電電公社の民営化から現在まで
公社の32年は、事業を育てた歴史ではなく、与えられた宿題を片付けた歴史である。1952年に引き継いだのは、申し込んでも二、三年は付かない電話と、交換手に頼んで数時間待つ長距離回線だった。五ヵ年計画を三度重ねて加入者は240万から633万へ増えたが、架設を待つ行列はかえって伸び、1966年には160万個がまだ順番を待っていた。建設が需要に追いつかないあいだ、公社は投資を続ける理由を誰にも説明せずに済んだ。独占は、宿題が終わらないことによって正当化されていたのである。1970年代後半に年間500万台の敷設で行列が消えたとき、その正当化の根拠も一緒に消えた。
宿題を片付ける速さは、同時に収支を蝕んだ。1952年に設置電話の93.8%を占めていた事務用は、20年で住宅用に過半を譲り、1台1日当たりの利用回数は9.8回から5.5回へ落ちる。回線の建設費と維持費は使われようが使われまいが同じだけかかるから、あまり鳴らない電話を1台増やすことは、1台ぶんの赤字を増やすことに等しかった。1971年度の赤字転落は景気のせいにされたが、原因は使命の側にあった。1981年に外から来た真藤恒氏が、電話はもう山に登ってしまったと言い切ったのは、登り切った山から先に道が無いという意味である。公社が非電話系へ向かったのは、技術の見通しがあったからではなく、電話という商品の伸びしろが尽きたからだった。
1952年8月、逓信省と電気通信省から電信電話事業を引き継ぎ、日本電信電話公社が発足した。翌9月には国際電信電話株式会社法が施行され、国内通信を公社が、国際通信を国際電信電話が担う体制が固まった。公社に課された仕事は、戦災で傷んだ通信網を建て直し、全国へ電話を行き渡らせることにあった。もっとも、発足した時点で電話は申し込んでもすぐには付かない財であり、事業用は優先して開設されたものの、家庭用では二、三年待たされることがまれではなかった。長距離も回線が足りず、交換手に申し込んでから数時間待つ状態が長く続いた。1953年には電話料金が改正され、公社は電信電話事業の合理的能率的な経営体制が確立したと位置づけたが、行列そのものは縮まらなかった。
公社が行列を縮めるために据えたのは、五ヵ年計画という設備投資の枠組みである。第一次から第三次までの計画によって、電話の加入者総数は1956年の240万から1964年末には633万へ増え、電話機数ではアメリカ、イギリスに次いで世界第三位となった。電話局には自動交換機が入り、交換手が回線をつなぐ作業は徐々に減って、交換手を通さないダイヤル直通の地域も急速に広がった。それでも生活水準の向上と人口の都市集中に伴って申し込みは殺到し、架設してもらえない電話は1966年に160万個へ達している。1973年度から始まる第五次五ヵ年計画は、計画の終わる時点で積滞をゼロにすることを目標に置いた。建設が需要に追いつかない構図は、計画を重ねるほど設備を増やす理由になった。
1971年度、公社は決算で赤字に落ち込んだ。公社の説明は景気の低迷による事業用通話収入の減少であったが、需要の構成そのものも変わっていた。1952年の時点で、設置された電話のうち事務用が93.8%を占め、住宅用は6.2%しかなかった。この比率は1972年度に入れ替わり、住宅用が53.2%と半分を超えた。ところが住宅用は、事業用に比べて使われる回数がおよそ4分の1にとどまり、1台1日当たりの平均利用回数も1958年の9.8回が1971年には5.5回まで減った。回線を敷いて保つための費用は利用の多寡にかかわらず一定であり、損益の分かれ目とされた電話機1台1月当たり4000円から5000円の水準に、住宅用は届かなかった。このため住宅用の電話は、1台増えるたびに赤字を広げる方向に働いた。使命を果たすほど収支は悪くなる構図だった。
規定のうえでは競争入札が原則で随意契約は例外だったが、実際には随意契約が90%以上を占め、競争入札は10%未満にとどまった。こうして問われたのが公社の資材調達である。公社は原価計算に金利負担まで織り込み、そのうえに適正な利潤という名目でおよそ10%を価格に載せると明言していた。調達先が偏るなか、取引先の側では通信機器・電話工事・電線の主要各社の役員に公社出身者が並び、大明電話工業は役員11人中9人、電話工事会社5社は社長のうち4人が公社出身だった。売上に占める公社への依存度は通信機器で50%、電話工事で95%、電線で20%に達し、発注の増減がそのまま各社の資金計画を左右した。
1976年、公社の累積赤字は4565億円に達し、値上げ法案は国会でたなざらしとなって、建設投資の削減から通信機器各社の苦境を訴える声が出はじめた。当時の公社はしばしば国鉄と並べて論じられ、赤字部門を抱えた公共企業体が立ち行かなくなる「第二の国鉄」になるのではないかと問われている。電報は1963年度の9461万通を頂点に減り続け、番号案内は1回の問い合わせに30円かかるのに市内通話料は7円で、差額は公社の持ち出しになった。合理化の成果が無かったわけではない。100加入当たりの月間故障率は0.9回と米国の4.8回を大きく下回り、ダイヤル化率は99%に達していた。それでも従業員1人当たりの事業収入は601万円にとどまり、米国の958万円には届かなかった。
1970年代後半、公社は年間500万台の電話端末を設置する敷設ピッチで積滞を解消し、需給は逆転した。行列が消えると敷設のピッチは落ち、年間の新規加入台数は約半分の200万台へ激減している。ここで問われたのは経営の巧拙ではなく、公共企業体が独占でインフラを建設するという使命そのものであった。申し込めばすぐ加入できるのなら、その使命はすでに終わったという声が大きくなる。料金の格差も論拠に使われ、長距離通信料金は米国の一に対して日本国内が九という開きにあり、通信コストの高さが日本企業の国際競争力を損なうというのが自由化を求める側の論点だった。公社は建設すべき対象を失ったところで、存続の理由を問われた。
1980年12月21日、石川島播磨重工業の相談役だった真藤恒氏が、首相官邸で鈴木善幸首相から公社総裁への就任を要請された。翌1981年1月に第5代総裁となった真藤氏は、公社で初の民間出身の総裁である。人選は第二次臨時行政調査会の会長を務めた土光敏夫氏が、日本興業銀行相談役の中山素平氏と相談して決めたと伝えられる。真藤氏は九州帝国大学工学部の造船科を出て播磨造船所に入り、石川島播磨重工業の社長として「ドクター合理化」と呼ばれた技術者であった。就任が決まった当日、官邸の廊下で記者から受けた最初の質問は「あなたは誰ですか」であり、公社の広報部長は経歴を大至急調べるよう部下に指示している。33万人の職員を抱える組織に、外から来た合理化の技師が座った。
真藤氏が最初に手を付けたのは、公社の内側だけで通じる言葉づかいであった。就任の翌月、電子交換機が故障して電話がつながらなくなったとき、電話局のテープは「ただいま電話がふくそうしてご迷惑をおかけしております」と流した。真藤氏は担当者を呼びつけ、翌日から「ただいま交換機が故障しており」という言い方に改めさせている。故障で30分以上不通になると事故として扱われるため、40分の不通を25分と報告する例もあり、これも同じ発想として戒められた。出張は日帰りに改め、料亭での宴会をやめ、幹部の出勤は始業の30分前へ動いた。世間からの批判については、『拒否ベースでモノを聞くな。受け入れベースで聞け』と社内に繰り返し求めた。
