| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1969/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 0億円 | - | - |
| 1970/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 0億円 | - | - |
| 1971/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 0億円 | - | - |
| 1972/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 1億円 | - | - |
| 1974/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1977/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 11億円 | - | - |
| 1978/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 14億円 | - | - |
| 1979/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 22億円 | - | - |
| 1980/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | 29億円 | 0億円 | 2.0% |
| 1981/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 34億円 | 0億円 | 0.8% |
| 1982/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 43億円 | 0億円 | 1.1% |
| 1983/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 54億円 | 1億円 | 2.2% |
| 1984/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 68億円 | 1億円 | 1.8% |
| 1985/2 | 単体 推定売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 77億円 | 1億円 | 2.0% |
| 1987/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 90億円 | 1億円 | 1.6% |
| 1988/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 103億円 | 2億円 | 2.2% |
| 1989/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 117億円 | 3億円 | 3.1% |
| 1990/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 132億円 | 4億円 | 3.0% |
| 1991/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 159億円 | 4億円 | 2.8% |
| 1992/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 175億円 | 5億円 | 3.2% |
| 1993/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 177億円 | 6億円 | 3.4% |
| 1994/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 193億円 | 7億円 | 3.8% |
| 1995/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 235億円 | 8億円 | 3.6% |
| 1996/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 256億円 | 9億円 | 3.7% |
| 1997/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 308億円 | 9億円 | 3.2% |
| 1998/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 348億円 | 10億円 | 2.9% |
| 1999/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 404億円 | 9億円 | 2.4% |
| 2000/2 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 489億円 | 15億円 | 3.1% |
| 2001/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 632億円 | 19億円 | 3.1% |
