創業地東京都千代田区
創業年1890
上場年1953
創業者岩崎弥之助

財閥・グループ資本系新市場の前夜・市場創造1890年3月、明治政府が財政難から手放した陸軍用地・丸ノ内は、東京市予算3年分の高値と交通の悪さで入札に応じる者がなく、三菱財閥の岩崎弥之助氏が松方正義蔵相の打診を受けて128万円で買い取った。商業地として無価値とみなされた草原で、社内の批判に岩崎氏は「竹を植えて虎でも飼うさ」と応じた。1894年の三菱1号館を皮切りに赤レンガのオフィス街「一丁倫敦」を築き、1923年に丸ノ内ビルヂングを竣工させた。

既存路線の固持・不転換再建・構造改革1937年に三菱合資会社から切り出された三菱地所は、財閥解体で1950年に3社へ分割されたものの、丸ノ内を一体で管理できぬ不便から1953年に再合併した。1952年就任の渡辺武次郎は1959年の丸の内総合改造計画で明治期の赤レンガ街を31m統一のビル群へ建て替え、三菱グループ各社へ優先的に賃貸して結束の核とした。だが皇居の美観を理由に高さ制限を守り抜き、1968年に三井不動産が霞ヶ関ビルを建てて以降、超高層の開発で他社に後れた。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1890年に、商業地として無価値とされた荒地の丸ノ内を128万円で買い取ったのか
A 採算で見れば買う理由のない土地だった。それでも三菱財閥の岩崎弥之助氏が引き受けたのは、明治政府との長期的な関係を保つことを優先したからである。1889年に陸軍用地の丸ノ内が売りに出されたが、東京市予算3年分という価格と交通の悪さで入札に応じる者は現れなかった。蔵相・松方正義の打診を受けた岩崎氏は1890年3月に128万円で買収を決め、社内の批判に「竹を植えて虎でも飼うさ」と応じたと伝わる。草原は1894年の三菱1号館を皮切りに「一丁倫敦」と呼ばれるオフィス街となり、丸ノ内という資産が三菱地所の収益基盤になった
Q なぜ財閥解体で分割された丸ノ内を、わずか3年後の1953年に再統合したのか
A 丸ノ内を3社に分けて持つと、街全体を一体で開発・運営できず事業上の制約になったからである。1937年に三菱合資会社から切り出された三菱地所は、GHQの財閥解体方針で1950年に陽和不動産・開東不動産との3社へ分割され、丸ノ内の土地と建物は3社に分散した。陽和不動産が外部からの株式買い占めの脅威にさらされたことを契機に再統合の機運が高まり、1953年に3社が合併して三菱地所が再発足した。分割からわずか3年での再統合は、巨大資産の丸ノ内を一体で管理することが不動産事業の本質であると実務が裏づけた。
Q なぜ2025年に三菱地所は政策保有株式の半減を掲げ、資本規律を経営の前面に据えたのか
A 丸ノ内の賃料で安定して稼ぐ一方、ROEが資本コストを十分に上回らず、資本市場から低い資本効率を問われていたからである。2020年の長期経営計画2030が据えるROE10%へ足元8%程度から引き上げるべく、低採算の持ち合い株を売って成長投資と株主還元へ資金を回す。2025年に政策保有株式を2027年度までに半減する方針を掲げ、上限1,000億円・最大6,000万株の自己株取得を発表した。2024年5月に始めた毎年3円増配の累進配当と合わせ、安定賃料に依存してきた経営に資本効率の規律を持ち込んだ

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1890年〜1951年 荒地の買収から丸ノ内オフィス街の形成と戦後再統合まで

