大林組が東京で地歩を得たのは、東京駅を建てたからではなく、大阪に本店を置いたままそれを建てたからである。1923年の関東大震災で東京の業者の多くが被災したとき、大林組の東京支店も焼けたが、本店と加工場と職方は大阪にあった。近畿2府6県が寄付した罹災者用のバラック500棟を1カ月で建てられたのは、木材を大阪で加工して船で運び、現地では組立てだけを行う段取りを組めたからである。地元にいないことが、このときだけは調達の強みに変わった。丸ビルの復旧を特命で任されたのも、それまでに建てた東京駅や日本興業銀行が震災で無傷だったという、10年にわたる実績が先にあったためだった。
続く昭和恐慌で、大林組は請負の外へ出た。浜甲子園の海辺6万坪を宅地に造成して住宅を分譲し、日本郵船の客船の内装を請け、台北と大連に出張所を置いた。どれも工事の受注が細ったところから始まっており、多角化という言葉で括るには動機が単純すぎる。同じ時期に大林義雄氏が力を注いだ国営業務災害保険の運動も、業界の善意から出たものではない。重大災害の補償を元請1社では負えないという計算から出ている。不況は、会社に新しい商売を、業界に新しい制度を、同時に作らせた。
1892年1月、大阪の乾物問屋"大徳"の三男である大林芳五郎氏が、大阪市西区阿波座で土木建築の請負業を個人名義で興した。建設業とは無縁の商家に育った氏は、技術の蓄積ではなく、商家として培った信用と人脈を足場に工事を取り込む方針を採った。1月18日に阿部製紙所工場(西成郡川北村西野新田、現・此花区西九条)の新設工事を落札し、独立を果たした7日後の1月25日を創業日と定めている。店舗兼住居は大阪・西区靱南通4丁目62番地(現・西区西本町2丁目5番24号)に構えた。建築と土木のどちらも切らずに並行して請け負う方針は、この出発点から採られている。
創業6年目の1898年、大林組は大阪市築港工事を受注し、7年がかりで1905年に完成させた。安治川河口を掘り込む築港は、1889年の市制施行を経た大阪が近代港湾を得るための事業で、個人企業が請け負う規模ではなかった。続く1903年には第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注し、創業から10年ほどで関西の大手業者と並ぶ位置に進んでいる。1906年には東京支店を設置し、辰野金吾氏が設計した東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)を請け負って首都の官需へ参入した。1909年7月には合資会社へ改組し、個人名義の請負から法人による経営へ移した。
1914年、大林組は東西にまたがる二つの大工事を同じ年に完成させた。一つは東京中央停車場、もう一つは大阪電気軌道の生駒トンネルで、当時東洋一の長さとなる3,388メートルを掘り抜いた。生駒トンネルは完成前年の1913年に落盤で作業員20名が死亡する事故を起こしており、湧水と崩落に苦しめられた難工事だった。発注者の大阪電気軌道の資本金は300万円、大林組も同額の300万円で、合計600万円の資本しかない相手に対し、投下資金は820万円ほどに達している。しかも支払いはすべて手形で、その手形に融通性がなかったため、大林組は資金繰りに苦しんだ。
東京中央停車場と生駒トンネルはいずれも1911年に受注した工事で、その完工から2年後の1916年、創業者の大林芳五郎氏が死去し、嗣子の大林義雄氏が2代目社長を承継した。第一次世界大戦下の好況で工事量は年々増え、1918年12月には資本金50万円で株式会社大林組を設立、翌1919年3月に合資会社を合併して資本金を200万円へ引き上げた。義雄社長は業務組織の近代化とあわせて技術者の欧米派遣を始め、外部から工法を持ち帰る経路を社内に作っている。新しい技術の導入と機械設備の拡充が続いた結果、大林組はこの時期に全国規模の建設会社として扱われるようになった。
1919年、大林組の請負金総額は前年比6割増の1,000万円近くに達した。同じ年の工事件数は前年より2割減っており、増えたのは件数ではなく1件あたりの規模だった。第一次世界大戦下の好況で各種企業が勃興し、都市には鉄骨鉄筋コンクリート造のビルが建ち始めていた。ところが翌1920年3月、大恐慌が日本へ波及し、大阪の増田ビルブローカー銀行の破綻を皮切りに一流商社が没落する。建設業界も既定工事の中止と工事費の回収遅延に直面したが、大林組のこの年の受注総額は1,300万円を越えた。社長の大林義雄氏は1919年、25歳で建築業協会理事と日本土木建築請負業者連合会副会長に推されている。恐慌をくぐっても受注を落とさなかったことが、業界団体の役職を引き受ける足場になった。