電話事業について真藤氏が『電話はもう山に登ってしまった』と述べたのは1981年6月で、同氏は事業の性格を情報産業へ移していくべきだとした。独占を支えてきた公衆電気通信法も見直しの対象である。原則禁止を原則自由へ切り替える方向で郵政省と話し合っていることを、真藤氏は明かした。収入に占める電話の比重も、6割程度、あるいは半分にまで落としたい考えだった。社内の検討は、自動車電話や携帯電話など無線系の移動電話と、コンピューター通信・ファクシミリ通信・映像通信の二つへ分かれた。とりわけ電話・画像・データをデジタル方式で一元化する統合デジタルサービス(INS)に研究開発の重点が置かれ、1984年9月、公社は東京・三鷹と武蔵野の両地区でモデル実験を開始した。電話を配り終えた組織が次に何で食べるかという問いに、公社は答えを出す前に民営化を迎えた。
民営化で日本電信電話が手にしたのは、経営の自由であると同時に、値下げを断り続けられない立場であった。公社時代の料金は国会の承認で決まり、長距離を高くして市内の赤字を埋める配分は政策として与えられていた。競争が入ると、その配分はそのまま競争相手の狙い目になる。第二電電は長距離だけを取りに来て、赤字の市内網を維持する義務は日本電信電話に残った。最も遠い区間の3分720円は400円へ、さらに240円へと下がり、1991年3月の値下げだけで2300億円の減収となって、当時およそ4000億円だった経常利益の半分以上が吹き飛ぶ計算になった。自由化とは、儲かる区間から順に値段を削られることでもあった。
同じことが事業の単位でも起きた。投資の自由を得た日本電信電話は10日に1社の速さで子会社を作り、148社まで増やしたが、増えたのは新しい市場ではなく、身内どうしがぶつかる市場だった。一方で、育った移動体通信は、本体の分割論を5年先送りする取引の代償として切り出されることになる。稼ぎ頭を出し、赤字の市内網を抱え、料金は下げ続ける。1987年2月に株を買った投資家は、この順序で会社の中身が薄くなっていくのを見ていた。株価が100万円を割ったのは業績が崩れたからではない。会社の形を決めるのが経営ではないという事実が、値段のほうに出ただけである。
新たな法体系のもとでは、通信の設備を自ら持って提供する側と、その設備を借りて使う側とが分けられた。前者に当たる第一種電気通信事業者には、日本電信電話のほか、自前の設備を備える第二電電なども入り、競争の体制が組まれる。後者の第二種事業者は付加価値通信を営む者で、届け出さえすれば参入でき、海外にも門戸が開かれた。電電公社がこの枠組みで日本電信電話株式会社へ移ったのは、1985年4月1日である。とはいえ真藤恒社長は、この株式会社を中途半端な存在だと説明しており、その理由は、当面の事業が独占を前提に動くことと、会社法には5年以内、電気通信事業法には3年以内の見直し条項が付いていたことにあった。真藤氏は、法律の姿としては当時の米国よりも自由化の可能性が大きいと評している。
競争が最初に現れたのは料金であった。公社時代の料金体系は、負担力の強い企業が使う長距離通話を高くし、その黒字で近距離通話の赤字を埋める形で、国会の承認を得て決められていた。真藤氏が総裁に就いてからの4年間に長距離料金は4回引き下げられ、最も遠い区間の3分間720円は400円になり、夜間は約半額の220円となった。午後8時から10時の時間帯が、午前10時から11時に代わって通話の最も混む時間になった。料金を下げた結果、通話の分布が動いたのである。真藤氏の読みでは、この変化は長距離の料金がどれほど高かったかの表れであり、値下げすれば客が確実に増えることの裏付けでもあった。ただ、近距離や市内の通話でどれほどの赤字を抱えているのか、日本電信電話には正確に測る手段がなく、その設備とノウハウを米国から急いで取り入れようとしていた。
1988年初め、民営化から約3年を経た時点で仕上がりを問われた真藤氏は『できあがるもんか。永久にでき上がりゃせんよ』と答えた。国有の独占だった公社時代に身についた自分中心の発想を改め、世の中を軸に動く組織へ移っていくのが企業のあるべき姿だ、というのがその根拠である。全社員に宛てた手紙の題は「脚下照顧」で、社内から世間を見る目を、世間から社内を見る目へ切り替えるよう求めた。現場ではなく高級管理職の知恵こそが技術と組織を根本から変えうるとして、真藤氏はその層を名指しで批判した。コストとは人と物の動きを金額に表したものにすぎない。だから合理化によるコスト削減を経営の出発点に置く以上、仕事の進め方に潜む弱点を洗い出して生産性を上げるほかないと真藤氏は説いた。
1987年2月9日、日本電信電話の株式が東京証券取引所第一部に上場された。発行済株式総数1560万株はすべて大蔵大臣が保有しており、上場に際して売り出されたのは165万株、これとは別に一般競争入札で20万株が売却されている。1986年3月期の営業収益は4兆9313億円で、うち電話収入が4兆2337億円と85.9%を占め、従業員は30万1069人であった。1株当たりの当期純利益は9015円、1株当たりの株主資本は22万2225円で、配当は5000円を継続する方針が示された。政府保有株の売却代金は国の歳入に入るため、放出のたびに市場で流通する株式は増えていく。上場によって何がどれだけ動くかを決める権限は、会社の側にほとんど無かった。
1988年、真藤恒会長がリクルート事件で辞任した。同年6月に社長を継いでいた山口開生氏は、翌年のインタビューで、前会長の辞任によって次に打つ手の発想に違いは出るかもしれないが、大きな方向は変わっていないと述べている。事件が民営化路線の後退を招いたという見方についても、具体的な影響はないと否定した。むしろ山口氏が不満を示したのは規制の所在であった。それまで国会で議論して決めていた料金などの事項は、民営化の後にすべて郵政省へ移り、確かに郵政省の力が強くなったと語っている。手続きは国会より審議会のほうが簡単で小回りも利くはずなのに、そうなっていないというのが同氏の見立てである。経営の自由を得る代わりに、監督の相手が国会から官庁へ替わった。
上場からほどなく、株価は下落に転じた。1989年の時点で山口氏は、経常利益が落ちているわけではなく、料金を値下げできたのも体力があるからで、体質はむしろ強固になっていると述べ、『売り出してすぐの株価は何だったんだ、いったい何が株価を決めているんだ』と語っている。株主への還元にも制約があった。株主優遇策を打つには政府の了承がまず要り、利益の還元もその範囲に限られる点を、同氏は問題視した。配当を上積みしても約7割は筆頭株主の国に流れ、一般株主が得るのは1株か2株分にすぎないからである。株価は1991年に100万円を下回った。その後の持ち直しで批判も静まったと、後任の児島仁社長は振り返っている。
