1926年〜 G型自動織機の量産と、占領政策が残したもの
豊田自動織機の業績推移:単体
- 1926年 豊田自動織機創業——G型自動織機の量産分社からトヨタ自動車の独立へ G型自動織機の量産責任を紡績本業から切り出すため、豊田佐吉氏は1926年に豊田紡織の子会社として織機専業メーカーを起こし、その特許対価をどうトヨタ自動車の元手へつなげたか
- 1929年 プラット社にG型織機の特許実施権の譲渡契約
- 1933年 自動車部を新設(トヨタ自動車の創業)
- 1937年 織機会社の内部で自動車事業を興し、トヨタ自動車工業として分離独立 祖業の織機で得た特許収入を元手に、豊田喜一郎氏はなぜ自動車を織機会社の外へ切り出したのか
- 1940年 製鋼部を分離独立し豊田製鋼を設立
- 1941年 軍需品の製造にシフト
- 1949年 東京証券取引所に株式上場
量産の責任を紡績本業から切り出す
豊田佐吉氏は1890年に木製人力織機の特許を取得し[1]、以後30年余りを織機の発明に費やした。共同出資で設立した会社から繰り返し身を退く挫折を経て、1918年に独立資本で豊田紡織を設立し、自前の試験工場を持った[2]。長男の豊田喜一郎氏を技術部門に迎え、1924年に無停止杼換式のG型自動織機を実用化している[3]。設立の準備は豊田紡織の日置工場における織機の製作から[4]始まった。1926年11月、佐吉氏は豊田紡織の子会社として愛知県碧海郡刈谷町に資本金100万円で株式会社豊田自動織機製作所を設立[5]し[6]、初代社長には女婿の豊田利三郎氏が就いた[7]。
- [1]1890年 豊田佐吉氏が木製人力織機の特許を取得
- [2]1918年 独立資本で豊田紡織を設立
- [3]1924年 無停止杼換式のG型自動織機を実用化
- [4]設立の準備は豊田紡織の日置工場における織機の製作から始まった
- [7]初代社長は佐吉氏の女婿 豊田利三郎氏
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]設立時の資本金 100万円
- 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
- [6]1926年11月 豊田紡織の子会社として愛知県刈谷町に豊田自動織機製作所を設立
1929年、英国の紡織機械大手プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を約10万ポンドで譲渡した[8]。その対価は佐吉氏が次の主題に据えた国産自動車事業の資金として留保され[9]ている。豊田喜一郎氏は1933年9月に社内へ自動車部を設け[10]、車体の組立だけでなく特殊鋼と工作機械の製造まで自社で始めている[11]。1936年に月産2,000台の量産許可を得たものの、工場建設に要する3,000万円は資本金600万円の織機会社の資金力を超えており[12]、1937年8月、資本金1,200万円のトヨタ自動車工業株式会社として自動車部門を分離独立させた[13]。
- [8]1929年 英プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を譲渡
- [9]特許譲渡の対価が国産自動車事業の資金として留保された
- 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
- [10]1933年9月 社内に自動車部を新設
- [13]1937年8月 自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]自動車の国産化にあたり特殊鋼と工作機械の製造も自社で開始
- [12]工場建設に要する3,000万円が資本金600万円の織機会社の資金力を超えていた
- [1]1890年 豊田佐吉氏が木製人力織機の特許を取得
- [2]1918年 独立資本で豊田紡織を設立
- [3]1924年 無停止杼換式のG型自動織機を実用化
- [4]設立の準備は豊田紡織の日置工場における織機の製作から始まった
- [7]初代社長は佐吉氏の女婿 豊田利三郎氏
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]設立時の資本金 100万円
- [11]自動車の国産化にあたり特殊鋼と工作機械の製造も自社で開始
- [12]工場建設に要する3,000万円が資本金600万円の織機会社の資金力を超えていた
- 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
- [6]1926年11月 豊田紡織の子会社として愛知県刈谷町に豊田自動織機製作所を設立
- [10]1933年9月 社内に自動車部を新設
- [13]1937年8月 自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立
- [8]1929年 英プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を譲渡
- [9]特許譲渡の対価が国産自動車事業の資金として留保された
戦時体制と賠償による工場の接収
分社は自動車だけで終わらず、1940年3月には製鋼部門を分離して豊田製鋼(現・愛知製鋼)を設立し[14]、素材部門も本体から出ている。戦時体制のもとで織機の生産は配給統制を受けて順次停止され、刈谷・大府・栄生の各工場は軍需品の製造へ転換した[15]。終戦後は祖業の織機と紡機の生産を速やかに再開したが、GHQは日本経済の非軍事化と民主化をめざし、賠償・財閥解体・軍需補償の打ち切りに関する指令を相次いで発した[16]。
