【筆者所感】 1860年、横浜で日本初の洋風建築「英一番館」を施工した鹿島は、以後160年以上にわたり各時代の先端技術を要する建造物を最初に手がけた建設会社である。鉄道、丹那トンネル、原子炉、超高層ビル、原子力発電本館 ── その都度「初めて」の施工実績が次の案件を呼び込み、1949年設立の業界初の技術研究所への先行投資が他社との差別化の源泉となった。高度経済成長期にインフラ需要が拡大したため1961年には東京・大阪両証券取引所に上場し、1963年には年間受注高で世界一に達した。1840年の創業から123年で一大工棟梁が世界最大の建設受注企業へ成長した理由は、先端技術を積極的に引き受ける企業文化と、困難な案件に挑む現場主義の伝統にあった。
しかし受注規模の大きさは収益力を意味しなかった。建設業界全体の過当競争構造の中で営業利益率1%未満が常態化し、1993年のゼネコン汚職で指名停止処分を受けた経営の傷も残った。連結売上高1兆9,485億円に対する営業利益が197億円(FY08)という構造は、受注高世界一の看板と実際の収益構造が乖離していることを示し、2010年には初の営業赤字に転落した。転機は2011年以降で、震災復興・五輪需要と技能労働者の減少が重なって供給制約が生じ、選別受注が可能になった。その結果、営業利益はFY14の127億円からFY16の1,554億円へ3年で12倍に増え、「建てる技術」がようやく利益に変わる構造が生まれた。量から質への転換を労働市場の構造変化が後押しし、鹿島の経営史で最大の収益構造改革となった。
歴史概略
1840年〜1946年洋風建築第1号から鉄道専業・戦時工場建築へ
洋風建築第1号から鉄道専業への転身
1840年、鹿島岩吉が江戸に「大岩」の屋号で大工として独立し、棟梁として町家や商家の建築を請け負った。諸大名の江戸屋敷を建築していた鹿島は、幕末の横浜港の開港とともに同地に進出し、1860年に英国商社ジャーディン・マセソン商会の通称「英一番館」を施工した。これは日本における洋風建築の最初期の事例であり、この1棟が鹿島の技術的存在感を固め、先端技術を積極的に取り込む後年の企業文化の出発点となった。明治に入ると品川御殿山の毛利邸洋館、新橋の蓬莱社、神戸の製紙工場、岡山県庁舎など、2代目の鹿島岩蔵は「鹿島方」の名のもとに洋風建築の実績を全国に広げ、文明開化を代表する建造物の請負業者として名前が広まった。
1880年、岩蔵はその「鹿島方」を解散し、鹿島組を新設して鉄道専門の工事業者に転身した。洋風建築で積んだ実績を捨て、文明開化の先導産業である鉄道に特化することで全国展開の基盤を組む狙いがあり、当時としては一種の賭けでもあった。最初の仕事は官営鉄道の柳ヶ瀬トンネルで、以後、日本鉄道会社の東北本線や官設の信越線など全国各地の官設・私設鉄道を施工し、日清戦争を契機に朝鮮・満州・台湾での鉄道建設にも進出して海外での実績も積み上げた。明治・大正期の工事種類別請負高は鉄道67%、水力発電14%と、この2分野で80%以上を占めた。「鉄道の鹿島」と呼ばれる事業構造は、1880年の決断が長期にわたって企業の基本性格を規定したことを示している。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
丹那トンネル ── 16年間の難工事が築いた技術の信用
3代目組長の鹿島精一は1929年に京橋に新社屋を建設し、翌1930年に資本金300万円で株式会社に改組して近代企業としての体制を整えた。個人営業から株式会社への転換は、長期の重量級工事を請け負うための資金調達力を強化する必要に迫られた判断であった。鹿島組が当時手がけていた最大の工事が、1918年に着工した丹那トンネルである。東海道本線の熱海〜函南間を貫く全長約7.8キロのこのトンネルは、大量出水や落盤に繰り返し見舞われ、金融恐慌から世界恐慌への移行も重なって業績は厳しかった。16年間という異例の長期工事の末に1934年に完成し、この難工事の完工が鹿島の土木技術力を全国に知らしめ、以後の土木工事の受注基盤となった。困難な工事を最後までやり遂げる企業文化は、1934年までの16年を通じて形成された。
