1885年〜 二引の旗章と日本初の遠洋定期航路の開拓
- 1885年 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により発足
- 1893年 ボンベイ航路を開設
- 1896年 欧州航路・北米シアトル航路を開設
- 1896年 豪州航路を開設
- 1926年 第二東洋汽船を合併
- 1942年 戦時海運管理令の施行により船舶が国家管理下に移行
- 1945年 終戦時の所有船舶が37隻まで減少
共同運輸との競争と農商務省の仲裁
明治期の海運市場は、岩崎弥太郎氏が率いた郵便汽船三菱会社の独占状態[1]にあり、運賃の吊り上げや船腹の不足が問題となった。政府は再三改善を促したが状況は変わらず、外務卿の井上馨氏と農商務大輔の品川弥二郎氏が対抗する海運会社の新設を準備し、渋沢栄一氏に協力を求めた[2]。渋沢氏が1880年に創業した東京風帆船[3]は、越中風帆船・北海道運輸と合併して共同運輸となり[4]、本州沿岸を一周する営業圏を得た。資本金は600万円で[5]、三井物産の益田孝氏や大倉喜八郎氏ら三菱の独占を快く思わない事業家[6]が創設に協力した。1883年9月、渋沢氏は五代友厚氏への書簡で[7]、供給能力を高めたうえで運賃を引き下げる意図をほのめかしている。
- 週刊東洋経済 2021年6月26日号「経済学者が読み解く現代社会のリアル 第120回 渋沢栄一、三菱に挑む 日本郵船誕生前夜の教訓」
- [1]明治期の海運市場 郵便汽船三菱会社の独占状態
- [2]井上馨・品川弥二郎が対抗海運会社の新設を準備し渋沢栄一へ協力を要請
- [3]1880年 渋沢栄一が東京風帆船を創業
- [4]東京風帆船・越中風帆船・北海道運輸の3社合併で共同運輸が成立
- [5]共同運輸の資本金 600万円
- [6]益田孝・大倉喜八郎ら三菱の独占に反発する事業家が共同運輸の創設に協力
- [7]1883年9月 渋沢栄一が五代友厚宛書簡で運賃引き下げの意図を示唆
共同運輸は貨物の運賃引き下げでシェアを広げ[8]、郵便汽船三菱会社の顧客を奪った。両社の消耗を見た政府は競争の抑制へ動き、1885年1月から2月にかけて農商務省の仲裁で協定が交わされた[9]。ところが港では、海運会社と荷主の間に立つ周旋営業人が値下げを強行した[10]。周旋営業人が受け取る口銭は販売切符の枚数で決まるため集客を優先する誘因が働き[11]、両社の社員は値下げに応じるほかなかった。1885年2月に岩崎弥太郎氏が死去し、弟の岩崎弥之助氏が三菱の2代目総裁を継いだ[12]。同年4月には共同運輸の社長に、薩摩出身の官僚だった森岡昌純氏が就いた[13]。
- 週刊東洋経済 2021年6月26日号「経済学者が読み解く現代社会のリアル 第120回 渋沢栄一、三菱に挑む 日本郵船誕生前夜の教訓」
- [8]共同運輸が貨物運賃の引き下げで郵便汽船三菱の顧客を奪いシェアを拡大
- [9]1885年1月〜2月 農商務省の仲裁で競争抑制の協定が成立
- [10]港で周旋営業人が協定に反して値下げを強行
- [11]周旋営業人の口銭は販売切符の枚数で決まる出来高制
- [12]1885年2月 岩崎弥太郎が死去し岩崎弥之助が三菱2代目総裁を継承
- [13]1885年4月 薩摩出身の官僚 森岡昌純が共同運輸社長に就任
1885年9月、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社は合併して日本郵船会社を設立し、10月に創業した[14]。資本金1100万円、所有船舶69隻・7万2922総トン[15]での船出である。共同運輸の船は最先端の高速船で、郵便汽船三菱の船は老朽化[16]していた。一方で乗組員や機関士の技能は郵便汽船三菱の評価が高く、当時の経済論壇には「共同に船あって人なく、三菱に人あって船なし」という評があった[17]。新会社は運賃の決定権を社長と副社長に集め、大臣の認可とともに新聞で公表する仕組み[18]に改めた。周旋営業人の業績連動の口銭は廃止して固定給とし、等級は問屋同士の投票で決める[19]こととして、値下げ競争を招いた誘因を断った。白地に赤い2本の線を引いた二引の旗章[20]は、2社の合同を表す旗印となった。
- 日本郵船 有価証券報告書【沿革】
- [14]1885年9月 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により日本郵船会社を設立、10月創業
- [15]設立時 資本金1100万円・所有船舶69隻・7万2922総トン
- 週刊東洋経済 2021年6月26日号「経済学者が読み解く現代社会のリアル 第120回 渋沢栄一、三菱に挑む 日本郵船誕生前夜の教訓」
- [16]共同運輸の船は最先端の高速船、郵便汽船三菱の船は老朽化
- [17]当時の経済論壇の評「共同に船あって人なく、三菱に人あって船なし」
- [18]運賃の決定権を社長・副社長に集約し大臣認可と新聞公表を義務づけ
- [19]業績連動の口銭を廃止し固定給へ、等級は問屋同士の投票で決定
- 日本郵船歴史博物館(公式)
- [20]白地に赤い2本の線の二引の旗章が2社の合同を表す旗印
- 週刊東洋経済 2021年6月26日号「経済学者が読み解く現代社会のリアル 第120回 渋沢栄一、三菱に挑む 日本郵船誕生前夜の教訓」
- [1]明治期の海運市場 郵便汽船三菱会社の独占状態
- [2]井上馨・品川弥二郎が対抗海運会社の新設を準備し渋沢栄一へ協力を要請
- [3]1880年 渋沢栄一が東京風帆船を創業
- [4]東京風帆船・越中風帆船・北海道運輸の3社合併で共同運輸が成立
- [5]共同運輸の資本金 600万円
- [6]益田孝・大倉喜八郎ら三菱の独占に反発する事業家が共同運輸の創設に協力
- [7]1883年9月 渋沢栄一が五代友厚宛書簡で運賃引き下げの意図を示唆