「竹を植えて虎でも飼う」と応じた荒地買収

1889年に明治政府は財政難から陸軍用地の丸ノ内を売却に付したが、東京市予算3年分にあたる150万円という価格設定と、当時の交通アクセスの悪さから、入札では落札者がひとりも現れなかった。蔵相の松方正義から購入を打診された三菱財閥の岩崎弥之助氏は、政府との長期的な関係維持を優先して1890年3月に128万円で買収を決断した[1][2]。当時の丸ノ内は草原の広がる荒地で、商業用地としてはほぼ無価値とみなされていた。社内では何の目的で不用の地を買うのかとの批判が噴出したが、これに対し岩崎氏は「竹を植えて虎でも飼うさ」と答えたと伝わる。買収から1年後の地元紙も「丸の内に街を作ろうとしても、到底繁盛する見込みはないと思われる」(出所 読売新聞 1891/10/02)と冷ややかな観測を伝えている。

岩崎弥之助氏は早くから「私はわが国においてもまた速やかに西洋式オフィス・ストリートを建設することが必要であり、かつ急務である」との構想を語り、1894年にロンドンを模した三菱1号館を竣工させた[3]。しかし東京駅未開業の悪条件でテナント誘致は難航し、1896年から9年間は新築がほぼ止まった[8]。開発が再開したのは1904年で、1918年までに第26号館に至る19棟の赤レンガ・RC建築が並び、丸ノ内に「一丁倫敦」と呼ばれるオフィス街が成立した[6][7]。1914年の東京駅開業で立地条件は一変し、1923年に東京駅前へアメリカ型の丸ノ内ビルヂングを竣工させた[4][5]。買収から33年で草原は日本を代表するビジネス街に変貌した。

三菱合資会社:丸ノ内におけるレンガ建築の新設
竣工年新設ビル後の名称階数技術住所
1894年06月第1号館東9号館地上3階煉瓦造八重洲町1-1
1895年07月第2号館明治生命会館地上2階煉瓦造八重洲町1-1
1896年04月第3号館東3号館地上3階煉瓦造有楽町1-1
1904年07月第6号館仲10号館地上2階煉瓦造八重洲町1-1
1904年07月第7号館仲9号館地上2階煉瓦造八重洲町1-1
1904年09月第4号館仲10号館1号地上3階煉瓦造八重洲町1-1
1904年09月第5号館仲9号館1号地上3階煉瓦造八重洲町1-1
1907年09月第8号館仲12号館1〜4号地上2階煉瓦造八重洲町1-1
1907年09月第9号館仲11号館1〜4号地上2階煉瓦造八重洲町1-1
1907年12月第10号館仲12号館5号地上2階煉瓦造八重洲町1-1
1907年12月第11号館仲11号館5〜6号地上2階煉瓦造八重洲町1-1
1910年08月第12号館仲8号館1号地上3階煉瓦造八重洲町1-1
1911年02月第13号館仲7号館地上3階煉瓦造+RC造有楽町1-1
1912年03月第15号館仲5号館1〜5号地上3階煉瓦造+RC造有楽町1-1
1912年03月第17号館仲5号館6〜7号地上3階RC造有楽町1-1
1912年04月第14号館仲6号館1〜5号地上3階RC造有楽町1-1
1912年04月第16号館仲6号館6〜7号地上3階RC造有楽町1-1
1912年08月第20号館仲4号館6〜7号地上3階RC造有楽町1-1
1912年08月第19号館仲3号館1〜5号地上3階RC造有楽町1-1
1912年09月第18号館仲4号館1〜5号地上3階RC造有楽町1-1
1914年06月第19号館三菱21号館地上4階SCR造有楽町1-1
1915年05月第23号館仲12号館7号地上4階SCR造八重洲町1-1
1917年01月第24号館仲13号館地上3階RC造八重洲町1-1
1917年01月第25号館仲14号館1〜6号地上3階RC造八重洲町1-1
1917年01月第26号館仲14号館7〜13号地上3階RC造八重洲町1-1
1917年12月仲10号館8号地上3階RC造八重洲町1-1
1918年04月第22号館三菱本社旧館地上4階RC造八重洲町1-1
出所:『丸の内百年のあゆみ』三菱地所

