三菱地所 の歴史

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1890年、岩崎弥之助が丸ノ内の陸軍用地を一括買収し丸ノ内建築所を設立。一丁倫敦と初代丸ビル、丸ノ内総合改造計画、丸の内マンハッタン化計画、ロックフェラーセンターまでの沿革と経緯を執筆。

創業

1890年

創業者

岩崎弥之助

創業地

東京都千代田区

直近売上高(2026/3)

17,461億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1890年に、商業地として無価値とされた荒地の丸ノ内を128万円で買い取ったのか
A 採算で見れば買う理由のない土地だった。それでも三菱財閥の岩崎弥之助氏が引き受けたのは、明治政府との長期的な関係を保つことを優先したからである。1889年に陸軍用地の丸ノ内が売りに出されたが、東京市予算3年分という価格と交通の悪さで入札に応じる者は現れなかった。蔵相・松方正義の打診を受けた岩崎氏は1890年3月に128万円で買収を決め、社内の批判に取り合わず、竹を植え虎を飼おうと応じたと伝わる。草原は1894年の三菱1号館を皮切りに『一丁倫敦』と呼ばれるオフィス街となり、丸ノ内という資産が三菱地所の収益基盤になった
Q なぜ財閥解体で分割された丸ノ内を、わずか3年後の1953年に再統合したのか
A 丸ノ内を3社に分けて持つと、街全体を一体で開発・運営できず事業上の制約になったからである。1937年に三菱合資会社から切り出された三菱地所は、GHQの財閥解体方針で1950年に陽和不動産・開東不動産との3社へ分割され、丸ノ内の土地と建物は3社に分散した。陽和不動産が外部からの株式買い占めの脅威にさらされたことを契機に再統合の機運が高まり、1953年に3社が合併して三菱地所が再発足した。分割からわずか3年での再統合は、巨大資産の丸ノ内を一体で管理することが不動産事業の本質であると実務が裏づけた。
Q なぜ2025年に三菱地所は政策保有株式の半減を掲げ、資本規律を経営の前面に据えたのか
A 丸ノ内の賃料で安定して稼ぐ一方、ROEが資本コストを十分に上回らず、資本市場から低い資本効率を問われていたからである。2020年の長期経営計画2030が据えるROE10%へ足元8%程度から引き上げるべく、低採算の持ち合い株を売って成長投資と株主還元へ資金を回す。2025年に政策保有株式を2027年度までに半減する方針を掲げ、上限1,000億円・最大6,000万株の自己株取得を発表した。2024年5月に始めた毎年3円増配の累進配当と合わせ、安定賃料に依存してきた経営に資本効率の規律を持ち込んだ

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1890年〜 荒地の買収から丸ノ内オフィス街の形成と戦後再統合まで

  1. 1890年 丸ノ内建築所を設立
  2. 1890年 三菱地所創業——入札ゼロの丸ノ内買収から日本最大の不動産会社へ 入札ゼロに終わった陸軍練兵場跡地・丸ノ内約35万坪を、松方正義 蔵相の打診で128万円で買い取った岩崎弥之助氏は、値の付かない原野をどう日本最大の不動産会社へ育てたか
  3. 1894年 三菱1号館を竣工(ジョサイア・コンドル設計)
  4. 1904年 丸ノ内の開発を再開(1896年以来9年ぶり)
  5. 1914年 東京駅開業で丸ノ内の立地条件が一変
  6. 1918年 「一丁倫敦」が完成(赤レンガ街19棟)
  7. 1950年 財閥解体により陽和・開東の2社を分離

「竹を植えて虎でも飼う」と応じた荒地買収

1889年に明治政府は財政難から陸軍用地の丸ノ内を売却に付したが、東京市予算3年分にあたる150万円という価格設定と、当時の交通アクセスの悪さから、入札では落札者がひとりも現れなかった。蔵相の松方正義から購入を打診された三菱財閥の岩崎弥之助氏[1]は、政府との長期的な関係維持を優先して1890年3月に128万円で買収を決断した[2]。当時の丸ノ内は草原の広がる荒地で、商業用地としてはほぼ無価値とみなされていた。社内では何の目的で不用の地を買うのかとの批判が噴出したが、これに対し岩崎氏は『竹を植えて虎でも飼うさ』と答えたと伝わる。買収から1年後の地元紙も『丸の内に街を作ろうとしても、到底繁盛する見込みはないと思われる』(出所 読売新聞 1891/10/02)と冷ややかな観測を伝えている[3]

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [1]買収を決断したのは三菱財閥の岩崎弥之助氏、打診したのは蔵相の松方正義
    • [2]1890年3月 三菱財閥が丸ノ内の陸軍用地を一括買収(岩崎弥之助が決断)
  • 読売新聞(1891年10月2日)
    • [3]買収の翌年、丸の内に街を作っても繁盛する見込みはないという観測が地元紙に載った

