三菱地所の歴史は、明治時代にロンドンに赴任中の壮田平五郎(三菱総支配人)が東京市による丸の内売却の報道を聞きつけて、本社に向けて買収すべきだという電報を打ったことに始まる。当時の三菱財閥の主力事業は鉱山業や金融業であったが、三菱の創業者・岩崎弥太郎は行政との関係深化のためにも、東京丸の内の広大な敷地を一括買収した。

三菱地所の歴史は、明治時代にロンドンに赴任中の壮田平五郎(三菱総支配人)が東京市による丸の内売却の報道を聞きつけて、本社に向けて買収すべきだという電報を打ったことに始まる。当時の三菱財閥の主力事業は鉱山業や金融業であったが、三菱の創業者・岩崎弥太郎は行政との関係深化のためにも、東京丸の内の広大な敷地を一括買収した。
丸の内をイギリス風のオフィス街として開発するために、三菱1号館を竣工
丸の内をアメリカ風のモダンなオフィス街として開発するために、初代丸ビルを竣工
三菱財閥は不動産事業を会社運営するために「三菱地所」を設立
高度経済成長期に突入し、東京都心部でのオフィスも需要が増大した。これを受けて、三菱地所(渡辺武次郎社長)は明治時代に三菱財閥が建設した丸の内の赤レンガ街を取り壊し、代わりに当時の建築基準法の最大の水準である高さ31mの近代的なビル群を建設する「丸ノ内総合改造計画」を策定した。1960年代を通じて三菱地所は丸の内に31mの中層ビル群を建設して丸の内での賃貸事業を拡大した。加えて、これらのビルを三菱グループに優先的に賃貸することで、財閥解体によって薄まった三菱グループの求心力の復元にも寄与した。
1960年代に建築基準法が改正され、地震大国の日本でも柔構造による高層ビルの建設が可能となり、東京の各所で高層ビルの建設の計画が立ち上がった。東京駅前の丸の内に自社ビルを保有する東京海上も、対象時代に建設して老朽化したビルを高層建築に建て替える計画を発表する。ところが、この計画に対して三菱地所は猛反対の姿勢を示し、すでに丸の内は総合改造計画によって31mの街並みが保たれていること、高層ビルによって皇居が見下ろされること、といった問題点を指摘し、計画を中止するように申し出た。
1923年に竣工した東京駅前の丸ビルは、1980年代になると60年が経過して老朽化が目立つようになった。そこで、三菱地所は丸ビルの建て替え計画を何度も立案するが、法律事務所などの個人テナントが350も入居する丸ビルの立ち退きが困難を極め、老朽化したまま丸ビルが放置される時代となった。
1990年に三菱地所はニューヨークの一等地に位置する「ロックフェラーセンタービル」を買収する方針を決断し、海外進出を図った。当時は日本企業が世界を席巻すると欧米では恐れられたことから、現地のメディアは悲観的な報道をしている。
1990年代を通じてNYの不動産市況が低迷したためにロックフェラーセンターでの採算を取ることが困難となった。このため、1995年に三菱地所は1000億円近い固定資産除却損を計上した上で、ロックフェラーセンタービルから撤退した。
1990年代に大正時代に竣工した「丸ビル」などの老朽化が進み建て替え問題が顕在化した。そこで、1997年に三菱地所は初代丸ビルを取り壊しを決めた。
2002年に2代目丸ビルを開業するとともに、メインストリートである仲通りの商業施設の誘致を進め、丸の内を休日も楽しめる複合都市として再開発した。この結果、三菱地所は引き続き丸の内の街の魅力を引き出すことに成功し、オフィス賃貸事業の競争優位性を持続している。