| 2002/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 787億円 | 34億円 | 4.4% |
| 2003/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 882億円 | 51億円 | 5.8% |
| 2004/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,087億円 | 77億円 | 7.1% |
| 2005/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,294億円 | 87億円 | 6.7% |
| 2006/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,567億円 | 109億円 | 6.9% |
| 2007/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,891億円 | 134億円 | 7.0% |
| 2008/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,172億円 | 154億円 | 7.0% |
| 2009/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,440億円 | 183億円 | 7.5% |
| 2010/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,861億円 | 238億円 | 8.3% |
| 2011/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,142億円 | 308億円 | 9.8% |
| 2012/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,310億円 | 335億円 | 10.1% |
| 2013/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,487億円 | 358億円 | 10.2% |
| 2014/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,876億円 | 384億円 | 9.9% |
| 2015/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,172億円 | 414億円 | 9.9% |
| 2016/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,851億円 | 469億円 | 9.6% |
| 2017/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,129億円 | 599億円 | 11.6% |
| 2018/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,720億円 | 642億円 | 11.2% |
| 2019/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,081億円 | 681億円 | 11.1% |
| 2020/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 6,422億円 | 713億円 | 11.1% |
| 2021/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,169億円 | 921億円 | 12.8% |
| 2022/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,115億円 | 967億円 | 11.9% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,480億円 | 951億円 | 10.0% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,957億円 | 865億円 | 9.6% |
似鳥昭雄の創業動機は、出店予定地に競合が少ないという消去法的な理由であった。99㎡の小規模店舗から始まり、1971年の北栄店(990㎡)で大型化に踏み出すが、競合出店で融資が止まり夜逃げを検討するほどの危機に陥った。創業期から一貫して「大量仕入れ・大量販売」を志向した点は、後のSPAモデルへの伏線となるが、この段階では仕入れ信用の欠如という零細小売業の壁に阻まれていた。
1967年12月、似鳥昭雄氏(北海学園大学・1966年卒業)は札幌市北26条西5丁目に「似鳥家具店」を個人創業した。通称「西店」と呼ばれた創業店舗の面積は99平方メートルであり、小規模な家具販売店としての出発であった。似鳥氏が家具業を選んだ理由は、出店予定地に競合店が少ないという消去法的な判断であった。創業当初は取引先からの信用がなく、仕入れ面で苦労したことが、のちに「大量仕入れ・大量販売」を志向する経営方針の起点となった。
