商船三井 の歴史

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創業 1884年
創業者 関西の船主が大同合併して設立
創業地 大阪府大阪市
創業 1884年5月、関西の船主が大同合併して大阪商船が設立された。所有船舶93隻、瀬
1884年5月、関西の船主が大同合併して大阪商船が設立された。所有船舶93隻、瀬戸内海・九州・朝鮮半島を結ぶ沿岸・近海航路を基盤とし、戦前は日本郵船に次ぐ地位を占めた。もう一つの血統は1876年に三井物産へ置かれた船舶部で、1942年に三井船舶として分離独立し、財閥の貿易を支える遠洋航路を担った。近海の独立系と遠洋の財閥系という重ならない二つの船隊が、1964年4月に対等合併して大阪商船三井船舶となる。ただし戦後の海運は計画造船の総花的な割当で一時200社を超えて過当競争に陥っており、合併は国の助成を受ける条件でもあった。
決断 相場を読んで船を持つ会社から、契約で運賃が先に決まる船を持つ会社へ移ってきた。1
相場を読んで船を持つ会社から、契約で運賃が先に決まる船を持つ会社へ移ってきた。1998年、売上の約5割を占める定期船部門が赤字のまま、自ら船を造れば市況を壊すと見てナビックスラインを会社ごと取り込み、事業構成を不定期専用船とエネルギー輸送へ組み替えた。安値で発注したバラ積み船がリーマンショック後に損失源へ転じ、2期連続赤字と1,254億円の特別損失を経て2013年に長期契約が主となるLNG船へ収益源を移した。2016年には売上の4割を占めたコンテナ船を邦船3社の共同出資会社ONEへ切り出して、31%の持分法の側へ回った。1隻約200億円を約20年かけて回収するLNG船が軸になり、賭けをやめたのではなく賭けの期間が20年に伸びた。
現況 コンテナ船を社外へ出し、自動車船とエネルギーを収益源に据えた構造である。2026
コンテナ船を社外へ出し、自動車船とエネルギーを収益源に据えた構造である。2026年3月期は売上高1兆8,251億円、経常利益1,758億円。売上は自動車輸送・港湾・ロジスティクス5,879億円、エネルギー5,258億円、ドライバルク4,557億円。利益も自動車輸送693億円・エネルギー556億円が上位である。コンテナ船は売上536億円ながら持分法で267億円を生む。2022年3月期はこの一事業が経常利益7,218億円の9割近くを稼いだが、直近は15%である。5年で5倍に膨らんだ自己資本2兆8,743億円をめぐっては、物言う株主が株主還元の強化を求めている。
競合 競う相手は、1964年の海運集約で大阪商船三井船舶と並び立った中核体、日本郵船と
競う相手は、1964年の海運集約で大阪商船三井船舶と並び立った中核体、日本郵船と川崎汽船である。ONEへは日本郵船38%、商船三井と川崎汽船が31%ずつを出資する共同事業者でもある。市況から離れる道筋も似ていて、日本郵船も同じ2016年にコンテナ船を切り出し、川崎汽船は多角化を見送って自動車船と鉄鋼原料輸送へ集中した。違いは資産の置き場に出る。商船三井はLNG船とタンクターミナル、オフィスビル賃貸のダイビルを持ち、BLUE ACTION 2035のPhase 1の3年で市況享受型と安定収益型の資産比率を73対27から37対63へ入れ替えた。総資産の1割を占める不動産を報告セグメントに持つのは3社でこの社だけで、市況に揺れない賃料が配当を下支えしている。
長期業績の推移 1949〜2026年
商船三井:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1884年〜 瀬戸内の船主連合と三井物産の船舶部が海運集約で1社になるまで

1884年〜零細船主の抗争を止めるために作られた共同出資会社

西南戦争が終わると瀬戸内海には船が余り、船主は互いに運賃を引き下げて貨客を奪い合った。大阪府は1879年5月に西洋型商船及び問屋取締假規則を布達して運賃競争を禁じ、船主と問屋の連合を勧奨した。それでも裏では運賃競争が続き、船舶を酷使して修繕も行き届かず、瀬戸内海の航海は不安なものになった。運賃は認可制とされ、船主には申合規則を設けることが義務づけられた。根拠は、1881年2月に大阪府が関係13県と組んで布達した小型旅客汽船取締規則と、これにより置かれた商船取締所である。船主側はこれに応え、同年4月に大阪汽船取扱会社を、翌年5月には汽船持主盟約証書を取り交わして同盟汽船取扱会社を立ち上げた。それでも協定に背いて自分の利益を図る船主は後を絶たず、手を結んでは争い、争っては再び手を結ぶことが繰り返された。

  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [1]西南戦争終了後 急増した船腹の消化のため瀬戸内の船主間で運賃引き下げ競争が激化
    • [2]1879年5月 大阪府が西洋型商船及び問屋取締假規則を布達し運賃競争を禁止、船主と問屋の連合を勧奨
    • [3]規則の布達後も運賃競争が続き、船舶の酷使と修繕不足で海上事故が増加し瀬戸内海の航海が不安になった
    • [4]1881年2月 大阪府が関係13県と連合して小型旅客汽船取締規則を布達、商船取締所の設置と運賃の認可、船主の申合規則を規定
    • [5]1881年4月 元扱い機関として大阪汽船取扱会社を設立、1882年5月 汽船持主盟約証書により資本金8000円の同盟汽船取扱会社を設立
    • [6]同盟汽船取扱会社の設立後も協定を破る船主があり、瀬戸内海運は競争と同盟を繰り返した

会社設立を主導したのは、同盟汽船取扱会社頭取の中原昌發と住友家総理の廣瀬宰平ら7名で、1882年11月に大阪出入港の各汽船を団結して商船会社を設立する旨の誓約書を作り、廣瀬宰平を総理に推した。翌12月には住友吉左衞門・田中市兵衛ら大阪財界の有志と大手船主17名が発起人となった。創立証書は営業を大阪以西の内国航路に限り、資本金を汽船出資と通貨出資に分け、汽船出資には農商務省管船局の評価額に相当する株券を交付すると定めた。船を現金に換えずそのまま資本へ振り替える仕組みで、運用資本の乏しい船主でも持ち船の評価額のぶんだけ株主になれた。1884年4月の第1回船舶検査では76隻・約84万7200円が評価され、同月の臨時株主総会で資本金は120万円に改められた。

  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [7]1882年11月 同盟汽船取扱会社頭取の中原昌發、住友家総理の廣瀬宰平ら7名が商船会社設立の誓約書を作成し廣瀬宰平を総理に推挙
    • [8]1882年12月 住友吉左衞門・田中市兵衛ら大阪財界の有志および大手船主17名が発起人となった
    • [9]創立証書と創立旨意書は営業範囲を大阪以西の内国航路とし、資本金を汽船出資と通貨出資に分け、汽船出資には管船局の評価額に相当する株券を交付すると定めた
    • [10]1884年4月6日 第1回船舶検査が完了し76隻・約84万7200円の評価表を発表
    • [11]1884年4月の臨時株主総会で資本金を120万円に改定

