西南戦争が終わると瀬戸内海には船が余り、船主は互いに運賃を引き下げて貨客を奪い合った。大阪府は1879年5月に西洋型商船及び問屋取締假規則を布達して運賃競争を禁じ、船主と問屋の連合を勧奨した。それでも裏では運賃競争が続き、船舶を酷使して修繕も行き届かず、瀬戸内海の航海は不安なものになった。運賃は認可制とされ、船主には申合規則を設けることが義務づけられた。根拠は、1881年2月に大阪府が関係13県と組んで布達した小型旅客汽船取締規則と、これにより置かれた商船取締所である。船主側はこれに応え、同年4月に大阪汽船取扱会社を、翌年5月には汽船持主盟約証書を取り交わして同盟汽船取扱会社を立ち上げた。それでも協定に背いて自分の利益を図る船主は後を絶たず、手を結んでは争い、争っては再び手を結ぶことが繰り返された。
会社設立を主導したのは、同盟汽船取扱会社頭取の中原昌發と住友家総理の廣瀬宰平ら7名で、1882年11月に大阪出入港の各汽船を団結して商船会社を設立する旨の誓約書を作り、廣瀬宰平を総理に推した。翌12月には住友吉左衞門・田中市兵衛ら大阪財界の有志と大手船主17名が発起人となった。創立証書は営業を大阪以西の内国航路に限り、資本金を汽船出資と通貨出資に分け、汽船出資には農商務省管船局の評価額に相当する株券を交付すると定めた。船を現金に換えずそのまま資本へ振り替える仕組みで、運用資本の乏しい船主でも持ち船の評価額のぶんだけ株主になれた。1884年4月の第1回船舶検査では76隻・約84万7200円が評価され、同月の臨時株主総会で資本金は120万円に改められた。
1884年5月1日、有限責任大阪商船会社は大阪府北区富島町に本社を置き、資本金120万円で開業した。創業時の株主は590名で、10株未満の株主が54%を占め、汽船出資株主が全体の86%にのぼった。開業後も共榮社や宇和島運輸をはじめ各地の船主が経営航路へ入り、競争は全海域へ広がった。1890年7月、大阪商船は船主会に合併計算配当方法を提案し、大阪に乗船券合併発売所を置いて出港船に乗客定員率で利益を配分する方式を試みた。この方式が好成績を収めたため翌年には細島・宇和島・岡山・九州の各航路へ広げ、1893年には關西同盟汽船合併計算組本部として規約と制裁力を整えた。純益を計上できない年を1888年と1889年に挟みながら、1893年には純益金14万9000円まで戻して8分の配当を実行した。
三井船舶の起こりは官営三池炭鉱の石炭を運ぶ仕事にあり、1876年設立の三井物産が扱い荷の海上輸送に手を出したところから実質的な歩みが始まる。組織として初めて姿を見せたのは1903年4月で、三井物産の門司支店に船舶部が設けられた。荷主を兼ねる商社の一部門として始まったので、配船は自社の取扱貨物を運ぶことが柱となり、行き先を決めない不定期の運航が中心だった。このころ大阪商船はすでに近海へ進んでいた。1890年開設の大阪・釜山航路で旧来の沿岸海運から一歩踏み出し、日清戦争後は台湾・揚子江・華南・華北に定期航路を開いて近海の航権を固めていた。荷主を持たず航路そのものを商品にした会社と、自社の荷を運ぶために船を持った会社という、動機の異なる二つの船隊が並行して育った。
1917年の三井物産船舶部は、社船21隻・10万重量トンを含む総計約128万重量トンの船腹を持ち、不定期船の世界で国際的な位置を占めていた。そこまで膨らんだのは第一次世界大戦を機に遠洋へ配船を広げたためで、社船の航路は北米・南米からアフリカ・地中海・欧州に及び、多数の用船も加えて世界中に船を回した。大戦後に海運が不況へ転じると、船舶部は次の段階に備え、定期航路に乗り出すことを検討した。最初の定期航路は1920年1月、剣山丸を第一船として大連・神戸・横浜・シアトルを結んだ北米線で、1938年ごろにかけて北米・ニューヨーク・マドラス・イラン湾・ボンベイ・天津などへ広がった。油槽船部門への進出は1936年である。社外荷の取扱いが進んだ結果、1942年12月に船舶部は三井物産から分離独立して三井船舶となった。第二次世界大戦では約80隻・50万重量トンを失い、残った船腹は15隻・5万7000重量トンにすぎなかった。