- 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
- [14]1940年3月 製鋼部門を分離し豊田製鋼(現・愛知製鋼)を設立
- [15]戦時下に刈谷・大府・栄生の各工場が軍需品の製造へ転換
- [16]GHQが賠償・財閥解体・軍需補償打ち切りに関する指令を相次いで発した
1946年2月10日、GHQは大府工場と栄生工場を賠償接収工場の対象として保全を命じた[17]。主力の刈谷工場は賠償指定を免れ、折から始まった見返り輸出織機800台の生産に支障は出[18]なかった。米ソ関係の変化を受けて対日賠償の方針は緩み、1947年4月に栄生工場の土地建物の一部が、1948年3月には栄生・大府の両工場が全面的に指定を解除された[19]。それでも紡機約8万錘と織機約670台は賠償物資の一部として政府に買い付けられ、インドネシアやフィリピンへ積み出されている[20]。
- [17]1946年2月10日 GHQが大府工場・栄生工場を賠償接収工場の対象として保全命令
- [18]主力の刈谷工場は賠償指定を免れ、見返り輸出織機800台の生産に支障が出なかった
- [19]1948年3月に栄生・大府の両工場が賠償指定を全面解除
- [20]紡機約8万錘・織機約670台が賠償物資としてインドネシア・フィリピンなどへ積み出された
- 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
- [14]1940年3月 製鋼部門を分離し豊田製鋼(現・愛知製鋼)を設立
- [15]戦時下に刈谷・大府・栄生の各工場が軍需品の製造へ転換
- [16]GHQが賠償・財閥解体・軍需補償打ち切りに関する指令を相次いで発した
- [17]1946年2月10日 GHQが大府工場・栄生工場を賠償接収工場の対象として保全命令
- [18]主力の刈谷工場は賠償指定を免れ、見返り輸出織機800台の生産に支障が出なかった
- [19]1948年3月に栄生・大府の両工場が賠償指定を全面解除
- [20]紡機約8万錘・織機約670台が賠償物資としてインドネシア・フィリピンなどへ積み出された
財閥解体と、売り残したトヨタ株
資本の側の再編はさらに深く及び、1947年9月には豊田産業が豊田系諸事業の持株会社とみなされて指定を受け解体され、その商事部門を継承した日新通商(現・豊田通商)が翌1948年7月に発足した[21]。豊田自動織機製作所自身も1948年2月7日に過度経済力集中排除法の指定を受け、刈谷・大府・栄生の3工場をそれぞれ独立させる再編成を命[22]じられた。3工場は素形材と部品で密接に結びついており、分割すれば能率・品質・原価に悪影響が及ぶと説明して解除を申請し、保有有価証券の処分を条件に同年11月19日、指定は解除された[23]。
- [21]1947年9月 豊田産業が持株会社に指定され解体、商事部門を継承した日新通商(現・豊田通商)が1948年7月に発足
- [22]1948年2月7日 過度経済力集中排除法の指定を受け、刈谷・大府・栄生の3工場を独立させる再編成を命じられた
- [23]保有有価証券の処分を条件に1948年11月19日に集排法の指定が解除された
処分の対象には、豊田自動織機製作所が保有していたトヨタ自動車工業の株式29万9,360株、総株数の21.0%が含まれていた[24]。豊田自動織機製作所は売却を始めたが、米国の対日占領政策が緩む動きは集排法の運用にも及び、1949年2月、トヨタ自動車工業株10万7,960株を売り残したまま株式処分を打ち切った[25]。同年5月には東京証券取引所の再開に合わせて株式を上場[26]している。祖業の紡織機は1950年からの設備拡張と朝鮮特需で沸いたものの、1951年の特需終焉とともに需要は長期の低迷へ転じた[27]。
- [24]豊田自動織機製作所はトヨタ自動車工業株29万9,360株(総株数の21.0%)を保有していた
- [25]1949年2月 トヨタ自動車工業株10万7,960株を売り残したまま株式処分を打ち切った
- 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1949年5月 東京証券取引所へ株式を上場
- [27]1951年の朝鮮特需終焉とともに紡織機の需要が長期低迷へ転じた
- [21]1947年9月 豊田産業が持株会社に指定され解体、商事部門を継承した日新通商(現・豊田通商)が1948年7月に発足
- [22]1948年2月7日 過度経済力集中排除法の指定を受け、刈谷・大府・栄生の3工場を独立させる再編成を命じられた
- [23]保有有価証券の処分を条件に1948年11月19日に集排法の指定が解除された
- [24]豊田自動織機製作所はトヨタ自動車工業株29万9,360株(総株数の21.0%)を保有していた
- [25]1949年2月 トヨタ自動車工業株10万7,960株を売り残したまま株式処分を打ち切った
- 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1949年5月 東京証券取引所へ株式を上場
- [27]1951年の朝鮮特需終焉とともに紡織機の需要が長期低迷へ転じた