1884年5月1日、有限責任大阪商船会社は大阪府北区富島町に本社を置き、資本金120万円で開業した。創業時の株主は590名で、10株未満の株主が54%を占め、汽船出資株主が全体の86%にのぼった。開業後も共榮社や宇和島運輸をはじめ各地の船主が経営航路へ入り、競争は全海域へ広がった。1890年7月、大阪商船は船主会に合併計算配当方法を提案し、大阪に乗船券合併発売所を置いて出港船に乗客定員率で利益を配分する方式を試みた。この方式が好成績を収めたため翌年には細島・宇和島・岡山・九州の各航路へ広げ、1893年には關西同盟汽船合併計算組本部として規約と制裁力を整えた。純益を計上できない年を1888年と1889年に挟みながら、1893年には純益金14万9000円まで戻して8分の配当を実行した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [12]1884年5月1日 有限責任大阪商船会社が大阪府北区富島町14番地に本社を置き資本金120万円で開業
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [13]創業時の株主は590名、10株未満の株主が54%、汽船出資株主が86%
    • [14]開業後 共榮社・宇和島運輸・伊豫汽船・日本共立汽船など各地の船主が経営航路へ侵入し競争が激化
    • [15]1890年7月 船主会に合併計算配当方法を提案、大阪に乗船券合併発売所を設け中国航路向け出港船に乗客定員率で利益配当
    • [16]1891年3月より細島・宇和島・岡山・九州の各航路へ拡大、1893年に同盟規約を改正し關西同盟汽船合併計算組本部と称した
    • [17]競争の激化により1888年度・1889年度は純益金の計上がなかった
    • [18]1893年は關西同盟汽船合併計算の本格化により純益金14万9000円、8分の株主配当を実行
参考文献[1]-[18]
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [1]西南戦争終了後 急増した船腹の消化のため瀬戸内の船主間で運賃引き下げ競争が激化
    • [2]1879年5月 大阪府が西洋型商船及び問屋取締假規則を布達し運賃競争を禁止、船主と問屋の連合を勧奨
    • [3]規則の布達後も運賃競争が続き、船舶の酷使と修繕不足で海上事故が増加し瀬戸内海の航海が不安になった
    • [4]1881年2月 大阪府が関係13県と連合して小型旅客汽船取締規則を布達、商船取締所の設置と運賃の認可、船主の申合規則を規定
    • [5]1881年4月 元扱い機関として大阪汽船取扱会社を設立、1882年5月 汽船持主盟約証書により資本金8000円の同盟汽船取扱会社を設立
    • [6]同盟汽船取扱会社の設立後も協定を破る船主があり、瀬戸内海運は競争と同盟を繰り返した
    • [7]1882年11月 同盟汽船取扱会社頭取の中原昌發、住友家総理の廣瀬宰平ら7名が商船会社設立の誓約書を作成し廣瀬宰平を総理に推挙
    • [8]1882年12月 住友吉左衞門・田中市兵衛ら大阪財界の有志および大手船主17名が発起人となった
    • [9]創立証書と創立旨意書は営業範囲を大阪以西の内国航路とし、資本金を汽船出資と通貨出資に分け、汽船出資には管船局の評価額に相当する株券を交付すると定めた
    • [10]1884年4月6日 第1回船舶検査が完了し76隻・約84万7200円の評価表を発表
    • [11]1884年4月の臨時株主総会で資本金を120万円に改定
    • [13]創業時の株主は590名、10株未満の株主が54%、汽船出資株主が86%
    • [14]開業後 共榮社・宇和島運輸・伊豫汽船・日本共立汽船など各地の船主が経営航路へ侵入し競争が激化
    • [15]1890年7月 船主会に合併計算配当方法を提案、大阪に乗船券合併発売所を設け中国航路向け出港船に乗客定員率で利益配当
    • [16]1891年3月より細島・宇和島・岡山・九州の各航路へ拡大、1893年に同盟規約を改正し關西同盟汽船合併計算組本部と称した
    • [17]競争の激化により1888年度・1889年度は純益金の計上がなかった
    • [18]1893年は關西同盟汽船合併計算の本格化により純益金14万9000円、8分の株主配当を実行
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [12]1884年5月1日 有限責任大阪商船会社が大阪府北区富島町14番地に本社を置き資本金120万円で開業

1876年〜三井物産の荷を運ぶ船舶部から独立した外航会社

三井船舶の起こりは官営三池炭鉱の石炭を運ぶ仕事にあり、1876年設立の三井物産が扱い荷の海上輸送に手を出したところから実質的な歩みが始まる。組織として初めて姿を見せたのは1903年4月で、三井物産の門司支店に船舶部が設けられた。荷主を兼ねる商社の一部門として始まったので、配船は自社の取扱貨物を運ぶことが柱となり、行き先を決めない不定期の運航が中心だった。このころ大阪商船はすでに近海へ進んでいた。1890年開設の大阪・釜山航路で旧来の沿岸海運から一歩踏み出し、日清戦争後は台湾・揚子江・華南・華北に定期航路を開いて近海の航権を固めていた。荷主を持たず航路そのものを商品にした会社と、自社の荷を運ぶために船を持った会社という、動機の異なる二つの船隊が並行して育った。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [19]三井物産が開始した官営三池炭鉱の石炭輸送が三井船舶の胚胎
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [20]三井船舶の実質的歴史は明治9年設立の三井物産が取扱貨物の海上輸送を手がけた時点に起源する
    • [21]1903年4月 三井物産門司支店内に船舶部を創設
    • [22]三井物産船舶部は社内取扱貨物の輸送を根幹としたため不定期的な配船が多かった
    • [23]大阪商船は1890年に大阪・釜山航路を開設して沿岸海運の域を脱し、日清戦争後に台湾・揚子江・華南・華北へ定期航路を開設して近海水域の航権を確立