敗戦後の大阪商船は、船腹を開戦時の19%にあたる10万7000総トンまで減らしていたうえ、占領下の指定も重なって、1946年6月4日に関係会社32社と並んで制限会社とされたのを皮切りに、同年8月15日に特別経理会社、12月7日に持株会社、1948年2月8日には過度経済力集中排除会社の指定を受けた。財務の打撃は1946年10月公布の戦時補償特別措置法で、戦時補償請求権は全額が特別税として取り上げられ、海運業者の失った請求権は25億円に達し、大阪商船の負担4億5000万円は業界で最も重かった。1949年4月に出した整備計画は、増資して存続し、資本金を3億6000万円、保有船舶を36隻8万4000総トンとする内容だった。インフレが進んだことで土地・建物・船舶・株式を有利に処分でき、特別損失は消え、株主・債権者のいずれにも損を負わせずに計画は成立した。
戦後の日本海運は、戦時補償の打切りで自己資本を失ったまま、借入金だけで船を作り直した。1963年に業界が背負っていた負債は、財政資金1900億円・市中銀行1110億円・造船会社への延払860億円に運転資金700億円と修繕費の未払300億円を加えて約5000億円にのぼり、打ち切られた戦時補償の額にほぼ見合っていた。海運会社への助成に政府が付けた条件は、5年以内に法定の償却不足をなくすことと、合併で運航船腹を社船50万重量トンを含めた100万重量トン以上にすることであった。助成の根拠は海運業の再建整備に関する臨時措置法と利子補給法の改正で、施行は1963年7月1日である。これにより政府は、計画造船の支払利子の猶予と、以後の新造船への利子補給の強化を打ち出した。背景には、計画造船の新造船を多くの会社へ総花的に割り当てた結果、海運会社が一時200社を超え、過当競争で各社の経営が一段と弱っていたことがある。
大阪商船と三井船舶は1963年12月9日に合併調印し、1964年4月1日に他の5中核体と一斉に発足した。新会社の資本金は131億円、所有船舶は86隻・127万重量トンだった。同じ集約で日本郵船は三菱海運を、川崎汽船は飯野海運から分離した飯野汽船を吸収し、日東商船と大同海運はジャパン・ラインに、山下汽船と新日本汽船は山下新日本汽船に、日本油槽船と日産汽船は昭和海運になって、6つの中核体が生まれた。大阪商船三井船舶には系列会社5社と専属会社26社が属した。社章は大阪商船の大と三井船舶の三を組み合わせ、新会社の発足にあたって制定された。一つの業界を対象に集約を前提とした助成は、ほかの業界にも世界にも例がなかった『このような1つの業界を対象として集約を前提とした助成は、恐らく他業界にはみられませんし、世界にもその類はないようであります。戦前の総動員法にも匹敵するものといえましよう』。
合併した時点の運航船腹は約230万重量トンで、うち社船が約133万トン、扱船が約100万トンだった。政府の中期経済計画は1964年度を初年度とする5か年で743万総トンの建造を掲げ、その内訳はタンカー369万総トン・専用船179万総トン・不定期船124万総トン・定期船71万総トンと、資源輸送に大きく寄せられていた。1935年に輸出1370万トン・輸入3291万トンだった日本の海上輸出入は、1964年度には輸出1764万トンに対し輸入が1億7383万トンとなり、比は1対3から1対9へ開いた。大阪商船三井船舶はこの計画に沿って第21次から第25次までの計画造船で65隻・約270万トンを建造し、1969年末の運航船腹を260隻・465万トンとする計画を立てた。所要資金は約970億円、年平均で約200億円の設備投資にあたった。
合併直後の決算は、1964年上期に償却前利益51億7900万円、下期に57億5000万円を計上した。1965年上期の時点で繰越欠損金は42億3100万円あり、償却範囲額33億7400万円を償却すれば残りが欠損の解消に充たって、下期には完全に消せる見通しだった。整備法上の償却不足も同じ時期に解消し、1966年上期から自立体制に入って下期に復配体制を確立する計画が置かれた。実際に復配が実現したのは1967年5月で、14年ぶりだった。助成の規模は大きく、1968年3月末時点の猶予利子は332億円、利子補給は248億円、合わせて580億円に達していた。整備計画を提出した41社の全体でも、1963年度末に662億円あった償却不足は1968年3月末に4億円へ、974億円あった約定延滞は47億円へ減った。
