ニトリの歴史

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結果

ニトリの長期業績

1969年〜2024年
推定売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
8,957億円
売上高:2024/3
推定売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結
9.6%
利益率:2024/3
PL

売上高の長期推移

売上高・売上収益ベース(連結優先)| 単位:億円
PL

税引後利益の長期推移

税引後利益・当期純利益・当期利益ベース(連結優先)| 単位:億円
1967
12月

札幌市内で似鳥家具店を創業

家具店を個人創業
店舗の大型化を志向

家具店を個人創業

1967年12月に似鳥昭雄氏(ニトリ創業者)は、札幌市内に「似鳥家具店」を個人創業。創業店舗は北海道札幌市北26条西5丁目に開設し、通称「西店」と呼ばれた。創業時点での店舗面積は99平方メートルであり、小規模な店舗を開設して家具の販売業に参入した。

似鳥氏(北海学園大学・1966年卒業)は、脱サラして企業を検討する際、家具店に着眼。その理由は、出店予定地に競合店が少ないという理由であった。

開業2年目の1969年には、創業店舗である西店を198㎡へと拡張して業容を拡大した。ただし、創業時は信頼がなく、仕入れ面で苦労をしたため、大型店舗の開設による「大量仕入れ・大量販売」を志向するようになった。

店舗の大型化を志向

ニトリは創業期から一貫して店舗の大型化を志向。1971年には初の大型店舗となる「北栄店」を開業し、店舗面積は990平方メートルに及んだ。これは創業店舗である西店の約5倍に相当した。このため、同業者はニトリの投資を懐疑的に受け止めたという。

加えて、開業直後に、同業他社が近隣に大型店舗の出店を決めたため、銀行が似鳥への融資をストップ。結果としてニトリの資金繰りが悪化し、似鳥昭雄氏は「夜逃げ」(2017/10/10週刊女性)考えたとされ、店舗の大型化には紆余曲折を伴った。

1967年
12月
札幌市内で西店を開業(似鳥家具店を創業)
店舗面積 99
1969年
札幌市内の西店を拡張
店舗面積 198
1969年
札幌市内で北栄店を開業(大型店舗)
店舗面積 990
証言
似鳥昭雄(ニトリ創業者)

今でこそ家具大型店の郊外進出は常識になっているが、私が初めの大型店である東店を手がけた当初は、周囲からあきれ顔で見られていた。若僧が何を馬鹿なことをやらかすのか、というのが家具業界および関係者の大方の感想だったろう

1977/11 近代中小企業 12(13)(156)
1972
3月

株式会社似鳥家具卸センターを設立

株式会社としてニトリを設立
欧米並みの豊かさ実現する目標設定
遅刻3回で解雇する制度
仕入れの効率化

株式会社としてニトリを設立

個人事業から株式会社に組織変更。金融機関からの資金調達を積極化して事業の本格展開を開始した。

欧米並みの豊かさ実現する目標設定

創業期におけるニトリにおける転機は、1972年に創業者である似鳥昭雄が小売業者の視察のためにアメリカを訪問した際、現地の生活環境が日本と比べて非常に豊かであったことに驚いたことであった。そこで、似鳥昭雄は日本でもアメリカと同じような豊かな生活が可能になるような家具や雑貨を販売することを決意し、リスクをとった事業の本格展開を開始した。

遅刻3回で解雇する制度

1977年11月時点で、ニトリは従業員に対しては信賞必罰の人事を遂行。当時の雑誌記事によれば「遅刻3回、無断欠勤1回、私用も含めて交通事故2回で解雇」「競輪、競馬等のバクチは一切ご法度で、やった事がわかれば即刻クビとなる」(近代中小企業12(13)(156))運用をしていたという。

これは、ニトリの従業員が20代の若者中心であった一方、店舗の急拡大のために管理職を早急に育成する必要があり、結果として厳しいルールの運用を敷いたためと推察される。1981年時点のニトリの従業員数142名(うち社員108名・臨時社員34名)であり、平均年齢は26歳と若かった。また、当時のニトリは採用にあたって「2〜3年で店長になれる」という説明もしており、1978年の時点で「23歳の店長」「入社5年で部長」などの実績が存在していた。

仕入れの効率化

安い家具を確保するために、仕入れ部門を別会社として設立。倒産メーカーの家具を原価割れで仕入れる体制を構築した。また、別の仕入れルートとして、家具の有力メーカー3社に似鳥氏が社外役員として参画し、ニトリのオリジナル家具の製造を委託する方式も1977年までに整備した。ニトリは小売業でありながら、製造メーカーに口を出して自社商品を開発する体制を整えていった