岩崎弥之助氏は早くから『私はわが国においてもまた速やかに西洋式オフィス・ストリートを建設することが必要であり、かつ急務である』との構想を語り、1894年にロンドンを模した三菱1号館を竣工させた[4]。しかし東京駅未開業の悪条件でテナント誘致は難航し、1896年から9年間は新築がほぼ止まった[5]。開発が再開したのは1904年で、1918年までに第26号館に至[6]る19棟の赤レンガ・RC建築が並び、丸ノ内に『一丁倫敦』と呼ばれるオフィス街が成立した[7]。1914年の東京駅開業で立地条件は一変し[8]、1923年に東京駅前へアメリカ型の丸ノ内ビルヂングを竣工[9]させた。買収から33年で草原は日本を代表するビジネス街に変貌した。

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1894年に三菱1号館を竣工(ロンドンを模した赤レンガ造)
    • [5]1896年から9年間は新築がほぼ止まり、開発再開は1904年
    • [6]1918年までに第26号館に至るビル群が並び「一丁倫敦」が成立
    • [7]オフィス街は「一丁倫敦」と呼ばれた
    • [8]1914年の東京駅開業で立地条件が一変
    • [9]1923年に東京駅前へアメリカ型の丸ノ内ビルヂング(初代丸ビル)を竣工

丸ノ内ビルヂングの工事は突貫で進められた。1921年12月の紙面は、一気呵成の工事方針が多数の負傷者を生み、発狂者まで出て、その夏以降に亡くなった職工が300名に達したと書いた[10](出所 報知新聞 1921/12/01)。1923年2月に竣工した建物は東洋第一の大貸事務所と呼ばれ、外観の宏麗さから帝都の誇りを一つ加えたと書かれた[11](出所 時事新報 1923/02/05)。設計では地震への備えが特筆され、胸壁などに亀裂を生じさせる建物の振動を減らす目的で多額を投じた補強工事が施された[12]。それでも竣工から半年後の関東大震災では損傷を受け、修繕はその後も続いた。

  • 報知新聞(1921年12月1日)
    • [10]一気呵成の工事方針で多数の負傷者が出て、1921年夏以降に死亡した職工は300名
  • 時事新報 1923年2月5日号
    • [11]竣工した丸ノ内ビルヂングは東洋第一の大貸事務所で、帝都の誇りを一つ加えたと書かれた
    • [12]地震を考慮し、胸壁などに亀裂を生じさせる建物の振動を減らす目的で補強工事を施した
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [1]買収を決断したのは三菱財閥の岩崎弥之助氏、打診したのは蔵相の松方正義
    • [2]1890年3月 三菱財閥が丸ノ内の陸軍用地を一括買収(岩崎弥之助が決断)
    • [4]1894年に三菱1号館を竣工(ロンドンを模した赤レンガ造)
    • [5]1896年から9年間は新築がほぼ止まり、開発再開は1904年
    • [6]1918年までに第26号館に至るビル群が並び「一丁倫敦」が成立
    • [7]オフィス街は「一丁倫敦」と呼ばれた
    • [8]1914年の東京駅開業で立地条件が一変
    • [9]1923年に東京駅前へアメリカ型の丸ノ内ビルヂング(初代丸ビル)を竣工
  • 読売新聞(1891年10月2日)
    • [3]買収の翌年、丸の内に街を作っても繁盛する見込みはないという観測が地元紙に載った
  • 報知新聞(1921年12月1日)
    • [10]一気呵成の工事方針で多数の負傷者が出て、1921年夏以降に死亡した職工は300名
  • 時事新報 1923年2月5日号
    • [11]竣工した丸ノ内ビルヂングは東洋第一の大貸事務所で、帝都の誇りを一つ加えたと書かれた
    • [12]地震を考慮し、胸壁などに亀裂を生じさせる建物の振動を減らす目的で補強工事を施した

東洋一の貸事務所が抱えた採算と地価

開業から2年を経ても丸ノ内ビルヂングの採算は立たなかった。1925年6月の紙面は、この建物を士族の商売を通り越した大名商売と呼び、三菱という大世帯が控えているためにけちな事もできず相当の資金を注ぎ込んだ結果だと書いた[13](出所 東京朝日新聞 1925/06/23)。震災の修繕が続いて1年を通じて営業した年がまだなく、収支決算は判明しないものの相当に大きい損失らしいと見られ、株式会社であれば無配当で総会のたびに騒ぎが起きるだろうとまで書かれた[14]。借り手は1社あたり25坪ほどの小規模な事業主が中心で[15]、大企業が床をまとめて借りる時代はまだ来ていなかった。

  • 東京朝日新聞(1925年6月23日)
    • [13]丸ビルは士族の商売を通り越した大名商売で、三菱の大世帯を背に相当の資金を注ぎ込んだと書かれた
    • [14]震災当時の修繕が続き1年を通じて営業した年がなく、収支決算は不明ながら相当大きい損失らしいと書かれた
    • [15]丸ビルのテナントは1社あたり25坪の小規模事業主が中心

