1890年〜 荒地の買収から丸ノ内オフィス街の形成と戦後再統合まで
- 1890年 丸ノ内建築所を設立
- 1890年 三菱地所創業——入札ゼロの丸ノ内買収から日本最大の不動産会社へ 入札ゼロに終わった陸軍練兵場跡地・丸ノ内約35万坪を、松方正義 蔵相の打診で128万円で買い取った岩崎弥之助氏は、値の付かない原野をどう日本最大の不動産会社へ育てたか
- 1894年 三菱1号館を竣工(ジョサイア・コンドル設計)
- 1904年 丸ノ内の開発を再開(1896年以来9年ぶり)
- 1914年 東京駅開業で丸ノ内の立地条件が一変
- 1918年 「一丁倫敦」が完成(赤レンガ街19棟)
- 1950年 財閥解体により陽和・開東の2社を分離
「竹を植えて虎でも飼う」と応じた荒地買収
1889年に明治政府は財政難から陸軍用地の丸ノ内を売却に付したが、東京市予算3年分にあたる150万円という価格設定と、当時の交通アクセスの悪さから、入札では落札者がひとりも現れなかった。蔵相の松方正義から購入を打診された三菱財閥の岩崎弥之助氏[1]は、政府との長期的な関係維持を優先して1890年3月に128万円で買収を決断した[2]。当時の丸ノ内は草原の広がる荒地で、商業用地としてはほぼ無価値とみなされていた。社内では何の目的で不用の地を買うのかとの批判が噴出したが、これに対し岩崎氏は『竹を植えて虎でも飼うさ』と答えたと伝わる。買収から1年後の地元紙も『丸の内に街を作ろうとしても、到底繁盛する見込みはないと思われる』(出所 読売新聞 1891/10/02)と冷ややかな観測を伝えている[3]。
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
- [1]買収を決断したのは三菱財閥の岩崎弥之助氏、打診したのは蔵相の松方正義
- [2]1890年3月 三菱財閥が丸ノ内の陸軍用地を一括買収(岩崎弥之助が決断)
- 読売新聞(1891年10月2日)
- [3]買収の翌年、丸の内に街を作っても繁盛する見込みはないという観測が地元紙に載った
岩崎弥之助氏は早くから『私はわが国においてもまた速やかに西洋式オフィス・ストリートを建設することが必要であり、かつ急務である』との構想を語り、1894年にロンドンを模した三菱1号館を竣工させた[4]。しかし東京駅未開業の悪条件でテナント誘致は難航し、1896年から9年間は新築がほぼ止まった[5]。開発が再開したのは1904年で、1918年までに第26号館に至[6]る19棟の赤レンガ・RC建築が並び、丸ノ内に『一丁倫敦』と呼ばれるオフィス街が成立した[7]。1914年の東京駅開業で立地条件は一変し[8]、1923年に東京駅前へアメリカ型の丸ノ内ビルヂングを竣工[9]させた。買収から33年で草原は日本を代表するビジネス街に変貌した。
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
- [4]1894年に三菱1号館を竣工(ロンドンを模した赤レンガ造)
- [5]1896年から9年間は新築がほぼ止まり、開発再開は1904年
- [6]1918年までに第26号館に至るビル群が並び「一丁倫敦」が成立
- [7]オフィス街は「一丁倫敦」と呼ばれた
- [8]1914年の東京駅開業で立地条件が一変
- [9]1923年に東京駅前へアメリカ型の丸ノ内ビルヂング(初代丸ビル)を竣工
丸ノ内ビルヂングの工事は突貫で進められた。1921年12月の紙面は、一気呵成の工事方針が多数の負傷者を生み、発狂者まで出て、その夏以降に亡くなった職工が300名に達したと書いた[10](出所 報知新聞 1921/12/01)。1923年2月に竣工した建物は東洋第一の大貸事務所と呼ばれ、外観の宏麗さから帝都の誇りを一つ加えたと書かれた[11](出所 時事新報 1923/02/05)。設計では地震への備えが特筆され、胸壁などに亀裂を生じさせる建物の振動を減らす目的で多額を投じた補強工事が施された[12]。それでも竣工から半年後の関東大震災では損傷を受け、修繕はその後も続いた。