海運の国際競争力を最も大きく左右するのは金利で、船舶経費のほぼ4割を占めた。比率は船が大きいほど高く、3万7000重量トン型の42%に対し、18万5000重量トン型では56%にのぼった。船員費でも差は大きく、英国デンホルム社が1万から1万5000重量トン型トランパーを調べたところ、日本船を100とすると中国船員配乗86、インド人船員配乗83、韓国人船員配乗69であった。これを支える助成は時限立法であった。1968年3月末に切れた利子補給は一年延ばされただけで、1969年3月末には全部が期限を迎える予定だった。大阪商船三井船舶は福田構想として、日本開発銀行に海運別枠融資部を設けて船主貸出金利を4%とし、建造量を毎年200万総トンに抑える制度案を示した。助成を受ける側ではなく、助成の設計を提案する側へ回っていた。
1974年に32億8800万トンへ達した世界の海上荷動き量は、石油危機後の同時不況による貿易の停滞で1975年に30億5000万トンへ落ちた。運賃の下げ方はそれ以上に急で、アメリカ湾岸から日本までの穀物運賃は石油危機直後の最高34ドルから1977年には9ドルへ、ハンプトンローズから日本までの石炭運賃は約25ドルから最低3ドルへ落ちた。タンカーの基準運賃率は石油危機前の389.7から1975年には15まで下がり、26分の1になった。最近5年で値動きが目立った砂糖でも幅は7倍にとどまることを思えば、海運市況の振れ方に並ぶ商品市況はほかに例がなかった。1975年度の経常損益は10億円の赤字となり、1973年度の108億円、1974年度の137億円の黒字から一転した。
商品としての船腹は在庫できず、他産業の操短にあたる係船による供給調節も難しいため、必然的に供給過剰の性向を持つ。この見方は合併から4年後の調査部門がすでに示しており、運賃市況は長期的に低迷を続けるとみていた。大阪商船三井船舶の決算にはそれに備えた特徴があり、全社船を定率償却していた。船価100億円のタンカーであれば、耐用年数13年での初年度の償却額は定率で16億2000万円、定額なら約7億円と2分の1で済む。耐用年数の選択も償却方法も各社の自由で、1976年度からは航海距離比例方式も認められたため、各社の収益力は償却前でなければ比べられなくなっていた。在来船を売った益はすべて新造船の圧縮記帳に充て、1975年度は約50億円、1976年度は約35億円が新造タンカーの簿価圧縮に回った。
作戦の初年度から簿価を下げておけば、市況が回復した際に早く採算へ乗せられる、という考え方が減量の土台にあった。1976年度はそのために、先々も収益の改善が見込めない用船タンカーの一部を解約し、大型2隻と小型3隻を売却した。1980年の年頭、社長の永井典彦氏はイラン革命後の中東情勢とソ連のアフガニスタン介入を挙げた。そのうえで、いまは不確実性の時代だと社員に説き、視界ゼロの霧中航海に神経を集中するよう求めた『われわれ海運人は、いかなる事態にも対応し、新時代にたくましく生きて行くための不断の勉強と努力を続け、全社一丸となって、視界ゼロの霧中航海に全神経を集中して、ゆっくりあせらず前進を続けて行きましょう』。実際に1979年上期の経常利益は36億7000万円と期初の予想を上回り、円安に加えて集荷の向上・諸費用の節減・船隊の合理化が寄与した。市況の戻りと減量が重なって、1982年度には売上高5454億円・営業利益229億円まで戻した。
日本人だけで乗り組めば1隻の船員費は年間4億円を超えるが、東南アジアの船員に置き換えれば6000万円に収まる。海運会社の収入はほぼドル建てなのに支払いは円が多く、1985年のプラザ合意後の円高がこの食い違いを突いたことで、日本人船員の数を限界まで削る合理化が各社で大がかりに進んだ。1968年に始まっていた仕組み船もプラザ合意を境に増え、1984年度に1957人いた日本人船員は1992年度には684人と3分の1になった。1990年3月期に3期連続の無配から復配を果たしたものの、売上高4116億円・営業利益150億円は、不況期前の1983年3月期にまだ届いていなかった。
