ニトリの歴史は1967年に似鳥昭雄氏が札幌にて家具の販売業を開始したことに始まる。周辺に競合が少なそうという理由で家具店を個人創業した。ただし、競合他社と比べて強みをもたなかったことから、何度も倒産の危機に瀕したという

ニトリの歴史
北海道発祥の家具小売店。円高を見据えてグローバルな製造物流網を整備したことで国内の家具トップ企業へ
北海道発祥の家具小売店。円高を見据えてグローバルな製造物流網を整備したことで国内の家具トップ企業へ
ニトリの歴史は1967年に似鳥昭雄氏が札幌にて家具の販売業を開始したことに始まる。周辺に競合が少なそうという理由で家具店を個人創業した。ただし、競合他社と比べて強みをもたなかったことから、何度も倒産の危機に瀕したという
店名を改称した上で、北海道で業界初となる大型家具店を開業。ただし、大型店舗は前代未聞であり、同業者はニトリの投資を懐疑的に思ったという。加えて、開業直後に、同業他社が近隣に大型店舗の出店を決めたため、銀行が似鳥への融資をストップ。この時、ニトリの資金繰りが悪化し、似鳥昭雄氏は夜逃げを考えたとされている(2017/10/10週刊女性)。
創業期におけるニトリにおける転機は、1972年に創業者である似鳥昭雄が小売業者の視察のためにアメリカを訪問した際、現地の生活環境が日本と比べて非常に豊かであったことに驚いたことであった。そこで、似鳥昭雄は日本でもアメリカと同じような豊かな生活が可能になるような家具や雑貨を販売することを決意し、リスクをとった事業の本格展開を開始した
個人事業から株式会社に組織変更。金融機関からの資金調達を積極化して事業の本格展開を開始した
安い家具を確保するために、仕入れ部門を別会社として設立。倒産メーカーの家具を原価割れで仕入れる体制を構築した。また、別の仕入れルートとして、家具の有力メーカー3社に似鳥氏が社外役員として参画し、ニトリのオリジナル家具の製造を委託する方式も1977年までに整備した。ニトリは小売業でありながら、製造メーカーに口を出して自社商品を開発する体制を整えていった
1977年11月時点で、ニトリは従業員に対しては信賞必罰の人事を遂行。雑誌記事によれば「遅刻3回、無断欠勤1回、私用も含めて交通事故2回で解雇」「競輪、競馬等のバクチは一切ご法度で、やった事がわかれば即刻クビとなる」(近代中小企業12(13)(156))運用をしていた。(これが事実であれば、労働基準法に準拠した制度であったかどうかは、議論の余地がある)
ドミナントによるチェーン展開を開始。1985年までに北海道内において11店舗を展開
北海道内におけるドミナント展開を強化するために、札幌市内に「札幌物流センター」を設立。この時点では全国進出ではなく、北海道における家具販売店として有力企業に出ることを優先した
1982年にニトリは北海道の函館への大型店舗の新設(売り場面積4900m2・想定年商8〜10億円)を発表するが、地元の函館の小売業者は「ニトリのような巨大店の進出は死活問題である」として反発。政治家を動員してニトリの排除を試みるなど、一筋縄で店舗の拡大は進まなかった。その後、1985年にニトリは函館進出に成功し、函館では良好な成績を収めた
安い家具の品揃えを確保するために、1985年のプラザ合意を受けて海外からの直接輸入を開始。円高ドル安の進行を受けて、主に東南アジアで生産された家具を輸入
1993年に茨城県勝田市にニトリの店舗新設を計画。北海道のドミナント展開から、東日本におけるドミナンと展開を本格化
東南アジアの製造拠点として活用。当初、ニトリによる出資比率は9.0%であり、マイノリティーとして参加。ニトリが作成した仕様書に基づいて製品を作る「開発輸入」の拠点として活用することを目論んだが起動に乗らなかった。社員の無断欠勤率が10%であることや、ストライキが頻発したことで、工場の労働者の統制に問題があった。そこでニトリは出資比率を100%に高めて、経営再建を図った
東南アジアの製造拠点として活用。ニトリによる出資比率は49%
持ち株会社に移行
持ち株会社に移行
東南アジアの製造拠点として活用。当初、ニトリによる出資比率は9.0%であり、マイノリティーとして参加。ニトリが作成した仕様書に基づいて製品を作る「開発輸入」の拠点として活用することを目論んだが起動に乗らなかった。社員の無断欠勤率が10%であることや、ストライキが頻発したことで、工場の労働者の統制に問題があった。そこでニトリは出資比率を100%に高めて、経営再建を図った
似鳥昭雄(ニトリ創業者)
円高は構造的で、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べ決定的に高くなっている。輸入木材を買うとしても商社などが間に入るから入手するときは相当に高くなる。これじゃ、日本人は欧米よりも2倍も3倍も高い家具を買うことになる。なんとしても安い家具をウチが提供しなければ。そんな使命感に燃えていたんですよ。