創業1840年、アヘン戦争の年に、鹿島岩吉が江戸で大工として独立した。原体験は1860年、2代目岩蔵が開港直後の横浜で英国商社ジャーディン・マセソンへ「英一番館」を納入した洋風建築最初期の取引にある。未経験の洋風建築を内製で引き受け、ここから日本初を技術で取り込む社風が始まった。
決断2代目岩蔵は1880年に洋風建築を畳んで鉄道専業へ転じ、3代目精一は丹那トンネルを16年かけて完工した。そして1947年の鹿島建設改称と1949年の業界初の技術研究所設立を経て、1957年の日本原研第1号原子炉、1968年の霞が関ビルと難工事を続けて内製化した。この結果、1963年に受注高で世界一に到達した。
課題1993年のゼネコン汚職以降は約47万社が残る過当競争で利益率1%前後が常態化したが、2011年震災後の供給制約と2015年就任の押味至一社長による開発投資で反転し、開発資産は約1兆2,000億円まで膨らんだ。だが請負と開発では利益の源泉が違う。この開発資産から超過利潤を引き出せるかが、桐生雅文新社長が引き継いだ課題となる。
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歴史概略
1840年〜1946年洋風建築第1号から鉄道専業・戦時工場建築へ
洋風建築第1号から鉄道専業への転身
1840年、鹿島岩吉が江戸に「大岩」の屋号で大工として独立し、棟梁として町家や商家の建築を請け負った。諸大名の江戸屋敷を建築していた鹿島は、幕末の横浜港の開港とともに同地に進出し、1860年に英国商社ジャーディン・マセソン商会の通称「英一番館」を施工した。これは日本における洋風建築の最初期の事例であり、この1棟が鹿島の技術的存在感を固め、先端技術を積極的に取り込む後年の企業文化の出発点となった。明治に入ると品川御殿山の毛利邸洋館、新橋の蓬莱社、神戸の製紙工場、岡山県庁舎など、2代目の鹿島岩蔵は「鹿島方」の名のもとに洋風建築の実績を全国に広げ、文明開化を代表する建造物の請負業者として名前が広まった。
1880年、岩蔵はその「鹿島方」を解散し、鹿島組を新設して鉄道専門の工事業者に転身した。洋風建築で積んだ実績を捨て、文明開化の先導産業である鉄道に特化することで全国展開の基盤を組む狙いがあり、当時としては一種の賭けでもあった。最初の仕事は官営鉄道の柳ヶ瀬トンネルで、以後、日本鉄道会社の東北本線や官設の信越線など全国各地の官設・私設鉄道を施工し、日清戦争をきっかけに朝鮮・満州・台湾での鉄道建設にも進出して海外での実績も積み上げた。明治・大正期の工事種類別請負高は鉄道67%、水力発電14%と、この2分野で80%以上を占めた。「鉄道の鹿島」と呼ばれる事業構造は、1880年の決断が長期にわたって企業の基本性格を規定したことを示している。
丹那トンネル ── 16年間の難工事が築いた技術の信用
3代目組長の鹿島精一は1929年に京橋に新社屋を建設し、翌1930年に資本金300万円で株式会社に改組して近代企業としての体制を整えた。個人営業から株式会社への転換は、長期の重量級工事を請け負うための資金調達力を強化する必要に迫られた判断であった。鹿島組が当時手がけていた最大の工事が、1918年に着工した丹那トンネルである。東海道本線の熱海〜函南間を貫く全長約7.8キロのこのトンネルは、大量出水や落盤に繰り返し見舞われ、金融恐慌から世界恐慌への移行も重なって業績は厳しかった。16年間という異例の長期工事の末に1934年に完成し、この難工事の完工が鹿島の土木技術力を全国に知らしめ、以後の土木工事の受注基盤となった。困難な工事を最後までやり遂げる企業文化は、1934年までの16年を通じて形成された。
1938年に鹿島守之助が社長に就任し、戦時下に成長が見込まれる産業界の工場建設を取り込むため建築部門を強化した。鉄道専業から工場建築への転換は、時代の要請を読み取った守之助の経営判断によるものだった。軍・官の生産力増強要請に応えて国内外で工場建築を受注した結果、1937年から終戦までの主要工事の種類別内訳は工場建築44%、発電所30%となり、かつて67%を占めた鉄道は4%まで低下した。「鉄道の鹿島」は戦時期を通じて総合建設会社へ業態を変え、戦後の高度成長期に多様なインフラ需要に応える事業基盤をすでに準備していた。67%から4%への鉄道比率低下は、鹿島の柔軟な事業転換力を示すとともに、戦時経済の下での建設業の姿を映し出す記録でもある。
1947年〜1989年原子炉から受注高世界一・1兆円時代への飛躍
原子炉を建て、受注高で世界一になった
戦後の混乱期を駐留軍工事や塩田工事でしのいだ鹿島組は、1947年12月に鹿島建設と改称した。翌々年の1949年には建設業界初の技術研究所を設立し、研究開発への先行投資に踏み切った。他社に先駆けて研究所を設けたことは、先端技術を要する工事を社内で内製化する戦略の表れであった。その結果、1957年に東海村の日本原研第1号原子炉を完成させ、以後、原子力発電本館の建設で業界一の実績を積み上げた。朝鮮戦争を契機とした高度成長期には、新幹線・高速道路・臨海工業地帯の造成と、日本のインフラ需要のほぼすべてに関与した。日本初のアーチダムや名神高速道路山科工区など、技術的難度の高い工事を積極的に引き受けた結果、受注規模が拡大し、鹿島の技術主導型の企業像が根づいた。
