ニトリの安さは、安く売るという方針から始まったのではなく、仕入れ先を選べなかった事情から始まった。1967年に札幌で開いた99平方メートルの似鳥家具店は問屋から相手にされず、似鳥昭雄氏は零細メーカーを自分で回るしかなかった。この経路は卸の口銭を省くという副産物を生み、売値を自分で決められる小売店を作った。1972年の渡米で似鳥氏が見たのは、その副産物を制度にした姿である。500店を持つ米国のチェーンは同じことを桁違いの量で行い、日本の3分の1の価格を並べていた。仕入れの裏口として始まったやり方に、店数という掛け算を与えれば届く。帰国後に掲げた多店舗化は、新しい発想ではなく既にある強みの引き伸ばしであった。
掛け算の答えは、店ではなく倉庫に現れた。1980年に札幌市手稲区へ置いた自動立体倉庫は、売上高29.4億円の会社にとって過大な設備であり、当時の店数では回収できない規模である。それでも在庫を一カ所に集めなければ、家具のように嵩む商品を扱う店は売場の半分を倉庫に変えてしまう。先に配る仕組みを置き、後から店で埋める順序を選んだからこそ、1982年に決まった函館店は、売場面積を申請の半分に削られても札幌と同じ標準店舗として開けた。売上高は1982年2月期の43.0億円から1986年2月期の77.9億円へ伸びる。米国で見た価格に近づく道は、値札の書き換えではなく、倉庫と店の並べ方にあった。
似鳥昭雄氏は、1967年12月に札幌市で約99平方メートルの似鳥家具店を開き、家具の小売から出発した。売上高は1969年2月期に0.2億円、1970年2月期に0.4億円、1971年2月期でも0.5億円にとどまり、札幌の一角だけを商圏とする零細な店であった。家具の問屋は新参の小規模店を取引先として認めず、似鳥氏は自ら零細メーカーを訪ねて商品を直接仕入れるほかなかった。この経路は当初、既存の流通から締め出された結果にすぎない。しかし卸の口銭を負担せずに売値を自ら決められる構造でもあり、既存の家具店より安く売る余地がここで生まれた。のちの低価格を支える原型は、創業まもない時期の仕入れ難から出ている。
1971年6月、似鳥氏は札幌市東区に売場面積250坪の大型2号店を開いた。ところが開業からまもなく、その近隣に1000坪の大型店が進出した。売場の広さで4倍の開きがあり、似鳥家具店の売上は伸び悩んだ。売上が落ちるなかで似鳥氏は資金繰りのために銀行を回り、店は倒産の危機に直面した。規模で上回る相手が同じ商圏に入れば、単独の仕入れ力しか持たない小売店は価格でも品揃えでも抗しきれない。1972年3月、似鳥氏は個人経営を株式会社似鳥家具卸センターへ組織変更した。法人化は資金調達の器を整える手続きであると同時に、家具店ではなく卸の機能まで抱える会社を名乗る宣言でもあった。
1972年春、似鳥氏は米国視察の機会を得て、1週間ほど現地に滞在した。現地では500店、1000店という規模のチェーンが、大量仕入れと海外調達によって日本の3分の1以下の価格で家具を並べていた。似鳥氏は、安く売るには多店舗のチェーンストアになるほかないと判断した。帰国後の1973年6月、札幌市北区に3号店の麻生店を開き、以後は毎年1店のペースで店を増やした。法人化した1973年2月期の売上高は1.5億円で、1971年2月期の0.5億円から3倍に増えてはいたものの、視察で見たチェーンとは桁が違った。それでもこの渡米が、多店舗化・低価格・海外調達という以後の三つの柱を一度に決めている。
米国視察で得た多店舗化の構想は、6年後に形になった。店主の目が届く範囲を超えてなお店を増やすには、仕入れも管理も個人の裁量から仕組みへ移すほかない。1978年1月、似鳥家具卸センターはチェーン化構想を発表し、札幌市内で同一商圏に店を重ねるドミナント出店に着手した。当時の売上高は14.5億円(1978年2月期)で、視察先の米国で見た500店・1000店規模のチェーンとは規模が釣り合わなかった。それでも商圏を広く薄く取らず札幌へ集中して出す形は、物流と広告の費用を店数で回収する設計であった。
価格の源泉は仕入れ経路そのものにあった。似鳥家具卸センターは問屋を通さず、メーカーへ独自仕様の商品を直接発注して買い取りで仕入れる方式を貫き、返品を前提とする家具流通の慣行から外れた。1977年11月の業界誌は、同社の成功の秘訣は『他者にない仕入れ方法と、徹底した合理化にある』と評している。1977年2月期の売上高は11億円、従業員は94人で、開業時の一店舗の規模からは隔たっていた。1978年2月期は売上高14.5億円・従業員108人、1979年2月期は22.4億円、1980年2月期は29.4億円と伸びた。増加分の多くは、新しい商材を探して得たものではなく、同じ仕入れ方式を新店へ複製して得たものであった。