1972年
3月
株式会社似鳥家具卸センターを設立
資本金 600 万円
1978年
6月
ニトリ家具に商号変更
1986年
7月
株式会社ニトリに商号変更
証言
似鳥昭雄(ニトリ創業者)

私は37年前にアメリカに渡りました。その時に見たアメリカの小売業に私は驚愕し、日樹に感動したことを今でも覚えています。まず価格面では、アメリカは日本のものの3分の1という安さでした。また、日本の製品は作る側や売る側からの品質機能を持っているのですが、アメリカの製品では使う側や買う側に立っての機能が充実していました。そして、日本の製品は見た目がバラバラで統一感がないのですが、アメリカのものは見事にコーディネートされています。さらに、日本にはない便利な品種がアメリカには多数ありました。アメリカと日本との違いには体現驚きました。私は60年かけてアメリカに追いつき、そして追い越すために仕事を一生懸命取り組んでいくことを誓ったのです。

私は、日本人の暮らしを豊かにすることを最大の目標にして業務に取り組んできました。1972年に株式会社ニトリを設立してこれまで前半の30年を終えましたが、目標に向かって順調にきていると私は感じています。

業績
ニトリ | 1973年2月期(単体)
推定売上高
1.5
億円
1978
1月

チェーン化構想を発表・札幌市内でドミナント展開

札幌市内に集中出店
家具の仕入れ体制の標準化
新卒採用と店長抜擢

札幌市内に集中出店

1978年1月にニトリは「チェーン化構想」を発表。1981年までに家具店舗を札幌市内において集中出店し、合計9店舗を社員約140名(うち臨時雇用30名)で運営する体制を整えた。いずれも店舗面積は約1500〜約3000㎡であり、手稲・白石・厚別などのロードサイド(国道230号・国道5号・国道36号・国道12号など)に立地させ、いずれも家具店としては大型店舗を志向した。

この間、札幌市内以外の出店は行わず、ドミナントによるチェーン展開を志向した。これにより、地域ないシェアを確保することを優先した。

また、店舗への配送効率を高めるために、1980年に札幌物流センター(札幌市西区発寒1152)を新設。物流センターから、札幌市内の9店舗をカバーする体制により、札幌市内における地域シェアの確保を目指した。

家具の仕入れ体制の標準化

1981年の時点でニトリは家具の仕入れにあたってメーカーに対して製品規格を定めるように働きかけた。これは、チェーン展開によって販売量が増加し、メーカーへの交渉力が高まったためと推察される。このため、ニトリは小売業ではあったものの、メーカーに対して商品企画を依頼する立場となった。

1981年時点のニトリの主な仕入先は、フランスベッド、大塚家具、三友工芸、大恵ファニチュア、丸愛ファニチュア、恵田ファニチュアなどであった。フランスベッドや大塚家具を除けば、いずれも零細な家具メーカーないし卸売と推察され、ニトリはメーカーとの交渉のうえで、有意な立場を確保できた可能性がある。

新卒採用と店長抜擢

ニトリは急速なチェーン展開にあたって、新卒採用を積極化。1980年頃には年間10名ほどを新卒採用し、早ければ2〜3年で店長に抜擢する実力主義の人事を遂行した。店長の主な学歴は、北海学園大学などであった。

このため、ニトリのチェーンの急速なチェーン展開は、若い新卒2〜3年目の人物が現場を担う組織形態をとった。この結果、新卒採用の積極化により、1978年2月時点で社員数は108名(臨時雇用を除く)に及んだ。

1980年
8月
札幌物流センターを新設
業績
ニトリ | 1978年2月期(単体)
推定売上高
15
億円
従業員数
108
1982年2月
函館進出問題

1982年にニトリは北海道の函館への大型店舗の新設(売り場面積4900m2・想定年商8〜10億円)を発表するが、地元の函館の小売業者は「ニトリのような巨大店の進出は死活問題である」として反発。政治家を動員してニトリの排除を試みるなど、一筋縄で店舗の拡大は進まなかった。その後、1985年にニトリは函館進出に成功し、函館では良好な成績を収めた

業績
ニトリ | 1982年2月期(単体)
売上高
43
億円
当期純利益
0.5
億円
1987

マルミツ木工と業務提携・部品輸入を開始

家具メーカー「マルミツ木工」の取得
段階的な生産シフト・部品輸入から本格化
ニトリは品質管理に注力

家具メーカー「マルミツ木工」の取得

1986年にニトリは家具メーカーの「マルミツ木工株式会社」と業務提携(出資比率は不明)を締結。取引先のメーカーに出資することによって、小売業でありながら製造領域に参入した。マルミツ木工との提携の狙いは、円高ドル安の進行を見据え、家具を東南アジアで生産することであった。

