1952年〜 電電公社の三十二年——積滞の解消と、独占の意義が問われるまで
- 1952年 逓信省・電気通信省から電信電話事業を承継して発足
- 1953年 電話料金を改正
- 1956年 電話加入者数が240万に到達
- 1964年 電話加入者数が633万に到達
- 1966年 電話の積滞が160万個に到達
- 1981年 真藤恒氏が総裁に就任
- 1984年 INSのモデル実験を開始
全国へ電話を行き渡らせるという公社の使命
1952年8月、逓信省・電気通信省から電信電話事業を引き継ぎ、日本電信電話公社が発足した[1]。翌9月には国際電信電話株式会社法が施行され[2]、国内通信を公社が、国際通信を国際電信電話が担う体制が固まった。1953年には電話料金が改正され、電信電話事業の合理的能率的経営体制が確立[3]した。公社が抱えた最大の問題は、電話の開設を申し込んでもなかなか設置できない「積滞」が長期間続いた[4]ことである。事業用は優先的に開設されたが、家庭用では申し込んでから二、三年は待たされる[5]こともまれではなかった。長距離も回線数が少なく、交換手に申し込んでから数時間待たされる[6]状況が長い間続いた。
- 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
- [1]1952年8月 日本電信電話公社の発足
- [2]1952年9月 国際電信電話株式会社法の施行
- 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
- [3]1953年 電話料金の改正と経営体制の確立
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [4]電話の申込から設置までの「積滞」が長期間継続
- [5]家庭用電話 申込から二、三年待ち
- [6]長距離電話 交換手への申込から数時間待ち
第一次から第三次までの五ヵ年計画の推進によって、電話の加入者総数は1956年の240万から1964年末には633万となった[7]。電話機数ではアメリカ、イギリスに次いで世界第三位[8]である。それでも生活水準の向上や人口の都市集中に伴って加入申し込みは殺到し、架設してもらえない電話の数は1966年に160万個へ達している[9]。電話局への自動交換機の導入により、交換手が電話回線をつなぐ作業[10]は徐々に減った。交換機の普及によって交換手を通さないダイヤル直通地域も急速に拡大[11]した。1970年代後半には年間500万台の電話端末を設置する敷設ピッチによって積滞は解消[12]し、需給は逆転するに至った。
- 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
- [7]電話加入者総数 1956年240万→1964年末633万
- [8]電話機数で米英に次ぐ世界第三位
- [9]1966年 架設待ちの電話160万個
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [10]自動交換機の導入による交換作業の縮小
- [11]ダイヤル直通地域の急速な拡大
- [12]1970年代後半 年間500万台の敷設ピッチで積滞解消・需給逆転
- 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
- [1]1952年8月 日本電信電話公社の発足
- [2]1952年9月 国際電信電話株式会社法の施行
- 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
- [3]1953年 電話料金の改正と経営体制の確立
- [7]電話加入者総数 1956年240万→1964年末633万
- [8]電話機数で米英に次ぐ世界第三位
- [9]1966年 架設待ちの電話160万個
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [4]電話の申込から設置までの「積滞」が長期間継続
- [5]家庭用電話 申込から二、三年待ち
- [6]長距離電話 交換手への申込から数時間待ち
- [10]自動交換機の導入による交換作業の縮小
- [11]ダイヤル直通地域の急速な拡大
- [12]1970年代後半 年間500万台の敷設ピッチで積滞解消・需給逆転
積滞の解消と、独占の意義が問われるまで
積滞の解消は、公社の存在の意義を問い直す議論[13]を呼んだ。申し込めばすぐ電話に加入できる状況になれば、公共企業体が独占でインフラ建設を行う使命は終わった[14]という声が大きくなってきた。米国に比べて電話料金が高いことも問題となり、当時、米国と日本の長距離通信料金は米国一に対し日本国内は九という格差[15]があるといわれた。通信に高いコストを支払わなければならないため日本企業は国際競争力を失ってしまう、というのが自由化論者の論点[16]だった。公社の敷設ピッチが落ちた1970年代後半には、年間の新規加入台数は約半分の200万台に激減[17]している。
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [13]積滞解消による公社の存在意義の問い直し
- [14]公共企業体が独占でインフラ建設を行う使命の終焉論
- [15]日米の長距離通信料金格差 米国1対日本9
- [16]通信コスト高が日本企業の国際競争力を損なうという自由化論
- [17]1970年代後半 年間新規加入台数が約半分の200万台へ激減
公社内部からの見直しは二つの方向で進み、一方では自動車電話、携帯電話など無線系の移動電話への事業拡大を目指し[18]、他方では電話を主体にした通信サービスでは需要の伸びに限界がある[19]として、コンピューター通信、ファクシミリ通信、テレビ電話などの映像通信が検討された[20]。とくに、電話、画像、コンピューターの情報をデジタル方式で一元化する統合デジタルサービス(INS)には研究開発の重点が置かれた[21]。1984年9月、公社はINSのモデル実験を東京・三鷹、武蔵野地区で開始した[22]。これは電話以後のサービスとして公社が蓄積してきたデジタル通信技術を世界に公開する意味[23]があった。
