1910年創業。東京瓦斯工業を源流とし、1937年に東京自動車工業へ統合、1941年にヂーゼル自動車工業へ改称、1942年に日野製造所が分離独立して日野重工業として発足。戦車製造の軍需工場として出発したが終戦で約7,000名に解雇通告、残留300名で日野産業として民生品トラック生産へ転じた。1949年に東証上場、1961年の「コンテッサ」で乗用車参入したが苦戦、1966年にトヨタと業務提携し乗用車撤退、トラック専業へ。1974年の「D号作戦」で普通トラック国内シェア首位、2001年にトヨタ連結子会社。2017年に本社工場を閉鎖し500億円を投じた茨城県古河工場へ集約。2003年から20年のエンジン認証不正が2022年3月に発覚、3期連続の最終赤字でトヨタは経営支援を中止。2023年5月に三菱ふそうとの経営統合構想が公表されたが2024年2月に無期限延期、独立経営の維持が現在の焦点である。
歴史概略
1938年〜1968年東京瓦斯工業の系譜と戦後商用車メーカーへの大転換
補助金制度の矛盾が生んだ日野製造所の分離独立
1938年、東京自動車工業(後のいすゞ自動車)は陸軍向け戦車の量産を目的に東京都日野市へ20万坪の日野製造所を新設した。当時の東京自動車工業は商工省の自動車製造事業法に基づく補助を受けていたが、日野製造所は陸軍の軍用保護自動車法の適用を受ける方が補助の条件として有利であり、一つの法人が両制度の補助を同時に受け取れないという制度上の矛盾が生じていた。この矛盾を解消するため1941年4月に東京自動車工業がヂーゼル自動車工業へ商号変更し、翌1942年5月に日野製造所を本体から分離して日野重工業株式会社が発足した。発足時点で戦時金融公庫が株式の80%を取得し、実質的には政府系の軍需企業として再出発した。
終戦で主力としていた戦車製造が全面停止し、約7000名の全従業員に解雇通告が出された。翌月には残留を希望したわずか300名の従業員によって日野産業株式会社として再発足し、戦車製造の過程で蓄積したディーゼルエンジンと車体の設計生産技術を民生品のトラック生産へ転用した。1946年3月に日野重工業から日野産業へ商号変更し、1948年12月にはさらに日野ヂーゼル工業へ商号を改めた。1949年5月に日野ヂーゼル工業として東京証券取引所へ株式上場を果たし、1954年5月には大阪・名古屋証券取引所、1958年4月には新潟証券取引所にも上場して、全国各地の証券取引所に株式を公開する商用車メーカーの地位を固めた。
- 日野自動車工業40年史(1982年12月) 1982/12
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乗用車参入の挫折とトヨタ業務提携への転換
1959年4月に日野ヂーゼル販売が日野ルノー販売を合併して日野自動車販売へ商号変更し、同年6月には日野ヂーゼル工業本体も日野自動車工業へ商号変更した。1961年に小型乗用車「コンテッサ」を発表して乗用車市場への本格参入を試みたが、全国の販売網が商用車ユーザー中心に組み立てられていたため乗用車の拡販には構造的な限界があり、コンテッサは販売面で苦戦した。1966年10月、日野自動車工業および日野自動車販売はトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売との間で業務提携契約を締結し、乗用車市場からの撤退と、大型トラック事業への経営資源の集中という新たな方針を打ち出した。トヨタとの業務提携は以後半世紀以上にわたり日野の事業運営を規定する構造的枠組みとなった。
1967年12月、日野は乗用車の自社開発から正式に撤退する方針を決め、コンテッサ1300の後継車種開発を中止した。1968年に新設した羽村工場は当初乗用車の量産拠点として計画していたが、撤退決定を受けてトヨタ向け乗用車のOEM生産拠点へ用途を変更し、以後はトヨタの生産受託を引き受ける中核工場となった。乗用車事業からの撤退とトヨタとの提携は、日野が大型商用車専業メーカーとして生き残る道を選んだ歴史的な転換点となった。1964年7月にはタイヒノ・インダストリーCo.を共同出資で設立しており、商用車専業への転換と並行して東南アジア展開の布石も打っていた。販売網の特性と親会社との分業関係は、その後の日野の事業設計を長く拘束する要因として働いた。
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1969年〜2019年大型トラック専業とグローバル展開の時代
「D号作戦」と国内シェア首位の確保