1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行しつつあり、ニトリとしては国内生産のコスト高を予見し、東南アジアから輸入ないし生産体制の樹立を急いだ。

段階的な生産シフト・部品輸入から本格化

マルミツは国内生産(旭川)が中心であったため、段階的に東南アジア(中国・タイ・インドネシア)での生産にシフトする形をとった。1986年から家具パーツを「台湾・米国・マレーシア・韓国」などから輸入して国内で組み立てる体制を構築。続いて、1987年までに台湾および韓国において、現地企業と提携して部材の共同開発を開始。1992年からは中国とタイにおいて現地企業と提携し、家具パーツの現地生産を開始した。

すなわち、1986年から1994年にかけては、完成品の家具生産をいきなり開始するのではなく、家具パーツの輸入を通じてグローバルな体制構築を狙った。

ニトリは品質管理に注力

ニトリとしては、マルミツの海外生産に合わせて家具を輸入する体制を構築。1989年2月にシンガポールに現地法人を新設し、東南アジアにおける取引先に対する管理拠点(検品・検査などを請負い)として活用した。

東南アジアからの家具部品の輸入における最大の問題は、品質が悪い点であった。高温多湿な東南アジアでは、木材における含水率が日本の2倍(20%)と高く、乾燥が不十分だと日本国内に到着した時点で、部材が破損する問題があった。このため、出荷前に乾燥室の利用を徹底するなど、現地メーカーに対する指導を実施した。

1986年
ニトリとマルミツが業務提携を締結
1986年
マルミツ:台湾・米国・マレーシア・韓国から材料輸入を開始
1989年
2月
シンガポールに現地法人を新設
1992年
マルミツ:タイ・中国で現地企業と提携。パーツ生産を開始
1994年
インドネシアに現地生産法人を新設
2000年
ニトリがマルミツを完全子会社化
業績
ニトリ | 1988年2月期(単体)
売上高
103
億円
当期純利益
2.3
億円
1989年9月
札幌証券取引所に株式上場
1993年
本州(東日本)での店舗展開を開始

1993年に茨城県勝田市にニトリの店舗新設を計画。北海道のドミナント展開から、東日本におけるドミナンと展開を本格化

業績
ニトリ | 1994年2月期(単体)
売上高
193
億円
当期純利益
7.4
億円
1994
10月

インドネシアに現地法人を設立・完成品輸入を開始

インドネシアでの現地生産を開始
現地の労務管理で苦戦
インドネシア現地法人を完全子会社化して再建へ

インドネシアでの現地生産を開始

1994年10月にニトリはインドネシアに生産現地法人として「P.T. MARUMITSU INDONESIA」を設立してマイノリティーとなる9.0%を出資した。ニトリの取引先かつ出資先であった家具メーカー「マルミツ(北海道・旭川市本社)」がインドネシアでの現地生産に乗り出す座組みとした。

1995年から工場を稼働してインドネシアにおける現地生産を開始。従来の東南アジアからの輸入は「部品パーツ」であったが、インドネシア工場では「完成品」を製造することによって、ニトリとしては完成品家具の現地生産を確立する狙いがあった。

現地の労務管理で苦戦

インドネシアの現地法人では、会社運営に苦戦。社員の無断欠勤率が10%であることや、ストライキが頻発したことで生産が計画通りに進まない状況であったという。

インドネシア現地法人を完全子会社化して再建へ

ニトリはインドネシア工場を再建するために、現地法人に対する出資比率を100%に引き上げた(時期不明)。

証言
似鳥昭雄(ニトリ創業者)

円高は構造的で、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べ決定的に高くなっている。輸入木材を買うとしても商社などが間に入るから入手するときは相当に高くなる。これじゃ、日本人は欧米よりも2倍も3倍も高い家具を買うことになる。なんとしても安い家具をウチが提供しなければ。そんな使命感に燃えていたんですよ。

1994/06/18 日経流通新聞p2「ニトリ社長似鳥昭雄氏(下)」
業績
ニトリ | 1995年2月期(単体)
売上高
235
億円
当期純利益
8.6
億円
2000年7月
埼玉県白岡町に関東物流センターを新設
2002年10月
東京証券取引所第1部に株式上場
2004
9月

ベトナムでの現地生産を開始・集中生産体制へ

ベトナム工場の稼働
値下げの原動力に

ベトナム工場の稼働

2005年にニトリは完全子会社である「マルミツ(2011年にニトリファニチャーへ商号変更)」を通じて、ベトナムでの現地生産を開始した。ニトリとしてはインドネシアに次ぐ家具の生産拠点として人員の大量採用を実施。2020年度末時点で従業員数約9000名を抱えるニトリの主力生産拠点となった。