1923年9月1日の関東大震災で、大林組の東京支店は同年7月に移転したばかりの日本橋区北新堀町の建物を火災で失い、支店管内の工事現場も4カ所を残してほぼ全滅した。従業員とその家族に死傷は出ず、受注中だった歌舞伎座の現場内に仮事務所を置いている。震災に関わって大林組が請け負った工事は、総額で1,000万円を超えた。本店が大阪にあったため、同社は被災を免れた。震災翌日には社員2名を大阪府の救援船に乗せて送り出し、9月6日には社長の大林義雄氏がみずから汽船玄海丸を借り上げて、社員と資材を東京へ運び込んだ。近畿2府6県が連合で寄付した罹災者用のバラック500棟と、患者1,000人を収める横浜仮病院13棟の工事は、特命で大林組1社に託された。木材の加工は大阪ですべて済ませ、現地で行うのは組み立てのみとする段取りで、契約の1カ月で仕上げている。
復興景気に応じるため、大林組は1924年4月に資本金を200万円から500万円へ引き上げ、5月の払込完了で払込済資本金を320万円とした。従業員は1921年10月に役員を含め353名だったものが、1924年1月に570名、1925年1月には681名へ増えている。学校推薦による定時採用も1921年の30名から1926年の86名まで毎年増えた。1925年5月に横浜、7月に名古屋の各出張所を支店へ昇格させ、従来の東京・小倉と合わせて4支店となった。1924年2月には社員2名をアメリカへ派遣してコンクリートミキサや空気圧縮機、スチームハンマなどの新鋭機器を購入させ、その高性能は国産機械を改善する資料として各方面の注目を集めた。同年12月には副社長制を設けて大林賢四郎氏が就任している。震災の復旧で得た仕事を、人と機械と組織へ順に置き換えた時期だった。
1927年の金融恐慌と1929年の金解禁、同年秋の世界恐慌の波及によって、建設業界の受注競争は激しくなった。大林組が政府へ提出した陳情書の工事請負高指数は、1927年上半期を100として1930年上半期に52まで低下した。大林組も株主配当を1928年以降に年1割2分へ減じ、1931年に年1割、1932年には年7分まで引き下げた。打開のために採ったのは、請負の外へ出ることだった。1929年、副社長の大林賢四郎氏の発意で阪神電鉄沿線の浜甲子園の海辺6万坪を宅地に造成し、大阪毎日新聞社と提携して健康住宅の設計を懸賞募集したうえで約500戸を分譲した。同じ1929年には日本郵船の浅間丸と龍田丸の2等公室の内装を21万円で請け負い、陸の建設業者として初めて船内装飾へ入っている。1931年10月には工作所を分離して内外木材工芸を設立した。
不況のさなかに大林義雄氏が力を注いだのは、自社の受注ではなく業界の制度だった。当時、建設や鉄道の労務者は鉱業法にも工場法にも入らず、業務上の災害で保護を受けられなかった。政府が1927年11月に作成した労働者災害扶助法案は、その補償を元請業者の責任としており、労務者を使役するのは下請であって元請には実態を把握しがたいこと、重大災害では業者に補償能力がないことを理由に、業界は異議を唱えた。日本土木建築請負業者連合会の会長だった義雄氏は、反対を唱えるだけでなく、多数の事業主が保険方式で補償を分担する国営業務災害保険法案を対案として作り、1928年4月に内相ほか関係当局を歴訪した。法案は労働者災害扶助法と同責任保険法の二本立てとなって1931年3月に成立し、翌1932年1月から施行された。全産業の労働者を対象とする1947年の労働者災害補償保険法は、この原型から出ている。受注の細った年に業界団体の長を引き受けた義雄氏が残したのは、自社の工事ではなく、業界が災害の費用を負う仕組みのほうだった。
大林組は、資本の形を3度作り替えて今の姿になった。1936年に資本金10万円の第二大林組を作り、翌年に本体を吸収させて資本金1,010万円としたのは、器を新しくして中身を移す手続きである。1949年に初めて株式を社外へ出したのは、戦時補償特別措置法が課した約2,800万円の税と、企業再建整備法が付けた増資条件に追われてのことだった。1958年12月に大阪証券取引所へ上場し、建設業として最初に株式を公開したときも、動機は資金調達である。大林家の持株比率は、理念ではなく資金繰りの都合で3度薄まった。