1917年の三井物産船舶部は、社船21隻・10万重量トンを含む総計約128万重量トンの船腹を持ち、不定期船の世界で国際的な位置を占めていた。そこまで膨らんだのは第一次世界大戦を機に遠洋へ配船を広げたためで、社船の航路は北米・南米からアフリカ・地中海・欧州に及び、多数の用船も加えて世界中に船を回した。大戦後に海運が不況へ転じると、船舶部は次の段階に備え、定期航路に乗り出すことを検討した。最初の定期航路は1920年1月、剣山丸を第一船として大連・神戸・横浜・シアトルを結んだ北米線で、1938年ごろにかけて北米・ニューヨーク・マドラス・イラン湾・ボンベイ・天津などへ広がった。油槽船部門への進出は1936年である。社外荷の取扱いが進んだ結果、1942年12月に船舶部は三井物産から分離独立して三井船舶となった。第二次世界大戦では約80隻・50万重量トンを失い、残った船腹は15隻・5万7000重量トンにすぎなかった。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [24]1917年 社船21隻・10万重量トンを含め総計約128万重量トンの船腹を擁し国際的不定期船業者の地位を確立
    • [25]第一次世界大戦の勃発で三井物産船舶部は遠洋配船を実施、社船航路を北米・南米からアフリカ・地中海・欧州まで伸張
    • [26]第一次大戦終了後の不況期に三井物産船舶部は定期航路への進出を検討
    • [27]1920年1月 剣山丸を第一船とする大連・神戸・横浜・シアトル間の北米定期航路を開設、1938年ごろまでに北米・ニューヨーク・マドラス・イラン湾・ボンベイ・天津などへ定期航路を拡大、1936年に油槽船部門へ進出
    • [29]第二次大戦で三井船舶は約80隻・50万重量トンを喪失し残存船腹は15隻・5万7000重量トン
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1942年12月 三井物産の船舶部が分離独立して三井船舶が設立(外航海運会社)
参考文献[19]-[29]
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [19]三井物産が開始した官営三池炭鉱の石炭輸送が三井船舶の胚胎
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [20]三井船舶の実質的歴史は明治9年設立の三井物産が取扱貨物の海上輸送を手がけた時点に起源する
    • [21]1903年4月 三井物産門司支店内に船舶部を創設
    • [22]三井物産船舶部は社内取扱貨物の輸送を根幹としたため不定期的な配船が多かった
    • [23]大阪商船は1890年に大阪・釜山航路を開設して沿岸海運の域を脱し、日清戦争後に台湾・揚子江・華南・華北へ定期航路を開設して近海水域の航権を確立
    • [24]1917年 社船21隻・10万重量トンを含め総計約128万重量トンの船腹を擁し国際的不定期船業者の地位を確立
    • [25]第一次世界大戦の勃発で三井物産船舶部は遠洋配船を実施、社船航路を北米・南米からアフリカ・地中海・欧州まで伸張
    • [26]第一次大戦終了後の不況期に三井物産船舶部は定期航路への進出を検討
    • [27]1920年1月 剣山丸を第一船とする大連・神戸・横浜・シアトル間の北米定期航路を開設、1938年ごろまでに北米・ニューヨーク・マドラス・イラン湾・ボンベイ・天津などへ定期航路を拡大、1936年に油槽船部門へ進出
    • [29]第二次大戦で三井船舶は約80隻・50万重量トンを喪失し残存船腹は15隻・5万7000重量トン
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1942年12月 三井物産の船舶部が分離独立して三井船舶が設立(外航海運会社)

1946年〜戦時補償の打切りと海運二法が決めた合併

敗戦後の大阪商船は、船腹を開戦時の19%にあたる10万7000総トンまで減らしていたうえ、占領下の指定も重なって、1946年6月4日に関係会社32社と並んで制限会社とされたのを皮切りに、同年8月15日に特別経理会社、12月7日に持株会社、1948年2月8日には過度経済力集中排除会社の指定を受けた。財務の打撃は1946年10月公布の戦時補償特別措置法で、戦時補償請求権は全額が特別税として取り上げられ、海運業者の失った請求権は25億円に達し、大阪商船の負担4億5000万円は業界で最も重かった。1949年4月に出した整備計画は、増資して存続し、資本金を3億6000万円、保有船舶を36隻8万4000総トンとする内容だった。インフレが進んだことで土地・建物・船舶・株式を有利に処分でき、特別損失は消え、株主・債権者のいずれにも損を負わせずに計画は成立した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [30]大阪商船の終戦時の船腹は開戦時の19%・10万7000総トン
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [31]大阪商船は1946年6月4日に制限会社(関係会社32社とともに)、1946年8月15日に特別経理会社、1946年12月7日に持株会社、1948年2月8日に過度経済力集中排除会社の指定を受けた
    • [32]1946年10月18日 戦時補償特別措置法の公布により戦時補償請求権は全額が特別税として課税され、海運業者が失った請求権は25億円
    • [33]戦時補償特別税の大阪商船負担額は4億5000万円で海運業界最高
    • [34]1949年4月12日提出の整備計画は増資存続・資本金3億6000万円・保有船舶36隻8万4000総トン
    • [35]インフレーションの進行で土地・建物・船舶・株式の処分が有利に進み、特別損失は解消して株主にも債権者にも損失を与えなかった

戦後の日本海運は、戦時補償の打切りで自己資本を失ったまま、借入金だけで船を作り直した。1963年に業界が背負っていた負債は、財政資金1900億円・市中銀行1110億円・造船会社への延払860億円に運転資金700億円と修繕費の未払300億円を加えて約5000億円にのぼり、打ち切られた戦時補償の額にほぼ見合っていた。海運会社への助成に政府が付けた条件は、5年以内に法定の償却不足をなくすことと、合併で運航船腹を社船50万重量トンを含めた100万重量トン以上にすることであった。助成の根拠は海運業の再建整備に関する臨時措置法と利子補給法の改正で、施行は1963年7月1日である。これにより政府は、計画造船の支払利子の猶予と、以後の新造船への利子補給の強化を打ち出した。背景には、計画造船の新造船を多くの会社へ総花的に割り当てた結果、海運会社が一時200社を超え、過当競争で各社の経営が一段と弱っていたことがある。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [36]1947年に戦時補償が打ち切られたため、日本海運の現有船腹はすべて借入金によって建造された
    • [37]1963年時点の海運業界の負債は財政資金1900億円・市中銀行1110億円・造船会社への延払860億円・運転資金700億円・修繕費未払300億円で全体約5000億円、戦時補償打切額にほぼ見合う
    • [38]助成の条件として5年以内の償却不足解消と、合併により社船50万重量トンを含む運航船腹100万重量トン以上となることが課された
    • [40]計画造船の新造船割当が総花的に行われ海運会社は一時200社を超え、過当競争が各社の経営を弱めた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [39]1963年7月1日 海運業の再建整備に関する臨時措置法と利子補給法の改正が施行され、第17次以前の計画造船の支払利子を猶予し第18次以降の新造船への利子補給を強化