1989年6月に定めた企業ビジョンのチャレンジ21は、外航海運業から脱皮して海上・陸上・航空輸送を組み合わせる総合物流業への転換と、個人マーケットへの進出を柱に据えた。1990年3月期に71.2%だった海上輸送の売上構成比を、2001年には51%へ下げる目標だった。1990年、経営再建中の関西汽船の株式12%を取得し、その引き受けの条件として来島グループのダイヤモンドフェリー・室戸汽船・愛媛阪神フェリー3社の経営権の譲渡を申し入れて実現させた。関西汽船はもともと大阪商船系の海運会社で、財閥解体で資本関係は切れていたものの人材面の交流は続いていた。これで全国長距離フェリー21航路49隻のうち8航路23隻を押さえ、グループのフェリー各社の売上高は約700億円、全額が円収入となった。
総合物流化のための投資は年1300億から1400億円に達し、1991年3月期の経常利益109億円に対して過大ではないかという問いに、社長の轉法輪奏氏は確かに多いと認めていた。1993年の円高はその途中で襲い、1円の円高が経常利益を約4億円削る構造のもとで、1994年3月期の営業損益は6期ぶりの赤字に転じる見通しとなった。中期の対策として掲げたのは、債務・投資・機構の三つを海外へ出すことだった。円建ての債務を返してドル資金を調達し、日本より2割ほど安い中国の造船所で船を造り、航路管理と事務部門を海外法人へ移す。1989年にシンガポールへ設けたオーシャンゲート社が現地とインド・パキスタン間の航路管理を担い、1993年5月からは東アフリカ・豪州航路が加わった。本社の男性社員一人あたりの経費は年およそ2000万円で、20人の海外異動が1円の円高を埋める計算だった。
定期船の分野では、1984年の米国の法改正で運賃のカルテル行為が禁じられて以降、太平洋を走る船会社は約40社から半減し、各社とも赤字が増えていた。当時専務であった生田正治氏は1992年から1993年ごろにかけて国際企業連合という発想を持ち、外航海運として世界初となる組成を1994年に実現した。狙いは運賃の値上げではなく合理化にあり、各社が集めた荷物を同じ船に積む共同運航から着手し、その後コンテナ・ターミナルの共用や船の共同発注へと広げている。1964年には5800人全員が日本人であった社員構成は、1998年には日本人1660人・外国人9400人の計1万1060人へ変わった。同じころ、運航していた352隻のうち他社からの用船が154隻、残る198隻のうち159隻は仕組み船であった。1998年3月期には5期ぶりの復配を果たし、1999年4月にはナビックスラインと合併して商号を株式会社商船三井へ改めている。
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|---|---|---|---|---|
| 1884〜1964年瀬戸内の船主連合と三井物産の船舶部が海運集約で1社になるまで | 大阪商船が設立 | ★★ | ||
| 三井船舶が三井物産の船舶部から分離独立 | ★★ | |||
| 進藤孝二 | 海運集約政策のもとでの二社統合による、新会社発足という再編 1963年12月9日、大阪商船と三井船舶が合併に調印し、1964年4月1日、他の5中核体と一斉に大阪商船三井船舶株式会社が発足した。1963年7月施行の海運二法が、利子の猶予・補給という助成の条件として海運会社の合併と運航船腹100万重量トン以上を求めたためで、外航海運は6つの中核体に集約された。法的には三井船舶を存続会社としながら、本店は大阪市に置き、商号には両社の名を並べた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1965〜1999年集約で得た規模を市況と為替が削り、商号を改めるまで | 進藤孝二 | 内航近海部門を分離し商船三井近海を設立 | ★ | |
| 福田久雄 | 日本沿海フェリーが発足 | ★ | ||
| 福田久雄 | 船客部門を分離し商船三井客船を設立 | ★ | ||
| 相浦紀一郎 | 定期船・物流統括会社MOL(AMERICA)を設立 | ★ | ||
| 轉法輪奏 | 山下新日本汽船とジャパンラインが合併しナビックスラインが発足 | ★★ | ||
| 轉法輪奏 | 三井航空サービスと商船航空サービスが合併 | ★ | ||
| 轉法輪奏 | ダイヤモンドフェリーに資本参加 | ★ | ||
| 轉法輪奏 | 日本海汽船を合併 | ★ | ||
| 生田正治 | 東京マリンを子会社化(後のMOL Chemical Tankers) | ★ | ||
