茂木重次郎が、塗料に着目して東京三田にて「光明社」を創業した。
技術をドイツのワグネル氏から学び、亜鉛華塗料の開発に着手し、日本初の洋式ペイントの実用化に成功した。続いて、海軍からの協力を依頼され、船舶向けの塗料の国産化にも成功する。このため、茂木重次郎は「国産塗料生みの親」とされる。
なお、開発された国産塗料は、海軍向けの船舶・洋風建築・看板といった様々な分野に活用されていき、業界のパイオニアとして顧客を獲得した。
茂木重次郎が、塗料に着目して東京三田にて「光明社」を創業した。
技術をドイツのワグネル氏から学び、亜鉛華塗料の開発に着手し、日本初の洋式ペイントの実用化に成功した。続いて、海軍からの協力を依頼され、船舶向けの塗料の国産化にも成功する。このため、茂木重次郎は「国産塗料生みの親」とされる。
なお、開発された国産塗料は、海軍向けの船舶・洋風建築・看板といった様々な分野に活用されていき、業界のパイオニアとして顧客を獲得した。
業容を拡大するために株式会社に組織を改めた。同時に東京南品川に工場を新設した(現東京事業所)。
日本ペイントは一般向け塗料(看板・建築向けなど)を拡大するために、販売の特約店組織を発足した。
業界に先駆けて販路を整備することにより、汎用塗料で業界のトップメーカーになる原動力となった。
経緯は不明だが、小畑源之助が日本ペイントの社長に就任。以後、高度経済成長期まで、日本ペイントは小畑家によって経営された。
終戦後の株式市場の再開を受けて、東証に株式を上場した。
1960年代を通じて、塗料業界では従来の建築などの一般向けに加えて、自動車向けの塗料という新しい市場が勃興した。
日本国内では、関西ペイントが自動車向け塗料への投資を本格化させており、日本ペイントも自動車向けのへの投資を実施した。
この結果、日本ペイントは自動車向け塗料において、関西ペイントと競争を繰り広げつつ、シェアを2分する存在となった。1970年に日本ペイントはトヨタ自動車との取引強化を意図して、愛知県に工場を新設している。
アジアにおける塗料の事業展開のために、Wuthelam社(以下、ウットラム)とアジア地域における合弁事業(NIPSEA事業:Nippon Paint South East Asia)を設立した。
合弁の経緯は、小畑千秋(当時日本ペイント専務)がシンガポールの実業家ゴー・チェンリャン氏に出会い、塗料事業を手がけたい同氏の要請を受けて、塗料事業において全面的な協力を決めた。
小畑氏は、アジアにおける経済発展により建築向けの塗料が増加することや、グローバル化がこれからの経営で重要であることを勘案して、現地のウットラムとの協業提携を決意したという。
この提携をもとに、1965年にマレーシアにて塗料の大規模工場を新設し、東南アジアにおける合弁事業を本格化させた。
販売面についてはパートナーのウットラムが中心となって、中国および東南アジアにおける建築塗料の販売網を広げた。ウットラムにとっては日本ペイントの高品質な技術を導入できるメリットを享受し、アジアでの事業展開を拡大する。
この結果、ウットラムは中国・東南アジア地域における大手塗料会社へと成長をとげ、2013年には恩人とも言える日本ペイントに対して買収を提案するに至った。
海外進出を意図して、アメリカに現地法人を設立した。だが、東南アジア事業とは違い、すでに競合メーカーが現地に存在したアメリカへの進出の成果は芳しくなかった。
このため、日本ペイントによる単独のグローバル化路線は行き詰まった。
1980年代を通じて新規事業の立ち上げを行い、1991年ごろには半導体向けフォトレジスト・液晶向けカラーフィルター・ICパッケージ絶縁素材などの商用化を試みた。
しかし、これらの新事業は、日本ペイントの主軸にはならなず、軒並み失敗に終わった。1999年には液晶カラーフィルターの事業売却を模索していた。
新規事業の不振と、既存事業における成長鈍化により、1999年3月期に最終赤字28億円(売上高1978億円)に転落した。
また、海外事業は軌道に乗らず、グローバル化の潮流にも乗り遅れる形となった。
このため、日本ペイントの人員に余剰が生じたため、日本ペイントはグループの人員を10%削減する方針を発表した。
バブル崩壊と国内の人口減少による新築物件数の減少により、汎用塗料の業績が低迷した。このため、販社の業績が悪化したため、2004年に日本ペイントの地域販社の再編を実施した。
ゴー・チェンリャンの息子であるゴー・ハップジン氏が経営するFIRST INDUSTRIES CORP(ゴー・チェンリャンが創業したWuthelamの子会社)が、日本ペイントの株式を取得して筆頭株主となった。