民営化と引き換えに日本電信電話が得たものの一つが、投資の自由であった。1985年4月以降、真藤社長の陣頭指揮で10日間に1社の速さで子会社が設けられ、新規事業開発室は目標を日立製作所に置き、グループ会社500社を目指すと語っていた。真藤氏自身の整理では、子会社は3種類に分かれる。最も数が多いのは回線を使って付加価値通信を営む第二種事業者で、5%や10%の少数出資で参加し、技術者を送り込む。これは回線を使う客を育てて通信量を増やすためのもので、全体の8割を占めた。次が主導権を握る本当の子会社で、固定資産を高度利用して4兆6000億円の借入金を返す財源を作るNTT都市開発がこれに当たり、大小合わせても20社に満たなかった。
1990年度のグループは売上高1兆300億円、経常利益530億円で、どちらも過去最高を更新し、1991年時点の子会社・関連会社は148社を数えた。しかし同じ市場に複数の子会社が重なって参入する事態も起きていた。子会社の新設は1987年度を境に急に細り、1990年度はわずか2社にとどまった。ネットワークサービスや情報処理では日本情報通信とNTT PCコミュニケーションズなどグループ内の会社どうしが値下げでぶつかり、首都圏のテレマーケティングでも3社が競合して整理統合の対象に挙がった。1985年度に設立された日本情報通信は黒字に届くまで5年かかり、1991年3月期までに累積損失が130億円に達している。明確な戦略のないまま子会社を増やし過ぎた、というのがグループを統括する岩崎昇三副社長の見方である。
1990年3月、政府はNTTの経営形態の見直しを決定した。本体の分割論議は5年先送りとなったが、実行事項に移動体通信サービスの分離が含まれた。移動体通信は1990年度に税引前利益400億円を計上しており、発展が期待できる分野であったから、社内では大激論になったと児島仁社長は述べている。分離は1992年6月の株主総会でまず全国1社として行い、1年後をめどに中央会社と8地域会社の9社へ分ける段取りになった。人員の側も動いており、かつて32万9000人いた従業員は2割以上減って26万人弱となり、次の目標は23万人に置かれた。日本電信電話は成長部門を切り出しながら、全国1社体制を守ることを使命だと主張し続けた。守る対象は事業の範囲ではなく、網の一体性のほうへ移っていた。
1992年初めの日本電信電話は長距離で新電電3社に料金を削られ、1991年度の経常利益は3750億円と前期より9.5%少なくなる見込みであった。児島仁社長が掲げた4000億円には届かず、新電電の春の値下げに追随すればさらに減るため、設備投資そのものを絞るほかなかった。そのあおりを受けたのが、公社時代から発注計画に沿って機器を納めてきた旧電電ファミリーである。社長を送り込んでいた東証一部の中堅通信機6社のうち5社が91年度に経常赤字となり、岩崎通信機は社員の27%にあたる640人の希望退職を募った。児島氏は『旧ファミリーの経営が厳しいのは分かっているが、もはや我々に打てる手はない』と述べている。同じ1992年4月には長距離と地域の業務区分に合わせて社内組織を組み替えており、本体の採算を守ることが、身内を支える義理より先に立っていた。
1992年7月、自動車電話・携帯電話・船舶電話・無線呼出しなどの営業がNTT移動通信網へ譲渡された。新会社は翌1993年3月に携帯・自動車電話のデジタル方式を始め、同年7月には地域ごとの9社体制に分かれている。切り出した当初の移動体はまだ小さく、1994年3月期の連結営業収益は5610億円、経常利益は200億円にとどまった。ところがその後の1年間で自動車・携帯電話は200万台以上増え、児島氏は、PHSも加わるこの市場に本体では参入できないと認めていた。値下げに追われる本体と、伸び始めた市場を自由に攻められる子会社とが、この時点で制度の上で切り分けられたことになる。
移動体より先に切り出されていたのがデータ通信である。金融機関向けのANSER(自動照会通知システム)やCAFIS(クレジット情報データ通信システム)は、1982年の公衆電気通信法改正で企業間の回線接続が認められてから育った事業で、1992年の時点ではNTTデータ通信の手に移っていた。児島氏はこの移管を振り返り、『逆にいうと,別会社で隆々とやれるほどマーケットが拡がったということだと思います』と語っている。一方で同氏は、事業として最も採算がよいのは今も音声の電話だと明言していた。NTTデータ通信は1995年4月に東京証券取引所へ上場した。本体は収益の柱を電話に据えたまま、伸びる周辺を子会社に任せる形をとったことになる。
日本電信電話の株式がニューヨーク証券取引所に上場したのは1994年9月で、10月にはロンドン証券取引所にも並び、海外から資金を調達できるようになった。ただ児島氏は、それ以前に欧米の投資家を訪ねて債券発行を説明した折、役員の人事には郵政大臣の認可が要ると述べたところ笑いが起き、民間企業とは呼べないと指摘された経験を持っていた。料金も事業計画も認可を受ける仕組みは変わらず、新しい事業に乗り出すごとに資金の手当てまで役所に説明する必要があった。外国人が株式を持てるようになったのは1995年の時点で3年ほど前にすぎず、同社はこれを足場にタイへ出て、続いてベトナム、フィリピン、インドの入札にも加わっていた。海外に株主を持つことは、国の免許に縛られた経営を海外の目にさらすことでもあった。
本体の利益は大きく削られていた。経常利益は過去最高の4967億円から1094億円まで落ち、競争が通話料の値下げに終始して新しいサービスを出せなかったことが一因とみられていた。1988年に始めたISDNも1993年度の売上高は736億円で全体の1.3%にすぎず、485億円の営業赤字を出しており、収入の82.5%はなお電話であった。児島氏が掲げた方針は電話の会社からマルチメディアの会社への転換で、1994年7月には13の研究所を3つのグループに括り、それぞれを束ねる総合研究所を置いた。売上高の5%にあたる研究開発費2900億円のうち、人と資金はマルチメディアの総合研究所へ寄せる方針とされた。児島氏自身、既存の電話事業は細っていくと見ながら、離島まで均一のサービスを届ける義務は本体に残ると訴えていた。
利益の目減りに対して、日本電信電話は人員に手を付けた。1993年には希望退職の募集を含む雇用調整に踏み出しており、当時の従業員は23万人であった。児島氏は労務の出身で、電話交換手を2万人減らす計画を労働組合とまとめた経歴を買われて社長に就いた人物である。後を継いだ宮津純一郎社長は、2000年までに民営化当時の半分以下にあたる15万人の体制で事業を回すと株主に示し、ソフトウェア開発などの分社も進めるとした。宮津氏は、全国のネットワークのデジタル化が終われば人の配置換えが避けられず、通信ソフトや国際事業の人材育成が急務になると見ていた。ただ現場では、管理職が合理化の負担を嫌う中高年を避け、仕事が若手に偏るという不満も出ていた。
