鹿島の4代は、同じ工法を売り続けて伸びた会社ではなく、需要の主戦場が動くたびに商売の中身を入れ替えた会社である。初代の鹿島岩吉氏は江戸の大名屋敷から横浜の外国商館へ移り、2代目の岩蔵氏は洋風建築で名を成した鹿島方を1880年に自ら解散し、鉄道請負へ絞り込んだ。明治・大正期に請負高の67%を鉄道が占めたのは、その絞り込みが当たったからである。ただし鉄道の敷設が全国で一巡すれば、同じ絞り込みがそのまま収入の細りに変わる。3代目の精一氏が水力発電へ早くから進出し、4代目の守之助氏が建築部門を増強したのは、いずれも前の主力が細りきる前に次を立てる動きだった。
業態を替え続けられた理由は、転換の行き先を技術で選んだことにある。精一氏は日本で最初の学士の請負人と呼ばれ、建設業を「技術を売る商売」と定義し直した人物だった。丹那トンネルに費やした16年は、湧水と断層に苦しんだ難工事であると同時に、水抜トンネルやシールド工法を実地で試す場でもあった。守之助氏が1938年に掲げた「施工能力の増強」と「科学的管理」は、どんぶり勘定で赤字を出していた組を、工事ごとの原価が見える会社へ作り替える指示である。1937年から終戦までに工場建築が44%を占め、鉄道が4%まで低下したのは、戦時の需要に流されたからではない。建築技術者を外から集めて受け皿を先に作っていたからだった。
1840年、鹿島岩吉氏が江戸・京橋に"大岩"の屋号で店を構え、大工棟梁として独立した。松平越中守邸をはじめとする大名屋敷の普請を得意先とし、町家の請負と大名屋敷の普請という二つの需要を同じ土地で取り込んだ。開国後は横浜港の開港とともに同地へ進出し、1860年に英国商社ジャーディン・マセソン商会の通称"英一番館"を施工した。日本における洋風建築の最初期の事例であり、外国商館の請負を通じて煉瓦造や洋小屋組といった西洋工法を実地で覚えた。明治に入ると屋号を"鹿島方"へ改め、2代目の鹿島岩蔵氏のもとで品川御殿山の毛利邸洋館、新橋の蓬莱社、神戸の製紙工場、岡山県庁舎と、洋風建築の実績を全国へ広げた。
明治・大正期に請け負った工事を種類別にみると、鉄道が67%、水力発電が14%で、この2分野だけで工事量の80%以上になった。鉄道へ軸足を移したのは1880年で、岩蔵氏は洋風建築で実績のあった"鹿島方"を解散し、鉄道工事を専門とする鹿島組を新たに立て、文明開化の象徴と見られた鉄道へ業態を絞った。初仕事は官営鉄道の柳ヶ瀬トンネルで、続いて日本鉄道会社の現東北本線や官設の現信越線など、官設と私設を問わず全国の鉄道を手がけ、日清戦争をきっかけに朝鮮・満州・台湾の鉄道建設にも乗り出した。鉄道業が全国へ延びるのと足並みをそろえて事業を広げたことから、鹿島組は"鉄道の鹿島"の名で呼ばれた。
鉄道請負の実務は、1880年の北陸本線中ノ郷〜柳ヶ瀬間に始まった。モッコや猫車が運搬具の主流だった時代にレールとトロッコを持ち込み、当時としては画期的な工法で工区を進めた。以後は1882年秋から日本鉄道第一区線(東京〜前橋)、1884年春から山手線板橋〜赤羽、1885年夏から信越線の犀川・千曲川の二大橋梁、1886年末には東海道線沼津〜浜松間と受注を重ね、信越線とあわせて1889年春に竣工させた。水力発電へは1909年の宇治川電気水力工事で参入し、大正期にかけて23カ所の発電所と延長約35キロの水路トンネルを施工した。1920年着工の宇治川電気第二期工事に含まれる大峯ダムは高さ30メートルで、日本の水力発電で最初のコンクリート高堰堤となった。
1912年、2代目の鹿島岩蔵氏が69歳で逝去し、3代目の組長に鹿島精一氏が就任した。精一氏は東京帝国大学工学部土木工学科の出身で、業界屈指の新知識をもって2代目を補佐してきた人物だった。日本で最初の学士の請負人と呼ばれ、のちに日本土木学会の会長を務めている。精一氏は建設業に「技術を売る商売」という性格づけを与え、技術の水準そのものを受注の根拠に据えた。実務では、当時としては驚きをもって迎えられた新式の機械を工区へ持ち込み、鉄道工事が頭打ちになると見て水力発電所の建設へ早くから軸足を移した。鉄道の全国普及が一巡すれば請負量は必ず細るという読みが、次の主戦場を先に押さえる動きとして表れたのだろう。
