帝国人絹(帝人)を設立
大手商社だった鈴木商店が、化学繊維を事業化するために子会社として「帝国人絹(帝人)」を設立。ところが鈴木商店は第一次世界大戦後の不況で経営破綻したため、帝人は独立企業となった。
大株主の変更(親会社倒産)
帝人は鈴木商店の子会社として経営されたが、1927年に鈴木商店が倒産。帝人はレーヨンの需要増大により成長が期待されたため、帝人は一部株主の支援を受けて、以後、独立企業として運営される
大手商社だった鈴木商店が、化学繊維を事業化するために子会社として「帝国人絹(帝人)」を設立。ところが鈴木商店は第一次世界大戦後の不況で経営破綻したため、帝人は独立企業となった。
帝人は鈴木商店の子会社として経営されたが、1927年に鈴木商店が倒産。帝人はレーヨンの需要増大により成長が期待されたため、帝人は一部株主の支援を受けて、以後、独立企業として運営される
終戦直後の1945年に大屋晋三が帝人の社長に就任した。以後、1980年に逝去するまで社長を歴任
1951年に東レは合成繊維「ナイロン」に新規参入し、レーヨンに変わる繊維として急成長を達成。帝人は旧来のレーヨン・アセテートに注力しており、東レに劣後しつつあった。
帝人は合成繊維での遅れを挽回するため、英ICI社と提携して「ポリエステル繊維」への新規参入を決定した。なお、ICIからの技術導入は東レと共同で行った。
ポリエステル繊維の市場拡大によって帝人は業績を改善。1961年頃にには売上高純利益率5%前後となりV字回復を成し遂げた。
合成繊維事業をとりまく競争環境が悪化しつつあったため、帝人は繊維以外の事業に多角化する方針を掲げて「未来事業部門」を発足した。以後、帝人はで多角化を推し進め、ナイジェリアでの石油開発、ガラス長繊維、コンピューター、化粧品、教育、医薬品、ガソリンスタンド、ブラジルでの牧場、自動車販売(帝人ボルボ)など、多種多様な事業に参入した。
1970年代に合成繊維業界における過当競争によって、繊維メーカー各社の業績が悪化。経営の多角化によって乱発した事業も大半が行き詰まり、帝人は5000名の人員削減を決断する。
では、どこでどう間違えたのだろうか。根本原因は、大屋社長のワンマン体制が年を経るに従って、時代錯誤の度をまし、ついには老害の代表に挙げられるまでになったことに尽きる。大屋型ワンマン経営は、日常業務については極めて分権的で、部下に任せきりだったと言われる。しかしことしんきじぎょうに関しては、自分でこうと思ったらどんどん推し進めなければ気が済まなかった。(略) 未来事業の展開にあたって、同社も当然のことながら、どのような種を取り上げるべきか、また捨てるならどう見切るか、きちんと検討する体制を取っていた。ところが社長が「よし、やれ」といったプロジェクトは素通りだ。これが高じて、社長の鶴の一声をかさに着て仕事を進める人間も出てきた。
合成技術を応用して創薬に参入。多角事業で唯一の成功へ
未来事業をこれからどう展開して行くかについては、方針が固まりつつある。基本的には重点主義を前提に、研究開発中心で行く考えた。5年程度はこの線に沿って展開し、成果を期待したい。また必要があれば、並行して海外の技術も導入して、自社技術との組み合わせも試みるつもりだ。 向こう5年は医療、医薬関係を中心にやっていかなければならない。医薬は研究に着手してから約10年になるが、研究開発費して膨大な資金を投じた。今後も新薬の開発や販売網の整備で、大変な負担がかかる。だから、あれもこれもというわけにはいかない。
大屋社長時代の負の遺産(多角事業)を整理し、全社収益の改善を目指す。1980年に社長就任した徳末知夫氏が主導
東レに劣後していた炭素繊維に参入
オランダの繊維会社からアラミド繊維「トワロン」を取得(税務処理の意見相違をめぐり同社と訴訟発生。2006年に和解成立)。光ファイバーや自動車向けシートベルトの素材として活用を意図
株式統合比率で折り合いがつかず、買収を撤回へ
電子材料・化成品(シンガポールおよび岐阜)を中心とした減損損失と、不採算事業撤退による構造改革費用により、巨額特損を計上
自動車部品メーカーを買収するが、減損計上へ
糖尿病治療薬4剤(ネシーナ錠、リオベル配合錠、イニシンク配合錠、ザファテック錠)について、武田薬品から販売権を買収。武田薬品は糖尿病領域への投資を中止した事で、売却先を探していた。帝人は主力の「フェブリク」の競争激化(後発薬)に備えて、製品拡充を目論んだ。