| 生田正治 | BGTプロジェクト関連企業3社を子会社化 | ★ | ||
| 生田正治 | 対等合併による規模の拡大と、「商船三井」への商号変更 1998年11月20日、大阪商船三井船舶はナビックスラインとの対等合併を発表し、1999年4月1日に合併して商号を株式会社商船三井へ変更した。合併交渉は1997年9月に生田正治社長がナビックスラインの堀憲明社長へ持ちかけたもので、日本郵船と昭和海運の合併発表より前に始まっていた。1964年から35年使われた"大阪商船三井船舶"の商号はここで終わった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2000〜2008年商船三井フェリーの発足とダイビル買収、2008年の過去最高益 | 鈴木邦雄 | 商船三井フェリーが発足 | ★ | |
| 芦田昭充 | ダイビルを公開買付で子会社化 | ★★ | ||
| 芦田昭充 | 経常利益3022億円を計上(過去最高水準) | ★ | ||
| 2009〜2015年関西汽船・日産専用船の子会社化とLNG船の長期契約化 | 芦田昭充 | 関西汽船を子会社化 | ★ | |
| 芦田昭充 | 日産専用船を子会社化 | ★ | ||
| 武藤光一 | スポット運賃で稼ぐ不定期船経営からの脱却と、収益構造の安定化 2010年代前半、商船三井はスポット運賃に賭ける不定期船経営から、20年近い長期契約が主となるLNG船へ収益源を移した。2013年6月時点のLNG船隊は69隻で世界首位であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 武藤光一 | 立入検査より前に違反行為を止め、自ら申告する側に回って命令を免れた選択 2012年9月6日、公正取引委員会が自動車・車両系機械等の貨物の輸送に関する独占禁止法違反の疑いで立入検査に入った。2014年3月18日、同委員会は特定自動車運送業務の取引に関連して複数の事業会社へ排除措置命令と課徴金納付命令を発表している。商船三井は立入検査より前に違反のある行為を取り止めていたことと、同委員会に対し課徴金減免制度の適用を申請してこれが認められたことにより、いずれの命令も受けていない。 連結子会社の日産専用船も同じ制度の適用を申請したが、認められたのは課徴金の減額にとどまり、排除措置命令と課徴金納付命令の両方を受けた。 詳細を読む | |||
| 池田潤一郎 | 池田潤一郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 2016〜2020年邦船3社のコンテナ船事業統合とONEの営業開始 | 池田潤一郎 | 邦船3社の共同出資会社への切り出しと、単独運営の終了 2016年10月、商船三井は日本郵船・川崎汽船とコンテナ船および海外ターミナル事業の統合を発表し、2017年7月にオーシャンネットワークエクスプレス(ONE)を設立、2018年4月にサービスを開始した。出資比率は日本郵船38%、商船三井と川崎汽船が各31%。売上の4割を占めた事業は連結対象から外れ、持分法投資損益の一行へ姿を変えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 池田潤一郎 | ONE(Ocean Network Express)を設立 | ★★ | ||
| 池田潤一郎 | ONEがサービス開始 | ★ | ||
| 2021〜2026年橋本剛体制の最高益とダイビル完全子会社化、Gearbulk買収とエリオットの要請 | 橋本剛 | 橋本剛氏が社長に就任 | ★ | |
| 橋本剛 | 経常利益7217億円を計上 | ★ | ||
| 橋本剛 | 宇徳とダイビルを公開買付で完全子会社化 | ★★ | ||
| 橋本剛 | スイスのGearbulk Holdingを子会社化 | ★★ | ||
| 橋本剛 | 3,000億円規模の要請を受けた、累進配当・総還元性向40%への転換 2026年3月、米アクティビストのエリオット・インベストメント・マネジメントが商船三井株を取得し、株主還元の強化を要請した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(商船三井)