3代目組長の鹿島精一氏は1929年に京橋へ新社屋を建て、1930年3月に資本金300万円で株式会社鹿島組を設立して初代社長に就任した。個人経営の組から株式会社への改組であり、その株式会社鹿島組が抱えた最大の工事が丹那トンネルだった。東海道本線の熱海〜函南間を貫く全長約7.8キロのこの隧道は、1918年の着工後、1925年5月に西口2,160m地点で毎秒3.3立方メートルの湧水と約3,600立方メートルの土砂噴出に見舞われ、1930年6月には大断層の境目で崩壊した。鹿島組は水抜トンネル・グラウト・コンクリートプレーサー・シールド工法を投入し、着工から16年を経た1934年12月に開通させた。開通によって東海道線の輸送力は3倍以上に増えた。もっとも、この間は金融恐慌から世界恐慌への展開と産業合理化政策の実施が重なり、業績は厳しい状況が続いた。
鹿島守之助氏が社長を引き継いだ時点で、鉄道工事は幹線がほぼ完了し、残る案件はローカル線関係に限られていた。加えて工事ごとに原価を把握しない、いわゆるどんぶり勘定の経営が続き、一時は手がけている工事のほとんどが赤字という状態にまで追い込まれた。守之助氏は社長就任の数年前から科学的管理法の立案を軸に定款・諸規則の改定へ着手しており、1938年の就任にあたっては「社長就任の辞」を全社へ示して経営方針を明らかにした。就任までの2年余で定款と規則を改め、生産力の拡充というスローガンの下に請負金額を数倍とし、社員を倍増させていた。掲げたのは「施工能力の増強」と「科学的管理」の二つの原則で、予算統制と経営比較を重視して経理制度に本質的な改革を加えた。
1938年7月、鹿島守之助氏が社長に就任し、経営の原理として科学的管理を掲げた。戦時下に増産を求められる産業界の工場建設を取り込むため、鉄道に偏っていた事業構成を建築部門の増強によって組み替えた。軍・官の生産力増強要請に応じ、国内の工場建築に加えて朝鮮・台湾・中国・南方の工事も引き受けた結果、受注量と業容がともに拡大した。1937年から終戦までの主要工事の種類別内訳は工場建築44%、発電所30%、鉄道4%、その他22%で、明治・大正期に67%を占めた鉄道は4%まで低下した。土木を主戦場としてきた鹿島組は、この8年で土木と建築の双方を担う総合建設業者へ姿を変えた。
土木部門では、施工能力の増強として重点を鉄道だけでなく水力工事へ移し、あわせて鉱山・河川・港湾・道路・橋梁・塩田・かんがい・干拓まで守備範囲を広げた。建築部門については外部から多数の優秀な技術者を招き、全面的な拡充と振興を図った。施工の機械化に対しては1940年に傍系会社の鹿島製作所を創立し、機械設備の増強と付帯工事部門の拡充を自社の側へ抱え込んだ。1943年9月には資本金を1,200万円へ増資した。日中戦争から太平洋戦争へと時局が進むにつれ、国家総動員法の下で軍需工場の急速な建設と、国内資源を活用するための休廃鉱山の復旧・開発が加わった。技術者を社内で育てる時間を待たずに外から集め、機械部門を自社の側に置いたことが、建築の受注量へ施工体制を追随させる条件になったのだろう。
1949年に技術研究所を建てた時点で、鹿島建設に超高層ビルの受注は1件も無かった。研究所を調布へ新築したときの費用に充てたのは、厚木と松島の飛行場工事で申し立てたクレームが認められて戻った約7,000万円のうち、およそ半分である。帳簿の上では既に失われていた金であり、使わなくても損益は動かない。その金を研究設備へ入れた判断が、東海村第一号原子炉の施工、羽田と浜松町を結ぶモノレール、そして霞が関ビルの構造計算へ順に接続した。受注の実績が無い分野で先に技術を持つことが、建設業では特命で仕事が回ってくる条件になる。
建設業は、図面を渡されてから始まる商売である。その順番を崩したのが霞が関ビルだった。施主の三井不動産と設計事務所と鹿島建設が企画委員会を作り、当初9階だった計画は検討を重ねて36階になった。構造計算も施工方法も、計画が固まってから割り当てられたのではなく、計画そのものを決める過程のなかで選ばれている。渥美健夫氏はこの工事を、建設業が本来持っていたシステム産業としての性格を初めて自覚した場面として語った。1970年に英文名をカジマ・コンストラクション・カンパニーからカジマ・コーポレーションへ改めたのは、施工だけを請け負う会社という看板を自ら下ろす手続きだった。