それでも丸ノ内の土地の値打ちは上がり続けた。1927年末に終わった大蔵省の土地賃貸価格の調査では、全国で最も高い場所として東京駅前の丸ビル敷地と三越のショーウィンドー付近が挙げられ、銀座のカフェー街はそこから一階級下と見積もられた[16](出所 台湾日日新聞 1927/12/31)。昭和初期の建築ブームで丸ノ内の床は増え続け、1935年12月の紙面は、世界へ躍進する現代日本の縮図が続々と起工される大建築にうかがえるとし、空地はほとんどなくなって2、3年後にはニューヨークのウォール街に比すべき業務地区になると書いた[17]。買収から45年で、草原は日本の資本が集まる場所へ変わった。

  • 台湾日日新聞(1927年12月31日)
    • [16]大蔵省の土地賃貸価格調査で全国最高は東京駅前の丸ビル敷地と三越のショーウィンドー付近、銀座のカフェー街は一階級下
  • 時事新報 1935年12月14日号
    • [17]丸ノ内は大建築で空地がほとんどなくなり、2、3年後にはニューヨークのウォール街に比すべきビジネスセンターになると書かれた
  • 東京朝日新聞(1925年6月23日)
    • [13]丸ビルは士族の商売を通り越した大名商売で、三菱の大世帯を背に相当の資金を注ぎ込んだと書かれた
    • [14]震災当時の修繕が続き1年を通じて営業した年がなく、収支決算は不明ながら相当大きい損失らしいと書かれた
    • [15]丸ビルのテナントは1社あたり25坪の小規模事業主が中心
  • 台湾日日新聞(1927年12月31日)
    • [16]大蔵省の土地賃貸価格調査で全国最高は東京駅前の丸ビル敷地と三越のショーウィンドー付近、銀座のカフェー街は一階級下
  • 時事新報 1935年12月14日号
    • [17]丸ノ内は大建築で空地がほとんどなくなり、2、3年後にはニューヨークのウォール街に比すべきビジネスセンターになると書かれた

外圧で再集約された分割3社の必然

1937年5月、三菱財閥は丸ノ内の[18]オフィス賃貸部門を三菱合資会社から切り出し[19]、資本金1500万円で三菱地所株式会社を設立した[20]。それまで『雑務』として独立した専門部署を持たずに財閥本体で運営していた不動産事業が、事業規模の拡大と取引の専門化に伴い、独立した会社組織での運営を要した結果である。三菱地所は丸ノ内の土地と建物を一括して管理する形で発足し、半年後に三菱合資会社建築課を吸収した[21]。財閥全体から見た不動産事業の位置づけが『雑務』から独立した主力事業へと格上げされた転換の節目で、戦前日本における都市不動産経営の専門化の到達点でもある。

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [18]丸ノ内の不動産事業を三菱合資会社から切り出して設立した
    • [19]設立時の資本金は1500万円
    • [20]1937年5月 三菱地所株式会社を設立(資本金1500万円)
    • [21]1937年11月 三菱合資会社建築課を吸収

1945年の終戦後、GHQの財閥解体方針に基づき[22]、1950年に三菱地所は陽和不動産・関東不動産との3社へ分割された[23]。丸ノ内の資産は3社に分かれて管理されたが、陽和不動産が外部からの株式買い占めの脅威[24]にさらされたことをきっかけに再統合の機運が高まり、1953年に3社が合併して三菱地所が再発足した[25]。戦後のオフィス賃貸市場の拡大と丸ノ内への企業集中が進むなかで、分断された資産管理は事業運営の制約だった。分割からわずか3年での再統合は、丸ノ内という巨大資産を一体で管理することが不動産事業の本質であると、実務を通じて裏付けた異例の展開だった。

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [22]分割で設立された第二会社は陽和不動産と開東不動産(本文の『関東不動産』は沿革では『開東不動産』表記)
    • [23]1950年に三菱地所が陽和不動産・関東不動産との3社へ分割(財閥解体)
    • [24]再統合の契機は陽和不動産への株式買い占めの脅威
    • [25]1953年に3社が合併して三菱地所が再発足(分割から3年)
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [18]丸ノ内の不動産事業を三菱合資会社から切り出して設立した
    • [19]設立時の資本金は1500万円
    • [20]1937年5月 三菱地所株式会社を設立(資本金1500万円)
    • [21]1937年11月 三菱合資会社建築課を吸収
    • [22]分割で設立された第二会社は陽和不動産と開東不動産(本文の『関東不動産』は沿革では『開東不動産』表記)
    • [23]1950年に三菱地所が陽和不動産・関東不動産との3社へ分割(財閥解体)
    • [24]再統合の契機は陽和不動産への株式買い占めの脅威
    • [25]1953年に3社が合併して三菱地所が再発足(分割から3年)