1995年4月、電気通信審議会でNTTの経営形態の見直しが始まり、長距離と地域の分離、地域の分割が再び議題に上った。児島氏は反対を明言し、情報通信がこれから日本を引っ張る産業になろうとしているのに、議論する側の頭には電話しかないと退けた。米AT&Tの分割を成功とみる声には、『分割が成功だったという人は、分割が競争促進につながったことを挙証する責任があります』と切り返している。同氏の見立てでは、世界の通信は3〜5社の寡占へ向かい、長距離と地域をつなぐ垂直統合が進む。マイクロソフトなどの米企業がNTTと組むのは研究開発力と顧客の厚みがあるからで、分割すればその相手を失うというのが反対の根拠であった。研究部門の再編もまた、分割は日本の研究開発力を損なうという社長の主張と重ねて語られていた。
1996年6月27日、宮津純一郎氏が民営化から4代目の社長に就いた。宮津氏も、長距離とローカルを分ける線引きは国内で閉じた電話の時代の発想で、インターネットの広がりとともに意味を失うと述べ、就任にあたって『電話の世界を前提とした分割論が無意味であることは広く世の中に理解していただけるはずです』と社内に語っている。それでも同年12月、宮津氏は純粋持株会社の下に長距離会社1社と地域会社2社を置く郵政省案を基本的に了承した。了承の理由に挙げたのは、持株会社の形なら株主の権利が守られること、そして国際通信事業に進出できるようになることの2点である。1982年の第二次臨時行政調査会から10年以上続いた郵政省との争いは、臨調答申の原案に近い形で決着した。
1998年10月22日、NTTドコモが東京証券取引所第一部に上場し、2兆1200億円を超える資金を調達した。初日の終値は売り出し価格を75万円上回る465万円で、売買高は当日の東証全体のおよそ半分に達した。全国の携帯電話シェアは1996年3月期の48%から1998年3月期の57%に高まり、経常利益は1994年3月期の200億円から1998年3月期の3120億円まで伸びていた。その一方で、NTTパーソナル各社のPHS事業が抱えた約2800億円の累積損失は、NTTとドコモが分け合って処理した。親会社の社長である宮津氏は『これまでは携帯がどんどん伸びてドコモの業績好調がNTTグループを引っ張ってきた』と認めながら、端末の台数はもう大きくは増えないと見ていた。6年前に切り出した部門が、親会社の成長を代わりに担う立場へ移っていた。
1999年7月1日、日本電信電話は再編成を実施し、新しいグループ体制に移った。持株会社の下には、地域通信のNTT東日本・NTT西日本と、長距離・国際のNTTコミュニケーションズが並んだ。宮津純一郎社長は後年、持株会社を選んだ理由の一つに海外への進出を挙げた。『NTT の顔をつくって、そこが中心になって動くという格好にしないと、外国の人間と話ができないんだよ』という説明である。もう一つの理由は規制で、国は地域会社の規制を外さず、分割の見返りに対象を限られた分野へ絞った。再編の直前、宮津氏は料金を下げた効果が別のグループ会社に表れる例を挙げ、損益をグループで受け止める運営を求めていた。分割を求める制度と一体で動きたい経営を、一つの持株会社で両立させる設計とみられる。
国際展開の柱は、NTTコミュニケーションズによる米国のインターネット・ソリューション・プロバイダ、Verioの買収であった。日本電信電話は2000年11月の新株発行で得た2847億円をNTTコミュニケーションズへ出資し、買収代金の一部に回した。IT不況でVerioの収益は会社予想を割り込み、2002年3月期に営業権2033億6700万円と無形資産284億3700万円の減損を計上した。同じ期には会計基準の変更に伴い、営業権の減損1491億8000万円(税効果調整後)も損失に加えた。責任を問われた宮津氏は、社内の人材だけでは海外のインターネット事業を担えなかったと買収の理由を説いた。そのうえで『うまくいかなくても手放す気はねえ』と、売却を否定した。翌2003年3月期にも、Verioの計画の下方修正で370億円を一時償却した。
再編から3年弱の2002年1月、宮津氏は東西とコムへの分け方を『3 つというのは良くねえな』と振り返った。再編の時点ではグループの9割以上を回線の商売で稼いでいたが、この頃には回線以外が3割を占めていた。その兆しは再編の年からあり、1999年秋の株主向けの対談で宮津氏は、一般電話関連の収入がグループの半分ほどに下がったと説明している。資本市場の目も厳しく、2000年3月期の連結フリー・キャッシュ・フローは1800億円の赤字で、持株会社は各社に黒字化を求めた。2000年10月には料金を上限の範囲で自ら決める制度に移り、原価に利潤を乗せて投資を回収する前提も消えた。回線の種類で引いた3社の境界は、発足の直後から実態とずれ始めていたとみられる。
2000年度に入ると、東西の地域会社は接続市場でCATV、ADSL、光ファイバーの各事業者と競うことになった。東西は「フレッツ・ADSL」を出す一方、光ファイバーを加入者線に使う「光・IP通信網サービス(仮称)」の試験提供を始めた。ただ宮津氏は、光ファイバーも含めて需要に見合う分しか投資しない姿勢を示した。光ファイバーは家庭の近くまで敷かれていたが、その先の市内網は使われていなかった。首相の諮問機関であるIT戦略会議は、2005年までに全家庭へ高速網を届ける目標を掲げた。これに対し日本電信電話は、全国一律の提供義務を外すか、新電電にも費用を負わせるよう求めた。光を各家庭へ届ける費用の負担者が決まらないまま、試験提供が始まったのだろう。
2002年、ブロードバンドの拡大を率いていたのはADSLで、光アクセスにも電力系の事業者が相次いで参入した。日本電信電話は2002〜2004年度の3ヵ年経営計画の下で、光と無線による接続サービスの品目と地域を広げた。需要の掘り起こしとグループ内外の調整のため、持株会社に社長直結の「ブロードバンド推進室」も置いた。「Bフレッツ」には、最大100Mbpsの回線を家庭向けに割安で使えるプランを加えた。宮津氏は同じ年の初め、国も資金を出し、期限を区切って光ファイバーを全国に敷く私案を示していた。2003年3月期の年報は光アクセスをブロードバンドの本命と位置付け、需要の集まる地域へ設備と営業を集めた。ADSLに先行を許した後、競争の焦点を光へ移し直したと読める。
1999年6月、再編を控えた宮津氏は『人が多すぎることは痛感しています』と述べ、回線を守る人員は今ほど要らなくなると見ていた。2002年1月には、料金や政府保有株の課題を越えて残る最後の問題に、ヒトの問題を挙げた。答えは2002年5月の構造改革で、東西は注文受付や設備保守などの業務を、地域単位に設けた全国100社のアウトソーシング会社へ移した。51歳以上の社員は東西を退職し、賃金水準を15〜30%下げて再雇用され、50歳以下は在籍出向となった。2002年5月1日時点の人員は、東西本体が3.6万人、アウトソーシング会社が10.1万人である。固定費とされてきた人件費を、地域の賃金水準へ付け替える改革であった。