戦後の数年間、鹿島組が手がけた工事の中心は戦災復旧と駐留軍向けだった。戦時の主な収益源だった軍需工場と外地の工事がなくなった分を、この2つが補った。社名を鹿島建設株式会社に改めたのは1947年12月で、業界で長く通っていた鹿島組の名はここで退いた。情勢が変わったのは1950年の朝鮮動乱で、経済界が活気を取り戻した。電源開発を先頭に港湾整備や輸送力増強の工事が盛んになり、都市部には空前のビルブームが訪れた。九州電力の上椎葉ダムは日本初のアーチダムで、鹿島建設は1952年末から施工に当たった。1954年2月には資本金が2億5,000万円に増えた。朝鮮・台湾にまで及んだ戦前の水力発電工事の経験は、戦後の電源開発の需要にそのまま生かされたとみられる。
朝鮮事変の少し前、沖縄で大規模な土木建築工事が発注された。当時の日本は資金が不足しており、1社では請け負えないという判断に至った。資金は無いが技術者と資材はあるという前提に立ち、日米合同で引き受ける方式を探した。日本側は大林組・清水組・大成建設・竹中工務店の4社へ協力を求めたが、清水組は他に提携先があるとして、大成建設は外国人との共同作業は難しいとして降り、日本側は3社となった。米国側はモリソン・クヌードセン社1社となり、1950年に提携が成立して沖縄の米軍工事を共同企業体方式で施工した。建設業界でこの方式を日本へ最初に導入したのは鹿島守之助氏だという。
戦後に手がけた主な工事には、小河内や五十里などのダム、東京と大阪の地下鉄、そして厚木・松島・鹿屋の飛行場工事があった。共同企業体を組んだモリソン・クヌードセン社は、損失をクレームで回収するために弁護士を立て、最後は米国上院まで持ち込む会社だった。日本の業者が損をすることもあると片づけてきた場面で、契約上の請求権を最後まで行使する構えだった。鹿島建設も厚木と松島の飛行場工事で工事関係のクレームを申し立て、上訴は受理されて厚木は40%、松島は90%が認められた。回収額は約7,000万円で、大林組の約4,000万円、日本鋪道の約3,000万円と合わせて合計約1億4,000万円が戻った。帳簿の上では既に損失として処理されていた資金だった。
土木も建築も技術の進歩は速く、新工法を編み出しても気を抜けばすぐ古い工法になってしまうという見方があった。そこで基礎的で先駆的な研究こそが先々の伸びを生むとして、1949年4月、業界に先がけて鹿島建設技術研究所を設けた。調布市に最新の研究施設を備えて1958年10月に新築された研究所には、厚木・松島のクレームで返ってきた約7,000万円のおよそ半分が充てられた。研究所の役目は基礎研究だけでなく、新工法・新材料の調査研究や、忙しい現場が手に負えない施工上の技術支援にも及んだ。研究の成果である特許と実用新案は、1965年までに約100件以上へ達した。
業界では「新しいもの好き」と呼ばれた。原子力が国内へ導入されると直ちに原子力室を設け、技術研究所では国の補助金を受けて建設関係の原子力に関する研究を進めた。日本原子力研究所の東海村第一号原子炉は、鹿島建設と清水建設の共同企業体が施工した。モノレールでは日立製作所と提携し、羽田と浜松町を結ぶ区間で最も多くの工区を手がけた。超高層建築についても、早くから電子計算機を導入して構造計算の研究を重ねた。1966年春に完成した電子計算センターのHITAC-5020は、耐震設計計算・地震応答解析・工程管理に用いられた。市場が立ち上がる前に技術を持つことが、実績の無い分野で特命を取る条件だったのだろう。
東京・日比谷の三井ビルの工事は三井不動産からの特命で、戦後に三信ビル改修、三井別館、大阪三井ビル、三井本館増築と相次いで納めてきた信用が土台にあり、1957年9月の着工から3年をかけたこの工事では、基礎工法や型枠、高度な金属仕上げの分野で多くの新技術が生まれた。完成したビルによって、建築部門も土木部門と肩を並べて業界の最高位にあると見られるようになった。資本市場とのつながりも変わり、1961年9月1日の増資を機に株式を公開した。1963年には年間受注高1,368億円を計上し、世界の首位にあった米国モリソン・クヌードセン社の1,115億円を上回った。
1968年3月に完成した三井不動産の霞が関ビルは、日本で最初の本格的な超高層ビルとなった。この工事では、施主の三井不動産、設計事務所、鹿島建設の三者で企画委員会を作り、基本的なプランニングの段階から参画した。当初は9階建ての計画だったが、周辺の交通問題・日照・人の動線を検討した結果、最終的に36階建てとなった。構造設計では早くから導入していたコンピュータを使い、新理論・新手法による構造計算を成立させた。施工は超高層が初めてだったため極力プレハブ化して現場で組み立て、工期の短縮と安全の確保を図り、坪当たり30万円程度で仕上げた。計画から設計・施工まで一貫して参画すれば合理化の余地が生まれるという認識は、この工事で初めて得られた。