ベトナム工場の拡大に伴い、ニトリはインドネシアの現地生産については2017年に停止。東南アジアにおける家具の主な生産拠点について、ベトナムに集中投資する体制を整えた。

値下げの原動力に

2005年からのベトナム生産によって、ニトリは東南アジアで製造された安価な商品を拡充。ニトリとしては、価格設定を弾力的に行うことが可能となり、2009年のリーマンショック時における値下げを実現する原動力となった。

1999年
9月
タイに現地法人を設立
2004年
9月
ベトナムでの現地生産を開始(ニトリファニチャー)
2009年
9月
ベトナム工場で2シフト制を採用(ニトリファニチャー)
2017年
インドネシア工場の操業停止(ニトリファニチャー)
証言
似鳥昭雄(ニトリ・創業者)

当社はモノを作るのが主流で、その次に物流が占めており、小売業はメインではありません。割合で見ると、製造業が5割、物流が2割、そして小売業が3割というところでしょうか。製造と物流に力を入れていることが当社の最大の特徴です。自社で物流施設を作り、全て自社リスクを背負って行っています。製造業を充実させたことにより、仕入れなどにかかるコストがかからず、価格設定などを当社主導で自由に設定できることが大きな強みになっています。

業績
ニトリ | 2005年2月期(連結)
売上高
1294
億円
当期純利益
87
億円
2004年10月
神戸市中央区に関西物流センターを新設
2004年3月
中国上海に平湖物流センターを新設
2006年4月
東京都北区に赤羽店を開業(本部併設)
2007年6月
中国恵州に「恵州物流センター」を新設
2008年12月
値下げ宣言をスタート
2010年8月
商号をニトリホールディングスに変更

持ち株会社に移行

業績
ニトリ | 2011年2月期(連結)
売上高
3142
億円
当期純利益
308
億円
2016年2月
白井俊之氏が代表取締役社長に就任

持ち株会社に移行

業績
ニトリ | 2016年2月期(連結)
売上高
4851
億円
当期純利益
469
億円
2020年
時価総額2兆円を突破
2021
1月

島忠を買収・ホームセンターに進出

島忠へのTOB
買収後の島忠における苦戦

島忠へのTOB

2020年12月にニトリはホームセンターを運営する島忠(国内61店舗)に対してTOBを発表。2021年1月に島忠の買収を完了した。取得原価は1650億円であり、ニトリは買収にあたって「のれん」を316億円計上した。

もともと島忠は、DCMとの経営統合の交渉を行なっていたが、ニトリからのTOBを受け入れる形となった。このため、DCMとしては梯子を外された形となった。

買収後の島忠における苦戦

ニトリとしては、島忠について「ニトリホームズ」のブランドに変更し、ニトリの商品を取り扱いつつホームセンターの品揃えを維持する方針であったが集客に苦戦。FY2023における島忠事業は、売上高1105億円・セグメント利益21億円に低迷した。

2023年10月の取締役会において「島忠事業における経営課題に関する件」について審議するなど、再建が必要な状況に陥った。2024年3月期にニトリは島忠事業における店舗の減損損失の94億円の計上を決定した。

2021年
1月
島忠を買収
取得価格 1650 億円
2023年
10月
取締役会で「島忠事業における経営課題に関する件」を議論
2024年
3月
島忠事業で減損損失を計上(店舗)
減損損失(店舗) 94 億円
業績
ニトリ | 2021年2月期(連結)
売上高
7169
億円
当期純利益
921
億円
2024
3月

減収減益・36期連続増収増益で途絶

円安で海外生産メリットが低下
連続増収増益の記録が途絶

円安で海外生産メリットが低下

2023年ごろからの円安ドル高の進行により、ニトリは「円高ドル安」を前提とした海外生産のメリットを享受しきれない状況となった。特に、小売業の展開地域は日本国内に偏重しており、FY2023期末時点で国内822店舗、海外179店舗(うち台湾61店舗・中国大陸95店舗)を展開した。

この結果、円安ドル高への影響を被りやすい状況となっていた。その上で、ニトリでは会社計画の前提としていた為替相場「1ドル=130円」の目論見が外れ、想定以上に円安が進んだことで商品開発や仕入れの前提が崩れた。

連続増収増益の記録が途絶

ニトリは2023年度の決算で、決算月を2月から3月に変更。翌年の2024年3月期の決算において、前年度の12か月分決算と比較して減収減益となった。これにより、ニトリは36期連続増収増益の記録に終止符をうった。

業績
ニトリ | 2024年3月期(連結)
売上高
8957
億円
当期純利益
865
億円
内容の正確性、完全性および適時性を保証しません