日本電信電話は2004年11月に「NTTグループ中期経営戦略」を定め、ブロードバンドアクセス基盤の構築を柱に置いた。第1段階は、固定電話を使う約6000万の顧客の半分、3000万に2010年までに光と次世代ネットワークを使ってもらう目標であった。第2段階では、固定電話網から次世代ネットワークへ切り替える具体策を2010年までにまとめるとした。2005年3月期は営業利益が22.4%減の1兆2112億円となり、固定電話の縮小が利益を削っていた。この計画を率いたのは、年報に代表取締役社長として名を連ねた和田紀夫氏である。3000万という数は、光の普及と電話網の置き換えを一つの工程に束ねる目標だったとみられる。
2007年に社長へ就いた三浦惺氏は、就任の年の年報で「Bフレッツ」が2008年3月期末にほぼ1000万契約に届く見込みだと示した。次世代ネットワークは2006年12月から実証実験を重ね、2008年3月期中の商用化を予定していた。2008年5月には中期経営戦略「サービス創造グループを目指して」を定め、固定と移動の双方でフルIPの基盤を築く方針に移った。ところが2010年3月末の「フレッツ光」契約は1325万で、2004年に掲げた3000万の半分に満たなかった。新たな計画の数値目標は、営業利益1.3兆円、設備投資の対売上高比率15%、光サービスの単年度黒字化などであった。光の成否を測る物差しが、契約の数から収支へ移ったと読める。
光サービスを中心とするデータ伝送役務等の収支は、2008年3月期に2293億円、2009年3月期に1924億円の赤字であった。2010年3月期の光サービスの収支は、前期より655億円改善した。三浦氏は販売促進費や敷設・保守の費用を抑え続けるとし、『2012 年 3 月期における単年黒字化を最優先事項として取り組んでいきます』と述べた。2011年3月の東日本大震災では、約150万回線の固定系サービスと約4900局の携帯基地局などが止まった。グループは1万人規模で復旧にあたり、2011年5月末までに、福島第一原子力発電所の周辺などを除いて通信ビルと基地局の機能を戻した。光の採算を約束した計画のさなかに、災害に耐える設備への投資が加わったと思われる。
2012年6月に社長となった鵜浦博夫氏は、情報通信の競争が大きな移行期に差しかかったという認識を就任の時点で抱いていた。処理の機能は端末と網の間を往復した末にクラウドへ集まり、サービスの組み合わせを利用者が選ぶ時代になる、という見立てである。そのうえで鵜浦氏は、『「選ばれ続けること」が競争力の本質になっていくのだと考えています』と語った。この認識を計画にしたのが2012年11月8日の中期経営戦略「新たなステージを目指して」で、グローバル・クラウドサービスを基軸に置いた。土台は、2010年10月に買収した南アフリカのDimension Dataと、同年12月に買収した米Keaneの顧客基盤と運用体制であった。拠点は72か国に及び、顧客となるグローバル企業は1万社を超えていた。
財務の尺度には1株当たり当期純利益(EPS)を選び、2016年3月期までに2012年3月期比で60%以上伸ばすことを最重要の目標とした。鵜浦氏はROEへの注目を承知のうえで株主との対話からEPSを選び、利益の推移と自己株式取得を組み合わせて数字を決めたと説明した。海外売上高は2017年3月期に200億ドル、法人売上高に占める海外の比率は50%以上を目指した。期限を事業ごとに3〜5年と分けたのは、クラウドを仕込みの段階とみて、成果を計画期間の後半に見込んだためである。グローバルR&D委員会を新設し、北米の研究拠点を広げる方針も示した。2013年4月にはシリコンバレーにNTT Innovation Institute(NTT I3)を設けた。
国内の通信網に対しては、投資と業務の効率化を求めた。鵜浦氏は、光ファイバやLTEの網を世界に先がけて築いた一方で、設備投資の額が世界の通信事業者の中でも高かったことを認めている。網を一貫して自社で組む伝統も、利用者が基盤ごと乗り換え設備が早く古びる時代には見直すべきだと考えた。鵜浦氏は『自前主義に固執し、陳腐化が早い分野まで自ら手掛ける意義は乏しくなるというのが私の考えです』と述べ、必要なら設備もサービスも借りればよいとした。数値の目標は、固定と移動のアクセス系コストを2015年3月期までに2012年3月期比で4,000億円以上減らすことであった。設備投資の対売上高比率も15%へ下げるとした。削減は初年度の2013年3月期に1,250億円に達した。目標はのちに6,000億円以上へ積み増され、実績は6,500億円の削減となった。
鵜浦氏が社長就任のころから考えてきたのが、NTT東日本とNTT西日本の光回線を他社へ卸す構想であった。LTEの普及で移動中も大容量の通信が使えるなか、東西が直販で占有率を争うだけでは付加価値を足す余地が限られると判断した。2014年のアニュアルレポートで鵜浦氏は、『The era in which telecommunications operators could take the lead role and provide all services by themselves has already come to an end.』(訳:通信事業者が主役となり、あらゆるサービスを自ら提供できた時代は、すでに終わった)と述べた。2014年5月公表の光コラボレーションモデルは、中核網を含む光アクセスを全国で卸す世界初の仕組みとされた。提供は2015年2月に始まり、東西の事業はB2CからB2B2Cの形へ移った。2020年の五輪開催地に東京が選ばれたことも、公表を後押しした。
卸は、通信設備を持たない他業種の会社が自社の名で通信付きの商品を売る入口になった。東西合算のコラボ光は2015年度の469万契約から2018年度見込みの1,312万契約へ増え、自社販売のフレッツ光802万契約を上回った。ただし光回線の契約の総数は同じ期間に1,926万から2,113万へ伸びたにとどまった。2018年度の見込みでも、コラボ光の開通345万のうち125万はフレッツ光からの転用であった。会社は光コラボをドコモの新料金とともに、協業で競う新しい段階の第一歩と位置づけた。2016年1月には、五輪と地方創生を機に、自らは触媒に回って他社とサービスを生むB2B2Xモデルへ移る方針を掲げた。卸は販路を広げたが、回線の総数を押し上げる力は限られていたとみられる。
2015年5月の中期経営戦略「新たなステージをめざして 2.0」は、最初の計画の達成を受けて財務目標を置き直したものであった。EPSは2012年3月期の183円から2016年3月期に311円となる見込みで、60%以上の目標に対して69.6%の伸びを見通した。新しい目標は2018年3月期のEPS350円以上で、連結営業利益1.4兆円を目指し、海外は売上高220億ドル・営業利益15億ドルとした。1999年から累計3兆円を超えた自己株式の取得は、EPSの分母を減らす手段であり続けた。2017年度は営業収益・営業利益・当期純利益がそろって過去最高となり、EPSとコスト削減と設備投資の効率化の目標を達成した。一方で海外売上高と海外営業利益は目標に届かなかった。国内の効率化が生んだ利益が、海外の遅れを覆っていたと思われる。
