1899年〜 舞鶴の石炭運送業から外航タンカー専業会社まで
- 1899年 飯野商会として発足
- 1918年 飯野商事を設立
- 1922年 飯野汽船を設立し海上輸送部門を分離継承
- 1929年 最初のタンカー第一鷹取丸が竣工
- 1931年 本格的外航タンカー富士山丸(初代)が竣工
- 1955年 千代田土地建物の買取りによる不動産事業への進出 運賃市況に振り回される船会社が、なぜ都心の土地を持つ会社を買ったのか
- 1964年 海運集約での定期航路部門の譲渡とタンカー専業体制への転換 6中核体に加わるか、定航を手放して液体貨物に残るか——飯野海運が選んだ道
海軍御用達の石炭運送業がたどり着いた外航タンカー第一号
1899年7月、創業者の飯野寅吉氏は京都府舞鶴港で曳船[1]による石炭運送業として飯野商会を立ち上げた[2]。同じ年に舞鶴鎮守府が開庁し、日本海軍の艦艇向け石炭補給という安定需要が地元に発生したことが事業の出発点となった。海軍燃料の運送を起点に営業範囲を広げ、1918年12月には飯野商事株式会社として法人化、[3]1922年4月には海上輸送部門を切り離した飯野汽船株式会社を設立して輸送事業の規模を整えた。[4]創業20年余りで個人商店から複数法人を持つ海運業者へ脱皮した経緯の根底には、海軍向け燃料運送で得た受注の継続性があった。
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [1]1899年7月 飯野寅吉が舞鶴港で曳船による石炭運送業として飯野商会を創業
- [3]1918年12月 飯野商事株式会社を設立(法人化)
- [4]1922年4月 飯野汽船株式会社を設立し海上輸送部門を分離
- [2]創業者の氏名は飯野寅吉(曳船・港湾荷役・石炭運送に着手)
転機は1929年2月の第一鷹取丸(1,266重量トン)竣工[5]である。日本ではタンカーの建造実績がほとんどなく、原油・重油は依然として缶詰やドラム缶での海上輸送が中心だった時代に、飯野商事は専用のタンカー船型を国内で投入した。1931年8月には本格外航タンカーの初代富士山丸(13,586重量トン・18ノット)が竣工し[6]、日本船籍では最大級の外航タンカーとして就航した。[7]第一鷹取丸から富士山丸までの2年半で、同社は石炭運送業から液体貨物の外航輸送業へ事業の中核を移した。海軍が石炭から重油への燃料転換を進めていた時期と重なり、海軍向けの燃料供給インフラを民間船社として整える動きが、この時期の経営判断の背景にあった。
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [5]1929年2月 当社最初のタンカー第一鷹取丸(1,266重量トン)竣工
- [6]1931年8月 本格外航タンカー初代富士山丸(13,586重量トン・18ノット)竣工
- [7]初代富士山丸は当時「本邦最大の外航タンカー」(本文「日本船籍では最大級」と整合)
1941年3月、飯野商事は飯野海運産業株式会社に商号変更[8]したうえで飯野汽船と合併し、商事会社と汽船会社に分かれていた組織を一本化した。太平洋戦争開戦直前の合併であり、戦時統制下の船腹徴用に備えた組織再編の意味合いを持つ。1942年4月に船舶運営会の管理対象に指定され、全船舶が国家使用と船員徴用の対象となり、[9]戦時標準船としてタンカー25隻が同社に割り当てられた。戦争末期には大半の船舶を失い、1944年4月に商号を飯野海運株式会社に改称した時点では、[10]戦前に積み上げた船隊はほぼ消失していた。海軍向け燃料補給の継続性で築いた事業基盤は、その依存先である海軍とともに敗戦で消滅した。
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [8]1941年3月 飯野商事を飯野海運産業に商号変更し飯野汽船と合併
- [9]1942年4月 船舶運営会による国家使用・船員徴用の指定を受ける
- [10]1944年4月 飯野海運産業を飯野海運株式会社に改称