- 報知新聞(1921年12月1日)
- [10]一気呵成の工事方針で多数の負傷者が出て、1921年夏以降に死亡した職工は300名
- 時事新報 1923年2月5日号
- [11]竣工した丸ノ内ビルヂングは東洋第一の大貸事務所で、帝都の誇りを一つ加えたと書かれた
- [12]地震を考慮し、胸壁などに亀裂を生じさせる建物の振動を減らす目的で補強工事を施した
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
- [1]買収を決断したのは三菱財閥の岩崎弥之助氏、打診したのは蔵相の松方正義
- [2]1890年3月 三菱財閥が丸ノ内の陸軍用地を一括買収(岩崎弥之助が決断)
- [4]1894年に三菱1号館を竣工(ロンドンを模した赤レンガ造)
- [5]1896年から9年間は新築がほぼ止まり、開発再開は1904年
- [6]1918年までに第26号館に至るビル群が並び「一丁倫敦」が成立
- [7]オフィス街は「一丁倫敦」と呼ばれた
- [8]1914年の東京駅開業で立地条件が一変
- [9]1923年に東京駅前へアメリカ型の丸ノ内ビルヂング(初代丸ビル)を竣工
- 読売新聞(1891年10月2日)
- [3]買収の翌年、丸の内に街を作っても繁盛する見込みはないという観測が地元紙に載った
- 報知新聞(1921年12月1日)
- [10]一気呵成の工事方針で多数の負傷者が出て、1921年夏以降に死亡した職工は300名
- 時事新報 1923年2月5日号
- [11]竣工した丸ノ内ビルヂングは東洋第一の大貸事務所で、帝都の誇りを一つ加えたと書かれた
- [12]地震を考慮し、胸壁などに亀裂を生じさせる建物の振動を減らす目的で補強工事を施した
東洋一の貸事務所が抱えた採算と地価
開業から2年を経ても丸ノ内ビルヂングの採算は立たなかった。1925年6月の紙面は、この建物を士族の商売を通り越した大名商売と呼び、三菱という大世帯が控えているためにけちな事もできず相当の資金を注ぎ込んだ結果だと書いた[13](出所 東京朝日新聞 1925/06/23)。震災の修繕が続いて1年を通じて営業した年がまだなく、収支決算は判明しないものの相当に大きい損失らしいと見られ、株式会社であれば無配当で総会のたびに騒ぎが起きるだろうとまで書かれた[14]。借り手は1社あたり25坪ほどの小規模な事業主が中心で[15]、大企業が床をまとめて借りる時代はまだ来ていなかった。
- 東京朝日新聞(1925年6月23日)
- [13]丸ビルは士族の商売を通り越した大名商売で、三菱の大世帯を背に相当の資金を注ぎ込んだと書かれた
- [14]震災当時の修繕が続き1年を通じて営業した年がなく、収支決算は不明ながら相当大きい損失らしいと書かれた
- [15]丸ビルのテナントは1社あたり25坪の小規模事業主が中心
それでも丸ノ内の土地の値打ちは上がり続けた。1927年末に終わった大蔵省の土地賃貸価格の調査では、全国で最も高い場所として東京駅前の丸ビル敷地と三越のショーウィンドー付近が挙げられ、銀座のカフェー街はそこから一階級下と見積もられた[16](出所 台湾日日新聞 1927/12/31)。昭和初期の建築ブームで丸ノ内の床は増え続け、1935年12月の紙面は、世界へ躍進する現代日本の縮図が続々と起工される大建築にうかがえるとし、空地はほとんどなくなって2、3年後にはニューヨークのウォール街に比すべき業務地区になると書いた[17]。買収から45年で、草原は日本の資本が集まる場所へ変わった。
- 台湾日日新聞(1927年12月31日)
- [16]大蔵省の土地賃貸価格調査で全国最高は東京駅前の丸ビル敷地と三越のショーウィンドー付近、銀座のカフェー街は一階級下
- 時事新報 1935年12月14日号
