1950年〜 日本製鉄の船舶部門24隻からの独立と、東邦海運が持ち込んだ郵船との縁
NSユナイテッド海運の業績推移:単体
- 1950年 日鐵汽船創立
- 1951年 東京・大阪・神戸の各証券取引所に上場登録
- 1956年 海運仲立業を主業務として中央海運を発足
- 1957年 晴海船舶を発足
- 1959年 不動産管理部門を分離し東海興業を発足
- 1962年 日鐵汽船が東邦海運と合併し新和海運へ改称 製鉄専属の船社にとどまるか、荷主の幅を持つ海運会社になるか——政策集約に先立つ中堅どうしの合併
- 1964年 海運集約による日本郵船グループへの系列編入 荷主は製鉄、資本の後ろ盾は郵船——法律が求めた系列選びで、中堅船社は誰の傘に入ったか
日本製鉄の船舶部門が24隻で独立した1950年
新和海運の前身は、1934年1月に日本製鉄が社内に設けた船舶部門である。この部門は1945年4月に船舶運営会の管理下へ移るまで、同社の海上輸送を担っていた。1948年12月に日本製鉄へ解体指令が下り、翌1949年12月に分割再建計画が正式に許可されると、船舶部門は八幡製鉄・富士製鉄・播磨耐火煉瓦とともに第二会社として切り出される。現物出資4,000万円と譲受資産1億7,100万円余を継承し、1950年4月1日、日鐵汽船株式会社が東京・丸ノ内の丸ビルに発足した。初代社長には渡辺一良氏が就いている。 [1][2][3]
- [1]前身は1934年1月創立の日本製鉄船舶部門で、1945年4月に船舶運営会の管理下へ移るまで同社の海上輸送を担当した
- [2]本社は東京都千代田区丸ノ内2の2 丸ビル、設立は1950年4月1日、社長は渡辺一良
- [3]1948年12月の解体指令、1949年12月の分割再建計画許可を経て、現物出資4,000万円・譲受資産1億7,100万円余を継承して独立した
発足は海運界の完全民営還元と重なった。船舶運営会による一元管理が解かれた1950年4月、同社は社船24隻・52,426重量トンで営業を始めている。手持ちは戦時標準船が中心で、A型戦標船の豊永丸(10,876重量トン)を改装してAB船級を取得し、2D型の豊玉丸を2E型3隻と交換するなど、船隊の入れ替えから着手した。資本金は1950年12月に1億2,000万円、1951年11月に2億4,000万円、1952年10月に4億8,000万円と1年10カ月で4倍に増え、1951年1月には東京・大阪・神戸の各証券取引所へ上場した。 [4][5][6]
- [4]1950年4月の完全民営還元と同時に社船24隻・52,426重量トンで発足した
- [5]資本金は1950年12月に1億2,000万円、1951年11月に2億4,000万円、1952年10月に4億8,000万円へ増加した
- NSユナイテッド海運 有価証券報告書【沿革】
- [6]1951年1月 東京・大阪・神戸の各証券取引所に上場登録
新造船には親会社の製鉄所の名が並んだ。第六次計画造船の宇佐丸(9,443重量トン)を皮切りに富士丸、八幡丸、香椎丸、安国丸と遠洋大型貨物船を建造し、1955年3月末の保有船腹は14隻85,942重量トン、うち外航船が8隻70,761重量トンと82%を占めた。ただし名が製鉄に由来しても、運んだ荷はそればかりではない。外航船隊は一部を川崎汽船と組んで北米・南阿一周航路に就航させ、残りは北米の穀物、キューバの砂糖、ゴアやフィリピン、香港で引き受けた鉱石を運ぶ不定期船として稼いだ。内航が八幡・富士両製鉄の鋼材と石炭を担う一方、外航は世界の荷を拾って回っていた。 [7][8][9]
- [7]遠洋大型貨物船として宇佐丸9,443重量トン・富士丸9,449・八幡丸9,936・香椎丸10,412・安国丸10,403を建造した