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [1]1899年7月 飯野寅吉が舞鶴港で曳船による石炭運送業として飯野商会を創業
- [3]1918年12月 飯野商事株式会社を設立(法人化)
- [4]1922年4月 飯野汽船株式会社を設立し海上輸送部門を分離
- [5]1929年2月 当社最初のタンカー第一鷹取丸(1,266重量トン)竣工
- [6]1931年8月 本格外航タンカー初代富士山丸(13,586重量トン・18ノット)竣工
- [8]1941年3月 飯野商事を飯野海運産業に商号変更し飯野汽船と合併
- [9]1942年4月 船舶運営会による国家使用・船員徴用の指定を受ける
- [10]1944年4月 飯野海運産業を飯野海運株式会社に改称
- [2]創業者の氏名は飯野寅吉(曳船・港湾荷役・石炭運送に着手)
- [7]初代富士山丸は当時「本邦最大の外航タンカー」(本文「日本船籍では最大級」と整合)
戦後復興と東京移転で固めた外航タンカー会社の形
1946年、本社を舞鶴から東京都千代田区丸ノ内へ移転[11]した。創業地の舞鶴は軍港都市として海軍向け需要の上に成り立っており、その需要が消えた以上、商社・銀行・荷主が集積する東京で事業を立て直す以外の選択肢はなかった。1948年から1951年にかけてバーレーン原油の輸送を再開し、複数の定期航路を順次開設して戦後の海運業に復帰した。1949年5月には東京証券取引所への上場を果たし、[12]1952年10月までに大阪証券取引所など6取引所への上場も果たして、[13]株式市場から復興期の建造資金を調達できる体制を整えた。戦前にタンカーで先行投資した経験は失われたが、外航タンカーで再起するという経営方針はそのまま戦後に持ち越された。
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [11]1946年 本社を舞鶴から東京都千代田区丸ノ内へ移転
- [12]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [13]1952年10月までに大阪証券取引所など6取引所へ順次上場
1955年8月、千代田土地建物株式会社を買い取り、[14]1960年6月にこれを飯野不動産株式会社へ社名変更した。[15]同年10月、東京都千代田区内幸町に地上9階・地下4階建ての初代飯野ビルディングが竣工し[16]、内幸町に本社を移転した。500席のイイノホールを併設した複合用途ビルで、当時の千代田区内では地下4階まで掘削した稀な構造だった。海運業は世界の景気変動と原油価格に直結する事業で、運賃市況の振れ幅がそのまま業績の振れ幅となる構造を抱えていた。これに対して都心の優良地に賃貸ビルを保有する不動産事業は、契約期間中は安定した賃料収入を生む。創業者の家業に近かった海運業に、都心の不動産という別の収益源を組み合わせる発想は、この時期に経営の基本構造として固まった。
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [14]1955年8月 千代田土地建物株式会社を買取り(不動産事業へ進出)
- [15]1960年6月 千代田土地建物を飯野不動産株式会社へ社名変更
- [16]1960年10月 初代飯野ビルディング(地上9階・地下4階)竣工、内幸町へ本社移転
1963年には外航LPG船への進出と[17]石油小売業の開始を相次いで実行し、扱う液体貨物の幅を原油・重油から液化石油ガスへ広げた。日本のエネルギー消費が石炭から石油・LPGへ移る局面で、輸送する燃料の種類も同時に拡張する動きで、後年のケミカル船・LNG船進出につながる起点が1963年のLPG船進出にあった。タンカーで原油を運び、別船型でLPGを運び、ビルで賃料を稼ぐという三層構造が、1960年代前半までにほぼ姿勢として現れた。一方で定期航路の不定期化と海外航路の集約は世界的な海運業界の課題として浮かんでおり、日本政府もそれに対する政策対応を準備しつつあった。
- [17]1963年 外航LPG船進出(外航大型LPG船 豊洲丸)と石油小売業開始(千代田石油 1963年10月設立)