1980年8月、似鳥家具卸センターは札幌市手稲区に自動立体倉庫を備えた物流センターを開設し、本社を併設した。売上高29.4億円、当期純利益0.6億円という1980年2月期の規模からみて、倉庫への投資は身の丈を超えていた。家具は容積が大きく在庫回転も遅いため、店舗ごとに在庫を抱えれば売場が倉庫に変わってしまう。在庫を一カ所へ集めて各店へ配る仕組みを先に置けば、店は売場としてだけ働かせられる。開設後の売上高は1981年2月期34.8億円、1982年2月期43.0億円と伸び、投資は店数の増加で回収へ向かった。店舗より先に物流へ投じるこの順序は、2000年7月に埼玉県白岡町へ関東物流センターを新築したときにも繰り返された。
大型店を出すには地元の商業者との調整を経なければならず、交渉の焦点は売場面積に置かれた。1982年時点のニトリ家具は札幌市内の各区に1店ずつを置く形で、最も大きな店は850坪であった。札幌の外へ出る最初の一歩が規制に阻まれたのが、1982年の函館進出である。函館では大型店の出店凍結が打ち出されており、亀田商業活動調整協議会の決定でひとまず決着はついたが、地元にはニトリ家具に認めた面積が広すぎるという不満が残り続けた。地元誌の報道によれば、函館市は第5条申請の段階で知事へ意見を具申する用意があると表明しており、売場面積の攻防は『ただならぬ空気を見せている』とされ、出店規制が最も強く効いたこの時期、道内の中核都市へ進むには店ごとに調整を積み重ねるしかなかった。
函館店の計画は、規制の審議を経て大きく縮んだ。ニトリ家具は当初、年商8億円、3年目から10億円前後を見込んで出店を申請していたが、面積の縮小を受けて似鳥氏は年商を5億円台と見込み直した。売場面積は申請した4,963平方メートルから2,400平方メートルへ、半分以下に削られた。1982年2月期の全社売上高は43.0億円であり、函館の一店は全体の1割強にあたる規模にとどまる。似鳥氏は函館地区の家具市場を60億円、インテリアを含めて80億円とみて、まだ空いている部分が大きいと述べていた。店づくりでは、単品を並べるのではなく部屋ごとに家具とカーテン、カーペットを組み合わせて提案し、年収400万〜500万円までの層に重点を置くとした。面積で譲っても札幌と同じ売り方を持ち込めるかが、札幌の外で店を増やせるかどうかの試金石であった。
函館に続いて、ニトリ家具は札幌の外へも店を広げ、1995年には北海道で22店を構えるに至った。売上高は1983年2月期54.3億円、1984年2月期68.8億円と伸び、当期純利益も1983年2月期1.2億円、1984年2月期1.3億円と積み上がった。1986年2月期には売上高77.9億円、当期純利益1.6億円に達している。1973年2月期の1.5億円から13年で50倍を超える伸びだが、この間に扱う商品が入れ替わったわけではない。変わったのは、同じ仕入れと同じ物流を何店に掛けられるかという分母のほうであった。次に問われるのは、店を増やす速さではなく、商品を誰がどこで作るかという上流の問題であった。
ニトリが1986年からの十数年でやり遂げたのは、安さの出どころを国内の交渉から海外の工場へ移すことである。問屋を外してメーカーへ直接発注する方式で下げられる原価は、日本の人件費と原材料費で止まる。似鳥昭雄氏が1985年以降の円高を一時的な変動ではなく構造として読んだ時点で、次の一手は交渉の巧拙ではなく地理の問題になった。1987年のマルミツ木工への出資は売上高100億円の小売には重い投資だったが、入り方は完成品ではなく部品であり、組み立ては国内に残した。抱える範囲を小さく切って始めたぶん、つまずいても本体は傾かない。ニトリの海外調達は一度の賭けではなく、刻んだ段階の積み重ねとして進んだ。
1994年のインドネシア進出が分かれ目になったのは、そこで初めて逃げ場を捨てたからである。委託であれば、品質が落ちても値上げを求められても、発注先を替えれば済む。自社工場は替えが利かず、無断欠勤もストライキも自分で解くしかない。似鳥昭雄氏は設立時9.0%だった出資比率をのちに100%まで引き上げて自ら抱える形に改め、その経験を2004年のベトナムでは最初から完全子会社という形に変えた。代わりに得たのは、値下げの原資を外の取引条件に頼らず自分で作れる立場である。売上高は1995年2月期の235億円から1999年2月期の404億円へ伸び、客単価が7%下がっても客数は14%伸びた。安く売れるから安く作るのではなく、安く作れるから安く売る会社に変わった。
1986年7月、似鳥家具卸センターは商号をニトリへ改めた。1986年2月期の売上高は77.9億円で、道内に店を重ねて仕入量を積む手はひととおり使い切っていた。国内メーカーから直接仕入れる方式で下げられる原価には、国内の人件費と原材料費という下限がある。似鳥昭雄社長は1985年以降の円高を一時的な変動ではなく構造的なものと捉え、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べて決定的に高いと判断していた。改称の翌1987年2月期の売上高は90.7億円、1988年2月期は103億円と伸びたが、伸ばした先で原価を削る余地は国内にはもう残っていなかった。安く売り続けるための次の一手は、店の増やし方ではなく仕入れ先の置き場所にあった。