薄まった先に何が乗ったかが、この章のもう一つの線である。1936年から1940年の平均年間工事施工高1億1,800万円で主要10社の首位に立った大林組は、敗戦で外地の資産と満州大林組を失い、1945年の施工実績では5位まで低下した。そこから売上高を1959年3月期の347億円から1972年3月期の2,865億円へ積み直す間に、1956年の海外工事部、1965年のシンガポール、1972年のジャヤ大林と、外へ出る経路を先に作っている。1970年末に東京へ本社を置いたのは、大阪の会社という自己規定を最後に外す動きだった。
1936年12月24日、大林組は資本金10万円の株式会社第二大林組を設立した。工事量の増加と物価騰貴が資金需要を旺盛にし、資本を倍にする必要があったが、その方法として選んだのが合併増資である。翌1937年3月、資本金500万円の株式会社大林組を第二大林組へ吸収合併させ、資本金を1,010万円へ増やしたうえで商号を株式会社大林組に戻した。存続したのは新しく作った側であり、現在の大林組の法律上の設立日は1936年12月である。社長は大林義雄氏が続き、専務取締役に白杉亀造氏、常務取締役に植村克己氏ほか3名が並んだ。創業から44年を経て、経営陣も事業も動かさずに器だけを取り替えた手続きだった。
資本を倍にした先にあったのは軍需だった。1936年に受注した工事には三菱重工業横浜造船所、川崎造船各務原飛行機工場、東北振興電力蓬莱発電所、東京電燈信濃川発電所が並ぶ。なかでも信濃川発電所は1936年8月の着工から1941年10月の完成まで5年余を要し、請負金額は677万円に達した。豪雪地帯でありながら除雪機械がなかったため、信濃川の河原から隧道坑口までの4〜5キロに架空索道を5基架け、骨材やセメントを積んだバケットを50秒に1台の割で送って昼夜兼行で運んでいる。銀行や商社のビル、工場と倉庫の建築に発電所・道路・橋梁の土木が重なり、1936年から1940年の平均年間工事施工高は1億1,800万円と、9,371万円の清水組、6,274万円の大倉土木を離して主要10社の首位に立った。創業から業界首位まで約50年を要している。
戦時体制が深まるなかで、大林組は人と資産の両方を失った。1940年3月、満州国で日本企業をすべて現地法人とする政策が採られたため、満州国と関東州の支店・出張所を廃して資本金500万円の株式会社満州大林組を設立し、その事業を継承させた。設立当初に駐在役員を含め256名だった在籍者は、終戦時には353名へ増えている。一方で内地では召集と徴用が相次ぎ、1938年に総数1,420名に対し88名だった休職者は、1940年には1,718名に対し230名まで増えた。1943年4月には資本金を1,500万円へ増資したが、同年11月に大林義雄社長が死去し、応召中だった大林芳郎氏が3代目社長に就任するよう命じられた。敗戦によって外地の資産も現地法人も失われ、1945年の施工実績で大林組は竹中工務店、清水組、鹿島組、飛島組に次ぐ5位へ低下した。
敗戦の直後、建設業は他の産業に先がけて動き出した。占領軍向けの飛行場の整備や兵舎・家族住宅の建築が至上命令として各府県から発注され、業者への工事の配分は1947年2月まで日本建設工業統制組合が行っている。大林組は1945年9月から年末までに伊丹飛行場や神戸製鋼本社工場の復旧を受け、戦災復旧工事と進駐軍関連工事から再建に着手した。ところが同時に、戦前の首位という実績が重荷へ変わる。1946年10月公布の戦時補償特別措置法は、軍工事に対する1945年8月15日以降の支払分を戦時補償とみなして全額を課税するもので、工事量の多い業者ほど打撃が大きかった。大林組は1945年末、規程以上の退職手当に数カ月分の給料を加える条件で希望退職を募り、400名が退職している。課税額が陸海軍工事費と戦時保険を合わせ約2,800万円と決まって決着したのは、1951年5月だった。
会社経理応急措置法により特別経理会社に指定された大林組は、1946年8月10日現在で経理を新旧勘定に分け、旧勘定へ6,627万6,000円を棚上げした。企業再建整備法にもとづく整備計画には、認可後1年以内に資本金を5,500万円増やして7,000万円とすることが条件として付いた。大林組は営業網の組み直しも進め、1946年6月に仙台を支店に改めて横浜支店を新たに設け、同年11月に札幌、1947年3月に広島、1948年10月に岡山の出張所をそれぞれ支店へ格上げした。増資はもはや避けられず、1949年4月の臨時株主総会で決め、9月に終えている。この増資で株式の一部が初めて社外に出たが、渡った先は取引先の会社や金融機関といった関係者に限られ、完全な公開とは呼べなかったが、同族経営を抜け出す最初の一歩としては業界の先がけとなった。