- [8]共同運輸が貨物運賃の引き下げで郵便汽船三菱の顧客を奪いシェアを拡大
- [9]1885年1月〜2月 農商務省の仲裁で競争抑制の協定が成立
- [10]港で周旋営業人が協定に反して値下げを強行
- [11]周旋営業人の口銭は販売切符の枚数で決まる出来高制
- [12]1885年2月 岩崎弥太郎が死去し岩崎弥之助が三菱2代目総裁を継承
- [13]1885年4月 薩摩出身の官僚 森岡昌純が共同運輸社長に就任
- [16]共同運輸の船は最先端の高速船、郵便汽船三菱の船は老朽化
- [17]当時の経済論壇の評「共同に船あって人なく、三菱に人あって船なし」
- [18]運賃の決定権を社長・副社長に集約し大臣認可と新聞公表を義務づけ
- [19]業績連動の口銭を廃止し固定給へ、等級は問屋同士の投票で決定
- 日本郵船 有価証券報告書【沿革】
- [14]1885年9月 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により日本郵船会社を設立、10月創業
- [15]設立時 資本金1100万円・所有船舶69隻・7万2922総トン
- 日本郵船歴史博物館(公式)
- [20]白地に赤い2本の線の二引の旗章が2社の合同を表す旗印
遠洋定期航路の開拓と戦時における船隊の壊滅
1893年、日本郵船はボンベイ航路を開設し、日本で最初の遠洋定期航路を開いた。1896年には欧州航路と北米シアトル航路を、同年10月には豪州航路を開設して、欧州勢が押さえていたアジアの幹線航路へ参入した。航海奨励法や遠洋航路補助法に基づく補助金[21]が、採算の見通しにくい遠洋航路の維持を支えている。日清・日露の両戦役では軍事輸送を担い、第一次世界大戦期には欧州船の不足を埋めて[22]業容を広げた。1926年3月には第二東洋汽船を合併し[23]、太平洋航路の船腹を厚くした。1923年の関東大震災や済南・上海の両事変に際しては、同社の船が救援と輸送[24]にあたった。
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第四編「補助命令」
- [21]航海奨励法・遠洋航路補助法に基づく補助を受給
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第二編第三章「日露戰爭時に於ける當社の業績と戰後の發展」・第五章「世界大戰時に於ける社業の大躍進」
- [22]日露戦争期の軍事輸送と第一次世界大戦期の業容拡大
- 日本郵船 有価証券報告書【沿革】
- [23]1926年3月 第二東洋汽船を合併
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第二編第七章「關東大震災及び濟南・上海兩事變に際し當社船の活動」
- [24]関東大震災・済南事変・上海事変での自社船の活動
航路網は太平洋横断・欧州・豪州・印度・近海へ広がり、同社は海運同盟や貨客連絡運送契約[25]を通じて各国船社との協定網を築いた。1942年3月に戦時海運管理令が施行され、翌4月に船舶運営会社が設立されて[26]、民間の船舶は国家の管理下に入った。1943年6月には三菱商事の船舶部が分離独立して三菱汽船が設立[27]されている。太平洋戦争で日本郵船は保有船舶の大半を失い、戦禍による喪船は185隻・113万総トンに及んだ[28]。1945年8月の終戦時に残った所有船舶は37隻・15万5469総トン[29]で、開戦前の船隊はほぼ消えた。
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第二編第八章「太平洋橫斷航路の擴充」・第十一章「當社關係の海運同盟・貨客連絡運送契約・其他の協定」
- [25]太平洋横断・欧州・豪州・印度・近海の各航路と海運同盟・貨客連絡運送契約の協定網
- 日本郵船 有価証券報告書【沿革】
- [26]1942年3月 戦時海運管理令施行、1942年4月 船舶運営会社設立
- [27]1943年6月 三菱汽船を設立(三菱商事船舶部を分離独立)
- [29]1945年8月 終戦時の所有船舶 37隻・15万5469総トン
- 日本郵船歴史博物館(公式)
- [28]第二次大戦の喪船 185隻・113万総トン
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第四編「補助命令」
- [21]航海奨励法・遠洋航路補助法に基づく補助を受給
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第二編第三章「日露戰爭時に於ける當社の業績と戰後の發展」・第五章「世界大戰時に於ける社業の大躍進」
- [22]日露戦争期の軍事輸送と第一次世界大戦期の業容拡大
- 日本郵船 有価証券報告書【沿革】
- [23]1926年3月 第二東洋汽船を合併
- [26]1942年3月 戦時海運管理令施行、1942年4月 船舶運営会社設立
- [27]1943年6月 三菱汽船を設立(三菱商事船舶部を分離独立)
- [29]1945年8月 終戦時の所有船舶 37隻・15万5469総トン
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第二編第七章「關東大震災及び濟南・上海兩事變に際し當社船の活動」
- [24]関東大震災・済南事変・上海事変での自社船の活動
- 日本郵船株式会社五十年史(日本郵船、1935年)第二編第八章「太平洋橫斷航路の擴充」・第十一章「當社關係の海運同盟・貨客連絡運送契約・其他の協定」
- [25]太平洋横断・欧州・豪州・印度・近海の各航路と海運同盟・貨客連絡運送契約の協定網
- 日本郵船歴史博物館(公式)
- [28]第二次大戦の喪船 185隻・113万総トン