- [17]丸ノ内は大建築で空地がほとんどなくなり、2、3年後にはニューヨークのウォール街に比すべきビジネスセンターになると書かれた
- 東京朝日新聞(1925年6月23日)
- [13]丸ビルは士族の商売を通り越した大名商売で、三菱の大世帯を背に相当の資金を注ぎ込んだと書かれた
- [14]震災当時の修繕が続き1年を通じて営業した年がなく、収支決算は不明ながら相当大きい損失らしいと書かれた
- [15]丸ビルのテナントは1社あたり25坪の小規模事業主が中心
- 台湾日日新聞(1927年12月31日)
- [16]大蔵省の土地賃貸価格調査で全国最高は東京駅前の丸ビル敷地と三越のショーウィンドー付近、銀座のカフェー街は一階級下
- 時事新報 1935年12月14日号
- [17]丸ノ内は大建築で空地がほとんどなくなり、2、3年後にはニューヨークのウォール街に比すべきビジネスセンターになると書かれた
外圧で再集約された分割3社の必然
1937年5月、三菱財閥は丸ノ内の[18]オフィス賃貸部門を三菱合資会社から切り出し[19]、資本金1500万円で三菱地所株式会社を設立した[20]。それまで『雑務』として独立した専門部署を持たずに財閥本体で運営していた不動産事業が、事業規模の拡大と取引の専門化に伴い、独立した会社組織での運営を要した結果である。三菱地所は丸ノ内の土地と建物を一括して管理する形で発足し、半年後に三菱合資会社建築課を吸収した[21]。財閥全体から見た不動産事業の位置づけが『雑務』から独立した主力事業へと格上げされた転換の節目で、戦前日本における都市不動産経営の専門化の到達点でもある。
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
- [18]丸ノ内の不動産事業を三菱合資会社から切り出して設立した
- [19]設立時の資本金は1500万円
- [20]1937年5月 三菱地所株式会社を設立(資本金1500万円)
- [21]1937年11月 三菱合資会社建築課を吸収
1945年の終戦後、GHQの財閥解体方針に基づき[22]、1950年に三菱地所は陽和不動産・関東不動産との3社へ分割された[23]。丸ノ内の資産は3社に分かれて管理されたが、陽和不動産が外部からの株式買い占めの脅威[24]にさらされたことをきっかけに再統合の機運が高まり、1953年に3社が合併して三菱地所が再発足した[25]。戦後のオフィス賃貸市場の拡大と丸ノ内への企業集中が進むなかで、分断された資産管理は事業運営の制約だった。分割からわずか3年での再統合は、丸ノ内という巨大資産を一体で管理することが不動産事業の本質であると、実務を通じて裏付けた異例の展開だった。
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
- [22]分割で設立された第二会社は陽和不動産と開東不動産(本文の『関東不動産』は沿革では『開東不動産』表記)
- [23]1950年に三菱地所が陽和不動産・関東不動産との3社へ分割(財閥解体)
- [24]再統合の契機は陽和不動産への株式買い占めの脅威
- [25]1953年に3社が合併して三菱地所が再発足(分割から3年)
- 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
- [18]丸ノ内の不動産事業を三菱合資会社から切り出して設立した
- [19]設立時の資本金は1500万円
- [20]1937年5月 三菱地所株式会社を設立(資本金1500万円)
- [21]1937年11月 三菱合資会社建築課を吸収
- [22]分割で設立された第二会社は陽和不動産と開東不動産(本文の『関東不動産』は沿革では『開東不動産』表記)
- [23]1950年に三菱地所が陽和不動産・関東不動産との3社へ分割(財閥解体)
- [24]再統合の契機は陽和不動産への株式買い占めの脅威
- [25]1953年に3社が合併して三菱地所が再発足(分割から3年)