1938年に鹿島守之助が社長に就任し、戦時下に成長が見込まれる産業界の工場建設を取り込むため建築部門を強化した。鉄道専業から工場建築への軸足移動は、時代の要請を読み取った守之助の経営判断によるものだった。軍・官の生産力増強要請に応えて国内外で工場建築を受注した結果、1937年から終戦までの主要工事の種類別内訳は工場建築44%、発電所30%となり、かつて67%を占めた鉄道は4%まで低下した。「鉄道の鹿島」は戦時期を通じて総合建設会社へ業態を変え、戦後の高度成長期に多様なインフラ需要に応える事業基盤をすでに準備していた。67%から4%への鉄道比率低下は、鹿島の柔軟な事業転換力を示すとともに、戦時経済の下での建設業の姿を映し出す記録でもある。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
1947年〜1989年原子炉から受注高世界一・1兆円時代への飛躍
原子炉を建て、受注高で世界一になった
戦後の混乱期を駐留軍工事や塩田工事でしのいだ鹿島組は、1947年12月に鹿島建設と改称した。翌々年の1949年には建設業界初の技術研究所を設立し、研究開発への先行投資に踏み切った。他社に先駆けて研究所を設けたことは、先端技術を要する工事を社内で内製化する戦略の表れであった。その結果、1957年に東海村の日本原研第1号原子炉を完成させ、以後、原子力発電本館の建設で業界一の実績を積み上げた。朝鮮戦争を契機とした高度成長期には、新幹線・高速道路・臨海工業地帯の造成と、日本のインフラ需要のほぼすべてに関与した。日本初のアーチダムや名神高速道路山科工区など、技術的難度の高い工事を積極的に引き受けた結果、受注規模が拡大し、鹿島の技術主導型の企業像が根づいた。
1961年に東京・大阪証券取引所に上場し資金調達力を強化すると、1963年には年間受注高で世界1位を達成した。高度経済成長のインフラ投資がピークに達した時期と鹿島の技術蓄積が重なった結果であり、1840年の創業から123年で日本の一大工棟梁は世界最大の建設受注企業へ成長した。上場で得た資金調達力は、以後の超高層ビル建設や原子力発電関連の案件への対応を可能にし、鹿島の技術蓄積を受注として収益に結びつける基盤となった。世界一という地位は、規模の誇示ではなく、技術的難度の高い工事を次々と引き受けた長年の企業姿勢の帰結であり、戦前の丹那トンネルから戦後の原子炉・高速道路に至る一連の挑戦の延長線上にある到達点だった。鹿島の経営史における最大の到達点の一つである。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
霞が関ビルと業界初の受注高1兆円達成
1968年4月、鹿島は三井不動産の霞が関三井ビルを完成させた。地上36階・高さ147メートルは日本初の本格的超高層ビルであり、地震の多い日本で耐震技術を確立するという課題を正面から乗り越えた成果だった。この1棟が都市開発の幕開けとなり、以後の超高層ビル受注を呼び込み、現在でも超高層ビルの施工実績は業界で最大である。1971年には定款を変更して開発事業を追加し、1977年着工の志木ニュータウンがデベロッパーとしての初の本格的事業となった。建設請負に加えて不動産開発を手がけるこの判断は、半世紀後に開発事業が利益の柱へ成長する出発点だった。つまり請負型ビジネスの景気変動リスクを意識し、早い時期から開発事業に布石を打ったこの経営判断が、後年の収益構造多様化の骨格を先取りしていた。
建設業の枠を超えた事業展開は、1975年に鹿島守之助会長が没した後、1978年に女婿の石川六郎が社長に就任してから加速した。石川は低成長期に対応して経営体質を改善するため、TQC(総合的品質管理)の導入を基本課題に据え、製造業で実績のあった品質管理手法を建設業に持ち込んだ。収益は1980年度から上向き、1981年度には業界初の受注高1兆円を達成し、業界内での鹿島の地位を固めた。1982年にはデミング賞実施賞を受賞し、受注規模と品質管理の両面で業界をリードする存在として広く認知された。低成長期の経営課題に品質管理の手法で応えたこの取り組みが、1980年代後半のバブル経済下での受注拡大に直結する基盤となった。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
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1990年〜2014年ゼネコン汚職と営業利益率1%の低収益構造