1952年〜 丸ノ内総合改造計画と超高層時代への葛藤

三菱地所の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1953年 財閥解体による丸ノ内3分割と、3年後の陽和不動産・開東不動産の吸収合併 分けられた丸ノ内をなぜ1社に戻したか——GHQに退けられた一元開発と、株の買い占め
  2. 1959年 丸ノ内総合改造計画の策定と、赤煉瓦街から9階建てビル街への建て替え 高さをどこまで求めるか——皇居前の美観と、借り手を失えない貸ビル業のあいだで
  3. 1968年 住宅供給事業に参入
  4. 1983年 ホテル事業に参入
  5. 1988年 「丸の内マンハッタン化計画」の構想発表と、初代丸ビルの建て替えによる複合都市への転換 オフィス専用の街をどう作り替えるか——猛反発で挫けた30年構想から、2代目丸ビルまでの14年
  6. 1989年 商業施設事業に参入
  7. 1990年 米ロックフェラーグループへの資本参加と、5年後のロックフェラーセンター投資事業からの撤退 「向こうのノウハウを勉強する」という買収理由は、その後の5年にどこまで耐えたか

赤レンガを「ハーレム」と拒んだテナントへの返答

1952年に社長へ就いた渡辺武次郎[26]は丸ノ内開発の叩き上げで、のちに社内外で『中興の祖』と呼ばれた[27]。1950年代の丸ノ内では、赤レンガ街について欧米テナントが『赤煉瓦街一帯はニューヨークのハーレムを連想させ、一流銀行にはふさわしくない』と拒絶する声が出ていた[28]。戦後復興が一段落して都市のモダン化が進むなか、渡辺武次郎社長は1959年に『丸の内総合改造計画』を策定した[29]。明治期の一丁倫敦を全面的に取り壊し、31メートルの高さに統一した近代オフィスビル[30]群へ建て替える計画で、当時の景観保全意識から見れば大胆な決断だった。1960年7月の紙面には『消える東京の“ロンドン街”』の見出しが立ち、『ロンドン調からアメリカ調に衣替えするわけだ』と書かれた[31](出所 読売 1960/07/02)。

  • 三菱地所 有価証券報告書【役員の状況】
    • [26]渡辺武次郎氏は1952年に三菱地所の社長に就任
    • [27]1952年の社長は渡辺武次郎氏
  • 毎日新聞(1966年11月12日)
    • [28]赤煉瓦街一帯はニューヨークのハーレムを連想させ一流銀行にふさわしくないという借り手側の評があった
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1959年に「丸の内総合改造計画」を策定
    • [30]近代オフィスビル群を31メートルの高さに統一する計画
  • 読売 1960年7月2日号
    • [31]新しいビルは地下3階・地上9階で高さ31mに屋根が揃い、ロンドン調からアメリカ調への衣替えと書かれた

新築のビル群は三菱銀行・三菱商事・三菱重工業など三菱グループ各社へ優先的に賃貸され、戦後の財閥解体で弱体化していたグループの結束力を、丸ノ内という共通の場を核に回復させる機能を担った。渡辺武次郎社長は超高層ビルの建設には消極的で、皇居を見下ろす形になるとの美観上の理由から31メートルの高さ制限を堅持し、『丸ノ内はただの街とは違う。前は皇居前広場だ。各国の元首も来る。国民自慢の場所だ。それを潰したくない』と述べた[32][33]1968年に三井不動産が日本初の超高層ビル霞ヶ関ビルディングを竣工させると、三菱地所は高層ビル開発で他社に後れをとった。1969年8月の雑誌は計画統一の景観を『20年近く同社の社長を勤めてきた渡辺武次郎氏の執念の結晶』と記している[34]

  • 国際建築 1966年12月号
    • [32]渡辺武次郎社長は皇居前広場の美観を強調し、丸ノ内を潰したくないと語った
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [33]渡辺社長は皇居美観を理由に31メートルの高さ制限を堅持
  • 産業と経済 1969年8月号
    • [34]統一された丸ノ内ビジネス街は渡辺武次郎社長の執念の結晶と書かれた
  • 三菱地所 有価証券報告書【役員の状況】
    • [26]渡辺武次郎氏は1952年に三菱地所の社長に就任
    • [27]1952年の社長は渡辺武次郎氏
  • 毎日新聞(1966年11月12日)
    • [28]赤煉瓦街一帯はニューヨークのハーレムを連想させ一流銀行にふさわしくないという借り手側の評があった
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1959年に「丸の内総合改造計画」を策定
    • [30]近代オフィスビル群を31メートルの高さに統一する計画
    • [33]渡辺社長は皇居美観を理由に31メートルの高さ制限を堅持
  • 読売 1960年7月2日号
    • [31]新しいビルは地下3階・地上9階で高さ31mに屋根が揃い、ロンドン調からアメリカ調への衣替えと書かれた
  • 国際建築 1966年12月号
    • [32]渡辺武次郎社長は皇居前広場の美観を強調し、丸ノ内を潰したくないと語った
  • 産業と経済 1969年8月号
    • [34]統一された丸ノ内ビジネス街は渡辺武次郎社長の執念の結晶と書かれた