大阪商船と三井船舶は1963年12月9日に合併調印し、1964年4月1日に他の5中核体と一斉に発足した。新会社の資本金は131億円、所有船舶は86隻・127万重量トンだった。同じ集約で日本郵船は三菱海運を、川崎汽船は飯野海運から分離した飯野汽船を吸収し、日東商船と大同海運はジャパン・ラインに、山下汽船と新日本汽船は山下新日本汽船に、日本油槽船と日産汽船は昭和海運になって、6つの中核体が生まれた。大阪商船三井船舶には系列会社5社と専属会社26社が属した。社章は大阪商船の大と三井船舶の三を組み合わせ、新会社の発足にあたって制定された。一つの業界を対象に集約を前提とした助成は、ほかの業界にも世界にも例がなかった『このような1つの業界を対象として集約を前提とした助成は、恐らく他業界にはみられませんし、世界にもその類はないようであります。戦前の総動員法にも匹敵するものといえましよう』。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [41]大阪商船と三井船舶は1963年12月9日に合併調印し1964年4月1日に他の5中核体と一斉にスタート
    • [43]集約により日本郵船は三菱海運を、川崎汽船は飯野汽船を吸収合併し、日東商船と大同海運がジャパン・ライン、山下汽船と新日本汽船が山下新日本汽船、日本油槽船と日産汽船が昭和海運となり6中核体が誕生
    • [44]合併後の大阪商船三井船舶に属した系列会社は5社、専属会社は26社
    • [46]1つの業界を対象として集約を前提とした助成は他業界にも世界にも類がなく、戦前の総動員法に匹敵するものだった
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [42]合併時 資本金131億円・所有船舶86隻127万重量トン
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [45]社章は大阪商船の「大」と三井船舶の「三」を組み合わせ、1964年の新会社スタートにあたって制定
参考文献[30]-[46]
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [30]大阪商船の終戦時の船腹は開戦時の19%・10万7000総トン
    • [45]社章は大阪商船の「大」と三井船舶の「三」を組み合わせ、1964年の新会社スタートにあたって制定
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [31]大阪商船は1946年6月4日に制限会社(関係会社32社とともに)、1946年8月15日に特別経理会社、1946年12月7日に持株会社、1948年2月8日に過度経済力集中排除会社の指定を受けた
    • [32]1946年10月18日 戦時補償特別措置法の公布により戦時補償請求権は全額が特別税として課税され、海運業者が失った請求権は25億円
    • [33]戦時補償特別税の大阪商船負担額は4億5000万円で海運業界最高
    • [34]1949年4月12日提出の整備計画は増資存続・資本金3億6000万円・保有船舶36隻8万4000総トン
    • [35]インフレーションの進行で土地・建物・船舶・株式の処分が有利に進み、特別損失は解消して株主にも債権者にも損失を与えなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [36]1947年に戦時補償が打ち切られたため、日本海運の現有船腹はすべて借入金によって建造された
    • [37]1963年時点の海運業界の負債は財政資金1900億円・市中銀行1110億円・造船会社への延払860億円・運転資金700億円・修繕費未払300億円で全体約5000億円、戦時補償打切額にほぼ見合う
    • [38]助成の条件として5年以内の償却不足解消と、合併により社船50万重量トンを含む運航船腹100万重量トン以上となることが課された
    • [40]計画造船の新造船割当が総花的に行われ海運会社は一時200社を超え、過当競争が各社の経営を弱めた
    • [41]大阪商船と三井船舶は1963年12月9日に合併調印し1964年4月1日に他の5中核体と一斉にスタート
    • [43]集約により日本郵船は三菱海運を、川崎汽船は飯野汽船を吸収合併し、日東商船と大同海運がジャパン・ライン、山下汽船と新日本汽船が山下新日本汽船、日本油槽船と日産汽船が昭和海運となり6中核体が誕生
    • [44]合併後の大阪商船三井船舶に属した系列会社は5社、専属会社は26社
    • [46]1つの業界を対象として集約を前提とした助成は他業界にも世界にも類がなく、戦前の総動員法に匹敵するものだった
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [39]1963年7月1日 海運業の再建整備に関する臨時措置法と利子補給法の改正が施行され、第17次以前の計画造船の支払利子を猶予し第18次以降の新造船への利子補給を強化
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [42]合併時 資本金131億円・所有船舶86隻127万重量トン

第2章 1965年〜 集約で得た規模を市況と為替が削り、商号を改めるまで

1965年〜助成を前提に船腹を倍にした拡充計画

合併した時点の運航船腹は約230万重量トンで、うち社船が約133万トン、扱船が約100万トンだった。政府の中期経済計画は1964年度を初年度とする5か年で743万総トンの建造を掲げ、その内訳はタンカー369万総トン・専用船179万総トン・不定期船124万総トン・定期船71万総トンと、資源輸送に大きく寄せられていた。1935年に輸出1370万トン・輸入3291万トンだった日本の海上輸出入は、1964年度には輸出1764万トンに対し輸入が1億7383万トンとなり、比は1対3から1対9へ開いた。大阪商船三井船舶はこの計画に沿って第21次から第25次までの計画造船で65隻・約270万トンを建造し、1969年末の運航船腹を260隻・465万トンとする計画を立てた。所要資金は約970億円、年平均で約200億円の設備投資にあたった。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [47]1965年時点の現有船腹規模は約230万トン(社船約133万トン・扱船約100万トン)
    • [48]政府の中期経済計画は1964年度を初年度とする5か年で743万総トンの建造を計画(タンカー369万総トン・専用船179万総トン・不定期船124万総トン・定期船71万総トン)
    • [49]日本の海上輸出入は1935年の輸出1370万トン・輸入3291万トンから1964年度の輸出1764万トン・輸入1億7383万トンへ、比は1対3から1対9に
    • [50]第21次から第25次計画造船までに65隻・約270万トンを建造し1969年末の運航船腹を260隻465万トンとする船腹拡充計画
    • [51]船腹拡充計画の所要資金は約970億円、年間平均約200億円の設備投資

合併直後の決算は、1964年上期に償却前利益51億7900万円、下期に57億5000万円を計上した。1965年上期の時点で繰越欠損金は42億3100万円あり、償却範囲額33億7400万円を償却すれば残りが欠損の解消に充たって、下期には完全に消せる見通しだった。整備法上の償却不足も同じ時期に解消し、1966年上期から自立体制に入って下期に復配体制を確立する計画が置かれた。実際に復配が実現したのは1967年5月で、14年ぶりだった。助成の規模は大きく、1968年3月末時点の猶予利子は332億円、利子補給は248億円、合わせて580億円に達していた。整備計画を提出した41社の全体でも、1963年度末に662億円あった償却不足は1968年3月末に4億円へ、974億円あった約定延滞は47億円へ減った。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [52]1964年上期の償却前利益51億7900万円、下期57億5000万円
    • [53]1965年上期時点の繰越欠損金42億3100万円に対し償却範囲額33億7400万円を償却すると残り28億1600万円が欠損金の解消に充当され、下期には完全解消できる見通し
    • [54]整備法上の償却不足も1965年下期に解消し、1966年上期から自立体制に入り下期に復配体制を確立する計画
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [55]1967年5月 14年ぶりの復配が実現
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [56]1968年3月末現在の猶予利子額332億円、利子補給額248億円、合計580億円
    • [57]整備計画提出会社41社の償却不足累計は1963年度末662億円から1968年3月末4億円へ、約定延滞は974億円から47億円へ減少

