1986年〜 鉄道インフラからJ-フォンへ ── ボーダフォン傘下入り前夜
- 1986年 鉄道通信を設立
- 1989年 (旧)日本テレコムを吸収合併、日本テレコムに商号変更
- 1991年 東京デジタルホンを設立し携帯電話事業に参入
- 1994年 東京証券取引所二部・大阪証券取引所二部に上場
- 1996年 東京証券取引所一部・大阪証券取引所一部に指定替え
- 1997年 日本国際通信を吸収合併
- 1999年 デジタルホン・デジタルツーカー9社がJ-フォンに商号変更
鉄道通信から日本テレコムへ ── 国鉄通信網を継いだ第3キャリア
1986年12月、国鉄の分割民営化を控え、電話サービスと専用サービスの提供を目的として鉄道通信株式会社が資本金32億円で設立された。1987年4月、旧国鉄が全国に敷設した基幹通信網を承継し、第一種電気通信事業者として営業を開始した。鉄道の線路沿いに張り巡らされた光ファイバー網という物理資産を引き継いだ点が、新規参入組のなかで他社にない立地優位を与えた。第一種電気通信事業の免許を取得していた(旧)日本テレコムとは元々別法人であり、両社はそれぞれ別の出自を持って通信自由化後の市場に参入した。電電公社の独占が崩れた直後の市場には、長距離通信を中心に複数の新規参入組が名乗りを上げ、業界は再編の渦中にあった。 [1][2][3]
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 鉄道通信)
- [1]1986年12月 鉄道通信(現ソフトバンク)を設立。資本金32億円
- [2]1987年4月 旧国鉄の基幹通信網を承継し第一種電気通信事業者として営業開始
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 (旧)日本テレコム)
- [3](旧)日本テレコムは鉄道通信とは別法人として1984年10月に設立された第一種電気通信事業者
1989年5月、鉄道通信が存続会社として(旧)日本テレコムを吸収合併し、日本テレコムへ商号変更した。NTT、KDD(現KDDI)に次ぐ第3の固定通信事業者という業界ポジションが、この統合で固まる。1994年9月に東証二部・大証二部へ上場、1996年9月に一部指定替え、1997年10月に日本国際通信を吸収するなど、固定通信事業の規模拡大に着手した。電電公社民営化後の新規参入組として、鉄道通信は出自の面でも資産の面でも特異な存在だった。NTTの全国網に対抗するに当たり、新規敷設ではなく既存の鉄道沿線網を使える立地は設備投資負担の抑制につながった。長距離通信市場では新電電3社(日本テレコム、第二電電、日本高速通信)の競争が始まり、市内通話を含む全面開放にはまだ時間を要する状況だった。 [4][5][6][7][8]
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 日本テレコム)
- [4]1989年5月 鉄道通信が存続会社として(旧)日本テレコムを吸収合併し日本テレコムへ商号変更
- [5]NTT・KDD(現KDDI)に次ぐ第3の固定通信事業者という業界ポジション
- [6]1994年9月 東証二部・大証二部に上場
- [7]1996年9月 東証一部・大証一部に指定替え
- [8]1997年10月 日本国際通信を吸収合併
ただし固定通信単体では成長余地が限られていた。NTTの寡占シェアと専用線需要の頭打ちが、長距離通信事業者を構造的に縛る。新たな成長軸として浮かび上がったのが、1980年代末に始まった携帯電話事業の自由化である。日本テレコムは1991年7月、東京デジタルホン株式会社を関連会社として設立し、移動体通信への参入を決断した。固定通信会社が携帯事業者を持つこの構造が、のちにボーダフォンが日本市場の参入拠点として日本テレコムに目をつける理由となる。携帯電話市場はまだ法人需要が中心で個人普及前夜にあり、参入企業には先行投資が重いが将来性のある成長市場として位置付けられた。固定と移動の両方を抱える事業構造は、のちの市場拡大期に重い意味を持つ。 [9]
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 日本テレコム)
- [9]1991年7月 日本テレコムが東京デジタルホンを関連会社として設立し移動体通信へ参入
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 鉄道通信)
- [1]1986年12月 鉄道通信(現ソフトバンク)を設立。資本金32億円
- [2]1987年4月 旧国鉄の基幹通信網を承継し第一種電気通信事業者として営業開始
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 (旧)日本テレコム)
- [3](旧)日本テレコムは鉄道通信とは別法人として1984年10月に設立された第一種電気通信事業者
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 日本テレコム)
- [4]1989年5月 鉄道通信が存続会社として(旧)日本テレコムを吸収合併し日本テレコムへ商号変更
- [5]NTT・KDD(現KDDI)に次ぐ第3の固定通信事業者という業界ポジション
- [6]1994年9月 東証二部・大証二部に上場
- [7]1996年9月 東証一部・大証一部に指定替え
- [8]1997年10月 日本国際通信を吸収合併
- [9]1991年7月 日本テレコムが東京デジタルホンを関連会社として設立し移動体通信へ参入
東京デジタルホン ── 携帯参入で固定通信の限界を超える