1961年に東京・大阪証券取引所に上場し資金調達力を強化すると、1963年には年間受注高で世界1位を達成した。高度経済成長のインフラ投資がピークに達した時期と鹿島の技術蓄積が重なった結果であり、1840年の創業から123年で日本の一大工棟梁は世界最大の建設受注企業へ成長した。上場で得た資金調達力は、以後の超高層ビル建設や原子力発電関連の案件への対応を可能にし、鹿島の技術蓄積を受注として収益に結びつける基盤となった。世界一という地位は、規模の誇示ではなく、技術的難度の高い工事を次々と引き受けた長年の企業姿勢の帰結であり、戦前の丹那トンネルから戦後の原子炉・高速道路に至る一連の挑戦の延長線上にある到達点だった。鹿島の経営史における最大の到達点の一つである。
霞が関ビルと業界初の受注高1兆円達成
1968年4月、鹿島は三井不動産の霞が関三井ビルを完成させた。地上36階・高さ147メートルは日本初の本格的超高層ビルであり、地震の多い日本で耐震技術を確立するという課題を乗り越えた成果だった。この1棟が都市開発の幕開けとなり、以後の超高層ビル受注を呼び込み、現在でも超高層ビルの施工実績は業界で最大である。1971年には定款を変更して開発事業を追加し、1977年着工の志木ニュータウンがデベロッパーとしての初の本格的事業となった。建設請負に加えて不動産開発を手がけるこの判断は、半世紀後に開発事業が利益の柱へ成長する出発点だった。つまり請負型ビジネスの景気変動リスクを意識し、早い時期から開発事業に布石を打ったこの経営判断が、後年の収益構造多様化の骨格を先取りしていた。
建設業の枠を超えた事業展開は、1975年に鹿島守之助会長が没した後、1978年に女婿の石川六郎が社長に就任してから加速した。石川は低成長期に対応して経営体質を改善するため、TQC(総合的品質管理)の導入を基本課題に据え、製造業で実績のあった品質管理手法を建設業に持ち込んだ。収益は1980年度から上向き、1981年度には業界初の受注高1兆円を達成し、業界内での鹿島の地位を固めた。1982年にはデミング賞実施賞を受賞し、受注規模と品質管理の両面で業界をリードする存在として広く認知された。低成長期の経営課題に品質管理の手法で応えたこの取り組みが、1980年代後半のバブル経済下での受注拡大に直結する基盤となった。
1990年〜2014年ゼネコン汚職と営業利益率1%の低収益構造
ゼネコン汚職と150年続いた創業家経営の終幕
1980年代後半のバブル経済下で不動産開発事業にも進出し、1986年度の売上高は初めて1兆円台を突破した。業績が続伸する中、1990年6月に鹿島昭一が社長を退き、鹿島家以外の出身者として初めて宮崎明が社長に就任した。1991年2月には長期経営計画KE21を策定して「快適環境創造企業」を掲げ、4つの総事業本部体制に移行するとともに、会社の通称を「鹿島」に変更して新しい時代のイメージを示した。1840年の創業以来150年間続いた創業家経営が終わり、プロフェッショナル経営への転換が始まり、組織運営の基準は血縁から能力主義へ移った。つまりこの交代は社長交代にとどまらず、創業家の求心力に頼らない組織的な経営体制への本質的な移行だった。
しかし1993年、茨城県庁舎移転新築工事等に絡んで副社長の清山信二が元茨城県知事に2,000万円を供与した贈賄事件が発覚し、逮捕・起訴された。建設省や地方自治体から指名停止処分を受け、同年にゼネコン4社が関与した一連の汚職事件として社会的影響は、建設業界全体が官民癒着体質の見直しを迫られた。鹿島は業務刷新委員会を新設して再発防止策に取り組み、1996年に梅田貞夫が社長に就任してゼネコン汚職後の経営再建に着手した。プロフェッショナル経営への移行直後に発覚したこの事件は、150年続いた創業家経営からの円滑な移行を中断させ、業界の信頼回復と収益力の回復という二重の課題を新体制に突きつけた。
営業利益率1% ── 受注「世界一」の実態
汚職事件の傷を抱えながらも受注高は業界トップ水準にあったが、収益力は伴わなかった。建設業就業者が1997年の685万人から2010年の498万人へ減少する一方で建設企業数は約47万社と過剰なまま残り、少ない案件を巡る価格競争が横行する「負のスパイラル」が常態化していた。鹿島の営業利益率はFY07で0.96%、FY08で1.01%と1%前後で低迷し、連結売上高1兆9,485億円に対して営業利益は197億円(FY08)にとどまった。つまり受注高世界一の看板と収益構造の乖離を示す数字であり、技術蓄積が収益に結びつかないという構造問題が露呈した。2005年に中村満義が社長に就任し、リーマン・ショック前後の経営を担ったが、業界構造の問題は一社の努力で解消できるものではなかった。
2009年3月期にはリーマン・ショックの影響で特別損失が膨らみ、初の連結純損失(▲63億円)を計上した。翌2010年3月期には売上高が1兆6,374億円とピークから16%減少し、販管費を吸収できず初の連結営業赤字(▲68億円)に転落した。これは創業170年の歴史で初の事態だった。FY10〜14も営業利益は127〜295億円の低水準にとどまり、利益率1%前後の低収益構造は2014年まで約20年間続いた。20年に及ぶ低収益期は、技術蓄積と受注規模をもつ鹿島にとって事業構造そのものの見直しを迫り、ゼネコン業界全体が抱える過当競争の構造問題を代表する事例ともなった。その長期停滞からの脱出には、2011年以降の震災復興需要と労働市場の構造変化という外的要因を待つ必要があった。