外圧で再集約された分割3社の必然

1937年5月、三菱財閥は丸ノ内のオフィス賃貸部門を三菱合資会社から切り出し、資本金1500万円で三菱地所株式会社を設立した[9][10][11]。それまで「雑務」として独立した専門部署を持たずに財閥本体で運営していた不動産事業が、事業規模の拡大と取引の専門化に伴い、独立した会社組織での運営を要した結果である。三菱地所は丸ノ内の土地と建物を一括して管理する形で発足し、半年後に三菱合資会社建築課を吸収した[12]。財閥全体から見た不動産事業の位置づけが「雑務」から独立した主力事業へと格上げされた転換の節目で、戦前日本における都市不動産経営の専門化の到達点でもある。

1945年の終戦後、GHQの財閥解体方針に基づき、1950年に三菱地所は陽和不動産・関東不動産との3社へ分割された[13][14]。丸ノ内の資産は3社に分かれて管理されたが、陽和不動産が外部からの株式買い占めの脅威にさらされたことをきっかけに再統合の機運が高まり、1953年に3社が合併して三菱地所が再発足した[15][16]。戦後のオフィス賃貸市場の拡大と丸ノ内への企業集中が進むなかで、分断された資産管理は事業運営の制約だった。分割からわずか3年での再統合は、丸ノ内という巨大資産を一体で管理することが不動産事業の本質であると、実務を通じて裏付けた異例の展開だった。

1950-1953年:財閥解体による三社分割と再統合 GHQの財閥解体で三社へ分割された三菱地所が、わずか3年で再合流した戦後の系譜
1890 1937 1950 1953 2026 三菱合資 不動産部門 1890年不動産部門 三菱地所 1937年設立 陽和不動産 1950年財閥解体で分割 三菱地所(継承) 1950年財閥解体で分割 関東不動産 1950年財閥解体で分割 三菱地所 1953年再合併
1950-1953年:財閥解体による三社分割と再統合 GHQの財閥解体で三社へ分割された三菱地所が、わずか3年で再合流した戦後の系譜
1890 1937 1950 1953 2026 三菱合資 不動産部門 1890年不動産部門 三菱地所 1937年設立 陽和不動産 1950年財閥解体で分割 三菱地所(継承) 1950年財閥解体で分割 関東不動産 1950年財閥解体で分割 三菱地所 1953年再合併

1952年〜2001年 丸ノ内総合改造計画と超高層時代への葛藤

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

赤レンガを「ハーレム」と拒んだテナントへの返答

1952年に社長へ就いた渡辺武次郎氏は丸ノ内開発の叩き上げで、のちに社内外で「中興の祖」と呼ばれた[17][18]。1950年代の丸ノ内では、赤レンガ街について欧米テナントが「赤煉瓦街一帯はニューヨークのハーレムを連想させ、一流銀行にはふさわしくない」(出所 毎日新聞 1966/11/12)と拒絶する声が出ていた。戦後復興が一段落して都市のモダン化が進むなか、渡辺社長は1959年に「丸の内総合改造計画」を策定した[19]。明治期の一丁倫敦を全面的に取り壊し、31メートルの高さに統一した近代オフィスビル群へ建て替える計画で、当時の景観保全意識から見れば大胆な決断だった[20]。読売新聞1960年7月2日付には「消える東京の“ロンドン街”」「ロンドン調からアメリカ調に衣替えするわけだ」と書かれている。

渡辺武次郎氏の略歴
経歴備考
1894年生まれ
1918年東京高等商業学校・卒業柔道部出身
1918年三菱合資会社・入社賃貸関連の部署に配属
1937年三菱地所・入社三菱地所の発足につき転籍
1952年三菱地所・代表取締役社長1959年より丸の内総合改造計画を遂行
1969年三菱地所・代表取締役会長高層ビルの反対論者として物議
1974年三菱地所・取締役相談役
1988年三菱地所・相談役逝去するまで相談役を歴任
1997年逝去による(103歳)