1991年7月、日本テレコムは東京デジタルホンを設立し、PDC(Personal Digital Cellular)方式で携帯電話事業へ参入した。1991年から1994年にかけてデジタルホン3社(東京・関西・東海)とデジタルツーカー6社の地域別9社体制で全国を覆った。NTTドコモ、IDO/セルラー(現au)に次ぐ第3勢力として、ビジネス需要を中心にシェアを伸ばした。固定通信の網と携帯電話子会社群を持つ構造が、日本テレコムの企業価値を構成する二本柱になった。当時の携帯電話市場は携帯端末の小型化と料金引き下げが進み、1990年代を通じて加入者数が短期間に増えていた成長分野だった。各キャリアは加入金や端末価格の引き下げによる顧客獲得競争を繰り広げていた。 [10]
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 日本テレコム)
- [10]1991年7月 日本テレコムが東京デジタルホンを設立(携帯電話事業へ参入)
1990年代後半、携帯電話市場は契約者数の爆発的な拡大期に入った。固定通信の成長率を移動体通信が上回り、収益構造の主役が逆転する。日本テレコムグループの収益も、固定通信の縮小と移動体通信の拡大が同時進行する形へ変化した。9社に分かれた携帯子会社の分散ガバナンスは、ブランド統一と全国一体運営の必要性を迫る。NTTドコモのiモード、auの着メロといった付加サービス競争に対抗するためにも、3社連合では商品戦略を統一しきれない構造的な弱さがあった。各地域子会社で料金プランや端末ラインナップが異なる状況は、全国展開する法人顧客にも個人顧客にも分かりにくく、ブランド認知の低下を招く。販売現場では統一感のない宣伝物が並び、ドコモのiモードという全国共通サービスとの差は無視できないほど開いた。
1999年10月、デジタルホン・デジタルツーカー9社をJ-フォンへブランド統一した。商号も「J-フォン東日本」「J-フォン東海」「J-フォン西日本」の3社へ集約し、各社のサービス・端末・料金体系を共通化した。固定通信を担う日本テレコムと、携帯電話を担うJ-フォングループという二層構造ができあがる。固定通信が成熟事業として安定キャッシュフローを生み、その資金が携帯電話事業の設備投資を支える内部補助構造になった。J-フォンが上げ潮に乗ったとき、海外の携帯電話グループがこの資産価値に注目した。固定通信網のバックボーンを携帯電話のトラフィック処理に活用できる垂直統合の構造は、日本市場での競争力の源泉でもあり、海外資本から見れば日本進出の近道として魅力的に映る資産でもあった。 [11]
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 J-フォン)
- [11]1999年10月 デジタルホン・デジタルツーカー9社がJ-フォンに商号変更(ブランド統一)
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 日本テレコム)
- [10]1991年7月 日本テレコムが東京デジタルホンを設立(携帯電話事業へ参入)
- ソフトバンク 有価証券報告書 【沿革】(当時社名 J-フォン)
- [11]1999年10月 デジタルホン・デジタルツーカー9社がJ-フォンに商号変更(ブランド統一)
J-フォンと写メール ── 日本独自進化の到達点
2000年11月、J-フォンは世界で初めてカメラ付き携帯電話「J-SH04」(シャープ製)を発売した。撮影した写真をメールで送る「写メール」というサービス名が広告とともに浸透し、若年層を中心に普及した。NTTドコモのiモード、auのEZwebが立ち上がっており、日本のフィーチャーフォン文化は世界に先行して独自進化の道を歩み始めていた。J-フォンはこの流れの一翼を担う存在として、日本の携帯電話市場で独自のポジションを築いた。30万画素のCCDカメラを搭載した端末を月額数千円で気軽に購入できる仕組みは、当時の世界どこにもなかった日本ならではの市場形成だった。写メールの普及は10代から20代の若年層を中心にJ-フォンの契約者層を厚くし、後の3G時代の契約基盤を支える原動力となった。
写メールの成功は単なる新商品のヒットではなく、携帯電話を通信端末から映像コミュニケーション端末へ転換した起点だった。それまで欧州でショートメッセージサービス(SMS)が中心だった携帯文化に対し、日本市場は画像・絵文字を含む豊富な表現を伴うメールへ進んだ。日本独自の進化を支えたのは、キャリア主導の端末仕様統制と、メーカー各社が国内市場向けに最適化した小型端末の競争である。海外のオープンな端末市場では真似のできない差別化要素となった。後年「ガラパゴス化」と批判される構造の起源でもあるが、当時はキャリアが端末メーカーに細かい仕様を発注し、世界に類のない高機能端末を市場に投入していた。J-フォンの写メールはその象徴だった。
J-フォン全国3社は2000年代初頭にかけて単一会社へ統合する過程をたどった。固定通信網と一体運営される強みを持つ携帯事業者として、世界の携帯電話グループから見れば理想的な買収対象だった。英ボーダフォン・グループが日本市場の参入拠点を探していた当時、J-フォンの写メール文化と契約者基盤、そしてNTT・KDDIに次ぐ第3勢力というポジションは、単なる事業の獲得ではなく日本市場への足がかりという意味を持っていた。次のオーナーは、この資産を世界戦略の一部として組み込もうとする。世界の主要携帯電話市場で契約者を伸ばしていたボーダフォンにとって、日本市場への参入は世界戦略の総仕上げとしての意味合いを持っていた。日本テレコム・J-フォンの株式取得は、その入口として最適な選択肢だった。 [12]
- 週刊東洋経済 2000年12月23日号「参戦ドコモに強敵出現! ボーダフォンが日本市場上陸の狼煙」
- [12]2000年12月、英ボーダフォンがJ-フォンの親会社である日本テレコムの株式15%をJR西日本・JR東海から総額約2750億円(約25億ドル)で取得すると報じられ、日本市場上陸の足がかりとした
- 週刊東洋経済 2000年12月23日号「参戦ドコモに強敵出現! ボーダフォンが日本市場上陸の狼煙」
- [12]2000年12月、英ボーダフォンがJ-フォンの親会社である日本テレコムの株式15%をJR西日本・JR東海から総額約2750億円(約25億ドル)で取得すると報じられ、日本市場上陸の足がかりとした