1974年、日野自動車工業は普通トラックで国内シェア35%の確保を目指す「D号作戦」を本格展開した。それまで国内商用車市場で首位を占めていたいすゞ自動車は乗用車事業の量産拡大に経営資源を振り向けた結果、商用車部門への投資が相対的に手薄となっており、日野はその間隙を突く形で製品投入と販売攻勢を強めた。日野は普通トラックの国内シェアでいすゞを抜き去り、以後数十年にわたるシェア首位の地位を獲得した。1969年3月にはタイヒノ・モーターセールスへ資本参加し、1975年4月には帝国自動車工業が金産自動車工業と合併して日野車体工業へ商号変更する再編も実施した。この戦略転換は商用車市場の競争構図を大きく塗り替え、業界内で長く語られた。
1975年にフィリピン、1982年12月にP.T.ヒノ・インドネシア・マニュファクチャリングを共同出資で設立するなど、東南アジアを中心に海外現地法人の整備を進めた。1980年には群馬県へ新田工場を新設して国内生産拠点を拡充し、1994年には北米現地法人を設立して北米トラック市場へも参入した。1999年3月期にはトラックの国内需要低迷で赤字転落し約300名の希望退職を実施する場面もあったが、2001年8月のトヨタ自動車による第三者割当増資の引受を通じて日野はトヨタの連結子会社となり、経営基盤の安定を取り戻した。2003年3月には米国事業の中核会社を日野モータースマニュファクチャリングU.S.A.へ再編して米国市場への本格参入を完了し、同年10月には上海柴油機股份有限公司との折半出資で上海日野エンジン有限会社を設立している。
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日野市本社工場閉鎖と古河工場への集約
2011年1月、日野自動車は創業以来の拠点であった東京都日野市の本社工場の閉鎖を正式に発表した。30万平方メートルに及ぶ敷地を外部へ売却し、生産機能を茨城県古河市に新設する古河工場へ全面移転する方針を決めた。500億円を投じた古河工場は2011年に着工し、2017年10月に大型・中型車両の組立生産を開始した。古河工場は日野のグローバル生産ネットワークにおける「マザー工場」という位置づけのもと、設計と生産の連携を通じて従来比約20%の生産効率向上を実現し、海外拠点への部品供給基盤としても機能する複合的な役割を担った。日野市という地名の由来となった創業地を離れる決断は、日野の歴史のなかでも象徴的な意味を持つ判断だった。
グローバル展開では2003年以降、北米・タイ・インドネシアの現地生産体制への投資が継続的に拡大した。2008年にはロシアとインドで現地販売会社を設立し、2012年には三菱自動車との業務提携先だったマレーシアでMBM Resourcesと共同出資で現地生産会社を設立、2015年にはアラブ首長国連邦の中東日野自動車を設立するなど、アジアを軸に欧米・中東へ販売網を広げた。2019年にはタイでトラックの新工場を起工するなど、東南アジア市場での生産能力を増強し、トヨタグループ内で商用車事業を担う中核企業の地位を築いた。2007年8月にはコロンビアに日野モータースマニュファクチャリングコロンビアを設立し、2022年4月の東証市場再編ではプライム市場へ移行している。
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2020年〜2026年エンジン認証不正の発覚と経営統合協議の迷走
20年にわたるエンジン認証データ改ざんの発覚
2003年から2022年までの約20年にわたり、日野自動車はエンジン認証申請で排出ガスおよび燃費データの改ざんを続けていた事実が、外部調査と社内調査の進展に伴って順次明らかになった。2020年に北米市場向けエンジンの不正が確認され、2022年3月には国内向けエンジンでも同種の不正が正式に発覚した。対象となった車種は大型トラックから中型・小型まで極めて幅広く、品質管理と認証申請の体制そのものへの市場の信頼が根本から揺らいだ。日野はグローバルで対象車種の出荷停止とリコールを実施し、FY2020からFY2022にかけて認証損失を含む多額の特別損失を計上して、3期連続の最終赤字に転落する深刻な経営危機に直面した。
親会社のトヨタ自動車は認証不正の発覚を受けて日野自動車への経営支援を中止する方針を示し、日野は独自に経営再建の道筋を探らざるを得なくなった。2023年5月には三菱ふそうトラック・バス(親会社はドイツのダイムラー・トラック)との経営統合が正式に発表されたが、日野側の損失計上額が確定しないなかでダイムラーが慎重な態度に転じ、2024年2月に統合協議は無期限延期となった。同年には米国アンカーソ工場の閉鎖も発表し、北米事業の縮小が進んだ。20年にわたる不正の構造は、トヨタの傘下で安定を得てきた日野の経営ガバナンスそのものを問い直す結果をもたらし、国内大型トラックメーカーとしての独立経営をどう維持するかが日野の経営課題として残り続けている。
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古河工場集約後の事業再編と海外展開の再構築