新築のビル群は三菱銀行・三菱商事・三菱重工業など三菱グループ各社へ優先的に賃貸され、戦後の財閥解体で弱体化していたグループの結束力を、丸ノ内という共通の場を核に回復させる機能を担った。渡辺社長は超高層ビルの建設には消極的で、皇居を見下ろす形になるとの美観上の理由から31メートルの高さ制限を堅持し、「丸ノ内はただの街とは違う。前は皇居前広場だ。各国の元首も来る。国民自慢の場所だ。それを潰したくない」(出所 国際建築 1966/12)と述べた[21]。1968年に三井不動産が日本初の超高層ビル霞ヶ関ビルディングを竣工させると、三菱地所は高層ビル開発で他社に後れをとった。雑誌「産業と経済」1969年8月号は計画統一の景観を「20年近く同社の社長を勤めてきた渡辺武次郎氏の執念の結晶」と記している。

丸の内総合改造計画の進行
竣工年新設ビル階数取り壊し対象
1960年04月仲27号館地上9階旧仲27号館
1962年03月富士製鉄ビルヂング地上9階仲5号館・仲7号館
1962年07月千代田ビルヂング地上9階仲11号館
1963年01月三菱電機ビルヂング地上9階仲13号館・仲15号館
1963年06月新東京ビルヂング(1期)地上9階東7号館・仲6号館・仲8号館
1964年08月三菱重工ビルヂング地上9階仲14号館
1965年04月新東京ビルヂング(2期)地上9階三菱21号館
1965年04月古河ビルヂング(1期)地上9階仲12号館
1966年05月古河ビルヂング(2期)地上9階仲10号館
1966年09月国際ビルヂング地上9階仲3号館・帝国劇場・日本倶楽部
1967年01月新有楽町ビルヂング(1期)地上9階丸ノ内日活
1967年03月新国際ビルヂング地上9階仲2号館別館・生命保険会館・日本交通協会会館
1969年06月新有楽町ビルヂング(2期)地上9階毎日新聞社・第一生命別館
出所:『丸の内百年のあゆみ 』三菱地所

「実益のないのに高さを競争するのは困る」美観論の限界

1971年、三菱地所の新丸ビルに隣接する東京海上が自社ビルの超高層建て替えを計画すると、渡辺武次郎氏は計画の中止を申し入れた[22]。グループ会社の建て替え計画について渡辺氏は「同じ三菱傘下の会社だ。地所はじめその新築の相談を受けていたが、今はどこでやっているのか知らない。とにかく実益のないのに高さを競争するのは困る。広告塔ではいかん」(出所 国際建築 1966/12)と述べていたが、東京海上は自社保有地の建て替えだとして要求を退け、25階に削減した修正申請を経て1974年に東京海上ビルディングを竣工させた。読売新聞1970年9月13日付には「この申請変更で美観論争にもピリオドが打たれる見通しとなった」と書かれた。

1990年2月にニューヨークのロックフェラーセンタービル群を保有するロックフェラーグループ社へ80%出資して海外進出に踏み切った[23][24]。1990年代の米国不動産市況の低迷で賃貸料収入が悪化し、1995年5月には子会社のロックフェラーセンター・プロパティーズが連邦破産法の適用を申請、同年9月に三菱地所はビル投資事業からの撤退を決め、約1000億円の固定資産除却損を計上した[25][26]。バブル期ピークに取得した海外資産が数年で1000億円規模の損失に転じ、国際不動産投資の難しさが浮き彫りになった。初代丸ビルは築70年で老朽化が進んだが、350にのぼる個人テナントとの立ち退き交渉が難航して建て替えは長く頓挫した。1995年1月の阪神大震災が耐震面の論拠を加え、同年11月に建て替えを正式発表した[27]