- [8]1955年3月末の保有船腹は14隻85,942重量トン、うち外航船8隻70,761重量トンで82%を占めた
- [9]外航船隊は川崎汽船と提携して北米・南阿一周航路に就航し、他は北米の穀物・キューバの砂糖・ゴア・フィリピン・香港の引受鉱石を運ぶ不定期船として稼働、内航は八幡・富士両製鉄の鋼材と石炭を運んだ
- [1]前身は1934年1月創立の日本製鉄船舶部門で、1945年4月に船舶運営会の管理下へ移るまで同社の海上輸送を担当した
- [2]本社は東京都千代田区丸ノ内2の2 丸ビル、設立は1950年4月1日、社長は渡辺一良
- [3]1948年12月の解体指令、1949年12月の分割再建計画許可を経て、現物出資4,000万円・譲受資産1億7,100万円余を継承して独立した
- [4]1950年4月の完全民営還元と同時に社船24隻・52,426重量トンで発足した
- [5]資本金は1950年12月に1億2,000万円、1951年11月に2億4,000万円、1952年10月に4億8,000万円へ増加した
- [7]遠洋大型貨物船として宇佐丸9,443重量トン・富士丸9,449・八幡丸9,936・香椎丸10,412・安国丸10,403を建造した
- [8]1955年3月末の保有船腹は14隻85,942重量トン、うち外航船8隻70,761重量トンで82%を占めた
- [9]外航船隊は川崎汽船と提携して北米・南阿一周航路に就航し、他は北米の穀物・キューバの砂糖・ゴア・フィリピン・香港の引受鉱石を運ぶ不定期船として稼働、内航は八幡・富士両製鉄の鋼材と石炭を運んだ
- NSユナイテッド海運 有価証券報告書【沿革】
- [6]1951年1月 東京・大阪・神戸の各証券取引所に上場登録
日本第3位から18隻へ──東邦海運の転落と1954年の船腹交換
のちに合併相手となる東邦海運の前身は、1915年2月に資本金50万円で大連に設立された大連汽船である。南満州鉄道の子会社として太平洋戦争の終結まで30年にわたり満鉄の海運部門を担い、最盛期の所有船腹は80隻・30数万トンに及んだ。倉庫と埠頭業務を兼営し、傍系に艀会社を持ち、船渠工場を直営する、日本郵船・大阪商船に次ぐ日本第3位の海運会社であった。その規模は敗戦で消える。外地資産をすべて失い、内地に残った船舶は18隻・6万4,000重量トンにすぎなかった。再建は1947年3月、資本金1,200万円の東邦海運設立から始まる。民営還元に備えて増資を重ね、1948年11月から1949年9月までに資本金は3億円へ膨らんだ。 [10][11][12]
- [10]東邦海運の前身は1915年2月に資本金50万円で創立された大連汽船で、満鉄子会社として所有船腹80隻30数万トン、郵船・商船に次ぐ日本第3位の海運会社であった
- [11]太平洋戦争の結果、外地資産をすべて喪失し内地に残った船舶は18隻6万4,000重量トンにすぎず、1947年3月に資本金1,200万円で東邦海運を設立した
- [12]民営還元に備えて増資を重ね、1948年11月から1949年9月までに資本金は3億円となった
当時の海運政策が世界貿易への復帰を目標に外航定期船の建造へ重点を置いたため、東邦海運は大連汽船時代の中国中心という近海航路の方針を改め、遠洋定期船の経営へ切り替えた。1949年末に新造第一船の東鳳丸を三菱長崎造船所へ発注し、三菱海運・日産汽船・飯野海運と国際ラインを結成して、1951年4月にインド・パキスタン航路、6月にニューヨーク航路を開いている。だが転換は裏目に出た。1952年夏に世界の海運運賃が激落し、日本船8社が競うニューヨーク航路の過当競争も重なって、両航路は巨額の欠損を計上する。東邦海運は2航路を廃止し、1954年6月に国際ラインを脱退した。 [13][14]