海運の国際競争力を最も大きく左右するのは金利で、船舶経費のほぼ4割を占めた。比率は船が大きいほど高く、3万7000重量トン型の42%に対し、18万5000重量トン型では56%にのぼった。船員費でも差は大きく、英国デンホルム社が1万から1万5000重量トン型トランパーを調べたところ、日本船を100とすると中国船員配乗86、インド人船員配乗83、韓国人船員配乗69であった。これを支える助成は時限立法であった。1968年3月末に切れた利子補給は一年延ばされただけで、1969年3月末には全部が期限を迎える予定だった。大阪商船三井船舶は福田構想として、日本開発銀行に海運別枠融資部を設けて船主貸出金利を4%とし、建造量を毎年200万総トンに抑える制度案を示した。助成を受ける側ではなく、助成の設計を提案する側へ回っていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [58]海運では船舶経費の40%程度が金利であり国際競争力を左右する最大の要素
    • [59]船舶経費に占める金利の割合は3万7000重量トン型で42%、18万5000重量トン型で56%
    • [60]英国デンホルム社の調査で1万〜1万5000重量トン型トランパーの船員費は日本船を100として中国船員配乗86・インド人船員配乗83・韓国人船員配乗69
    • [61]1968年3月末で期限切れとなった利子補給は一年延長されたが1969年3月末にすべて期限切れとなる時限立法
    • [62]福田構想として日本開発銀行に海運別枠融資部を創設し船主貸出金利を4%とする船舶建造長期低利融資制度案を提示、建造量は毎年200万総トン
参考文献[47]-[62]
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [47]1965年時点の現有船腹規模は約230万トン(社船約133万トン・扱船約100万トン)
    • [48]政府の中期経済計画は1964年度を初年度とする5か年で743万総トンの建造を計画(タンカー369万総トン・専用船179万総トン・不定期船124万総トン・定期船71万総トン)
    • [49]日本の海上輸出入は1935年の輸出1370万トン・輸入3291万トンから1964年度の輸出1764万トン・輸入1億7383万トンへ、比は1対3から1対9に
    • [50]第21次から第25次計画造船までに65隻・約270万トンを建造し1969年末の運航船腹を260隻465万トンとする船腹拡充計画
    • [51]船腹拡充計画の所要資金は約970億円、年間平均約200億円の設備投資
    • [52]1964年上期の償却前利益51億7900万円、下期57億5000万円
    • [53]1965年上期時点の繰越欠損金42億3100万円に対し償却範囲額33億7400万円を償却すると残り28億1600万円が欠損金の解消に充当され、下期には完全解消できる見通し
    • [54]整備法上の償却不足も1965年下期に解消し、1966年上期から自立体制に入り下期に復配体制を確立する計画
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [55]1967年5月 14年ぶりの復配が実現
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [56]1968年3月末現在の猶予利子額332億円、利子補給額248億円、合計580億円
    • [57]整備計画提出会社41社の償却不足累計は1963年度末662億円から1968年3月末4億円へ、約定延滞は974億円から47億円へ減少
    • [58]海運では船舶経費の40%程度が金利であり国際競争力を左右する最大の要素
    • [59]船舶経費に占める金利の割合は3万7000重量トン型で42%、18万5000重量トン型で56%
    • [60]英国デンホルム社の調査で1万〜1万5000重量トン型トランパーの船員費は日本船を100として中国船員配乗86・インド人船員配乗83・韓国人船員配乗69
    • [61]1968年3月末で期限切れとなった利子補給は一年延長されたが1969年3月末にすべて期限切れとなる時限立法
    • [62]福田構想として日本開発銀行に海運別枠融資部を創設し船主貸出金利を4%とする船舶建造長期低利融資制度案を提示、建造量は毎年200万総トン

1974年〜市況の崩落に備えて簿価を落とす決算

1974年に32億8800万トンへ達した世界の海上荷動き量は、石油危機後の同時不況による貿易の停滞で1975年に30億5000万トンへ落ちた。運賃の下げ方はそれ以上に急で、アメリカ湾岸から日本までの穀物運賃は石油危機直後の最高34ドルから1977年には9ドルへ、ハンプトンローズから日本までの石炭運賃は約25ドルから最低3ドルへ落ちた。タンカーの基準運賃率は石油危機前の389.7から1975年には15まで下がり、26分の1になった。最近5年で値動きが目立った砂糖でも幅は7倍にとどまることを思えば、海運市況の振れ方に並ぶ商品市況はほかに例がなかった。1975年度の経常損益は10億円の赤字となり、1973年度の108億円、1974年度の137億円の黒字から一転した。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻4号 原奎一
    • [63]世界の海上荷動き量は1974年の32億8800万トンから1975年には30億5000万トンへ減少
    • [64]アメリカ湾岸から日本までの穀物運賃は石油危機直後の最高34ドルから1977年に9ドルへ、ハンプトンローズから日本までの石炭運賃は約25ドルから最低3ドルへ下落
    • [65]タンカーの基準運賃率は石油危機前の389.7から1975年には15まで下落(26分の1)
    • [66]直近5年で値動きの目立った砂糖でも変動幅は7倍程度で、海運市況ほど大きく変動する商品市況は他に例がない
    • [67]経常利益は1973年度108億円・1974年度137億円に対し1975年度は10億円の赤字

商品としての船腹は在庫できず、他産業の操短にあたる係船による供給調節も難しいため、必然的に供給過剰の性向を持つ。この見方は合併から4年後の調査部門がすでに示しており、運賃市況は長期的に低迷を続けるとみていた。大阪商船三井船舶の決算にはそれに備えた特徴があり、全社船を定率償却していた。船価100億円のタンカーであれば、耐用年数13年での初年度の償却額は定率で16億2000万円、定額なら約7億円と2分の1で済む。耐用年数の選択も償却方法も各社の自由で、1976年度からは航海距離比例方式も認められたため、各社の収益力は償却前でなければ比べられなくなっていた。在来船を売った益はすべて新造船の圧縮記帳に充て、1975年度は約50億円、1976年度は約35億円が新造タンカーの簿価圧縮に回った。

  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [68]商品としての船腹はストックが不可能で、係船による供給量の調節も難しく、必然的な供給過剰性向を持つ
    • [69]長期的・大勢的には構造的ともいうべき船腹供給圧力により運賃市況は低迷を続けるとの見通し(1968年時点)
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻4号 原奎一
    • [70]大阪商船三井船舶は全社船を定率償却していた
    • [71]船価100億円・耐用年数13年のタンカーの初年度償却額は定率で16億2000万円、定額では約7億円
    • [72]耐用年数と償却方法の選択は各社の自由で1976年度からは航海距離比例方式も認められ、各社の収益力は償却前でなければ比較できなくなった
    • [73]売船益はすべて新造船の圧縮記帳に充当し、1975年度は約50億円、1976年度は約35億円を新造タンカーの簿価圧縮に充当