2002年〜2023年 丸の内の超高層複合都市化と海外進出・事業多角化の加速

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

「丸の内のたそがれ」を覆した複合都市への転換

1988年1月に三菱地所が「丸の内マンハッタン化計画」と通称された総投資額約6兆円・40〜50階建てビル約60棟の構想を発表した際は、「他人のビルまで勝手に変える気か」との地元反発で挫折した[28][29]。1997年に日経新聞は「丸の内のたそがれ、漂流するオフィスビル超一等地」(出所 日経 1997/08/03)と書き、汐留や臨海副都心といった新興オフィス街にテナントを奪われる懸念を伝えた。2002年9月に竣工した2代目丸ビルは、初代の純粋なオフィスビルとは異なり、商業施設を併設した超高層の複合ビルとして設計された。仲通りへの商業施設誘致と組み合わせ、丸ノ内を平日のオフィス街だけでなく休日も人が集う複合都市へ再定義する方針を経営陣が発表した。

開業から1カ月で来館者は280万人に達し、「JR東京駅周辺の日本を代表するオフィス街は、今や"消費者の街"だ」(出所 日経MJ 2002/10/08)と紹介された[30]。渡辺武次郎社長時代から維持していた31メートル中層ビル群の統一景観からの転換であり、超高層化に踏み切る出発点となった。2007年に2代目新丸ビルが竣工し、商業ゾーンの店舗数は丸ビルの140店を上回る153店を備えた[31]。大手町フィナンシャルシティ(2012年)、常盤橋タワー(2021年)と再開発プロジェクトが続き、丸ノ内・大手町・常盤橋という東京駅周辺の広域再開発へと範囲を広げた[32]。2020年策定の長期経営計画2030は、丸の内事業の収益基盤強化と海外事業の拡大を両軸とし、2030年度の事業利益3500〜4000億円とROE10%を到達目標に据えた[33]

藤和不動産取り込みで築いた住宅分譲という第二の柱

2005年にマンション分譲の藤和不動産へ資本参加した三菱地所は、2008年のリーマンショックで同社の業績が悪化したことを受け、増資引受による連結子会社化(2008年)、完全子会社化(2009年)と支配権を取得した[34][35]。2011年1月に三菱地所レジデンスを新設し、藤和不動産と三菱地所の住宅事業を集約して分譲マンションブランド「ザ・パークハウス」の展開を始めた[36][37]。商業不動産が主力だった三菱地所が住宅分譲という新しい領域へ踏み込んだ転換点で、リーマンショック後の市況混乱を機会として捉え直す経営方針を示した。資本参加からブランド統一までを短期間で完了した動きは、戦略的な意図の強さを示している。

解説
  • 藤和不動産単体の営業収益はFY2008に1114億円まで落ち込み、統合後の三菱地所レジデンスはFY2013に3074億円、FY2023に2731億円の規模へ拡大した。
  • リーマンショックで傷んだ藤和を飲み込み、パークハウスブランドで住宅分譲を三菱地所の第二の柱に育てた収益規模の変化を示す。

2010年代を通じてザ・パークハウスは都心部を中心にシェアを伸ばし、三菱地所グループにおいてオフィス賃貸事業に次ぐ第二の収益基盤として存在感を高めた。丸ノ内のオフィス事業を中核としつつ住宅分譲を第二の柱に据える事業構造ができ、2020年代以降の米国データセンター事業の展開や政策保有株式の削減を含む資本効率意識の高まりへと連なる助走期となった。賃貸住宅や有料老人ホームの物件売却益も、住宅事業の強みとして言及された。英国大使館跡地のような都心の分譲案件を獲得するなかで、三菱地所は丸ノ内専業を超えた総合不動産企業としての新しい自己像を提示し始めた。2017年就任の吉田淳一社長は、社会環境がどのように変化しても営業利益2,000億円を安定的に稼げる会社をつくる目標を掲げ、ポートフォリオ多角化の必要を語った[38]