- [13]遠洋定期船経営へ切り替え、1949年末に新造第一船 東鳳丸を三菱長崎造船所へ発注、三菱海運・日産汽船・飯野海運と国際ラインを結成し1951年4月に印パ航路、6月にニューヨーク航路を開設した
- [14]1952年夏の運賃激落と国際競争でニューヨーク・印パ両航路が巨額の欠損を計上し、両航路を廃止して1954年6月に国際ラインを脱退した
当時の日本郵船で営業副部長を務めていた菊地庄次郎氏は、国際海運という4社の寄り合い所帯のなかでもタンカーを兼営しない東邦海運と日産汽船がとりわけ苦しかったと書き残している。一方の郵船は、海運同盟のうえで中近東航路の開設許可を得ながら、そこへ配船する定期船を持たずにいた。1954年のある日、旧知の上中竜男・東邦海運常務が郵船に菊地氏を訪ねてくる。雑談のなかで菊地氏は、ニューヨーク航路に就航中の新造船2隻と進水直前の「まにら丸」の計3隻を郵船へ譲り、身軽になってはどうかと切り出した。上中氏は単純譲渡は困るが不定期船隊との交換なら応じると答える。郵船は戦時標準船を改造した不定期船3隻を渡して新造船3隻を受け取り、計画造船の割り当てが年に1〜2隻という時代に3隻を得て中近東航路を開いた。東邦海運は直後のスエズ・ブームで不定期船の利益を取る。この交換を機に、両社は兄弟会社として提携した。 [15][16][17][18]
- [15]1954年、郵船の菊地庄次郎氏と東邦海運の上中竜男常務が船腹交換を合意した
- [16]郵船は中近東航路の開設許可を得ながら配船する定期船が無く、国際海運グループのうちタンカーを兼営しない東邦海運と日産汽船がとくに苦境にあった
- [18]郵船が戦時標準船改造の不定期船3隻を東邦海運へ渡して新造船3隻と交換し、これを契機に両社の兄弟会社としての提携が実現した
- [17]東邦海運は経営健全化のため日本郵船と業務提携し、主として不定期部門を担当して高速定期船と不定期船を交換した
- [10]東邦海運の前身は1915年2月に資本金50万円で創立された大連汽船で、満鉄子会社として所有船腹80隻30数万トン、郵船・商船に次ぐ日本第3位の海運会社であった
- [11]太平洋戦争の結果、外地資産をすべて喪失し内地に残った船舶は18隻6万4,000重量トンにすぎず、1947年3月に資本金1,200万円で東邦海運を設立した
- [12]民営還元に備えて増資を重ね、1948年11月から1949年9月までに資本金は3億円となった
- [13]遠洋定期船経営へ切り替え、1949年末に新造第一船 東鳳丸を三菱長崎造船所へ発注、三菱海運・日産汽船・飯野海運と国際ラインを結成し1951年4月に印パ航路、6月にニューヨーク航路を開設した
- [14]1952年夏の運賃激落と国際競争でニューヨーク・印パ両航路が巨額の欠損を計上し、両航路を廃止して1954年6月に国際ラインを脱退した
- [17]東邦海運は経営健全化のため日本郵船と業務提携し、主として不定期部門を担当して高速定期船と不定期船を交換した
- [15]1954年、郵船の菊地庄次郎氏と東邦海運の上中竜男常務が船腹交換を合意した
- [16]郵船は中近東航路の開設許可を得ながら配船する定期船が無く、国際海運グループのうちタンカーを兼営しない東邦海運と日産汽船がとくに苦境にあった
- [18]郵船が戦時標準船改造の不定期船3隻を東邦海運へ渡して新造船3隻と交換し、これを契機に両社の兄弟会社としての提携が実現した
1962年の合併と海運集約──二重の系列を抱えて