「実益のないのに高さを競争するのは困る」美観論の限界

1971年、三菱地所の新丸ビルに隣接する東京海上が自社ビルの超高層建て替えを計画すると、渡辺武次郎氏は計画の中止[35]を申し入れた。グループ会社の建て替え計画について渡辺氏は『同じ三菱傘下の会社だ。地所はじめその新築の相談を受けていたが、今はどこでやっているのか知らない。とにかく実益のないのに高さを競争するのは困る。広告塔ではいかん』と述べていたが[36]、東京海上は自社保有地の建て替えだとして要求を退け、25階に削減した修正申請を経て1974年に東京海上ビルディングを竣工させた。皇居前の美観論争のために建築確認申請は建設省で3年近くたなざらしにされ、階数を削る修正申請が出た1970年9月の紙面は『この申請変更で美観論争にもピリオドが打たれる見通しとなった』と書いた[37](出所 読売 1970/09/13)。31メートルという自主規制は法令ではなく、隣接地の判断まで縛る力は持たなかった。

  • 三菱地所 有価証券報告書【役員の状況】
    • [35]東京海上の超高層建て替え計画に渡辺武次郎氏が中止を申し入れた
  • 国際建築 1966年12月号
    • [36]渡辺武次郎社長は同じ三菱傘下でも実益のない高さ競争は困ると語った
  • 読売 1970年9月13日号
    • [37]皇居前の美観論争で建築確認申請が建設省で3年近くたなざらしになり、25階への変更申請で決着する見通しとなった

1988年1月に発表した丸の内再開発の構想は、東京駅を中心とする丸の内・有楽町・大手町・八重洲の113ヘクタールを対象にしていた[38](出所 日経新聞 1988/01/20)。開発する区域を国際金融センターの一部と見なし、増える床の一定割合を外資系企業や金融機関へ優先的に回す考えだった[39]。同じ年の8月の紙面は、丸ビルが完成から65年を経て所有ビルの老朽化が目立ち始め、都庁の移る新宿やウォーターフロントに新しい都市軸ができるなかで丸の内の地位が揺らぎ始めたと書いた[40](出所 日経新聞 1988/08/24)。入居希望を断るのが営業の仕事だと同業からうらやまれるほどのぬるま湯の空気を一新しなければ、丸の内の栄光は過去のものになりかねないとも指摘された[41]

  • 日経新聞(1988年1月20日)
    • [38]1988年1月に丸の内・有楽町・大手町・八重洲の合計113ヘクタールを対象とする丸の内再開発計画を発表
    • [39]開発地域を国際金融センターの一部と見なし、増加スペースの一定割合を外資系企業・金融機関へ優先提供する構想
  • 日経新聞(1988年8月24日)
    • [40]1988年8月時点で丸ビルは完成後65年を経て所有ビルの老朽化が目立ち、新宿やウォーターフロントに新しい都市軸が形成されつつあった
    • [41]入居希望を断るのが営業マンの仕事とうらやまれるほどのヌルマ湯ムードの一新が丸の内の再開発に不可欠と指摘された

1990年2月にニューヨークのロックフェラーセンタービル群を保有[42]するロックフェラーグループ社へ80%出資して海外進出[43]に踏み切った。1990年代の米国不動産市況の低迷で賃貸料収入が悪化し、1995年5月には子会社のロックフェラーセンター・プロパティーズが連邦破産法の適用を申請、同年9月に三菱地所はビル投資事業からの撤退[44]を決め、約1000億円の固定資産除却損を計上した[45]。バブル期ピークに取得した海外資産が数年で1000億円規模の損失に転じ、国際不動産投資の難しさが浮き彫りになった。初代丸ビルは築70年で老朽化が進んだが、350にのぼる個人テナントとの立ち退き交渉が難航して建て替えは長く頓挫した。1995年1月の阪神大震災が耐震面の論拠を加え、同年11[46]月に建て替えを正式発表した。

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [42]ロックフェラーグループ社への出資比率は80%
    • [43]1990年に米ロックフェラーグループ社へ80%出資して海外進出
    • [44]1995年5月 子会社ロックフェラーセンター・プロパティーズが連邦破産法の適用を申請、9月にビル投資事業から撤退
    • [46]1995年11月に初代丸ビルの建て替えを正式発表(同年1月の阪神大震災が論拠を加えた)
  • 日本会社史総覧 1995
    • [45]撤退で約1000億円の固定資産除却損を計上
  • 三菱地所 有価証券報告書【役員の状況】
    • [35]東京海上の超高層建て替え計画に渡辺武次郎氏が中止を申し入れた
  • 国際建築 1966年12月号
    • [36]渡辺武次郎社長は同じ三菱傘下でも実益のない高さ競争は困ると語った
  • 読売 1970年9月13日号
    • [37]皇居前の美観論争で建築確認申請が建設省で3年近くたなざらしになり、25階への変更申請で決着する見通しとなった
  • 日経新聞(1988年1月20日)
    • [38]1988年1月に丸の内・有楽町・大手町・八重洲の合計113ヘクタールを対象とする丸の内再開発計画を発表
    • [39]開発地域を国際金融センターの一部と見なし、増加スペースの一定割合を外資系企業・金融機関へ優先提供する構想
  • 日経新聞(1988年8月24日)
    • [40]1988年8月時点で丸ビルは完成後65年を経て所有ビルの老朽化が目立ち、新宿やウォーターフロントに新しい都市軸が形成されつつあった
    • [41]入居希望を断るのが営業マンの仕事とうらやまれるほどのヌルマ湯ムードの一新が丸の内の再開発に不可欠と指摘された
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [42]ロックフェラーグループ社への出資比率は80%
    • [43]1990年に米ロックフェラーグループ社へ80%出資して海外進出
    • [44]1995年5月 子会社ロックフェラーセンター・プロパティーズが連邦破産法の適用を申請、9月にビル投資事業から撤退
    • [46]1995年11月に初代丸ビルの建て替えを正式発表(同年1月の阪神大震災が論拠を加えた)
  • 日本会社史総覧 1995
    • [45]撤退で約1000億円の固定資産除却損を計上