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [11]1946年 本社を舞鶴から東京都千代田区丸ノ内へ移転
- [12]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [13]1952年10月までに大阪証券取引所など6取引所へ順次上場
- [14]1955年8月 千代田土地建物株式会社を買取り(不動産事業へ進出)
- [15]1960年6月 千代田土地建物を飯野不動産株式会社へ社名変更
- [16]1960年10月 初代飯野ビルディング(地上9階・地下4階)竣工、内幸町へ本社移転
- [17]1963年 外航LPG船進出(外航大型LPG船 豊洲丸)と石油小売業開始(千代田石油 1963年10月設立)
「海運集約」での定航部門譲渡と専業化の確定
1964年3月、運輸省主導の海運集約に伴って[18]、飯野海運は定期航路部門を分離して新たに設立した飯野汽船株式会社に譲渡し、その飯野汽船が同年4月に川崎汽船と合併した。海運集約は、終戦後に乱立した日本の海運会社を6中核体に集約する政策で、開発銀行融資の利子減免と引き替えに各社が事業を整理した。日本郵船・大阪商船三井船舶・川崎汽船・ジャパンライン・山下新日本汽船・昭和海運の6グループへ業界が再編されるなかで、[19]飯野海運は中核体を形成する側ではなく、定期航路を川崎汽船へ譲渡してタンカー・不定期貨物船の専業会社として残る道を選んだ。
- [18]1964年3月 海運集約で定航部門を新設飯野汽船へ譲渡、同社が4月に川崎汽船と合併
- [19]海運集約は日本の海運会社を6中核体に集約する政策(日本郵船/大阪商船三井船舶/川崎汽船/ジャパンライン/山下新日本汽船/昭和海運)
定航部門譲渡は売上規模の縮小を伴う決断で、コンテナ船時代を目前にした1964年時点でも、コンテナ化に勝てる船腹規模を自前で持つ展望は同社にはなかった。中核6社が定航・コンテナ路線で世界市場を取りに行く道を選ぶ一方、飯野海運は液体貨物と特殊バルクという定航とは別の市場で生き残る道を選んだ。船社としての規模ランキングでは中核6社の下に置かれるが、運ぶ貨物がコンテナと競合しないため、定航市況の崩壊に巻き込まれる事業構造を回避できた。1964年の譲渡は同社が自ら定航市場を降りた決断で、以後60年に及ぶタンカー・ガス船・特殊バルクの専業会社[20]としての立ち位置はここで確定した。
- [20]1964年の定航部門譲渡で以後タンカー・ガス船・特殊バルクの専業会社の立ち位置が確定
1964年時点の同社は東京内幸町の飯野ビルを本社とし、海運業と不動産業の両輪[21]を持つ独立系船社として走り出した。海運業の主力は原油タンカー・LPG船・不定期貨物船で、いずれも定期航路ではないため運賃市況の振れに業績が左右される性質を抱えていた。不動産業は飯野ビルからの賃料収入が中心で、海運の振れを和らげる役を担った。20世紀前半に海軍向け石炭運送業として出発した会社は、敗戦による事業基盤の喪失と海運集約という2度の業界転換を経て、3大海運の下で液体貨物・特殊バルクと都心不動産に特化する独立系企業として戦後体制を整えた。
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [21]1964年時点で東京内幸町の飯野ビルを本社とし海運業と不動産業の両輪を持つ独立系船社
- [18]1964年3月 海運集約で定航部門を新設飯野汽船へ譲渡、同社が4月に川崎汽船と合併
- [19]海運集約は日本の海運会社を6中核体に集約する政策(日本郵船/大阪商船三井船舶/川崎汽船/ジャパンライン/山下新日本汽船/昭和海運)
- [20]1964年の定航部門譲渡で以後タンカー・ガス船・特殊バルクの専業会社の立ち位置が確定
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- [21]1964年時点で東京内幸町の飯野ビルを本社とし海運業と不動産業の両輪を持つ独立系船社