2018年6月、鵜浦氏の後任として澤田純氏が社長に就いた。澤田氏は電電公社の技術者から出発し、NTTコミュニケーションズの経営企画部長として海外を中心に10社以上の買収に関わった。2014年に取締役となってNTTセキュリティの社長を兼ね、買収した5社のセキュリティ事業をまとめた。この会社は社員約1,500人の9割以上が15か国から来た外国人で、澤田氏は権限の配分を現地6・本社4から8対2へ改め、経営を回るようにした。ITサービスは国ごとの制度や市場に合わせる部分が大きいとみて、海外経営ではローカルに8割程度の比重を置くべきだと結論づけた。日本の品質を世界に通じるとみる発想は他国では過剰と受け取られる、というのがその経験であった。
2018年秋、日本電信電話は海外を束ねるグローバル持株会社を傘下に設けると決めた。NTTコミュニケーションズ、Dimension Data、NTTデータなど5社をその下へ移す。傘下の社長が持株会社の取締役を兼ねる参加型の運営で、澤田氏は『権限と責任を大幅に移譲することで、グローバル市場に精通した経営者が自らの考えに基づく経営を行うことができます』と説明した。自社の利益だけを追っていた経営者に、全体の最適を追う責任を負わせる設計である。2018年11月に60人の中核要員で統合の準備組織を立ち上げ、NTTデータを除く各社の事業を海外と国内に分けて組み直した。海外を担うNTT Ltd.は2019年7月に発足した。2018年11月の中期経営戦略「Your Value Partner 2025」は、2023年度に海外売上高250億ドル、海外営業利益率7%を掲げた。2017年度の実績3.1%から倍以上への引き上げである。
研究開発について澤田氏は、日本電信電話が今も電話の設計思想しか持っていないという現実を挙げ、『世の中を変えるようなものを NTT グループが生み出してきたとは言えません』と認めた。グループの電力使用量は国内の約1%に達し、通信量が急増するなかでエネルギー効率は重い課題になっていた。2019年に打ち出したIOWN構想は、端末の処理まで光で行うオールフォトニクス・ネットワークを柱に据えた。これに仮想空間で人と物を結ぶデジタルツインコンピューティングと、資源を束ねて管理するCognitive Foundationを組み合わせた。同年4月には消費電力の小さい光変調器と光トランジスタの開発を公表しており、構想の足場となった。2019年12月の米マイクロソフトとの戦略提携にも、IOWNの実現に向けた検討が入った。
2020年9月29日、日本電信電話は上場子会社NTTドコモの株式を公開買付けで取得すると決めた。買付価格は1株3,900円で、11月16日までの買付けにより所有持分は66.2%から91.5%へ上がった。残る株式は売渡請求で取得し、ドコモは12月29日に完全子会社となった。売渡までを含めた対価は4兆2,531億円に上る。完全子会社化の理由について、澤田純社長は翌年の年次報告書で『グループ横断でのリソース・アセットの戦略的活用と意思決定の迅速化が不可欠と考えたからです』と記した。判断の前提には、固定と移動の区別が薄れ、海外の大手も含む事業者が通信の層をまたいで競い合う市場へ移ったという認識があった。60%台の持分で足りていた支配を、4兆円を超える資金で100%へ引き上げたのは、議決権ではなく決める速さを買ったのだろう。
この取引は共通支配下の資本取引として処理され、のれんは生じなかった。取得した非支配持分の帳簿価額1兆8,880億円と対価との差額が資本から差し引かれ、資本剰余金は2021年3月末にゼロとなった。ブリッジローンと2兆1,069億円の社債で資金を賄い、有利子負債は4兆6,999億円から7兆6,243億円へ増えた。代わりに得たのが、2022年1月にNTTコミュニケーションズとNTTコムウェアをドコモの傘下へ移す再編の自由である。年次報告書は3社の統合効果として、2023年度に1,000億円、2025年度に2,000億円以上の利益を見込んだ。のちに社長となる島田明氏は、ドコモとNTTコミュニケーションズが別々にコアネットワークを持つ状態を指し、『当然設備は二重、オペレーションも二重になってしまっています。このような無駄なことからは脱却しないといけません。』と統合の理由を語っている。
2021年3月9日、経営層と省庁関係者などとの会食をめぐって、社外取締役の榊原定征氏を委員長とする特別調査委員会が置かれた。日本電信電話は日本電信電話株式会社等に関する法律の下にあり、定款の変更にも事業計画にも総務大臣の認可を要していた。委員会の報告を受けて会食等のルールを定め、その運用を管理する体制を築いた。関係役員等には報酬減額などの処分を科したが、対象者と金額は開示されなかった。同じ年の年次報告書で澤田氏は、コンダクトリスクを考慮したガバナンスの充実と、ステークホルダーとの適切な関係構築を業務変革の施策に並べている。あわせてリモートワークを基本とする経営スタイルへの転換を掲げ、『今までの働き方や経営スタイルをそのまま続けていくのでは会社として生き残れないでしょう』と書いた。規律の立て直しを組織改革の一項目に収めたことで、事案そのものの説明は薄くなった。
2022年6月、澤田氏の後任として島田明氏が社長に就いた。島田氏は就任直後の年次報告書で、電電公社に入った40年前には電話事業しかなかったと振り返り、いまや音声関連の収入は営業収益の15%に過ぎないと述べた。再編の方針は前任の時代に決まっており、自らの任務はその成果を出すことだとも位置づけている。就任に先立つ同年5月には、NTTデータとNTT Ltd.の事業統合を発表し、海外事業会社への出資はNTTデータ55%、日本電信電話45%とした。島田氏はNTTデータを顧客への助言から入るマーケットイン型、NTT Ltd.をデータセンターや回線という部品を売る型と対比し、『大きなビジネスチャンスがあるのは前者のモデルで、お客さまにトータルソリューションを提供できるという強みを前面に打ち出すため、NTTデータ主導としました。』と説明した。部品の側も捨てず、世界3位のデータセンター事業には2022年度に約3,000億円を投じる計画を示した。
2023年5月、中期経営戦略「New value creation & Sustainability 2027 powered by IOWN」が発表された。IOWNとデータによる価値創造、循環型社会、事業基盤の強靭化を柱に置き、顧客体験と従業員体験の高度化がそれを支える構成を取った。投資は成長分野に5年間で従来比5割増の8兆円、既存分野を合わせて12兆円とされた。島田氏は統合報告書で、本業のキャッシュ創出を示すEBITDAがこれまで横ばいだったと認め、2027年度に2割増の4兆円へ引き上げる目標を掲げている。2023年6月には光電融合デバイスの製品化を担うNTTイノベーティブデバイスを設立し、IOWNを研究から事業へ移す器を用意した。
