前身は1978年設立の日本食資工業。
1990年に有明食品化工を吸収合併し、アリアケジャパンへ商号変更した。2006年には台湾有明食品を買収。2019年にARIAKE U.S.A.を譲渡し、海外拠点の事業ポートフォリオを組み替えた。
1966年6月、岡田甲子男氏は東京都千代田区で有明特殊水産販売を設立し、当初は仕入れたアサリエキスの販売も手掛けた。事業の目的は、アサリから取ったエキスを即席麺のメーカーへ納めることにあった。岡田甲子男氏が強い刺激を受けたのは、日清食品が1957年に開発した即席麺の販売数である。即席麺は発売1年後に1,300万食、4年後に10億食を超え、1966年には年40億食へ拡大した。自社の生産拠点は東京湾岸の浦安に置き、アサリエキスの製造から始めた。麺1食ごとにスープの素が要る以上、即席麺の食数の増加は調味原料の需要の増加に直結すると岡田甲子男氏は読んだのだろう。
浦安でのアサリエキスの生産は、海岸の埋め立てで原料のアサリが取れなくなり、1年余りで続けられなくなった。岡田甲子男氏は韓国からアサリを輸入して不足分を補ったものの、即席麺メーカーの注文に見合う量には及ばなかった。続いて有明海に面した福岡県柳川市に工場を建てて移転したものの、この地でも原料の確保は難しくなった。技術雑誌に貝の天然エキスの広告を出していた当時の事務所は、神田駅前にある木造の八百屋の2階。貝の原料は調達量が季節で変わり、会社は入手難を理由に貝のエキスから撤退した。産地を移しても漁獲に左右される構図は変わらず、原料そのものを替えるほかなかったとみられる。
1968年6月、岡田甲子男氏は主力製品を牛・豚・鶏の畜産エキスへ切り替え、埼玉県越谷市に工場を建てて柳川市の工場を閉鎖した。切り替えの理由は、畜産の原料なら季節を問わず安定して調達できる点である。越谷市の工場は蒲生工場と呼ばれ、家畜の骨から取るボーンエキスを生産し、のちに岡田甲子男氏はこの工場にも見切りを付けた。骨を原料とするエキスは、当時の業界では廃物利用の色合いが濃い製品であった。畜産エキスへの転換で会社は、貝のエキスの販売から畜産の原料を使う天然調味料の製造と販売へ事業の中身を移した。毎月一定の量を求める即席麺メーカーとの取引を続けるうえで、原料の安定が前提になったと推察される。
畜産系の天然調味料を作るメーカーは国内に無く、岡田甲子男氏は研究を重ねて即席麺のスープの素を商品化した。技術が未熟で品質は満足できる水準に達しなかった一方、競合が不在のため注文は増え続けた。自動化した一貫生産の設備はプラントメーカー各社に打診して断られ、プラントと生産システムは自社開発。骨付きの原料は形がそろわず、煮出した液は底に固形分が沈んで二層に分かれ、タンクから抜けにくかった。当時から岡田甲子男氏は、高品質のエキスを作るには、新鮮な原料の確保に加えて技術の開発と品質の管理の力が欠かせないと考えていた。岡田甲子男氏は後年、『高品質のエキスの生産はプラントや付属設備の優劣で決まる。先見の明ではない。』と語った。
1972年4月、岡田甲子男氏は生産の拠点を長崎県北松浦郡吉井町に新設した。即席麺の普及で販売が増え、生産設備の拡充が必要になったためである。吉井町は炭鉱の閉山後に長崎県が企業を誘致した土地で、九州の畜産原料と人手を得やすく、佐世保市出身の岡田甲子男氏には土地勘もあった。当時のエキスメーカーは年間売上高3〜4億円の規模が大半で、岡田甲子男氏は副産物扱いからの質的な転換が必要だと考えた。翌1973年の第一次オイルショックで化学調味料の価格が高騰し、天然調味料への需要が高まった。九州第一工場と呼ばれたこの工場は増設を重ね、敷地9,240平方メートル・建坪6,600平方メートルまで拡大した。
1978年5月、岡田甲子男氏は資本金500万円で日本食資工業を設立し、本店を神奈川県茅ヶ崎市に置いた。天然調味料の業容の拡大に合わせ、エキス生産の近代化と大型化を担う兄弟会社として位置づけた。日本食資工業は畜肉を原料に天然調味料のエキスを抽出する製造会社で、現在のアリアケジャパンの前身にあたる。設立当初は手軽さを特長とする化学調味料を相手に苦戦し、業績が拡大したのは1980年以降である。本店は1980年1月に東京都港区、1981年4月に中央区へ移り、資本金は1981年12月に2,000万円へ増えた。抽出設備への大型投資を販売会社から切り離し、製造に専念する法人に担わせる狙いがあったと思われる。
1978年8月、日本食資工業は長崎県北松浦郡小佐々町で畜産エキスを作る工場を建設した。総工費9億円を投じた敷地9,900平方メートルの工場は小佐々工業団地に最初に誘致された企業の工場で、原体エキスの抽出を一貫して担った。形の不ぞろいな骨つき肉の処理を完全に自動化したのは、国内で初めての例である。九州第一工場が手狭になったため、1979年7月には3億5,000万円を投じる九州第二工場の建設にも着手した。岡田甲子男氏は、1978年の抽出部の自動化で先発メーカーの地位が固まり、海外進出の戦略も描きやすくなったと振り返った。装置を自前で開発した蓄積が、のちの海外工場の建設を支える技術的な前提になったと推測される。
1979年2月、有明特殊水産販売は商号を有明食品化工に改めた。以後のグループは、日本食資工業が畜産エキスを抽出し、有明食品化工がそれを加工して販売する二社体制をとった。有明食品化工は1982年4月に外食業界へ参入し、ラーメン店やホテル、レストランに向けた液体スープを発売した。1983年12月には日本食資工業が東京都目黒区下目黒に本社ビルを建て、本店も同地へ移転。それに先立つ1981年ごろ、岡田甲子男氏は有明食品化工の社長を辞任し、今後は海外の仕事に専念すると語った。製造と販売を二社に分けた体制が、岡田甲子男氏が国内の日常業務を離れて海外に時間を割く余地を生んだと考えられる。
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事実根拠:出所(アリアケジャパン)