大正時代に日本を代表する商社であった鈴木商店は、成長著しい繊維市場に参入するために、1915年に旧上杉藩の繊維工場(生糸生産)を買収した。鈴木商店は生糸などの天然繊維ではなく、まだ研究途上にあったレーヨンという化学繊維に着目して事業化を試みた。

大正時代に日本を代表する商社であった鈴木商店は、成長著しい繊維市場に参入するために、1915年に旧上杉藩の繊維工場(生糸生産)を買収した。鈴木商店は生糸などの天然繊維ではなく、まだ研究途上にあったレーヨンという化学繊維に着目して事業化を試みた。
日本人技術者によってレーヨンの開発に目処がつき、1918年に鈴木商店は繊維事業を「帝国人絹(帝人)」として株式会社化する。
レーヨンの量産ラインを立ち上げるために、広島工場を新設
レーヨンの量産体制を強化するために、山口県に岩国工場を新設
帝人は鈴木商店の子会社として経営されたが、1927年に鈴木商店が倒産。帝人はレーヨンの需要増大により成長が期待されたため、帝人は一部株主の支援を受けて、以後、独立企業として運営される
レーヨンの量産体制を強化するために、広島県の三原に工場を新設
終戦直後の1945年に大屋晋三が帝人の社長に就任した。以後、1980年に逝去するまで、大屋晋三が帝人の経営を担う
アセテートの量産体制を強化するために、愛媛県に松山工場を新設。だが、同時期に東レはナイロンの量産を開始しており、帝人は技術選択で致命的なミスを犯す
1950年代に帝人は合成繊維ナイロンの事業化に遅れ、合成繊維分野では東レに劣っていた。そこで、帝人は劣勢を挽回するために、1957年に英ICIと技術提携を締結し、東レと帝人の2社がポリエステル繊維の技術を導入した。
ポリエステル繊維の市場拡大によって帝人は業績を改善。1961年頃にには売上高純利益率5%前後となりV字回復を成し遂げた。
合成繊維事業をとりまく競争環境が悪化しつつあったため、帝人は繊維以外の事業に多角化する方針を掲げて「未来事業部門」を発足した。以後、帝人はで多角化を推し進め、ナイジェリアでの石油開発、ガラス長繊維、コンピューター、化粧品、教育、医薬品、ガソリンスタンド、ブラジルでの牧場、自動車販売(帝人ボルボ)など、多種多様な事業に参入した。
1970年代に合成繊維業界における過当競争によって、繊維メーカー各社の業績が悪化。経営の多角化によって乱発した事業も大半が行き詰まり、帝人は5000名の人員削減を決断する。
帝人は名古屋工場(笠寺駅前)を廃止。跡地は現在、日本ガイシホールとなっている。
帝人の創業期から事業に関わり、長らく帝人の経営を担ってきた大屋晋三が逝去。1950年代の合成繊維「テトロン」での成功の一方で、1970年代は方向性が定まらない経営の多角化を推進しており、評価の分かれる経営者であった。
大谷社長の後任として徳末知夫が社長に就任し、未来事業(多角事業)の整理を決断した。このうち、医薬品事業に集中投資をする方針を掲げて年間30億円を投資し、帝人は創薬メーカーへの業態転換を図る。
1996年ごろに帝人の利益の1/2を医薬品事業が稼ぎ出すようになり、帝人は医薬品事業への転身に成功する。特に重症感染症治療剤の「ベニロン」が好調であった。