1987年、ニトリは家具製造のマルミツ木工へ出資し、業務提携を結んで家具部品の輸入を始めた。直前の1987年2月期の売上高は90.7億円で、家具の工場を抱えるには小さすぎる規模であった。小売が製造へ関われば、売れ筋の仕様を工場へ直接渡せるかわりに、稼働率を埋める責任も負う。ニトリは完成品ではなく部品から入り、東南アジアで作らせた部品を国内で組み立てる形をとった。出資の形も当初は一部にとどめ、マルミツを完全子会社として製造部門に取り込んだのは2000年8月であった。製造の全部ではなく一部を抱えることで、投資の重さと学習の量を釣り合わせた入り方であった。
調達先は、賃金の上がった地域から順に移った。ニトリは1987年にシンガポールへ検品の拠点を設け、1989年には出張所を置いて現地の情報収集に当たらせた。拠点を置いた理由は、海外での業務の比重が韓国や台湾などの近隣諸国からマレーシア、タイ、インドネシアなどの東南アジア諸国へ移りつつあったことにある。韓国や台湾は経済発展とともに人件費が高騰し、1990年代には採算が合わなくなると見込まれていた。1989年2月には全額出資の現地法人NT SINGAPORE PTE LTDを設け、拠点は現地で作らせた商品の品質を確かめる役を負った。安い調達先は一つの国に留まらず、賃金の上昇に追われて南へ動く。移動のたびに検品と管理の人手が要るため、調達先を移す速さは現地に置く拠点の数で決まった。1994年のインドネシア進出は、この移動を追いかけた先で選ばれた行き先であった。
1989年9月、ニトリは札幌証券取引所へ株式を上場した。1989年2月期の売上高は117億円、当期純利益は3.7億円、従業員は248人で、1987年2月期90.7億円、1988年2月期103億円と二桁の伸びが続いたうえでの上場であった。担保の不足から銀行の融資が止まった1971年より18年を経て、資金の調達先は借入だけではなくなった。店舗も物流センターも、先に投じてから売上で回収する性質の投資である。上場後の1990年2月期は売上高132億円、当期純利益4.0億円、従業員267人で、店と人を同時に増やす局面が続いた。出店の速さを借入の枠から切り離せたことが、道外へ出るための前提になった。
1993年、ニトリは本州での店舗展開を東日本から始めた。北海道では売上首位に立ち、全国でも8位の規模に達していたが、道内の人口が増えない以上、同じ形の店を置ける商圏には限りがあった。本州には既存の家具専門店と百貨店の家具売場があり、ニトリの価格は百貨店の半値、専門チェーンに対しても3〜5割安い水準にあった。1993年2月期の売上高は177億円で、前期の175億円からの伸びはわずかにとどまったが、景気低迷で家具専門店の業績不振が目立つなかでも、ニトリは1995年2月期に8期連続の増収増益を見込んでいた。価格に対する買い手の目が厳しくなるほど、安さを構造で作る側へ需要が寄った。
本州での出店は、物流の作り直しを求めた。ニトリが本州での店舗展開を東日本から始めたのは1993年である。その7年後の2000年7月、埼玉県白岡町に関東物流センターを新築した。直前の2000年6月には上海に貿易の現地法人を設けており、海外で調達する家具の量が増える時期に、東日本の店へ配る拠点を本州に置いたことになる。札幌の物流センターから本州の店へ運ぶのでは距離が長すぎる。店を増やす前に配る仕組みを置き直す順序は、1980年に札幌で自動立体倉庫を建てたときから変わらなかった。
1994年2月期のニトリは売上高193億円、当期純利益7.4億円を上げ、297人の従業員で北海道と本州の店舗を運営していた。同じ1994年の時点で、同社は工場を持たないメーカーを自任していた。仕入れは買い取りを原則とし、自社で仕様を決めた商品を国内外のメーカーへじかに発注して、委託も返品もない取引で安値をつくった。工場も倉庫の一部も社外に委ねたままで、自社が決めるのは商品の仕様と売価に限られた。設備を抱える負担がないため、価格を動かすことができた。似鳥社長は自ら製品を見て回る理由を、『トップが自分の目で製品を見て即断即決で商談を進めなければ販売競争で優位に立つことはできない』と語っている。設計と価格を握りながら製造設備を持たないこの形は、投資を抑えたまま仕様で差をつける方法であった。