開業2年目の1969年には西店を198㎡に拡張し、品揃えの拡充を図った。ただし、99㎡から198㎡への拡張では仕入れ交渉力の劇的な改善には至らず、似鳥氏はより大型の店舗を開設してメーカーへの発注量を増やすことで、仕入れ条件を改善する必要があると認識するようになった。
1971年、ニトリは初の大型店舗「北栄店」を開業した。店舗面積は990平方メートルであり、創業店舗の約10倍に相当する規模であった。当時の家具業界では郊外に大型店舗を構える発想は一般的ではなく、同業者からは懐疑的に受け止められたという。似鳥氏自身が「周囲からあきれ顔で見られていた」と回顧している。
しかし、北栄店の開業直後に同業他社が近隣に大型店舗の出店を決定したことで、融資元の銀行がニトリへの融資を凍結した。資金繰りが急速に悪化し、似鳥氏は「夜逃げ」を検討するほどの危機に追い込まれた。この経験は、ニトリが単独での仕入れ力強化に限界を感じ、のちに製造領域への介入やグローバル調達体制の構築へと踏み出す契機の一つとなった。
似鳥昭雄の創業動機は、出店予定地に競合が少ないという消去法的な理由であった。99㎡の小規模店舗から始まり、1971年の北栄店(990㎡)で大型化に踏み出すが、競合出店で融資が止まり夜逃げを検討するほどの危機に陥った。創業期から一貫して「大量仕入れ・大量販売」を志向した点は、後のSPAモデルへの伏線となるが、この段階では仕入れ信用の欠如という零細小売業の壁に阻まれていた。
今でこそ家具大型店の郊外進出は常識になっているが、私が初めの大型店である東店を手がけた当初は、周囲からあきれ顔で見られていた。若僧が何を馬鹿なことをやらかすのか、というのが家具業界および関係者の大方の感想だったろう
1972年の渡米視察で似鳥昭雄が受けた衝撃は、アメリカの家具が日本の3分の1の価格で、かつコーディネートされていた点にあった。この体験が「60年かけてアメリカに追いつく」という長期目標を生み、ニトリの事業構造を規定した。同時期に倒産メーカーからの原価割れ仕入れや、メーカー3社への社外役員参画による製造介入が始まっており、小売業でありながら製造に口を出すSPA的発想の萌芽がこの段階で見られる。
1972年3月にニトリは個人事業から株式会社(株式会社似鳥家具卸センター、資本金600万円)に組織変更し、金融機関からの資金調達を積極化して事業の本格展開を開始した。法人化の同年、創業者の似鳥昭雄は小売業者の視察でアメリカを訪問し、現地の生活環境と家具価格に衝撃を受けた。アメリカの家具は日本の3分の1の価格でありながら、色やデザインがコーディネートされていた。この体験から似鳥は「60年かけてアメリカに追いつく」という長期目標を設定し、日本の消費者に安価で品質の高い家具を届けることを事業の使命と定めた。
渡米体験を経て、ニトリは仕入れ体制の根本的な見直しに着手した。安い家具を確保するため、仕入れ部門を別会社として設立し、倒産メーカーの家具を原価割れで仕入れるルートを構築した。さらに、家具の有力メーカー3社に似鳥氏が社外役員として参画し、ニトリのオリジナル家具の製造を委託する方式も1977年までに整備した。小売業でありながら製造メーカーに製品仕様を指示する体制は、のちのSPA(製造物流小売)モデルの萌芽であった。
店舗の急拡大に伴い、ニトリは管理職の早期育成を迫られた。1981年時点の従業員数は142名(うち社員108名・臨時社員34名)、平均年齢は26歳と若い組織であった。採用時に「2〜3年で店長になれる」と説明し、実際に1978年の時点で23歳の店長や入社5年の部長が存在した。
若手中心の組織を統制するため、ニトリは厳格な人事規律を敷いた。当時の記事によれば「遅刻3回、無断欠勤1回、交通事故2回で解雇」「賭博行為が判明すれば即刻解雇」という運用であった。20代の若者を短期間で店舗運営責任者に育てるには、規律の徹底が不可欠であったと推察される。この人事方針は、ニトリが北海道内で年間数店舗のペースで出店を拡大するための組織的な基盤となった。
1972年の渡米視察で似鳥昭雄が受けた衝撃は、アメリカの家具が日本の3分の1の価格で、かつコーディネートされていた点にあった。この体験が「60年かけてアメリカに追いつく」という長期目標を生み、ニトリの事業構造を規定した。同時期に倒産メーカーからの原価割れ仕入れや、メーカー3社への社外役員参画による製造介入が始まっており、小売業でありながら製造に口を出すSPA的発想の萌芽がこの段階で見られる。
私は37年前にアメリカに渡りました。その時に見たアメリカの小売業に私は驚愕し、大いに感動したことを今でも覚えています。まず価格面では、アメリカは日本のものの3分の1という安さでした。また、日本の製品は作る側や売る側からの品質機能を持っているのですが、アメリカの製品では使う側や買う側に立っての機能が充実していました。そして、日本の製品は見た目がバラバラで統一感がないのですが、アメリカのものは見事にコーディネートされています。さらに、日本にはない便利な品種がアメリカには多数ありました。アメリカと日本との違いには大変驚きました。私は60年かけてアメリカに追いつき、そして追い越すために仕事を一生懸命取り組んでいくことを誓ったのです。
私は、日本人の暮らしを豊かにすることを最大の目標にして業務に取り組んできました。1972年に株式会社ニトリを設立してこれまで前半の30年を終えましたが、目標に向かって順調にきていると私は感じています。