1950年の朝鮮動乱がもたらした好況は、翌1951年以降の受注回復につながった。大林組は1950年の沖縄の米軍工事を鹿島建設・竹中工務店と協力して施工し、那覇の飛行場工事は鹿島・大林・竹中・大成の4社による共同施行となっている。1955年時点の社員数は3,000名、年間施工高は約200億円に達した。この規模で請負を回すには、それまでと違う資本が要る。施工の機械化によって機械が固定資本として欠かせなくなり、工事の多様化と巨大化で工費が高額にのぼって、発注者が支払いに条件を付ける傾向もあらわれたためである。大林組は1952年の創業60年を機に資本金を1億5,000万円とし、1954年に3億円、1956年に6億円、1957年に12億円、1959年に24億円と、7年間に5回の倍額増資を重ねた。1956年の受注工事高は314億円、完成工事高は196億円、純利益は2億4,400万円である。
日本の建設業界で株式を公開した会社は、財閥解体という特殊な事情を抱えた大成建設を別にすれば、大林組が初めてである。その第一歩は1957年12月の大阪証券市場での店頭売買で、額面50円の株を75円で売り出した。1958年6月に野村證券がアメリカの例にならい、名義書換を一手に引き受ける名義書換代理人制度を始めると、大林組は他社に先んじて野村證券を代理人に指名した。大阪証券取引所に上場した同年12月6日には、株価が295円をつけた。東京では1959年9月に店頭売買を始め、1960年11月1日に東京証券取引所へ上場したときの株価は630円だった。1961年10月に東京証券取引所へ第二部が創設されると、同業20数社がいっせいに株式公開へ踏み切っている。同族企業の枠を先に破った1社があったことが、業界が閉鎖性を解く順番を決めた。
海外には上場より先に手を付けていた。1950年8月、通商産業省の発注でパキスタンの首都カラチに開かれた万国産業博覧会の日本館を建設したのが戦後最初の海外工事で、全館アルミ外装の展示館5棟・750坪という小規模なものである。1955年3月にビルマ、1956年3月にタイ、同年5月にパキスタンへ役職員を派遣して各国の事情を調査させ、1956年2月には東京支店に海外工事部を設けた。日本の建設業者の海外進出がおおむね1965年以後であることを思えば、10年近く早い。1956年3月にフィリピンで開かれた汎アジア建設業者会議には大林芳郎社長が出席し、そこで創立されたアジア西太平洋建設業協会国際連盟で1966年度の建設業者賞金賞を受けている。1965年7月にはシンガポール政府発注の工事を受け、1972年1月に現地資本と組んでジャヤ大林を設立した。
1968年1月、大林組の株式は大阪証券取引所の特定銘柄に指定され、同年10月に資本金を103億円へ増資したときの株価は額面50円に対し296円の高値をつけた。売上高は1959年3月期の347億円から1968年3月期に1,477億円、1972年3月期には2,865億円へ伸びている。規模の変わった会社に対し、大林芳郎社長が最後に動かしたのは本社の位置だった。創業者の大林芳五郎氏が会社を興したのは大阪で、その死後に訪れた危機を乗り切れたのも大阪の財界人が手を貸したからだった。それでも大林組は1970年7月に47億円の増資で資本金を150億円とし、その年の暮れには東京に本社を置いて、大阪本店と並べる二本建ての体制に移った。主力の大部分を東京へ移した理由は、国内外の情報がいち早く集まる場所こそ日々の業務に向くと判断したことにある。