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [18]無線系移動電話への事業拡大の志向
- [19]電話主体では需要の伸びに限界という認識
- [20]コンピューター通信・ファクシミリ通信・映像通信の検討
- [21]統合デジタルサービス(INS)への研究開発の重点配分
- [23]INS実験によるデジタル通信技術の世界公開
- 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
- [22]1984年9月 INSモデル実験を東京・三鷹、武蔵野地区で開始
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [13]積滞解消による公社の存在意義の問い直し
- [14]公共企業体が独占でインフラ建設を行う使命の終焉論
- [15]日米の長距離通信料金格差 米国1対日本9
- [16]通信コスト高が日本企業の国際競争力を損なうという自由化論
- [17]1970年代後半 年間新規加入台数が約半分の200万台へ激減
- [18]無線系移動電話への事業拡大の志向
- [19]電話主体では需要の伸びに限界という認識
- [20]コンピューター通信・ファクシミリ通信・映像通信の検討
- [21]統合デジタルサービス(INS)への研究開発の重点配分
- [23]INS実験によるデジタル通信技術の世界公開
- 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「日本産業総年表」
- [22]1984年9月 INSモデル実験を東京・三鷹、武蔵野地区で開始
真藤恒氏の登板と、市場開放の準備
1981年、真藤恒氏が日本電信電話公社総裁に就いた[24]。真藤氏は1934年3月に九州帝国大学工学部を卒業して同年4月に播磨造船所へ入社[25]し、1960年12月に石川島播磨重工業の常務取締役、1972年1月に同社の代表取締役社長[26]となった経歴を持つ。真藤氏は民営化後も引き続き経営の先頭に立ち、1985年4月に日本電信電話株式会社の代表取締役社長へ就任[27]している。1987年2月の上場時、取締役副社長には北原安定氏らが名を連ね[28]、取締役には伊藤忠商事から瀬島龍三氏が加わっていた[29]。
- 証券 1987年39巻4号(457号)「新規上場会社紹介 日本電信電話株式会社」
- [24]1981年 真藤恒氏が日本電信電話公社総裁に就任
- [25]真藤恒氏 1934年3月 九州帝国大学工学部卒業・同年4月 播磨造船所入社
- [26]真藤恒氏 1960年12月 石川島播磨重工業常務取締役・1972年1月 同社社長
- [27]真藤恒氏 1985年4月 日本電信電話代表取締役社長に就任
- [28]上場時の取締役副社長に北原安定氏・取締役に瀬島龍三氏
- [29]取締役 瀬島龍三氏(伊藤忠商事)
郵政省は公社の独占を崩すとともに、通信回線の利用の制約を大幅に緩める規制緩和策[30]を打ち出した。その代表的なサービスが、通信会社から借りた回線に付加価値を付けて再販売するVAN(付加価値通信網)[31]である。1984年には中小企業向けのVANが一足早く認可された[32]。同じ1984年には、京セラの稲盛和夫氏を中心とする若手財界人グループによって第二電電(DDI)が設立され[33]、国鉄系の日本テレコムも発足し、トヨタ自動車などが出資する日本高速通信[34]とともに認可を待った。VANの第一号は富山県に本拠を置く計算サービス会社のインテック、第二号は富士通[35]で、以下、日本総合研究所、日本電気、日立情報ネットワークと続いている[36]。
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [30]郵政省による公社独占の打破と回線利用の規制緩和
- [31]VAN(付加価値通信網)=借用回線への付加価値付き再販売
- [32]1984年 中小企業向けVANの認可
- [33]1984年 京セラ稲盛和夫氏を中心とする若手財界人グループが第二電電(DDI)を設立
- [34]国鉄系 日本テレコムの発足とトヨタ自動車等出資の日本高速通信
- [35]VAN第一号インテック(富山)・第二号富士通
- [36]VAN登録の後続=日本総合研究所・日本電気・日立情報ネットワーク
- 証券 1987年39巻4号(457号)「新規上場会社紹介 日本電信電話株式会社」
- [24]1981年 真藤恒氏が日本電信電話公社総裁に就任
- [25]真藤恒氏 1934年3月 九州帝国大学工学部卒業・同年4月 播磨造船所入社
- [26]真藤恒氏 1960年12月 石川島播磨重工業常務取締役・1972年1月 同社社長
- [27]真藤恒氏 1985年4月 日本電信電話代表取締役社長に就任
- [28]上場時の取締役副社長に北原安定氏・取締役に瀬島龍三氏
- [29]取締役 瀬島龍三氏(伊藤忠商事)
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [30]郵政省による公社独占の打破と回線利用の規制緩和
- [31]VAN(付加価値通信網)=借用回線への付加価値付き再販売
- [32]1984年 中小企業向けVANの認可
- [33]1984年 京セラ稲盛和夫氏を中心とする若手財界人グループが第二電電(DDI)を設立
- [34]国鉄系 日本テレコムの発足とトヨタ自動車等出資の日本高速通信
- [35]VAN第一号インテック(富山)・第二号富士通
- [36]VAN登録の後続=日本総合研究所・日本電気・日立情報ネットワーク