ニトリは1978年から1981年にかけて札幌市内に9店舗を集中出店し、本州進出前にドミナント戦略の原型を完成させた。物流センター(1980年)から9店舗をカバーする配送効率の設計と、メーカーへの製品規格の要求を同時に進めた点が重要である。新卒2〜3年目を店長に抜擢する人事と厳格な規律運用は、急拡大を支える管理体制の構築でもあった。札幌での成功パターンが、後の全国展開における「物流センター先行→ドミナント出店」の再現モデルとなった。
1978年1月にニトリは「チェーン化構想」を発表し、札幌市内への集中出店を本格化した。1981年までに手稲・白石・厚別などのロードサイド(国道230号・国道5号・国道36号・国道12号沿い)に合計9店舗を開業し、いずれも店舗面積1500〜3000㎡の大型店舗として展開した。この間、札幌市内以外への出店は行わず、地域内シェアの確保を最優先するドミナント戦略を徹底した。
配送効率の向上を目的として、1980年に札幌物流センター(札幌市西区発寒)を新設した。1拠点の物流センターから札幌市内9店舗をカバーする体制であり、物流センターを先行して整備した上で店舗を配置するモデルは、のちの全国展開においても「物流センター先行→ドミナント出店」として踏襲された。
9店舗のチェーン展開によって販売量が増加したことで、ニトリはメーカーに対する交渉力を高めた。1981年時点でニトリはメーカーに対して製品規格を定めるよう働きかけており、小売業でありながらメーカーに商品企画を指示する立場を確保していた。主な仕入先はフランスベッド、大塚家具のほか、三友工芸、大恵ファニチュア、丸愛ファニチュアなどであった。フランスベッド・大塚家具を除けば零細な家具メーカーが中心であり、ニトリは仕入先に対して優位な交渉ポジションを築けた可能性がある。
人材面では年間約10名の新卒採用を実施し、2〜3年で店長に抜擢する実力主義の人事を運用した。1978年2月時点の社員数は108名(臨時雇用除く)であり、若手中心の組織でチェーン展開の現場を担った。札幌ドミナントの10年間は、物流・仕入れ・人材育成の仕組みを一体で整備する期間として機能し、本州進出の前提条件を形成した。
ニトリは1978年から1981年にかけて札幌市内に9店舗を集中出店し、本州進出前にドミナント戦略の原型を完成させた。物流センター(1980年)から9店舗をカバーする配送効率の設計と、メーカーへの製品規格の要求を同時に進めた点が重要である。新卒2〜3年目を店長に抜擢する人事と厳格な規律運用は、急拡大を支える管理体制の構築でもあった。札幌での成功パターンが、後の全国展開における「物流センター先行→ドミナント出店」の再現モデルとなった。
1985年のプラザ合意による円高を予見し、マルミツ木工への出資を通じて東南アジア生産に着手した判断は、小売業の発想を超えている。いきなり完成品生産に踏み込まず、まず部品パーツの輸入から始め、品質管理(含水率問題への対応)のノウハウを蓄積した上で完成品生産に移行する段階的アプローチをとった。シンガポールに検品拠点を置いた体制は、後のベトナム集中生産における品質管理体制の原型となった。
1985年のプラザ合意を契機に円高ドル安が進行する中、ニトリは国内生産のコスト高を予見し、家具の東南アジア生産に向けた体制構築を急いだ。1986年にニトリは家具メーカーの「マルミツ木工株式会社」(北海道旭川市本社)と業務提携を締結し、取引先メーカーへの出資を通じて製造領域への参入を果たした。小売業でありながら生産拠点の確保に踏み込んだ判断は、創業期から続く「仕入れ力の強化」が製造への直接関与へと発展した帰結であった。
マルミツは旭川での国内生産が中心であったため、いきなり海外での完成品生産に移行するのではなく、段階的なアプローチをとった。1986年から台湾・米国・マレーシア・韓国から家具パーツを輸入して国内で組み立てる体制を構築し、1987年までに台湾・韓国で現地企業と部材の共同開発を開始。1992年には中国・タイで家具パーツの現地生産に着手した。
東南アジアからの部品輸入で最大の課題となったのは品質であった。高温多湿な東南アジアでは木材の含水率が日本の2倍(約20%)に達し、乾燥が不十分なまま出荷すると日本到着後に部材が破損する問題が頻発した。ニトリは出荷前の乾燥室利用を現地メーカーに徹底するなど、品質管理の指導を実施した。
1989年2月にはシンガポールに現地法人を新設し、東南アジアの取引先に対する検品・検査の管理拠点として運用を開始した。この品質管理体制は、1994年のインドネシア工場設立、2004年のベトナム工場稼働へとつながる海外生産の基盤となった。「部品パーツの輸入→品質管理ノウハウの蓄積→完成品の現地生産」という段階的移行は、ニトリのグローバル調達体制を形成する過程であり、2000年にはマルミツを完全子会社化して製造部門を内製化した。
1985年のプラザ合意による円高を予見し、マルミツ木工への出資を通じて東南アジア生産に着手した判断は、小売業の発想を超えている。いきなり完成品生産に踏み込まず、まず部品パーツの輸入から始め、品質管理(含水率問題への対応)のノウハウを蓄積した上で完成品生産に移行する段階的アプローチをとった。シンガポールに検品拠点を置いた体制は、後のベトナム集中生産における品質管理体制の原型となった。
インドネシア工場は完成品の現地生産という戦略的な一歩だったが、無断欠勤率10%やストライキの頻発で計画通りに稼働しなかった。マルミツを通じた間接運営(当初出資9%)が管理の弱さを招いた面があり、最終的に完全子会社化して再建に乗り出した。この経験は、後のベトナム工場では最初から完全子会社で運営し、従業員9,000名規模の直接管理体制を構築する判断につながった。失敗を経て「現地生産は直接支配でなければ品質も生産性も保てない」という原則が確立された。