作戦の初年度から簿価を下げておけば、市況が回復した際に早く採算へ乗せられる、という考え方が減量の土台にあった。1976年度はそのために、先々も収益の改善が見込めない用船タンカーの一部を解約し、大型2隻と小型3隻を売却した。1980年の年頭、社長の永井典彦氏はイラン革命後の中東情勢とソ連のアフガニスタン介入を挙げた。そのうえで、いまは不確実性の時代だと社員に説き、視界ゼロの霧中航海に神経を集中するよう求めた『われわれ海運人は、いかなる事態にも対応し、新時代にたくましく生きて行くための不断の勉強と努力を続け、全社一丸となって、視界ゼロの霧中航海に全神経を集中して、ゆっくりあせらず前進を続けて行きましょう』。実際に1979年上期の経常利益は36億7000万円と期初の予想を上回り、円安に加えて集荷の向上・諸費用の節減・船隊の合理化が寄与した。市況の戻りと減量が重なって、1982年度には売上高5454億円・営業利益229億円まで戻した。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻4号 原奎一
    • [74]償却をすべて定率で行い初年度から簿価を下げて将来の競争力を蓄える方針
    • [75]1976年度に収益向上の見込みのない用船タンカーの一部解約と大型タンカー2隻・小型タンカー3隻の売船による減量作戦を実施
  • 80年代わが社の戦略(1980)永井典彦「大阪商船三井船舶」
    • [76]1980年の年頭に社長の永井典彦氏がイラン革命後の中東情勢とソ連のアフガニスタン介入を挙げ、不確実性の時代に生きていると社員へ述べた
    • [77]1979年上期の中間決算は経常36億7000万円と期初予想を上回り、円安に加え集荷の向上・諸費用の節減・船隊の合理化が寄与
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [78]1983年3月期の実績は売上高5454億円・営業利益229億円
参考文献[63]-[78]
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻4号 原奎一
    • [63]世界の海上荷動き量は1974年の32億8800万トンから1975年には30億5000万トンへ減少
    • [64]アメリカ湾岸から日本までの穀物運賃は石油危機直後の最高34ドルから1977年に9ドルへ、ハンプトンローズから日本までの石炭運賃は約25ドルから最低3ドルへ下落
    • [65]タンカーの基準運賃率は石油危機前の389.7から1975年には15まで下落(26分の1)
    • [66]直近5年で値動きの目立った砂糖でも変動幅は7倍程度で、海運市況ほど大きく変動する商品市況は他に例がない
    • [67]経常利益は1973年度108億円・1974年度137億円に対し1975年度は10億円の赤字
    • [70]大阪商船三井船舶は全社船を定率償却していた
    • [71]船価100億円・耐用年数13年のタンカーの初年度償却額は定率で16億2000万円、定額では約7億円
    • [72]耐用年数と償却方法の選択は各社の自由で1976年度からは航海距離比例方式も認められ、各社の収益力は償却前でなければ比較できなくなった
    • [73]売船益はすべて新造船の圧縮記帳に充当し、1975年度は約50億円、1976年度は約35億円を新造タンカーの簿価圧縮に充当
    • [74]償却をすべて定率で行い初年度から簿価を下げて将来の競争力を蓄える方針
    • [75]1976年度に収益向上の見込みのない用船タンカーの一部解約と大型タンカー2隻・小型タンカー3隻の売船による減量作戦を実施
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [68]商品としての船腹はストックが不可能で、係船による供給量の調節も難しく、必然的な供給過剰性向を持つ
    • [69]長期的・大勢的には構造的ともいうべき船腹供給圧力により運賃市況は低迷を続けるとの見通し(1968年時点)
  • 80年代わが社の戦略(1980)永井典彦「大阪商船三井船舶」
    • [76]1980年の年頭に社長の永井典彦氏がイラン革命後の中東情勢とソ連のアフガニスタン介入を挙げ、不確実性の時代に生きていると社員へ述べた
    • [77]1979年上期の中間決算は経常36億7000万円と期初予想を上回り、円安に加え集荷の向上・諸費用の節減・船隊の合理化が寄与
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [78]1983年3月期の実績は売上高5454億円・営業利益229億円

1988年〜円で入る収入を増やし、費用の通貨を替える

日本人だけで乗り組めば1隻の船員費は年間4億円を超えるが、東南アジアの船員に置き換えれば6000万円に収まる。海運会社の収入はほぼドル建てなのに支払いは円が多く、1985年のプラザ合意後の円高がこの食い違いを突いたことで、日本人船員の数を限界まで削る合理化が各社で大がかりに進んだ。1968年に始まっていた仕組み船もプラザ合意を境に増え、1984年度に1957人いた日本人船員は1992年度には684人と3分の1になった。1990年3月期に3期連続の無配から復配を果たしたものの、売上高4116億円・営業利益150億円は、不況期前の1983年3月期にまだ届いていなかった。

  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [79]日本人船員だけの場合1隻当たりの船員費は年間4億円超、東南アジア船員だけなら6000万円
  • 日経ビジネス 1993年10月4日号
    • [80]海運業は受け取る運賃のほとんどがドル建てで支出は円払いが多い
    • [81]1985年以来の円高に見舞われ海運各社は日本人船員をぎりぎりまで減らす大規模な合理化に踏み切った
    • [83]日本人船員(海上従業員)は1984年度の1957人から1992年度には684人へ3分の1に減少
  • 日経ビジネス 1998年5月25日号
    • [82]1968年から海外に船籍を置いて外国の船員を雇う仕組み船を始め、1985年のプラザ合意の後に加速
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [84]3期連続無配から1990年3月期に復配、同期の売上高4116億円・営業利益150億円は1983年3月期の売上高5454億円・営業利益229億円に及ばない

1989年6月に定めた企業ビジョンのチャレンジ21は、外航海運業から脱皮して海上・陸上・航空輸送を組み合わせる総合物流業への転換と、個人マーケットへの進出を柱に据えた。1990年3月期に71.2%だった海上輸送の売上構成比を、2001年には51%へ下げる目標だった。1990年、経営再建中の関西汽船の株式12%を取得し、その引き受けの条件として来島グループのダイヤモンドフェリー・室戸汽船・愛媛阪神フェリー3社の経営権の譲渡を申し入れて実現させた。関西汽船はもともと大阪商船系の海運会社で、財閥解体で資本関係は切れていたものの人材面の交流は続いていた。これで全国長距離フェリー21航路49隻のうち8航路23隻を押さえ、グループのフェリー各社の売上高は約700億円、全額が円収入となった。