仕様書を渡して現地のメーカーに作らせる方式には、原価を下げる限界があった。似鳥社長は1994年6月の時点で『現地メーカーに生産を委託する方式だけではコスト削減に限界が来る』と述べ、委託から自社生産へ進む必要を示していた。同年10月、ニトリはインドネシアに現地生産法人を設立した。1995年2月期の売上高は235億円で、この規模の家具小売が海外へ自社工場を持つのは当時としては異例の投資であった。設立時のニトリの出資比率は9.0%で、工場は関連会社の位置づけだったが、ニトリはのちに出資比率を間接所有を含めて100%まで引き上げた。この経験は、2003年10月にベトナムへ現地法人MARUMITSU-VIETNAM EPEを設ける際に、当初から出資比率100%とする形へ引き継がれた。委託先を替えれば済む問題を、自ら抱えて解く側に回った。
1995年夏、インドネシアの工場が稼働し、ニトリは部品の輸入から箱物家具の一貫生産へ切り替えて、同年9月中旬から低価格品の販売を始めた。作る工程まで自社で握れば、値下げの原資を外の取引条件に頼らず自ら作れる。似鳥社長は『2割下げても、客数4割増になれば利益がでる』という考え方で値下げを重ね、客単価が7%下がる一方、客数は14%伸びた。売上高は1995年2月期の235億円から1997年2月期308億円、1998年2月期348億円、1999年2月期404億円へ伸び、当期純利益も8.6億円から9.7億円へ増えた。値下げを重ねながら4年で売上高を1.7倍にした計算になる。仕入れの工夫で安く売る会社から、安く作って安く売る会社へ、原価の源が移った。
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|---|---|---|---|---|
| 1967〜1985年家具小売のチェーンストア化 | 似鳥昭雄氏が「似鳥家具店」を開業 | ★★ | ||
| 大型2号店を開店 | ★ | |||
| 米国の家具流通を視察 | ★★ | |||
| アメリカ流チェーンストア構想と「ロマン」の設定 1972年3月に株式会社似鳥家具卸センターを設立した似鳥昭雄氏(当時専務取締役)は、同年の渡米視察でアメリカの家具が日本の3分の1の価格で並ぶ現実を見た。安売りを徹底するには多店舗のチェーンストアしかないと確信し、日本の住まいをアメリカ並みに豊かにするという長期目標を掲げた。この構想が、のちの札幌ドミナント出店・海外生産・製造物流小売(SPA)へと連なる判断を方向づけた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| チェーン化構想を発表 | ★★ | |||
| ドミナント出店を開始 | ★★ | |||
| 似鳥昭雄 | 自動立体倉庫を備えた物流センターを開設 | ★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 函館店を開店 | ★★ | ||
| 1986〜1999年製造物流小売への垂直統合 | 似鳥昭雄 | ニトリに商号変更 | ★★ | |
| 似鳥昭雄 | マルミツ木工と業務提携 | ★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 検品拠点を開設 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 札幌証券取引所に上場 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 本州で店舗展開を開始 | ★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 製造物流小売(SPA)への転換と海外自社生産 1994年10月、ニトリはインドネシアに現地生産法人を設立し、翌1995年夏から箱物家具を一貫生産して直接輸入した。部品輸入から完成品の自社生産へ進み、2004年にはベトナムへ生産を集約した。製造・物流・小売を自社で握る製造物流小売(SPA)への転換により、円高メリットを取り込んで低価格と粗利改善を両立させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2000〜2019年完成品の自社生産と値下げ宣言、持株会社化と米中への出店 | 似鳥昭雄 | 関東物流センターを新設 | ★ | |