1994年10月にニトリはインドネシアに生産現地法人「P.T. MARUMITSU INDONESIA」を設立した。当初のニトリの出資比率は9.0%であり、取引先かつ出資先の家具メーカー「マルミツ」(北海道旭川市本社)がインドネシアでの現地生産に乗り出す座組みであった。1995年から工場を稼働し、従来の東南アジアからの「部品パーツ」輸入に加えて、「完成品」の現地製造を開始した。
インドネシア工場の設立は、ニトリにとって海外生産の第二段階であった。1986年からの部品輸入、1989年のシンガポール検品拠点の新設を経て蓄積した品質管理のノウハウを、完成品の生産に応用する狙いがあった。似鳥昭雄は「円高は構造的で、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べ決定的に高くなっている」と語り、海外生産による低コスト化を経営の根幹と位置づけていた。
しかし、インドネシア工場の運営は困難を極めた。社員の無断欠勤率が10%に達し、ストライキも頻発したことで、生産が計画通りに進まない状況が続いた。マルミツを通じた間接運営(ニトリの当初出資比率9%)では、現地従業員の管理が行き届かなかったことが背景にあると考えられる。
ニトリはインドネシア工場の再建のため、現地法人の出資比率を100%に引き上げて完全子会社化した。この経験は、海外での完成品生産において間接運営では品質も生産性も維持できないという教訓を残した。のちの2004年のベトナム工場では、設立当初から完全子会社として直接管理体制を構築しており、インドネシアの失敗が次の生産拠点の設計思想に直接反映された。
インドネシア工場は完成品の現地生産という戦略的な一歩だったが、無断欠勤率10%やストライキの頻発で計画通りに稼働しなかった。マルミツを通じた間接運営(当初出資9%)が管理の弱さを招いた面があり、最終的に完全子会社化して再建に乗り出した。この経験は、後のベトナム工場では最初から完全子会社で運営し、従業員9,000名規模の直接管理体制を構築する判断につながった。失敗を経て「現地生産は直接支配でなければ品質も生産性も保てない」という原則が確立された。
円高は構造的で、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べ決定的に高くなっている。輸入木材を買うとしても商社などが間に入るから入手するときは相当に高くなる。これじゃ、日本人は欧米よりも2倍も3倍も高い家具を買うことになる。なんとしても安い家具をウチが提供しなければ。そんな使命感に燃えていたんですよ。
ベトナム工場は従業員9,000名規模の主力生産拠点に成長し、2017年にはインドネシア工場の操業を停止して生産を集約した。インドネシアでの労務管理の苦戦を教訓に、ベトナムでは直接管理体制を初期から整備したことが拡大の前提条件となった。似鳥昭雄が「製造5割・物流2割・小売3割」と語る通り、ニトリの本質は小売業ではなく製造物流業である。ベトナム生産が2009年リーマンショック時の値下げ原資となり、36期連続増収増益の中核を支えた。
2004年9月、ニトリは完全子会社の「マルミツ」(2011年にニトリファニチャーへ商号変更)を通じてベトナムでの現地生産を開始した。インドネシア工場では間接運営(当初出資9%)で労務管理に苦戦した教訓を踏まえ、ベトナムでは設立当初から完全子会社として直接管理体制を構築した。1999年にはタイにも現地法人を設立しており、東南アジアにおける生産拠点の多角化を進めていた。
ベトナム工場は人員の大量採用によって急速に拡大し、2020年度末時点で従業員数約9000名を抱えるニトリの主力生産拠点に成長した。拡大に伴い、2017年にはインドネシア工場の操業を停止し、東南アジアの家具生産をベトナムに集約する体制へと移行した。似鳥昭雄が「製造5割・物流2割・小売3割」と語る通り、ニトリの事業の本質は小売業ではなく製造物流業であり、ベトナム工場はその製造部門の中核拠点であった。
2005年以降のベトナム生産の本格化により、ニトリは東南アジアで製造した安価な商品の品揃えを拡充した。円高ドル安環境下でベトナムの低人件費を活かした生産は、ニトリの価格競争力を構造的に強化した。この低コスト生産体制は、2008年12月に開始した「値下げ宣言」の原資となり、2009年のリーマンショック時にも値下げを実現する原動力となった。
消費低迷期に値下げを断行できた背景には、自前の海外工場から直接仕入れる体制があった。商社や卸を介さずに完成品を調達できるため、仕入れコストの変動を自社でコントロールする余地が大きく、ニトリは36期連続増収増益を支える価格設定の柔軟性を確保した。
ベトナム工場は従業員9,000名規模の主力生産拠点に成長し、2017年にはインドネシア工場の操業を停止して生産を集約した。インドネシアでの労務管理の苦戦を教訓に、ベトナムでは直接管理体制を初期から整備したことが拡大の前提条件となった。似鳥昭雄が「製造5割・物流2割・小売3割」と語る通り、ニトリの本質は小売業ではなく製造物流業である。ベトナム生産が2009年リーマンショック時の値下げ原資となり、36期連続増収増益の中核を支えた。
