、プラスチック素材で挑むのは業界の常識から見れば後発参入の賭けだったが、絶縁性における素材特性の優位を根拠に素材選定の判断を下し、米国にも販売会社を設立してシリコンバレーへの直接営業体制を敷いた。1990年代前半は積層加工における技術的な困難から製造コストが下がらず、価格の引き下げも思うにまかせず、PC向けの量産採用にはなかなか至らず、経営として苦しい時期が長く続いた。素材選択が業界の主流と逆を向いていた以上、採用に至るには顧客側の素材転換を待つほかなく、その決断が下されるまで辛抱する期間が続いた。
電気炉の火が消え社員の心に火がつく
1991年に最後の電気炉の火が消え、イビデンはカーバイド事業から撤退した。同年に社長に就任した遠藤優は、電炉の火が消えたことで社員の心に火がついたと後に述懐し、半導体事業に会社の活路を求める方針を掲げた。1994年にインテル攻略プロジェクトを発足させ、全社の研究開発予算をほぼ全額パッケージ基板事業に集中投入し、40代のエース社員50名を選抜して2年での量産化という至上命題を課す前例のない集中体制を敷いた。社長自身がプロジェクトと心中するとまで公に表明した覚悟の一点集中が、社員の意識を変え、組織全体を新しい方向に突き動かした。撤退と集中投入が同時に進んだ時期で、本業喪失の衝撃が新事業への動員力に転化した。
1995年にインテルがパッケージ基板をセラミック製からプラスチック製へ切り替える方針を発表し、1996年にイビデンが数百万個規模の大量受注を獲得した。1998年に大垣工場に製造新棟を新設し、二期連続で過去最高益を達成した。遠藤社長がプロジェクトと心中するとまで宣言した覚悟の一点集中が、インテルの素材転換決定のタイミングと噛み合って実を結んだ事例で、イビデンの半導体部材メーカーとしての地位を固める契機となった。既存主力事業の衰退が新規事業への傾斜を生み、それがたまたま業界の構造変化と一致することで成果に至る連鎖が、ここに一つの形として現れた。8年にわたった素材選択の賭けが、顧客側の意思決定によって報われた瞬間でもあった。
2008年〜2023年 グローバル量産体制とAI需要取り込みへの布石
無借金経営が支えた投資再開と需要回復
2008年にイビデンはパッケージ基板・プリント配線板・DPF向けに累計で約618億円にのぼる設備投資を実施し、その全額を自己資金で調達する堅実な財務姿勢を貫いた。最大の投資項目はマレーシアでの海外生産拠点の立ち上げで、2011年の工場稼働を目指してパッケージ基板の製造拠点が建設された[18]。フィリピンにも2001年の時点で製造拠点を設置しており、国内外にまたがるグローバル量産体制が整ったのは2008年である[19]。翌2009年にリーマンショックで約87億円の最終赤字を計上したが、借入依存度が低く財務危機には至らず、半導体需要の変動に対する財務的な耐性がここで示された。
2017年にマレーシアを中心としたパッケージ基板の減損を含む約600億円の事業改革構造費用を特別損失として計上し、最終赤字628億円に転落した。2018年に半導体需要の回復を見越してパッケージ基板への投資を直ちに再開し、設備投資額を約900億円にまで引き上げる積極姿勢を示した。赤字計上の直後に投資を再開できたのは、無借金に近い財務体質があったからこそ可能な判断で、自己資金による設備投資という長年の堅実な方針が、需要変動期における戦略的柔軟性を担保する源泉となった。財務保守が投資機動性を生むという関係は、以降の同社の基本方針として定着した。2017年に社長に就任した青木武志は、ゼロから育て形にする仕事を無上の喜びと位置づけ、昨日より今日へ1ミリでも進化することを行動原則として語り、赤字期を挟んだ投資再開の意思決定の根底にある経営哲学を示した。
- 電子セグメント売上高は992→2369億円へ2.4倍に拡大し、セグメント利益率も-3.6%→23.3%へ反転した。
- 2017年の減損と翌年の投資再開が、データセンター需要の追い風を受けて過去最大の利益率へ結実した構造転換を示す。
データセンター需要の拡大とインテル依存の深化
データセンター需要の拡大でインテル向けの販売高は年を追うごとに増え、2021年3月期にインテル向け売上が約1736億円に達し、全社売上の約43%を占めた[20]。電子セグメントの営業利益率は約23%に到達し、電力会社として発足してから110年余を経て、技術の連鎖転用を繰り返して先端半導体部材メーカーへ変貌した[21]。一つの主要顧客への依存度が事業の安定性に与える影響という古典的な論点が、今度は半導体業界という舞台で問われ、経営陣は顧客多様化の必要性を意識し始めた。青木武志は、顧客にとってのデファクトスタンダードとなり期待を超える提案を出すことを掲げ、経営者には好奇心と謙虚さが欠かせないという考えを示し、顧客基盤の側に深く入り込む戦略を継続した。
- インテル向け販売高は525→1736億円へ3.3倍に拡大し、全社売上対比も19.7%→43.3%へ上昇した。
- CPU大手への依存深化がパッケージ基板事業の利益源として機能した一方、顧客集中リスクが同社の構造的課題として顕在化した。
2023年にかけてはPC・汎用サーバー向けの需要が世界的に伸び悩み、パッケージ基板事業の成長率は一時的に鈍化する場面もあった。生成AI向けサーバー需要の立ち上がりが半導体部材業界全体の景色を一変させた。AIサーバー向けICパッケージ基板という新しいカテゴリーが拡大し、イビデンが長年インテル向けに積み上げてきた大判化・高多層化への対応技術が、そのままAI半導体パッケージへの適用に活かされた。CPU向けビジネスの緩やかな減速が続くのに対し、GPU向けビジネスは立ち上がりで、顧客ポートフォリオの構造変化の入り口にイビデンは立った。過去のインテル一極集中で築いた技術資産が、GPU・AI半導体という新しい顧客側の転換と適合する巡り合わせが、ここで再び訪れた。