ゼネコン汚職と150年続いた創業家経営の終幕
1980年代後半のバブル経済下で不動産開発事業にも進出し、1986年度の売上高は初めて1兆円台を突破した。業績が続伸する中、1990年6月に鹿島昭一が社長を退き、鹿島家以外の出身者として初めて宮崎明が社長に就任した。1991年2月には長期経営計画KE21を策定して「快適環境創造企業」を掲げ、4つの総事業本部体制に移行するとともに、会社の通称を「鹿島」に変更して新しい時代のイメージを示した。1840年の創業以来150年間続いた創業家経営が終わり、プロフェッショナル経営への転換が始まり、組織運営の基準は血縁から能力主義へ移った。つまりこの交代は社長交代にとどまらず、創業家の求心力に頼らない組織的な経営体制への本質的な移行だった。
しかし1993年、茨城県庁舎移転新築工事等に絡んで副社長の清山信二が元茨城県知事に2,000万円を供与した贈賄事件が発覚し、逮捕・起訴された。建設省や地方自治体から指名停止処分を受け、同年にゼネコン4社が関与した一連の汚職事件として社会的影響は大きく、建設業界全体が官民癒着体質の見直しを迫られた。鹿島は業務刷新委員会を新設して再発防止策に取り組み、1996年に梅田貞夫が社長に就任してゼネコン汚職後の経営再建に取り組んだ。プロフェッショナル経営への移行直後に発覚したこの事件は、150年続いた創業家経営からの円滑な移行を中断させ、業界の信頼回復と収益力の回復という二重の課題を新体制に突きつけた。
営業利益率1% ── 受注「世界一」の実態
汚職事件の傷を抱えながらも受注高は業界トップ水準にあったが、収益力は伴わなかった。建設業就業者が1997年の685万人から2010年の498万人へ減少する一方で建設企業数は約47万社と過剰なまま残り、少ない案件を巡る価格競争が横行する「負のスパイラル」が常態化していた。鹿島の営業利益率はFY07で0.96%、FY08で1.01%と1%前後で低迷し、連結売上高1兆9,485億円に対して営業利益は197億円(FY08)にとどまった。つまり受注高世界一の看板と収益構造の乖離を示す数字であり、技術蓄積が収益に結びつかないという構造問題が露呈した。2005年に中村満義が社長に就任し、リーマン・ショック前後の経営を担ったが、業界構造の問題は一社の努力で解消できるものではなかった。
2009年3月期にはリーマン・ショックの影響で特別損失が膨らみ、初の連結純損失(▲63億円)を計上した。翌2010年3月期には売上高が1兆6,374億円とピークから16%減少し、販管費を吸収できず初の連結営業赤字(▲68億円)に転落した。これは創業170年の歴史で初の事態だった。その後FY10〜14も営業利益は127〜295億円の低水準にとどまり、利益率1%前後の低収益構造は2014年まで約20年間続いた。20年に及ぶ低収益期は、技術蓄積と受注規模をもつ鹿島にとって事業構造そのものの見直しを迫り、ゼネコン業界全体が抱える過当競争の構造問題を代表する事例ともなった。その長期停滞からの脱出には、2011年以降の震災復興需要と労働市場の構造変化という外的要因を待つ必要があった。
直近の動向と展望
営業利益が3年で12倍になった構造的要因
2011年の東日本大震災以降、復興需要と東京五輪関連投資で建設需要が回復したのに対し、技能労働者の高齢化と若年層の建設業離れが深刻な供給制約を生み、需給ギャップが拡大した。よって需要が供給を上回る構造が定着し、ゼネコン各社は採算の悪い案件を断る「選別受注」が可能になり、資材価格の上昇分を発注者に転嫁する価格交渉力も手にした。鹿島の営業利益はFY14の127億円からFY15に1,111億円、FY16に1,554億円へと3年で急伸した。売上高は1兆7,427億円から1兆8,218億円への微増にすぎず、利益率が0.75%から8.5%へ構造的に改善した。すなわち、過当競争の終焉と労働力の構造不足という市場環境の変化が、長年続いた低収益構造を数年で反転させた点に、収益回復の本質があった。