合理化の焦点は現場労務者のアイドルタイムで、一つの仕事から次の仕事へ移るときに段取りが整っていないと手待ちが生じ、一般の建設業では多いときに3割前後へ及んだ。1966年に社長へ就任した渥美健夫氏は、就任以来この問題を細目にわたって追及する姿勢を取った。現場労務者が最も多かったのは東京オリンピック関連工事の1964年で1日平均5万2,000人だったが、1969年には工事量が1964年の1.9倍へ増えた一方、労務者は4万1,000人まで減った。1969年11月期の受注工事高は1,559億円で、土木540億円・建築1,019億円と両分野が業界で初めて500億円と1,000億円の大台に乗り、特命比率は72%に達した。
1970年の株主総会で定款を一部改正し、英文名を「カジマ・コンストラクション・カンパニー・リミテッド」から「カジマ・コーポレーション」へ改めた。米国でコンストラクション・カンパニーは、与えられた図面に従って施工だけを行う会社と受け取られており、その名では実力を低く評価されるという判断だった。海外工事は1954年に始めており、1970年初めまでに34件・238億6,000万円を積んでいたが、全工事量に占める比率は2%弱にとどまっていた。1977年には、企業化調査から施工までを一括で請け負うエンジニア・コンストラクターへの移行を掲げ、子会社19社の合計売上高802億円というグループの総合力が問われる段階に入った。看板の書き換えに実体が追いつくかどうかが、この時点の課題だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1840〜1946年洋風建築第1号から鉄道専業・戦時工場建築へ | 大工棟梁「大岩」から「鉄道の鹿島」への転身 1840年、大工棟梁の鹿島岩吉氏が江戸京橋付近に"大岩"の屋号で店を構え、松平越中守邸など諸大名の江戸屋敷の普請を得意とする個人棟梁として独立した。1860年に横浜で英一番館を施工して洋風建築に加わり、1880年には2代目・岩蔵氏が"鹿島方"を解散して鉄道専業の鹿島組へ転じた。1930年に3代目・精一氏が資本金300万円で株式会社鹿島組を設立し、1947年に"鹿島建設"へ改称、1961年に東京・大阪両証券取引所へ上場した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 英一番館(ジャーディン・マセソン商会)を施工 | ★ | |||
| 鹿島組を創立 | ★ | |||
| 鉄道請負業に参入 | ★★ | |||
| 鹿島精一 | 鹿島組を設立 | ★ | ||
| 鹿島精一 | 丹那トンネルを完成 | ★ | ||
| 鹿島精一 | 鹿島守之助氏が社長に就任 | ★ | ||
| 1947〜1977年研究投資による業態転換 | 社名を鹿島建設に商号変更 | ★ | ||
| 建設業界初の技術研究所を設立 | ★ | |||
| 建設業法により建設大臣登録を取得 | ★ | |||
| 大興物産の株式を譲受 | ★ | |||
| 日本原研第1号原子炉を完成 | ★★ | |||
| 鹿島製作所を吸収合併 | ★ | |||
| 東京証券取引所・大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 年間受注高で世界1位を達成 | ★ | |||
| 丸善鋪道の株式を譲受 | ★ | |||
| 渥美健夫 | 渥美健夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 渥美健夫 | 超高層・耐震技術への先行投資と開発事業への進出 1968年4月、鹿島建設は三井不動産の発注で日本初の本格的超高層ビル"霞が関ビル"を完成させた。柔構造・耐震技術への先行投資と、施主・設計者・施工者の三位一体体制でこれを成し遂げ、1971年には定款を変更して開発事業へ進む布石とした経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 渥美健夫 | 本店所在地を変更 | ★ | ||
| 渥美健夫 | 住宅事業・不動産取引業務を事業目的に追加 | ★ | ||
| 渥美健夫 | 鹿島守之助会長が逝去 | ★ | ||
| 渥美健夫 | 志木ニュータウン着工 | ★ | ||
| 渥美健夫 | 北陸支店開設 | ★ | ||