2002年〜 丸の内の超高層複合都市化と海外進出・事業多角化の加速

三菱地所の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2002年 2代目丸ビル竣工(同年9月開業)・超高層複合都市への転換
  2. 2007年 事業本部制を廃止・新丸ビル竣工
  3. 2008年 サンシャインシティ株式のTOBで子会社化
  4. 2009年 藤和不動産を完全子会社化
  5. 2009年 丸の内パークビルが竣工
  6. 2010年 杉山博孝氏が社長に就任
  7. 2011年 三菱地所レジデンス発足・「ザ・パークハウス」展開開始

「丸の内のたそがれ」を覆した複合都市への転換

1988年1月に三菱地所が『丸の内マンハッタン化計画』と通称された総投資額約6兆円[47]・40〜50階建てビル約60棟の構想を発表した際は[48]、『他人のビルまで勝手に変える気か』との地元反発で挫折した[49]。1997年の紙面は『丸の内のたそがれ、漂流するオフィスビル超一等地』(出所 日経 1997/08/03)と書き、汐留や臨海副都心といった新興オフィス街にテナントを奪われる懸念を伝えた[50]。2002年8月に竣工し同年9月に開業した2代目丸ビルは[51]、初代の純粋なオフィスビルとは異なり、商業施設を併設した超高層の複合ビルとして設計された。仲通りへの商業施設誘致と組み合わせ、丸ノ内を平日のオフィス街だけでなく休日も人が集う複合都市へ再定義する方針を経営陣が発表した。

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1988年1月に「丸の内マンハッタン化計画」(総投資額約6兆円・約60棟)を発表、地元反発で挫折
    • [48]マンハッタン化計画の総投資額は約6兆円・40〜50階建てビル約60棟
    • [51]2代目丸ビルは2002年8月に竣工し、同年9月に開業した(有報【沿革】は8月竣工、日経MJは9月開業を報道)
  • 日経新聞(1997年8月3日)
    • [49]1988年の構想は根回し不足から他人のビルまで勝手に変える気かという猛反発を受けて挫折し、以来再開発に慎重にならざるを得なくなった
  • 日経 1997年8月3日号「丸の内のたそがれ」
    • [50]汐留・東品川・六本木六丁目・臨海副都心と魅力あるオフィス街が続々とでき、テナント争奪戦で丸の内地区の地盤沈下は避けられないと書かれた

開業から1カ月で来館者は280万人に達し[52]、『JR東京駅周辺の日本を代表するオフィス街は、今や"消費者の街"だ』(出所 日経MJ 2002/10/08)と紹介された[53]渡辺武次郎社長時代から維持していた31メートル中層ビル群の統一景観からの転換であり、超高層化に踏み切る出発点となった。2007年に2代目新丸ビルが竣工し[54]、商業ゾーンの店舗数は丸ビルの140店を上回る153店を備えた[55](出所 日経MJ 2008/06/08)。大手町フィナンシャルシティ(2012年)、常盤橋タワー[56](2021年)と再開発プロジェクトが続き、丸ノ内・大手町・常盤橋という東京駅周辺の広域再開発へと範囲を広げた。2020年策定の長期経営計画2030は、丸の内事業の収益基盤強化と海外事業の拡大を両軸とし、2030年度の事業利益3500〜4000億円とROE10[57]%を到達目標に据えた。