この収益構造の転換は、景気循環ではなく労働力の構造的不足に支えられている点で、バブル期の一時的な好況とは質が異なった。2024年4月施行の時間外労働上限規制は供給制約をさらに強め、鹿島を含むゼネコン各社の価格交渉力を後押ししている。FY24の連結売上高は2兆9,118億円、営業利益は1,519億円に到達し、過去の低収益期との差は明白となった。その理由は、売上高がFY07比1.5倍に対し営業利益が84倍へ拡大したように、量ではなく質の改善が2015〜2024年の利益成長を支えた点にある。2015年以降は、鹿島にとって「受注世界一」の看板と実際の収益力がようやく一致した時期であり、20年に及ぶ低収益期の清算を意味する構造転換だった。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY24(2025/5)
- 決算説明会 FY25-2Q(2025/11)
- 決算説明会 FY25-3Q(2026/2)
- 経済界ウェブ 2021/9
- 時事ドットコム 2026/3
- KAJIMAダイジェスト 2015/7
開発事業1兆2,000億円 ── 建設の外に利益源を持つ
2015年に就任した押味至一社長は「施工現場が当社にとって最重要部署であり主役」(KAJIMAダイジェスト 2015/7)と現場第一主義を掲げる一方、中期経営計画(2018〜2020)で開発事業を中心に3年間5,000億円の投資計画を示した。建設請負だけに依存しない収益構造への転換が狙いで、請負業の景気変動リスクを開発事業の資産収益で緩和するポートフォリオ経営が目標となった。米国では子会社Core5を通じて流通倉庫の開発・売却を短期回転型で手がけ、年間15件程度の売却でキャッシュを回収しながら再投資する仕組みを組み上げた。欧州では太陽光発電施設を中心に18件・発電総量1,300MWの再エネ開発を手がけ、開発・売却型の事業モデルで収益を上げている。2025年2月時点で国内外合算の開発事業資産残高は約1兆2,000億円に達した。
2024年7月には米国建設会社ロジャーズ・ビルダーズ(年間売上高約800億円)を買収し、海外建設事業のポートフォリオも拡充した。海外建設と海外開発の両面を同時に手がけるのは、請負とストックの二つの収益源を海外でも確保する狙いに沿った布石である。中期経営計画(2024〜2026)では2026年度当期純利益1,300億円以上を目標に掲げ、3年間の株主還元は当初2,000億円から2,300億円に引き上げて株主価値の向上を加速させている。国内建設の利益率向上と海外開発事業の利益拡大を両輪とし、連結当期純利益1,500億円の早期達成を目指す方針が示されており、開発事業資産の積み増しと財務規律の維持を両立させる経営姿勢が貫かれている。過去の低収益構造からの脱却は、新しい収益モデルとして定着しつつある。
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- KAJIMAダイジェスト 2015/7
社長急逝と現場重視の継承
2021年に就任した天野裕正社長はDX・自動化施工・脱炭素を経営の柱に据え、技術蓄積を次世代の競争力に転換する方針を示した。成瀬ダムでは自動化施工技術「クワッド・アクセル」により遠隔操作での配置人員削減と24時間施工を実現し、「現在保有している有効な特許の数は建設会社の中で一番です」(経済界ウェブ 2021/9)と語った。半導体・医薬品関連の生産施設やデータセンターの建設需要を成長ドライバーに位置づけ、再開発・原子力関連など多様な分野で案件を獲得した。単体建築の売上総利益率は10%を超え、12〜13%も視野に入る水準まで改善が進んだ。その結果、過当競争時代には考えられなかった利益率水準が、現場発のDXと選別受注によって現実のものとなりつつあった。
しかし2026年1月に天野が急逝し、前任の押味至一が暫定的に社長に再任するという異例の事態となり、現場重視の経営姿勢の継承が急務となった。同年6月には現場35年のキャリアを持つ桐生雅文が社長に就任予定で、「受け継いだ技術を次世代に伝承することは経営の軸の一つだ」(時事ドットコム 2026/3)と述べ、技術伝承を経営の中心に据える方針を示している。天野が進めた技術革新と押味が整えた開発事業の投資路線は新体制でも継承される見通しで、土木の売上総利益率は16%以上の維持を目指す方針が示されている。186年の歴史を持つ鹿島建設は、技術と現場を軸にした経営哲学を世代交代のなかで継承しつつ、請負と開発の両輪による収益構造のもとで次の成長段階へ向かおうとしている。
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