外から人と金を入れて資本を薄め続けた35年は、創業の地に本拠を置くという最後の縛りを解くことで区切りを迎えた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/1802/company.json https://the-shashi.com/api/1802/history.json https://the-shashi.com/api/1802/ceo.json https://the-shashi.com/api/1802/financials.json https://the-shashi.com/api/1802/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/1802/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/1802/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/1802/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/1802/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/1802/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/1802/financials.csv https://the-shashi.com/api/1802/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1892〜1935年大阪の乾物問屋の三男が官需で興し、東西の難工事で名を上げるまで | 乾物問屋の三男が商家の家業を離れて選んだ土木建築請負業への出発 1892年1月、大阪の乾物問屋"大徳"の三男・27歳の大林芳五郎氏が、大阪市西区阿波座で個人事業として土木建築の請負業を興した。商家の信用と人脈を足場に1898年の大阪市築港工事、1903年の第5回内国勧業博覧会の施設工事を受注し、創業10年で関西の大手業者と並ぶ位置へ進んだ。1914年には東京中央停車場と生駒トンネルを同年に完工し、1909年の合資会社化を経て1918年に株式会社大林組へ改組した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東京支店を開設 | ★ | |||
| 大林組を設立 | ★ | |||
| 東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)・生駒トンネル工事が完成 | ★ | |||
| 創業者・大林芳五郎氏が死去、大林義雄氏が2代目社長に就任 | ★ | |||
| 大林組を設立 | ★ | |||
| 日本初の地下鉄工事(上野〜浅草間のうち万世橋〜上野間)を完工 | ★ | |||
| 東洋鋪装を設立 | ★ | |||
| 1936〜1972年第二大林組による資本の再編から、株式上場と初の海外常駐拠点まで | 第二大林組を設立し大林組を再編 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 大林義雄社長が死去、大林芳郎氏が3代目社長に就任 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 浪速土地を設立 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 高松支店を開設 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 大阪証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 東洋ビルサービスを設立 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 神戸支店を開設 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 技術研究所を新設 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 東洋鋪装を大林道路に商号変更 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 東京支店を東京本社に改める | ★ | ||
| 大林芳郎 | 大林道路が東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 大林芳郎 | ジャヤ大林を設立 | ★ | ||
| 1973〜2009年石油危機後の受注構造の転換、脱同族への移行、そして初の営業赤字 | 大林芳郎 | タイ大林を設立 | ★ | |