  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [85]1989年6月 21世紀に向けた企業ビジョン「チャレンジ21」を策定、外航海運業から脱皮した総合物流業への転換と個人マーケットへの進出が柱
    • [86]1990年3月期に71.2%だった海上輸送の売上構成比を2001年に51%へ下げる目標(売上高1兆5000億円)
    • [87]1990年 関西汽船株12%を取得し、引き受けの条件として来島グループのダイヤモンドフェリー・室戸汽船・愛媛阪神フェリー3社の経営権譲渡を申し入れて実現
    • [88]関西汽船はもともと大阪商船系の海運会社で、敗戦後の財閥解体で資本関係はなくなったが人材面の交流は続いていた
    • [89]全国長距離フェリー21航路49隻のうち8航路23隻を押さえ、グループのフェリー会社の総売上は約700億円で全額が円収入

総合物流化のための投資は年1300億から1400億円に達し、1991年3月期の経常利益109億円に対して過大ではないかという問いに、社長の轉法輪奏氏は確かに多いと認めていた。1993年の円高はその途中で襲い、1円の円高が経常利益を約4億円削る構造のもとで、1994年3月期の営業損益は6期ぶりの赤字に転じる見通しとなった。中期の対策として掲げたのは、債務・投資・機構の三つを海外へ出すことだった。円建ての債務を返してドル資金を調達し、日本より2割ほど安い中国の造船所で船を造り、航路管理と事務部門を海外法人へ移す。1989年にシンガポールへ設けたオーシャンゲート社が現地とインド・パキスタン間の航路管理を担い、1993年5月からは東アフリカ・豪州航路が加わった。本社の男性社員一人あたりの経費は年およそ2000万円で、20人の海外異動が1円の円高を埋める計算だった。

  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [90]総合物流化のための投資は年1300億〜1400億円を3年ほど継続、1991年3月期の経常利益109億円に対し過大ではないかとの問いに社長は確かに多いと回答
  • 日経ビジネス 1993年10月4日号
    • [91]1円の円高で経常利益が約4億円のマイナス、1994年3月期の営業利益は6期ぶりの赤字に転じる見通し
    • [92]2〜3年先を見た対策として債務・投資・機構の三つを海外へ出すことを掲げた
    • [93]円建て債務を返済してドル資金を調達し、日本より2割ほど安い中国の造船所で建造し、航路管理と事務部門を海外法人へ移管する方針
    • [94]1989年にシンガポールに設立したオーシャンゲート社が現地とインド・パキスタン間の航路を管理し、1993年5月から東アフリカ・豪州航路が加わった
    • [95]本社男性社員一人あたりの経費は年およそ2000万円で、1円の円高を本社社員20人分の海外異動でカバーできる

定期船の分野では、1984年の米国の法改正で運賃のカルテル行為が禁じられて以降、太平洋を走る船会社は約40社から半減し、各社とも赤字が増えていた。当時専務であった生田正治氏は1992年から1993年ごろにかけて国際企業連合という発想を持ち、外航海運として世界初となる組成を1994年に実現した。狙いは運賃の値上げではなく合理化にあり、各社が集めた荷物を同じ船に積む共同運航から着手し、その後コンテナ・ターミナルの共用や船の共同発注へと広げている。1964年には5800人全員が日本人であった社員構成は、1998年には日本人1660人・外国人9400人の計1万1060人へ変わった。同じころ、運航していた352隻のうち他社からの用船が154隻、残る198隻のうち159隻は仕組み船であった。1998年3月期には5期ぶりの復配を果たし、1999年4月にはナビックスラインと合併して商号を株式会社商船三井へ改めている。

  • 日経ビジネス 1998年5月25日号
    • [96]1984年の米国の法改正で運賃のカルテル行為が禁止され、太平洋を走る船会社は約40社から半減、定期船分野は各社とも赤字が増える状態だった
    • [97]専務時代の生田正治氏が1992〜1993年ごろに国際企業連合を発想し、外航海運として世界で初めて1994年に発足させた
    • [98]国際企業連合の目的は運賃協定ではなく合理化で、共同運航に加えコンテナ・ターミナルの共用や船・コンテナの共同発注へ広げた
    • [99]1964年は陸上と海上を合わせた社員約5800人がすべて日本人、1998年は日本人1660人・外国人9400人の計1万1060人。運航352隻のうち154隻が用船、残る198隻のうち159隻が仕組み船
    • [100]1998年3月期は増益となり5期ぶりに復配
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [101]1999年4月 大阪商船三井船舶がナビックスラインと合併し商号を株式会社商船三井へ変更
参考文献[79]-[101]
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [79]日本人船員だけの場合1隻当たりの船員費は年間4億円超、東南アジア船員だけなら6000万円
    • [90]総合物流化のための投資は年1300億〜1400億円を3年ほど継続、1991年3月期の経常利益109億円に対し過大ではないかとの問いに社長は確かに多いと回答
  • 日経ビジネス 1993年10月4日号
    • [80]海運業は受け取る運賃のほとんどがドル建てで支出は円払いが多い
    • [81]1985年以来の円高に見舞われ海運各社は日本人船員をぎりぎりまで減らす大規模な合理化に踏み切った
    • [83]日本人船員(海上従業員)は1984年度の1957人から1992年度には684人へ3分の1に減少
    • [91]1円の円高で経常利益が約4億円のマイナス、1994年3月期の営業利益は6期ぶりの赤字に転じる見通し
    • [92]2〜3年先を見た対策として債務・投資・機構の三つを海外へ出すことを掲げた
    • [93]円建て債務を返済してドル資金を調達し、日本より2割ほど安い中国の造船所で建造し、航路管理と事務部門を海外法人へ移管する方針
    • [94]1989年にシンガポールに設立したオーシャンゲート社が現地とインド・パキスタン間の航路を管理し、1993年5月から東アフリカ・豪州航路が加わった
    • [95]本社男性社員一人あたりの経費は年およそ2000万円で、1円の円高を本社社員20人分の海外異動でカバーできる
  • 日経ビジネス 1998年5月25日号
    • [82]1968年から海外に船籍を置いて外国の船員を雇う仕組み船を始め、1985年のプラザ合意の後に加速
    • [96]1984年の米国の法改正で運賃のカルテル行為が禁止され、太平洋を走る船会社は約40社から半減、定期船分野は各社とも赤字が増える状態だった
    • [97]専務時代の生田正治氏が1992〜1993年ごろに国際企業連合を発想し、外航海運として世界で初めて1994年に発足させた
    • [98]国際企業連合の目的は運賃協定ではなく合理化で、共同運航に加えコンテナ・ターミナルの共用や船・コンテナの共同発注へ広げた
    • [99]1964年は陸上と海上を合わせた社員約5800人がすべて日本人、1998年は日本人1660人・外国人9400人の計1万1060人。運航352隻のうち154隻が用船、残る198隻のうち159隻が仕組み船
    • [100]1998年3月期は増益となり5期ぶりに復配
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [84]3期連続無配から1990年3月期に復配、同期の売上高4116億円・営業利益150億円は1983年3月期の売上高5454億円・営業利益229億円に及ばない
    • [85]1989年6月 21世紀に向けた企業ビジョン「チャレンジ21」を策定、外航海運業から脱皮した総合物流業への転換と個人マーケットへの進出が柱
    • [86]1990年3月期に71.2%だった海上輸送の売上構成比を2001年に51%へ下げる目標(売上高1兆5000億円)
    • [87]1990年 関西汽船株12%を取得し、引き受けの条件として来島グループのダイヤモンドフェリー・室戸汽船・愛媛阪神フェリー3社の経営権譲渡を申し入れて実現
    • [88]関西汽船はもともと大阪商船系の海運会社で、敗戦後の財閥解体で資本関係はなくなったが人材面の交流は続いていた
    • [89]全国長距離フェリー21航路49隻のうち8航路23隻を押さえ、グループのフェリー会社の総売上は約700億円で全額が円収入
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [101]1999年4月 大阪商船三井船舶がナビックスラインと合併し商号を株式会社商船三井へ変更