| 似鳥昭雄 | マルミツを完全子会社化 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | MARUMITSU-VIETNAM EPEを設立 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 似鳥(中国)采購有限公司を設立 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 平湖物流センターを新設 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 完成品の生産を開始 | ★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 赤羽店を開店 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 宜得利家居股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 恵州に物流拠点を開設 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 海外1号店を開店 | ★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 「値下げ宣言」を開始 | ★★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 22期連続の増収増益を達成 | ★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 明応商貿(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 持株会社体制に移行 | ★★★ | ||
| 似鳥昭雄 | ニトリHDに商号変更 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | マルミツをニトリファニチャーに商号変更 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | MARUMITSU-VIETNAM EPEをNITORI FURNITURE VIETNAM EPEに商号変更 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | NITORI USA, INC.を設立 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 札幌本社を移転 | ★ | ||
| 似鳥昭雄 | 「Aki-Home」ブランドで米国1号店を開店 | ★★ | ||
| 似鳥昭雄 | 中国大陸1号店を開店 | ★★ | ||
| 白井俊之 | 白井俊之氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 白井俊之 | 似鳥(中国)投資公司を設立 | ★ | ||
| 白井俊之 | カチタスを持分法適用関連会社化 | ★★ | ||
| 白井俊之 | 太倉物流センターを新設 | ★ | ||
| 白井俊之 | Nプラスを設立 | ★ | ||
| 白井俊之 | アパレル事業に参入 | ★★ | ||
| 2020〜2026年島忠の買収とアジア各国への出店、36期連続増収増益の途絶 | 白井俊之 | 時価総額が2兆円を突破 | ★★ | |
| 白井俊之 | NITORI RETAIL(MALAYSIA) SDN.BHDを設立 | ★ | ||
| 白井俊之 | 同業ではない新業態の取り込みによる事業領域の広がり ニトリホールディングスは2020年11月16日から12月28日にかけて島忠の普通株式に公開買付けを実施し、2021年1月6日付で議決権の77.04%を取得して連結子会社とした。取得原価は165,054百万円で、対価はすべて現金及び預金である。2021年5月14日には株式併合で生じた1株未満の端数を49,174百万円で取得し、島忠を完全子会社とした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 白井俊之 | 島忠を子会社化 | ★★ | ||
| 白井俊之 | 島忠を完全子会社化 | ★ | ||
| 白井俊之 | NITORI RETAIL SINGAPORE PTE. LTD.を設立 | ★ | ||
| 白井俊之 | 東南アジア1号店を開店 | ★★ | ||
| 白井俊之 | NITORI KOREA CO.,LTD.を設立 | ★ | ||
| 白井俊之 | 米国の店舗とECサイトを閉鎖 | ★★ | ||
| 白井俊之 | 韓国1号店を開店 | ★ | ||
| 白井俊之 | 36期連続の増収増益が途絶 | ★★ | ||
| 白井俊之 | フィリピン1号店を開店 | ★ | ||
| 白井俊之 | NITORI DIGITAL BASE VIETNAMを設立 | ★ | ||
| 白井俊之 | インドネシア1号店を開店 | ★ | ||
| 白井俊之 | インド1号店を開店 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ニトリ)