1962年2月、日鐵汽船は東邦海運を吸収合併し、商号を新和海運株式会社へ改めた。製鉄原料の輸送を軸とする日鐵汽船に、大連汽船以来の遠洋・近海の航路経営と、郵船との提携関係を持つ東邦海運が加わる。製鉄系の専属船社という出自に、独立系の総合海運という性格が接がれた形になった。合併の前年まで両社が抱えていた課題は、対になるものであった。日鐵汽船は八幡・富士という安定した荷主に恵まれながら外航船8隻という小さな船隊にとどまり、東邦海運は19隻13万4,548重量トンの運航船腹を持ちながら定期船の赤字に苦しんでいた。荷主を持つ側と船を持つ側が、一つの会社になった。 [19][20]
- NSユナイテッド海運 有価証券報告書【沿革】
- [19]1962年2月 日鐵汽船が東邦海運株式会社と合併し商号を新和海運株式会社に改称
- [20]合併直前の東邦海運は19隻13万4,548重量トン(うち社船11隻8万7,488重量トン)の運航船腹を保有していた
1963年7月1日、海運業の再建整備に関する臨時措置法などの海運再建二法が公布された。狙いは、海運企業を集約・再編成して経営規模を拡大し国際競争力を強化すること、それによって業界内の過当競争を排除すること、企業の自主的な合理化努力で償却不足と延滞金を解消することの三つに置かれた。参加企業には第17次計画造船以前の支払利子を整備期間の5年間猶予し、第18次以後の新造船には財政資金で銀行の融資負担を軽減する助成が用意された。集約に参加した企業は95社、その外航船腹は658隻・936万重量トンで、当時の日本の外航船腹量の約90%に相当する。 [21][22]
- [21]海運再建二法は1963年7月1日に公布され、①集約・再編成による経営規模拡大と国際競争力強化 ②過当競争の排除 ③自主的合理化による償却不足と延滞金の解消 の3点をねらいとした
- [22]集約に参加した企業は95社、所有外航船腹は658隻936万重量トンで当時のわが国外航船腹量の約90%に相当した
集約では、中核体と呼ばれる主力オペレーターが2社ずつ合併し、関連する子会社はその傘下へ系列会社・専属会社として入って6グループが形成された。1964年5月、企業集約が運輸大臣の確認を受けて完了し、新和海運は日本郵船グループに属する系列会社となる。製鉄資本を出自としながら郵船の系列に置かれるこの二重性は、政策が一方的に定めたものではない。10年前に東邦海運が船腹交換で結んだ縁が、集約の枠組みのなかで系列として追認された面がある。以後の同社は、荷主を新日鉄系に、資本と系列を郵船側に置く構造を長く抱えることになる。 [23][24]
- [23]中核体となる主力オペレーターが2社ずつ合併し、関連子会社は傘下に系列会社・専属会社として入り6グループが形成された
- NSユナイテッド海運 有価証券報告書【沿革】
- [24]1964年5月 海運再建整備法による企業集約が運輸大臣の確認を受けて完了し、日本郵船グループの系列会社となった
- NSユナイテッド海運 有価証券報告書【沿革】
- [19]1962年2月 日鐵汽船が東邦海運株式会社と合併し商号を新和海運株式会社に改称
- [24]1964年5月 海運再建整備法による企業集約が運輸大臣の確認を受けて完了し、日本郵船グループの系列会社となった
- [20]合併直前の東邦海運は19隻13万4,548重量トン(うち社船11隻8万7,488重量トン)の運航船腹を保有していた
- [21]海運再建二法は1963年7月1日に公布され、①集約・再編成による経営規模拡大と国際競争力強化 ②過当競争の排除 ③自主的合理化による償却不足と延滞金の解消 の3点をねらいとした
- [22]集約に参加した企業は95社、所有外航船腹は658隻936万重量トンで当時のわが国外航船腹量の約90%に相当した
- [23]中核体となる主力オペレーターが2社ずつ合併し、関連子会社は傘下に系列会社・専属会社として入り6グループが形成された