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [52]2代目丸ビルは開業から1カ月で来館者280万人
    • [54]2007年竣工の2代目新丸ビルは商業店舗153店(丸ビルの140店を上回る)
    • [56]大手町フィナンシャルシティ(2012年)、常盤橋タワー(2021年)と再開発が継続
  • 日経MJ 2002年10月8日号「丸ビル新装1ヵ月、丸の内消費沸く」
    • [53]2代目丸ビルは開業約1カ月で280万人が訪れ、平日も週末もにぎわい東京駅周辺のオフィス街が消費者の街になったと書かれた
  • 日経MJ 2008年6月8日号
    • [55]新丸ビルの商業ゾーンは総店舗面積約1.6万平方メートル・153店で、丸ビルの140店を上回った
  • 三菱地所 長期経営計画2030
    • [57]2020年策定の長期経営計画2030は2030年度の事業利益3500〜4000億円・ROE10%を目標
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1988年1月に「丸の内マンハッタン化計画」(総投資額約6兆円・約60棟)を発表、地元反発で挫折
    • [48]マンハッタン化計画の総投資額は約6兆円・40〜50階建てビル約60棟
    • [51]2代目丸ビルは2002年8月に竣工し、同年9月に開業した(有報【沿革】は8月竣工、日経MJは9月開業を報道)
    • [52]2代目丸ビルは開業から1カ月で来館者280万人
    • [54]2007年竣工の2代目新丸ビルは商業店舗153店(丸ビルの140店を上回る)
    • [56]大手町フィナンシャルシティ(2012年)、常盤橋タワー(2021年)と再開発が継続
  • 日経新聞(1997年8月3日)
    • [49]1988年の構想は根回し不足から他人のビルまで勝手に変える気かという猛反発を受けて挫折し、以来再開発に慎重にならざるを得なくなった
  • 日経 1997年8月3日号「丸の内のたそがれ」
    • [50]汐留・東品川・六本木六丁目・臨海副都心と魅力あるオフィス街が続々とでき、テナント争奪戦で丸の内地区の地盤沈下は避けられないと書かれた
  • 日経MJ 2002年10月8日号「丸ビル新装1ヵ月、丸の内消費沸く」
    • [53]2代目丸ビルは開業約1カ月で280万人が訪れ、平日も週末もにぎわい東京駅周辺のオフィス街が消費者の街になったと書かれた
  • 日経MJ 2008年6月8日号
    • [55]新丸ビルの商業ゾーンは総店舗面積約1.6万平方メートル・153店で、丸ビルの140店を上回った
  • 三菱地所 長期経営計画2030
    • [57]2020年策定の長期経営計画2030は2030年度の事業利益3500〜4000億円・ROE10%を目標

藤和不動産取り込みで築いた住宅分譲という第二の柱

2005年にマンション分譲の藤和不動産へ資本参加[58]した三菱地所は、2008年のリーマンショックで同社の業績が悪化したことを受け、増資引受による連結子会社化(2008年)、完全子会社化[59](2009年)と支配権を取得した。2011年1月に三菱地所レジデンスを新設し[60]、藤和不動産と三菱地所の住宅事業を集約して分譲マンションブランド『ザ・パークハウス』の展開を始めた[61]。商業不動産が主力だった三菱地所が住宅分譲という新しい領域へ踏み込んだ転換点で、リーマンショック後の市況混乱を機会として捉え直す経営方針を示した。資本参加からブランド統一までを短期間で完了した動きは、戦略的な意図の強さを示している。

  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [58]2005年にマンション分譲の藤和不動産へ資本参加
    • [59]2008年に増資引受で連結子会社化、2009年に完全子会社化
    • [60]2011年1月に三菱地所レジデンスを新設し分譲マンションブランド「ザ・パークハウス」を展開開始
    • [61]分譲マンションブランド名は「ザ・パークハウス」

2010年代を通じてザ・パークハウスは都心部を中心にシェアを伸ばし、三菱地所グループにおいてオフィス賃貸事業に次ぐ第二の収益基盤として存在感を高めた。丸ノ内のオフィス事業を中核としつつ住宅分譲を第二の柱に据える事業構造ができ、2020年代以降の米国データセンター事業の展開や政策保有株式の削減を含む資本効率意識の高まりへと連なる助走期となった。賃貸住宅や有料老人ホームの物件売却益も、住宅事業の強みとして言及された。英国大使館跡地のような都心の分譲案件を獲得するなかで、三菱地所は丸ノ内専業を超えた総合不動産企業としての新しい自己像を提示し始めた。2017年就任の吉田淳一社長は[62]、社会環境がどのように変化しても営業利益2,000億円を安定的に稼げる会社をつくる目標[63]を掲げ、ポートフォリオ多角化の必要を語った。

  • 三菱地所 有価証券報告書【役員の状況】
    • [62]吉田淳一氏の社長(代表執行役執行役社長)就任は2017年4月。2016年6月は取締役兼執行役常務への就任で社長就任ではない
    • [63]吉田淳一社長が営業利益2000億円を安定的に稼げる会社をつくる目標を掲げ多角化を語った
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
    • [58]2005年にマンション分譲の藤和不動産へ資本参加
    • [59]2008年に増資引受で連結子会社化、2009年に完全子会社化
    • [60]2011年1月に三菱地所レジデンスを新設し分譲マンションブランド「ザ・パークハウス」を展開開始
    • [61]分譲マンションブランド名は「ザ・パークハウス」
  • 三菱地所 有価証券報告書【役員の状況】
    • [62]吉田淳一氏の社長(代表執行役執行役社長)就任は2017年4月。2016年6月は取締役兼執行役常務への就任で社長就任ではない
    • [63]吉田淳一社長が営業利益2000億円を安定的に稼げる会社をつくる目標を掲げ多角化を語った