2023年7月、日本電信電話は普通株式1株を25株に分ける株式分割を実施した。2015年と2020年の2分割に続く分割だった。島田氏は2024年に始まる新NISAを見据え、『よりNTT株式に投資しやすい環境を整え』、成長に共感する投資家を幅広い世代に増やしたいと説明した。株主還元の考え方は新しい中期経営戦略でも改めず、2023年度は13期連続の増配を予定し、1株配当は20年前の10倍になる見通しとした。同年8月には上限2,000億円の自己株式取得も決議している。会社説明会の資料は、2020年度以降のEPSの伸びを、ドコモの100%化と利益成長・自己株式取得に分けて示した。少数株主に流れていたドコモの利益を取り込んだ効果が、個人へ株を開く施策と同じ時期に1株利益へ表れた形とみられる。
2024年4月、日本電信電話株式会社等に関する法律が改正され、研究開発の推進と成果の普及の責務が撤廃されたほか、外国人役員の規制も一部緩められた。島田氏はこの改正について統合報告書で『研究開発の推進・普及責務の撤廃、外国人役員規制の一部緩和等が行われたことは前向きに受け止めています』と記し、翌年度の法改正に向けた議論にも協力するとした。会社側の説明では、改正前は研究成果の開示義務があったため、パートナーと組む戦略を描きにくかった。光電融合デバイスでは100件以上の特許を出願しており、改正で技術を起点にした協業を進められる環境が整ったと位置づけている。ただし外国人を代表取締役に就けることはできず、取締役の3分の1以上を外国人が占めることもできないという制限は残った。緩んだのは研究の出口の縛りであり、統治の外枠は法が引いたままだった。
2025年5月8日、日本電信電話はNTTデータグループ株式を1株4,000円で公開買付けすると発表した。前日終値に33.71%を上乗せした価格で、買付代金は2兆3,712億円、資金は国内金融機関5社からのブリッジローンで賄った。説明資料は、親子上場に伴う利益相反、込み入った意思決定、経営資源を投じるたびに双方の株主へ負う説明責任を課題に挙げた。狙いは決定を一本化し、北米市場やAI、データセンターへの投資を機動的に打つことに置かれた。買付けで所有割合は57.73%から81.75%となり、株式併合を経て9月30日に完全子会社化が成って、上場子会社はゼロになった。発表と同じ時期の2024年度決算は、営業利益が前年比14.2%減の1兆6,496億円、EBITDAも3兆2,393億円と前年を下回っていた。
2025年6月19日の定時株主総会で定款が変更され、総務大臣の認可を経て、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移った。取締役会は独立社外取締役8名を含む16名で構成され、社外の比率は50%に届いた。移行の目的には、経営方針をめぐる議論の充実、取締役会の監督機能の強化、そして海外投資家にも理解されやすい統治の形が挙げられた。同じ総会で商号の変更も決め、2025年7月1日から商号はNTT株式会社となり、英文ではNTT, Inc.を名乗った。機関設計の変更には認可を要した一方、商号の変更に係る決議は認可の対象外だった。民営化の後に切り出して上場させた二つの子会社を抱え直し、社名から電信電話の語を外したことで、2020年からの組み替えは一区切りを迎えた。
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|---|---|---|---|---|
| 1952〜1984年独占の正当性の失効 | 逓信省・電気通信省から電信電話事業を承継して発足 | ★★ | ||
| 電話料金を改正 | ★ | |||
| 電話加入者数が240万に到達 | ★ | |||
| 電話加入者数が633万に到達 | ★★ | |||
| 電話の積滞が160万個に到達 | ★★ | |||
| 真藤恒氏が総裁に就任 | ★★ | |||
| INSのモデル実験を開始 | ★★ | |||
| 1985〜1991年競争導入による事業の切り出し | 公社の民営化に伴い発足 | ★★★ | ||
| 新電電3社の参入により電話事業の独占が終了 | ★★ | |||
| 株価が300万円台に上昇 | ★ | |||
| 東京・大阪・名古屋など8証券取引所に上場 | ★ | |||
| 真藤恒会長がリクルート事件で辞任 | ★★ | |||
| データ通信事業の営業をエヌ・ティ・ティ・データ通信に譲渡 | ★★ | |||
| 児島仁 | 株価が100万円を割り込む | ★ | ||
| 1992〜1998年移動体通信の分離とNTTデータ・ドコモの上場、雇用調整とNY・ロンドン上場 | 児島仁 | 長距離通信・地域通信の業務区分に対応した組織改革を実施 | ★ | |
| 児島仁 | 移動体通信の営業をエヌ・ティ・ティ移動通信網に譲渡 | ★★ | ||
| 児島仁 | 電力・建築・ビル管理業務をエヌ・ティ・ティファシリティーズに移管 | ★ | ||
| 児島仁 | 希望退職の募集など雇用調整を開始 | ★★ | ||
| 児島仁 | 長距離料金の値下げが民営化以来8回に到達 | ★ | ||
| 児島仁 | ニューヨーク証券取引所に上場 | ★ | ||
| 児島仁 | ロンドン証券取引所に上場 | ★ | ||
| 児島仁 | エヌ・ティ・ティ・データ通信が東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 児島仁 | 1株を1.02株に分割 | ★ | ||
| 宮津純一郎 | ソフトウェア本部の営業をエヌ・ティ・ティ・コミュニケーションウェアに譲渡 | ★ | ||
| 宮津純一郎 | エヌ・ティ・ティ・データ通信がエヌ・ティ・ティ・データに商号変更 | ★ | ||
| 宮津純一郎 | 稼ぎ頭を資金化しつつ過半出資で支配を残した資本政策 1998年10月22日、NTTが95%出資する移動体子会社のNTTドコモを東京証券取引所に上場させた経営判断。公募・売り出しで国内外の市場から合計2兆1255億円を調達し、上場時の時価総額は約4兆円に達した。決定はNTT社長の宮津純一郎氏が主導した。 詳細を読む | ★★ | ||
| 1999〜2011年持株会社への再編とFTTHの開始、11万人の再配置と海外投資の評価損 | 宮津純一郎 | 国際デジタル通信の買収を断念 | ★ | |
| 宮津純一郎 | 民営化後も一体だった地域通信と長距離通信の切り分け 1999年7月1日、NTTは純粋持株会社"日本電信電話"を頂点に、地域通信のNTT東日本・NTT西日本と長距離国際のNTTコミュニケーションズへ分社するグループ体制へ移行した。宮津純一郎社長のもとで、1985年の民営化以来14年続いた分離・分割論議に区切りをつけた組織再編である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮津純一郎 | 再編で生まれた新会社を足がかりとする国際通信への進出 1999年7月1日、持株会社体制へ移行したNTTが、長距離・国際通信を担う完全民営のNTTコミュニケーションズを発足させ、国際通信事業へ本格進出した経営判断。同時期、国際デジタル通信(IDC)の買収をめぐる騒動の末に、他社の資産を取り込まず自前の国際基盤で進む道を選んだ。 詳細を読む | ★★ | ||