第3章 2000-2008 (気が向いたら執筆します!) 商船三井フェリーの発足とダイビル買収、2008年の過去最高益

第4章 2009-2015 (気が向いたら執筆します!) 関西汽船・日産専用船の子会社化とLNG船の長期契約化

第5章 2016-2020 (気が向いたら執筆します!) 邦船3社のコンテナ船事業統合とONEの営業開始

第6章 2021-2026 (気が向いたら執筆します!) 橋本剛体制の最高益とダイビル完全子会社化、Gearbulk買収とエリオットの要請

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歴史年表 1884〜2026年

商船三井の沿革1884〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1884〜1964年瀬戸内の船主連合と三井物産の船舶部が海運集約で1社になるまで大阪商船が設立★★
三井船舶が三井物産の船舶部から分離独立★★
進藤孝二海運集約政策のもとでの二社統合による、新会社発足という再編

1963年12月9日、大阪商船と三井船舶が合併に調印し、1964年4月1日、他の5中核体と一斉に大阪商船三井船舶株式会社が発足した。1963年7月施行の海運二法が、利子の猶予・補給という助成の条件として海運会社の合併と運航船腹100万重量トン以上を求めたためで、外航海運は6つの中核体に集約された。法的には三井船舶を存続会社としながら、本店は大阪市に置き、商号には両社の名を並べた。

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1965〜1999年集約で得た規模を市況と為替が削り、商号を改めるまで進藤孝二内航近海部門を分離し商船三井近海を設立★
福田久雄日本沿海フェリーが発足★
福田久雄船客部門を分離し商船三井客船を設立★
相浦紀一郎定期船・物流統括会社MOL(AMERICA)を設立★
轉法輪奏山下新日本汽船とジャパンラインが合併しナビックスラインが発足★★
轉法輪奏三井航空サービスと商船航空サービスが合併★
轉法輪奏ダイヤモンドフェリーに資本参加★
轉法輪奏日本海汽船を合併★
生田正治東京マリンを子会社化(後のMOL Chemical Tankers)★
生田正治BGTプロジェクト関連企業3社を子会社化★
生田正治対等合併による規模の拡大と、「商船三井」への商号変更

1998年11月20日、大阪商船三井船舶はナビックスラインとの対等合併を発表し、1999年4月1日に合併して商号を株式会社商船三井へ変更した。合併交渉は1997年9月に生田正治社長がナビックスラインの堀憲明社長へ持ちかけたもので、日本郵船と昭和海運の合併発表より前に始まっていた。1964年から35年使われた"大阪商船三井船舶"の商号はここで終わった。

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2000〜2008年商船三井フェリーの発足とダイビル買収、2008年の過去最高益鈴木邦雄商船三井フェリーが発足★
芦田昭充ダイビルを公開買付で子会社化★★
芦田昭充経常利益3022億円を計上(過去最高水準)★
2009〜2015年関西汽船・日産専用船の子会社化とLNG船の長期契約化芦田昭充関西汽船を子会社化★
芦田昭充日産専用船を子会社化★
武藤光一スポット運賃で稼ぐ不定期船経営からの脱却と、収益構造の安定化

2010年代前半、商船三井はスポット運賃に賭ける不定期船経営から、20年近い長期契約が主となるLNG船へ収益源を移した。2013年6月時点のLNG船隊は69隻で世界首位であった。

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武藤光一立入検査より前に違反行為を止め、自ら申告する側に回って命令を免れた選択

2012年9月6日、公正取引委員会が自動車・車両系機械等の貨物の輸送に関する独占禁止法違反の疑いで立入検査に入った。2014年3月18日、同委員会は特定自動車運送業務の取引に関連して複数の事業会社へ排除措置命令と課徴金納付命令を発表している。商船三井は立入検査より前に違反のある行為を取り止めていたことと、同委員会に対し課徴金減免制度の適用を申請してこれが認められたことにより、いずれの命令も受けていない。 連結子会社の日産専用船も同じ制度の適用を申請したが、認められたのは課徴金の減額にとどまり、排除措置命令と課徴金納付命令の両方を受けた。

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池田潤一郎池田潤一郎氏が社長に就任★
2016〜2020年邦船3社のコンテナ船事業統合とONEの営業開始池田潤一郎邦船3社の共同出資会社への切り出しと、単独運営の終了

2016年10月、商船三井は日本郵船・川崎汽船とコンテナ船および海外ターミナル事業の統合を発表し、2017年7月にオーシャンネットワークエクスプレス(ONE)を設立、2018年4月にサービスを開始した。出資比率は日本郵船38%、商船三井と川崎汽船が各31%。売上の4割を占めた事業は連結対象から外れ、持分法投資損益の一行へ姿を変えた。

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池田潤一郎ONE(Ocean Network Express)を設立★★
池田潤一郎ONEがサービス開始★
2021〜2026年橋本剛体制の最高益とダイビル完全子会社化、Gearbulk買収とエリオットの要請橋本剛橋本剛氏が社長に就任★
橋本剛経常利益7217億円を計上★
橋本剛宇徳とダイビルを公開買付で完全子会社化★★
橋本剛スイスのGearbulk Holdingを子会社化★★
橋本剛3,000億円規模の要請を受けた、累進配当・総還元性向40%への転換

2026年3月、米アクティビストのエリオット・インベストメント・マネジメントが商船三井株を取得し、株主還元の強化を要請した。

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出典・参考 11件
出典・参考
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻4号 原奎一
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
  • 日経ビジネス 1993年10月4日号
  • 日経ビジネス 1998年5月25日号
  • 80年代わが社の戦略(1980)永井典彦「大阪商船三井船舶」

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