三菱地所の沿革1890〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
丸ノ内建築所を設立
三菱地所創業——入札ゼロの丸ノ内買収から日本最大の不動産会社へ入札ゼロに終わった陸軍練兵場跡地・丸ノ内約35万坪を、松方正義 蔵相の打診で128万円で買い取った岩崎弥之助氏は、値の付かない原野をどう日本最大の不動産会社へ育てたか 詳細を読む★★★
三菱1号館を竣工(ジョサイア・コンドル設計)
丸ノ内の開発を再開(1896年以来9年ぶり)
東京駅開業で丸ノ内の立地条件が一変
「一丁倫敦」が完成(赤レンガ街19棟)
丸ノ内ビルヂング(初代丸ビル)竣工
丸ノ内一帯が空き地なしのビジネスセンターへ
三菱地所を設立
三菱建築課を吸収
財閥解体により陽和・開東の2社を分離★★
渡辺武次郎財閥解体による丸ノ内3分割と、3年後の陽和不動産・開東不動産の吸収合併分けられた丸ノ内をなぜ1社に戻したか——GHQに退けられた一元開発と、株の買い占め 詳細を読む★★★
渡辺武次郎東京・大阪証券取引所に株式を上場
渡辺武次郎名古屋証券取引所に株式を上場
渡辺武次郎丸ノ内総合改造計画の策定と、赤煉瓦街から9階建てビル街への建て替え高さをどこまで求めるか——皇居前の美観と、借り手を失えない貸ビル業のあいだで 詳細を読む★★★
渡辺武次郎住宅部を設置
渡辺武次郎住宅供給事業に参入★★
中田乙一赤坂パークハウス分譲・三菱地所ニューヨーク社を設立
中田乙一泉パークタウン第1期起工
中田乙一名菱不動産・北菱不動産を吸収合併
中田乙一三菱地所住宅販売を設立
中田乙一札幌・仙台・名古屋・大阪の4支店を開設
伊藤達二「みなとみらい21」計画区域内土地取得
伊藤達二ホテル事業に参入★★
伊藤達二ロンドンでアトラスハウスを取得
高木丈太郎「丸の内マンハッタン化計画」の構想発表と、初代丸ビルの建て替えによる複合都市への転換オフィス専用の街をどう作り替えるか——猛反発で挫けた30年構想から、2代目丸ビルまでの14年 詳細を読む★★★
高木丈太郎商業施設事業に参入★★
高木丈太郎米ロックフェラーグループへの資本参加と、5年後のロックフェラーセンター投資事業からの撤退「向こうのノウハウを勉強する」という買収理由は、その後の5年にどこまで耐えたか 詳細を読む★★★
高木丈太郎横浜タイランドマークタワー竣工
福澤武ロックフェラーセンター投資事業から撤退★★
福澤武初代丸ビルの建て替え計画を発表★★
福澤武丸の内ビルの新築工事着工(丸の内再開発に着手)
高木茂2代目丸ビル竣工(同年9月開業)・超高層複合都市への転換
木村惠司事業本部制を廃止・新丸ビル竣工
木村惠司サンシャインシティ株式のTOBで子会社化★★
木村惠司藤和不動産を完全子会社化★★
木村惠司丸の内パークビルが竣工
木村惠司杉山博孝氏が社長に就任
杉山博孝三菱地所レジデンス発足・「ザ・パークハウス」展開開始
杉山博孝大手町フィナンシャルシティ竣工
杉山博孝グランフロント大阪を開業
吉田淳一吉田淳一が代表執行役執行役社長に就任
吉田淳一長期経営計画2030を策定
吉田淳一TOKYO TORCH 常盤橋タワー竣工
吉田淳一指名委員会等設置会社へ移行
中島篤吉田淳一社長が退任し会長へ、中島篤が代表執行役執行役社長に就任
出典・参考
  • 三菱地所 有価証券報告書【沿革】
  • 読売新聞(1891年10月2日)
  • 報知新聞(1921年12月1日)
  • 時事新報 1923年2月5日号
  • 東京朝日新聞(1925年6月23日)
  • 台湾日日新聞(1927年12月31日)
  • 時事新報 1935年12月14日号
  • 三菱地所 有価証券報告書【役員の状況】
  • 毎日新聞(1966年11月12日)
  • 読売 1960年7月2日号
  • 国際建築 1966年12月号
  • 産業と経済 1969年8月号
  • 読売 1970年9月13日号
  • 日経新聞(1988年1月20日)
  • 日経新聞(1988年8月24日)
  • 日本会社史総覧 1995
  • 日経新聞(1997年8月3日)
  • 日経 1997年8月3日号「丸の内のたそがれ」
  • 日経MJ 2002年10月8日号「丸ビル新装1ヵ月、丸の内消費沸く」
  • 日経MJ 2008年6月8日号
  • 三菱地所 長期経営計画2030
  • 週刊エコノミスト(2017年6月27日)

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