2024年以降、日野は古河工場への集約で築いた国内生産基盤をいかに活かすかという経営課題に直面している。国内販売会社については2011年2月以降、千葉・東京・横浜・京都・大阪・神戸・九州の各日野自動車で販売事業会社と資産管理会社への分社化を順次進め、日野セールスサポート株式会社を中核に資産管理機能を集約する体制を整えてきた。2021年7月には東京日野自動車が千葉日野自動車と横浜日野自動車を吸収合併して南関東日野自動車へ商号変更するなど、販売網の広域化も並行して進んでいる。エンジン認証不正で損なわれた信頼をいかに回復するかが、国内販売網の再編作業とあわせて経営陣に問われ続けている最大の課題だ。
海外事業では、2020年9月に設立したタイ日野モータースアジア株式会社が自動車の企画・開発機能を担う体制へ整備した。日野モータースマニュファクチャリングタイランド、日野モータースセールスタイランドと並ぶこの企画開発子会社は、東南アジア市場に最適化した車両開発の拠点という位置づけを担う。トヨタから受託する小型トラックのOEM供給に加え、自社ブランドでの大型・中型トラックの生産販売という二つの事業軸をどう両立させるかが、古河工場集約と海外拠点再編を経た日野の中長期的な経営課題として浮かび上がっている。20年に及んだ不正の傷を抱えながら、商用車専業メーカーとしての事業構造をどう立て直すかが経営陣の最大の焦点だ。
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直近の動向と展望
三菱ふそうとの経営統合再協議と独立経営の岐路
2024年2月に無期限延期となった三菱ふそうトラック・バスとの経営統合は、2025年以降、損失額の確定を前提として再協議される可能性が市場で引き続き意識されている。日野単独では大型商用車市場での規模確保が難しく、ダイムラー・トラック傘下の三菱ふそうとの統合によって東南アジア市場と国内市場を横断する商用車グループを形成するシナリオが主要な選択肢として議論されてきた。小木曽聡社長は「問題解決を優先する」(日刊工業新聞)と繰り返し述べ、統合協議よりも先に認証不正の後処理を徹底する方針を打ち出した。一方で日野の親会社であるトヨタ自動車は認証不正発覚後に経営支援を中止したが、株式の約50.2%を保有する大株主としての立場は変わらず、経営再建の方向性はトヨタとダイムラーという二つの大株主候補の調整に大きく左右される。
認証損失を含む3期連続の最終赤字から脱却する道筋を描くには、古河工場集約で得られた生産効率の向上と、東南アジアを中心とした海外市場での販売拡大という二つの事業軸を同時に機能させる必要がある。1974年のD号作戦で獲得した国内シェア首位の地位を維持しつつ、グローバル商用車市場での存在感をどう組み直すかが焦点となる。日野市の本社工場閉鎖と古河工場への全面移転という大規模な生産再編は、エンジン認証不正という80年余の歴史における最大級の危機と並行して進められてきたものであり、創業以来の拠点から離れた場所で新たな事業基盤を組み直す作業が、経営陣に重い課題として残された。
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- 日本経済新聞 2025/1/13
生産基盤再編とグローバル商用車市場での立ち位置
古河工場は2017年10月の生産開始以来、大型・中型トラックの組立を中核として日野のグローバル生産ネットワークにおけるマザー工場の役割を担ってきた。トヨタから受託する小型トラックの羽村工場での生産と、自社ブランド商品の古河工場での生産という二層構造の生産体制は、日野のトヨタ連結子会社としての性格を映す配置でもある。2024年以降、この二層構造を維持しながら認証不正後の信頼回復と海外市場での販売拡大をどう両立させるかが経営の焦点だ。トヨタ自動車が親会社という構造は日野の独立経営を制約する一方、グローバル生産基盤の共有を通じた効率化と調達コスト低減の源泉としても働いている。
グローバル市場では、東南アジア地域における日野の販売シェアは依然として高く、タイ・インドネシア・マレーシア・フィリピンを中心とした現地生産・販売ネットワークが収益の柱として働いている。2015年6月に設立されたアラブ首長国連邦の中東日野自動車を含む中東地域の販売拠点、2007年8月設立のコロンビアの現地生産拠点、2008年以降のロシア・インド・メキシコの販売生産拠点など、新興国市場の面的な展開は認証不正発覚後も維持されてきた。小木曽社長は自動運転について「自動運転技術が5年以内に変わらなければ日本企業は置いていかれる」(日本経済新聞 2025/01/13)と危機感を示した。商用車市場の電動化や自動運転といった技術変化のなかで、トヨタグループの商用車部門という位置づけを活かしつつ独自ブランドの競争力を保てるかが経営陣の最大の課題だ。
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