当時の日本ペイントは国内市場の停滞を受けて、株価と業績が低迷していた。
この株式取得が、ウットラムによる日本ペイント買収の布石となる。
ウットラムを率いるゴー・ハップジン氏は、日本ペイントの大株主になるとともに、日本ペイントの株式を買収すること(TOB)を提案した。
これに対して、日本ペイントの経営陣が反発したため、ウットラムは一旦TOBを見送った。ただし、ウットラムは引き続き日本ペイントの株式を保有し続けた。
日本ペイントはウットラムとの協業を強化するために、手薄であったアジア事業の連結化を決めた。ウットラムとのアジア合弁事業の株式を51%取得して、日本ペイントの連結決算でアジア事業を計上することにより、日本ペイントのアジア地区における売上高が増加した。
また、アジア事業の連結化に伴い、日本ペイントはウットラムからの出資比率を14%から39%に引き上げることを認め、ゴー・ハップジン氏を取締役として迎え入れた。
ウットラムの出資比率引き上げを認めたのは、日本ペイントの酒井健二氏(当時会長)であり、実質的に将来のウットラムによる買収を見据えた大きな決断であった。
2017年から塗料業界ではグローバルにおいて業界再編が本格化した。塗料そのものは差別化が難しいことから、業界再編によって競合を減らし、価格交渉力を強めることを意図したものであった。
2017年にオランダに本社を置く世界トップの塗料メーカーAkzo Nobel社が、米国のAxalta Coating Systems社に買収を提案し、再編の機運が高まった。
日本ペイントは、アジア事業に続いて、米国事業を強化するために、米国に本社を置くDunn-Edwards Corporation(DE社)に対して買収を提案した。
DE社は1925年に創業したアメリカにおける老舗の塗料メーカーであり、建築塗料に関して販路を持つことが強みであった。
最終的に、日本ペイントはDE社を約687億円で買収した。
ただし、買収後の日本ペイントの米州事業の売上高は伸び悩んでいる。
日本ペイントは、Akzo Nobel社に対抗して、グローバルで塗料事業を強化するために、米国の大手塗料メーカーAxalta Coating Systemsに買収を提案した。買収価格は1兆円規模と推定され、日本ペイントにとっては大型買収となることが予想された。
隠れた意図としては、大規模買収によって有利子負債を日本ペイントのBSに溜め込むことによって、ウットラムが日本ペイントの買収を諦めるように仕掛けた側面もあると思われる。
しかし、ウットラムのゴー氏などから構成された日本ペイントの取締役会は、経営陣による買収提案を拒否し、1兆円の買収提案は破談となった。
取締役会は、日本ペイントの経営陣が提案した買収について、1兆円の買収によって日本ペイントの財務体質が悪化することを理由に反対した。ただし、最大の理由はウットラムにとって、日本ペイントの買収条件が悪くなることを避けるためであったと推察される。
日本ペイントは、アジア事業に続いて、オセアニア事業を強化するために、豪州に本社を置くDuluxGroupを約3000億円で買収した。
日本ペイント(田中正明・代表取締役社長)は、ウットラムからの買収提案を受け入れることを決断した。これを受けてウットラムは日本ペイントの株式保有比率を39.6%から58.7%に高め、日本ペイントはアジア大手塗料メーカーの子会社として生きる道を選択した。
ウットラムによる日本ペイントの子会社化に合わせて、日本ペイントは増資により1.3兆円の資金調達を行い、この資金でウットラムからアジアの合弁事業の株式を100%保有(買取り)することを決めた。
この一見複雑な買収スキームによって、日本ペイントはウットラムの子会社にはなるものの、アジア事業を100%保有する形式となり、アジア事業が強化された。一連の企業買収のスキームは、日本ペイントの当時会長だった田中正明氏が発案したものとされる。
なお、ウットラムが日本ペイントの株式を過半数握ることによって、代表取締役の選任権を獲得したため、田中正明会長の進退はウットラムのゴー氏に握られる形になった。このことについて、田中氏は、仮に経営方針でウットラムと対立し、自らのクビが切られたとしても、それは容認できるという考えて腹を括ったという。
そして、2021年に田中正明氏は、日本ペイントの代表取締役会長兼社長を辞任した。日本ペイントの後任となる代表者は、NIPSEAのCEOだったウィー・シューキム氏と、日本ペイントのCFOであった若月雄一郎氏の2名が共同代表として選出された。