| 1978〜2008年石川六郎体制で受注1兆円を達成、欧米アジアへの進出とバブル後の贈賄事件 | 石川六郎 | 全社的な品質管理の導入による経営体質の立て直し 1978年2月、鹿島守之助会長の女婿として社長を承継した石川六郎氏が、TQC(総合的品質管理)の実施を経営の基本課題に据え、製造業で実績のあった品質管理手法を建設業に持ち込んで経営体質の改善に取り組んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 石川六郎 | 受注高が業界初の1兆円を達成 | ★ | ||
| 鹿島昭一 | 鹿島昭一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 鹿島昭一 | カジマUSAを設立 | ★★ | ||
| 鹿島昭一 | カジマヨーロッパBVを設立 | ★ | ||
| 鹿島昭一 | カジマオーバーシーズアジアを設立 | ★ | ||
| 宮崎明 | 宮崎明氏が社長に就任 | ★ | ||
| 宮崎明 | 長期経営計画(KE21)を策定 | ★ | ||
| 宮崎明 | 通称を「鹿島」に変更 | ★ | ||
| 宮崎明 | 茨城県知事贈賄事件で副社長が起訴 | ★★ | ||
| 梅田貞夫 | 梅田貞夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 中村満義 | 東京土木支店、東京建築支店、海外支店を開設 | ★ | ||
| 中村満義 | 中村満義氏が社長に就任 | ★ | ||
| 中村満義 | 本店所在地を変更 | ★ | ||
| 中村満義 | カジマヨーロッパリミテッドを設立 | ★ | ||
| 2009〜2026年初の連結赤字から鹿島道路の完全子会社化、米国建設会社買収と社長の急逝 | 中村満義 | 初の連結純損失を計上 | ★★ | |
| 中村満義 | 鹿島道路を株式交換により完全子会社化 | ★ | ||
| 中村満義 | 初の連結営業赤字を計上 | ★ | ||
| 中村満義 | カジマオーストラリアを設立 | ★ | ||
| 押味至一 | 押味至一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 押味至一 | 競争そのものが存在しなかったとして最高裁まで争う道の選択 2018年3月23日、東海旅客鉄道が発注する中央新幹線の品川駅・名古屋駅のターミナル駅新設工事をめぐり、鹿島建設と社員1名が独占禁止法違反(不当な取引制限)で起訴された。会社は起訴内容を精査したうえで主張すべき点は公判の場で主張するとし、同時に起訴された事実を重く受け止め、役員・従業員一同でコンプライアンスの更なる徹底を図り信頼の回復に努めるとした。 2021年3月1日、東京地方裁判所は罰金2億5,000万円の判決を言い渡し、社員1名にも執行猶予付きの有罪判決が出た。判決には承服できないとして控訴し、2023年3月2日に控訴が棄却されると、同月14日に最高裁判所へ上告の申立てを行っている。 詳細を読む | |||
| 押味至一 | 鹿島グループ中期経営計画(2018〜2020)を策定 | ★ | ||
| 天野裕正 | 天野裕正氏が社長に就任 | ★ | ||
| 天野裕正 | Rodgers Builders社を買収 | ★★ | ||
| 押味至一 | 監査役会を畳み、監督する側に社外取締役7名を置く体制への組み替え 2026年6月26日開催の第129期定時株主総会で定款一部変更の件が承認され、同日付で監査役制度を採用する監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。総会には定款の変更と併せて、取締役(監査等委員である取締役を除く。)9名選任の件と、監査等委員である取締役5名選任の件が議案として提案されている。 移行によって取締役は11名から14名へ、社外取締役は5名から7名へ増えた。監査役5名(うち社外3名)が置かれていた枠は、監査等委員である取締役5名(うち社外4名)に置き換わっている。 詳細を読む | |||
| 押味至一 | 天野裕正氏が急逝 | ★ | ||
| 押味至一 | 押味至一氏が社長に再任 | ★ |
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事実根拠:出所(鹿島建設)