当社はモノを作るのが主流で、その次に物流が占めており、小売業はメインではありません。割合で見ると、製造業が5割、物流が2割、そして小売業が3割というところでしょうか。製造と物流に力を入れていることが当社の最大の特徴です。自社で物流施設を作り、全て自社リスクを背負って行っています。製造業を充実させたことにより、仕入れなどにかかるコストがかからず、価格設定などを当社主導で自由に設定できることが大きな強みになっています。
島忠買収はDCMとの経営統合交渉を覆す形で実現したが、買収後の統合は想定通りに進まなかった。「ニトリホームズ」へのブランド転換とニトリ商品の導入で集客を狙ったものの、ホームセンターの品揃えとの両立に苦戦。FY2023でセグメント利益21億円にとどまり、のれん316億円に対して店舗減損94億円を計上する事態となった。SPAモデルで成功したニトリの手法が、異なる業態であるホームセンターには直接移植できないことを示した。
2020年12月、ニトリはホームセンターを運営する島忠(国内61店舗)に対してTOBを発表した。島忠はもともとDCMとの経営統合を交渉していたが、ニトリが提示した買収条件を受け入れる形でDCMとの統合交渉は白紙となった。2021年1月にニトリは島忠の買収を完了し、取得原価は1650億円、「のれん」を316億円計上した。
ニトリの狙いは、島忠の店舗網を活用してホームセンター事業に参入することにあった。島忠の店舗を「ニトリホームズ」にブランド変更し、ニトリの家具・生活雑貨を導入しつつホームセンターの品揃えを維持する方針を掲げた。ニトリのSPAモデルで培った商品開発力と、島忠の立地・顧客基盤を組み合わせることで、相乗効果を見込んだ。
しかし、買収後の統合は苦戦した。ニトリホームズへのブランド変更とニトリ商品の導入は集客の改善につながらず、FY2023の島忠事業は売上高1105億円・セグメント利益21億円にとどまった。2023年10月の取締役会では「島忠事業における経営課題に関する件」が審議されるなど、再建が経営課題として顕在化した。
2024年3月期にニトリは島忠事業の店舗に対して減損損失94億円の計上を決定した。のれん316億円に対して94億円の減損は、買収時の収益見通しが実態と乖離していたことを示す。ニトリのSPAモデルは自社で企画・製造した商品を自社店舗で販売する一貫体制に強みがあるが、ホームセンターという異なる業態への移植は、品揃えの構造や顧客の購買行動の違いによって想定した効果を発揮しなかった。
島忠買収はDCMとの経営統合交渉を覆す形で実現したが、買収後の統合は想定通りに進まなかった。「ニトリホームズ」へのブランド転換とニトリ商品の導入で集客を狙ったものの、ホームセンターの品揃えとの両立に苦戦。FY2023でセグメント利益21億円にとどまり、のれん316億円に対して店舗減損94億円を計上する事態となった。SPAモデルで成功したニトリの手法が、異なる業態であるホームセンターには直接移植できないことを示した。
ニトリのSPAモデルは、円高ドル安環境下で東南アジア生産のコスト優位を最大化する設計であった。会社計画の前提であった1ドル=130円が外れ、想定以上の円安が進行したことで、仕入れと商品開発の前提が根底から崩れた。国内822店舗・海外179店舗という売上構成の偏りが為替リスクを増幅させた。36期連続増収増益の途絶は単なる記録の問題ではなく、円高を前提に構築されたビジネスモデルそのものが転換を迫られていることを示した。
ニトリのSPAモデルは、東南アジアで自社生産した家具・生活雑貨を円高環境下で日本に輸入し、低価格で販売するという構造の上に成り立っていた。2023年ごろから円安ドル高が急速に進行し、会社計画が前提としていた1ドル=130円の為替水準は大きく外れた。仕入れコストの上昇は商品開発と価格設定の前提を根底から揺さぶり、粗利率の維持が困難になっていった。
FY2023期末時点でニトリは国内822店舗・海外179店舗を展開していたが、売上構成は日本国内に大きく偏重していた。海外で生産し国内で販売するというモデルは、円高局面ではコスト競争力の源泉となるが、円安局面では仕入れコストの増大がそのまま収益を圧迫する。ニトリが長年にわたり構築してきたグローバル調達体制そのものが、為替の逆風を増幅させる構造に転じていた。
ニトリは2023年度に決算月を2月から3月に変更した。翌2024年3月期の決算において前年度の12か月分と比較した結果、減収減益となった。これにより、1988年以降36期にわたって途切れることのなかった連続増収増益の記録に終止符が打たれた。決算月変更という技術的要因が介在するものの、円安によるコスト増という本質的な収益圧迫がその背景にあった。
36期連続増収増益という記録は、ニトリがSPAモデルと大量出店を両輪として成長してきた軌跡そのものであった。その途絶は、単年度の業績悪化にとどまらず、円高を前提に設計されたビジネスモデル全体が環境変化に対する適応を迫られていることを示唆する。国内市場の飽和と為替の構造変化という二つの課題に対して、ニトリがいかなる次の一手を打つかが問われる局面となった。
ニトリのSPAモデルは、円高ドル安環境下で東南アジア生産のコスト優位を最大化する設計であった。会社計画の前提であった1ドル=130円が外れ、想定以上の円安が進行したことで、仕入れと商品開発の前提が根底から崩れた。国内822店舗・海外179店舗という売上構成の偏りが為替リスクを増幅させた。36期連続増収増益の途絶は単なる記録の問題ではなく、円高を前提に構築されたビジネスモデルそのものが転換を迫られていることを示した。