| 宮津純一郎 | エヌ・ティ・ティ移動通信網がエヌ・ティ・ティ・ドコモに商号変更 | ★ | ||
| 宮津純一郎 | ベリオを完全子会社化 | ★★ | ||
| 宮津純一郎 | 各家庭へ光を直結する固定網への切り替えを選んだ基盤投資 2000年末から2001年にかけて、NTT東日本・西日本が、一芯の光ファイバーを複数の家庭で共有する共用型のπシステムを止め、各家庭へ光ファイバーを直接引くFTTHへ固定網の整備方針を切り替えた経営判断。ADSLやusenのFTTHに押されるなか、光基盤への巨額投資を選び直した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮津純一郎 | 西日本電信電話が営業赤字に転落 | ★★ | ||
| 宮津純一郎 | 約11万人の再配置計画を決議 | ★★ | ||
| 宮津純一郎 | 海外投資で巨額の評価損が発生 | ★★ | ||
| 宮津純一郎 | エヌ・ティ・ティ・ドコモがロンドン・ニューヨーク両証券取引所に上場 | ★ | ||
| 和田紀夫 | エヌ・ティ・ティ都市開発が東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 三浦惺 | 三浦惺氏が社長に就任 | ★ | ||
| 三浦惺 | 1株を100株に分割 | ★ | ||
| 三浦惺 | エヌ・ティ・ティ・データがDimension Dataに公開買付けを実施 | ★★ | ||
| 2012〜2019年鵜浦博夫・澤田純体制のIOWN構想とNTT Ltd.の設立 | 鵜浦博夫 | 鵜浦博夫氏が社長に就任 | ★ | |
| 鵜浦博夫 | エヌ・ティ・ティ・ドコモがNTTドコモに商号変更 | ★ | ||
| 鵜浦博夫 | 1株を2株に分割 | ★ | ||
| 澤田純 | 澤田純氏が社長に就任 | ★ | ||
| 澤田純 | 全額出資子会社のNTTを設立 | ★★ | ||
| 澤田純 | エヌ・ティ・ティ都市開発を完全子会社化 | ★ | ||
| 澤田純 | 次世代通信基盤「IOWN」構想を発表 | ★★ | ||
| 澤田純 | 海外システム構築事業の統合による国際事業の一本化と指揮系統の集約 2018年6月に社長へ就任した澤田純氏の下、日本電信電話(NTT)が2018年11月に中間持株会社を設立し、2019年7月にNTTコミュニケーションズやディメンションデータなど海外事業会社を統合してグローバル事業会社NTTリミテッドを発足させた経営判断。2010年のディメンションデータ買収から続く法人向けシステム構築事業の拡大を、"One NTT"として一体運営に集約する再編である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 澤田純 | NTTアーバンソリューションズを設立 | ★ | ||
| 2020〜2026年ドコモとNTTデータの完全子会社化、改正NTT法とNTTへの改称 | 澤田純 | 1株を2株に分割 | ★ | |
| 澤田純 | 完全子会社化による親子上場の解消 2020年9月29日、上場子会社NTTドコモの普通株式と米国預託証券を金融商品取引法に基づく公開買付けで取得することを決定した。買付価格は1株3,900円、買付期間は9月30日から11月16日までで、公開買付けによる取得額は3兆1,786億円となった。 続いて11月27日に会社法第179条第1項の株式売渡請求を行い、12月29日にドコモは完全子会社となった。取得した非支配持分の帳簿価額1兆8,880億円に対し、売渡対価は4兆2,531億円だった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 澤田純 | NTTドコモを完全子会社化 | ★ | ||
| 澤田純 | 社外役員による特別調査委員会の設置と、会食ルールの策定による規律の引き直し 2021年3月9日、特別調査委員会を設置した。調査の対象は、経営層と省庁関係者などとの会食である。委員長には社外取締役の榊原定征氏が、委員には社外監査役の飯田隆氏が就任した。 委員会の報告を踏まえ、会食等に関するルールの策定を中核とする再発防止の取り組みを公表し、関係役員等に対して報酬減額等の処分を実施した。運用状況に関する適正な管理体制を構築することで、内部統制もあわせて強化するとした。 詳細を読む | |||
| 澤田純 | エヌ・ティ・ティ・コミュニケーションズ等をNTTドコモに移管 | ★ | ||
| 澤田純 | 当期利益が初めて1兆円を突破 | ★★ | ||
| 澤田純 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 島田明 | 島田明氏が社長に就任 | ★ | ||
| 島田明 | NTT DATA, Inc. を設立 | ★ | ||
| 島田明 | NTT法の見直し議論が開始 | ★★ | ||
| 島田明 | エヌ・ティ・ティ・データがNTTデータグループに商号変更 | ★ | ||
| 島田明 | 1株を25株に分割 | ★ | ||
| 島田明 | 改正NTT法が成立 | ★★ | ||
| 島田明 | 総務大臣の認可を経て監査役会を廃し、社外比率50%の取締役会へ組み替えた機関設計 2025年6月19日の第40回定時株主総会で定款の一部変更が承認され、総務大臣の認可を経て監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。取締役会は独立社外取締役8名を含む16名で構成され、社外取締役比率は50%となった。 監査等委員会は、監査等委員である取締役2名と監査等委員である社外取締役3名の合計5名。定款上の取締役の員数は15名以内から17名以内へ改め、うち監査等委員である取締役は5名以内とした。 詳細を読む | |||
| 島田明 | 連結営業収益13兆7047億円を計上 | ★ | ||
| 島田明 | 上場子会社の完全買収による親子上場の解消とグループ統治の一本化 2025年、NTTが上場子会社NTTデータグループ株式をTOBで取得し完全子会社化した案件。所有割合57.73%から買付けで81.75%まで高め、株式併合を経て9月26日に上場廃止、9月30日に完全子会社化した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 島田明 | NTTに商号変更 | ★ | ||
| 島田明 | NTTデータグループが上場廃止 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(NTT)