藤田組は主力の小坂鉱山の枯渇を見据えて、国内における有力鉱山の取得を本格化。1915年に花岡鉱山(秋田県)、1916年に柵原鉱山をそれぞれ取得し、鉱山ポートフォリオを拡充した。
1915年に藤田組は、小林清一郎氏が保有する花岡鉱山(秋田県)の買収を決定。128万円で鉱山および鉄道(花岡〜大館)などを取得した。ところが、買収直後から採掘していた鉱床の品位が低下したため、新たな鉱床の探索に注力。1916年に「堂屋敷大鉱床」を発見し、藤田組において花岡鉱山は、小坂鉱山に次ぐ大規模鉱山となった。
1916年に藤田組は岡山県の柵原鉱山の取得を開始。吉井川流域の南和気村を中心に、個人や小規模な会社が保有する11の鉱山を次々と買収し、これらを「柵原鉱山」として運営した。柵原鉱山では、硫化鉱が豊富に存在したことから、肥料などの原料として出荷された。
1971年のニクソンショックによる国内鉱山の競争力低下や、石油から硫黄の回収が進んだことで硫化鉱の採算が悪化。同和鉱業における全ての国内鉱山において採算が悪化した。
このため、1970年代以降、同和工業では国内鉱山の大規模な縮小を本格化し、1万名規模だった従業員数を、1990年代までに3000名規模までに削減(すなわち合計7000名の削減)した。この間、同和鉱業における経営課題は余剰人員の削減であり、不動産などの固定資産の売却によって収益を確保した。
私は入社以来、一貫して労務畑を歩んできました。過去4回実施した合理化に全て関わっています。最盛期1万人いた従業員が3000人に減っていく過程をつぶさに見てきました。
1973年の合理化の時が最も辛かった思い出です。花岡鉱業所の総務部長から本社に戻った途端、花岡の人員整理を説得に行く役目を背負わされました。つい昨日まで和気あいあいと一緒に仕事をしていた仲間に解雇を伝えるのです。言葉に表せない思いがありました。「亭主の首を切るのか」と奥さんたちに涙を流して訴えられました。(略)
労働組合とは時に激しく渡り合いました。しかし、今になってみれば、友人には組合の人が大勢います。私は会社に2回辞表を出していますが、2回とも組合に救われました。立場は違っても腹を割って精一杯理解しようと心がけてきたからかもしれません。
1990年代を通じて同和鉱業は業績が低迷。バブル期に主力の製錬事業に次ぐ新事業の開発を推進したものの、採算性に基づく事業撤退の判断を先送りにしたため、結果として全社の連結業績は増収減益の基調となった。加えて、利益に関しては有価証券や土地の売却によって捻出しており、事業から創出される利益は限定的となっていた。
同和鉱業では構造改革の推進を決定し、社内で10名のチームを編成した。これは、人員削減を伴う改革であり、社内の反対が予想されることから、少数チームによる計画策定に踏み切った。推進チームでは、吉川廣和(当時専務)氏が中心となり、構造改革のプランを策定した。
1999年11月に同和鉱業(金谷浩一郎・社長)は、業績悪化を受けて構造改革の遂行を発表。人員削減のために希望退職者の募集を決定し、2000年2月までに322名が退職を決めて応募した。
誠に恥ずかしながら、歴史と伝統にあぐらをかいた典型的な成熟企業と言いますか、大企業病を患った老舗会社だったと思います。例えば古い会社ですから、取得原価の小さいただ同然の土地や株式などの資産をたくさん持っていて、それらを売り食いする。一方、業態は典型的なプロダクトアウト産業で、非鉄金属の素材から作りさえすればいい。だから、売る努力は必要なから作りさえすればいい。だから作ることが大事であるという文化です。
私は官僚主義、またはネオ官僚と言っていますが、手続きを大事にする、本社が一番偉くて威張りくさっている。また、内向き文化で、外よりも内で仲良く肩組んで、毎晩酒を飲んで社長の悪口を言っていても会社が成り立つ、というような典型的な会社だったと思います。そういうことでは先が見えるので、事業構造改革をやろうということになったわけです。