| 大林芳郎 | 金沢支店を開設 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 福岡支店を九州支店に商号変更 | ★ | ||
| 大林芳郎 | 大林家による45年の同族支配から非同族経営への転換 1989年6月、大林組は大林家と血縁関係を持たない津室隆夫氏を4代目社長に起用した。1943年から45年にわたり社長を務めた大林芳郎氏の後任として、生え抜きの技術系幹部が初めて大林一族以外から選ばれた経営体制の転換である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| オーシー・ファイナンスを設立 | ★ | |||
| CI導入、企業理念・新社章を制定 | ★ | |||
| 台湾大林組を設立 | ★ | |||
| 大林シンガポールを設立 | ★ | |||
| 仙台市長への贈賄容疑で経営首脳が逮捕 | ★★ | |||
| 大林USAを設立 | ★ | |||
| オーク設備工業の全株式を取得 | ★ | |||
| 脇村典夫 | 大林ファシリティーズを設立 | ★ | ||
| 脇村典夫 | 大林ベトナムを設立 | ★ | ||
| 白石達 | 海外支店を開設 | ★ | ||
| 2010〜2026年請負への依存から抜けるための、非建設事業と海外買収による拡大 | 白石達 | 初の営業赤字・純損失を計上 | ★★ | |
| 白石達 | 新星和不動産の全株式を取得 | ★ | ||
| 白石達 | 大林クリーンエナジーを設立 | ★ | ||
| 白石達 | 大林道路を完全子会社化 | ★★ | ||
| 蓮輪賢治 | 争わずに罰金と営業停止を受け、原因究明を外部へ預けた選択 2018年9月1日、リニア中央新幹線工事の入札に関する独占禁止法違反事件について、日本弁護士連合会の「企業不祥事における第三者委員会ガイドライン」に依拠した第三者委員会を設置した。目的は客観的な調査結果に基づく発生原因の究明と、実効性のある再発防止策の提言である。 同年10月22日に罰金2億円の有罪判決を受け、2019年1月31日に提言を含む調査報告書を受領して同日公表した。翌2月からは建設業法に基づく120日間の営業停止処分に入っている。 詳細を読む | |||
| 蓮輪賢治 | シンガポールにアジア支店、米国に北米支店を開設 | ★ | ||
| 蓮輪賢治 | サイプレス・スナダヤの株式を取得 | ★ | ||
| 蓮輪賢治 | 特別配当を求めた株主提案と、その後に動いた還元の目安 2023年6月28日の第119回定時株主総会で、シルチェスター・インターナショナル・インベスターズが提出した1株12円の特別配当を求める株主提案は、反対多数により否決された。取締役会は5月11日にこの提案への反対を決議している。 同社の名義で大株主の状況に載る持株は、2023年3月31日現在で14,283千株・1.99%。会社提案の期末配当21円は可決され、2023年3月期の年間配当は42円、配当金の総額は30,156百万円となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 蓮輪賢治 | 米国の水処理関連施設建設会社MWHを子会社化 | ★★ | ||
| 蓮輪賢治 | データセンター事業への参入を発表 | ★★ | ||
| 佐藤俊美 | 佐藤俊美体制の始動と、北米を軸に据えた買収攻勢への転換 2025年4月1日、大林組は通算14年の海外勤務を経て本社財務部長・本社経営企画室長を歴任した佐藤俊美氏を代表取締役社長兼CEOに据えた。2023年12月には米国の水処理関連施設建設会社MWHを取得原価21,307百万円で子会社化しており、就任後もデータセンター建設のGCON、豪州・英国・カナダのMultiplexと海外の同業を相次いで取り込んでいる。国内でのM&Aの具体像は本稿の時点で示されていない。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐藤俊美 | 米国の建設会社GCONの株式取得を発表 | ★★ | ||
| 佐藤俊美 | 豪州・英国・カナダのMultiplexの子会社化を発表 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大林組)