清水建設の最初の110年は、腕の立つ棟梁が請負業者へ変わっていく過程というより、代替わりのたびに当主を失う家業が、それでも得意先を手放さずに済む仕組みを探した過程であった。初代清水喜助から4代満之助まで、当主の座は三度にわたって婚姻で継がれ、3代満之助は店を継いだ6年後に夭折している。技能は弟子に、得意先は番頭に蓄えられ、当主だけが入れ替わる。この構造で店が割れずに残ったのは、支配人の原林之助が日々の采配を引き受け、渋沢栄一が外から路線を定めるという、家の外へ経営を預ける仕掛けが働いたからである。清水屋という屋号が110年もったのは、当主が強かったからではなかった。
渋沢栄一が与えた「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」という指針は、清水店の受注先を官庁から民間へ寄せただけではない。発注者の都合で工事量が上下する受注産業で、値段ではなく施工で選ばれる店を作れという要求でもあった。日清戦争後の好景気にも暴利を戒めた清水店は、1903年に店員81人と本店の新築を得たあと、アメリカから持ち帰った鉄骨の図面をもとに、1907年の丸善本店で日本最初の純鉄骨構造に届いている。信用を守る方針と、新しい構造へ先に手を出す姿勢は、同じ計算の裏表であった。次の不況で残るのは、安さで選ばれた店ではなく、他が施工できないものを施工できる店である。
1804年、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏は22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開業した。開業まもない時期は、昼に日本橋あたりの商店の仕事へ呼ばれ、夜は日用の家具を作って売って日々の糧を得ていた。町家や商家の請負で評判を得ると裏店を出て、表通りの神田新石町に店と仕事場を構え、屋号を"清水屋"として多数の弟子を養った。江戸後期は町人が富を蓄えて商家や町家の建築需要が広がり、腕一つの職人が民間の施主から直に普請を請け負う余地が生まれていた。神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町で、地方から出た棟梁が民間の仕事を取り込める街区であった。
1859年の横浜開港にあたり、家業を承継した2代清水喜助氏は横浜店を出店した。得意先だった大老・井伊直弼氏の執りなしで開港の準備を一手に引き受け、幕府の諸施設と居留地の外国商館の建築を任された。江戸の弟子衆もこの転身に同行し、古参の職人は東京の得意先を他の出入り大工へ譲って横浜へ移った。居留地の商館は規模も構造も建材も在来の工法とは異なり、棟梁は外国人技師の図面を読みながら煉瓦造やトラス構造を現場で覚えた。官の御用に連なる格式ではなく、外国商人という民間の施主と直に向き合う仕事が、開港地では大量に生まれていた。
2代清水喜助氏は築地ホテル館を手がけたのち、1872年に三井組大番頭・三野村利左衛門氏の下命で第一国立銀行を担った。銀行建築を見たことのないまま自前で設計し、明治初期を代表する擬洋風建築として技術を世に示した。第一国立銀行は三井組ハウスの名でも呼ばれ、明治初期の東京を代表する建物として知られた。明治中期に入ると建築の規模と構造が複雑になり、棟梁の経験だけでは設計と施工の品質を保ちにくくなった。清水組は1886年7月に工学士を招いて技師長制を発足させ、図面を引く技術者と現場を結ぶ体制を同業に先んじて整えた。
1881年8月に2代清水喜助氏が没すると、店は横浜店と東京店に分かれ、前者を女婿の3代清水満之助氏が、後者を同じく女婿の武治氏が継いだ。ほどなく東京店は横浜店に吸収され、清水満之助本店として一本に戻った。分裂と再統合が数年のうちに起きたのは、清水屋が屋号と得意先を持つ商家でありながら、家督を継ぐ男子を欠いていたためであった。初代喜助氏の跡を継いだ2代喜助氏も、弟子の藤沢清七氏が女婿となって襲名した人物であり、3代満之助氏も武士の出の村田家から入った婿であった。技能は弟子に、得意先は番頭に蓄えられ、当主の座だけが婚姻で継がれた。この構造が、次に当主を失ったときの備えの薄さをそのまま残した。
3代清水満之助氏は洋学を修めた人物で、1881年に店を継ぐと、従来の大福帳を当時まだ珍しかった複式簿記へ切り替え、力のある店員を場所掛に任じ、店員の服装を背広に改めた。洋式簿記の採用と海外視察を軸とする進歩的な経営は、この代に始まる。1886年に発足させた技師長に就任したのは、工部大学校造家学科を出た造家学士の坂本復経氏である。同学科の卒業者が建設業者に迎えられたのは坂本氏が最初で、大学で建築を学んだ技術者を店の内側に抱える体制は同業に先んじた。満之助氏は坂本氏を伴って米英仏独を視察し、1887年に帰国している。棟梁の腕と口約束で回してきた商いへ、帳簿・職階・設計という三つの器を同時に持ち込んだ数年であった。
初代喜助氏の孫にあたる原林之助氏が支配人、女婿の清水釘吉氏が営業監督という布陣が敷かれたのは、1887年に満之助氏が夭折し、跡を継いだ4代満之助氏がまだ年少だったからである。顧問には第一国立銀行を設立した渋沢栄一氏が招かれ、店の再建に手を貸した。当主が幼く番頭が采配を振るう店にとって、官の御用に頼らず民間の施主から仕事を取るという路線は外部の人物が与えたもので、渋沢氏の指針は「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」というものだった『御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ』。1889年には相談役となった渋沢氏を招いて謝意を表す宴を開き、これが毎年得意先をもてなす宴会の慣例の始まりとなった。
渋沢栄一氏の定めた民間工事の路線は、受注の取り方にそのまま降りた。清水店は日清戦争後の好景気にあっても『暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する』という方針を崩さず『暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する』、名古屋・京都・大阪に出張店を開設して商圏を広げ、明治中期には建築では東京随一との評価を得た。店員数は1875年にわずか8人だったものが、1903年には81人へ増えている。同年、清水店は京橋南鞘町に木造2階建の本店を新築して移った。創業から100年目にあたるこの年には百年祭を挙行し、記念品に染め抜いた丸喜の印を、以後の正式な店章と定めている。好景気に値を吊り上げない方針は、目先の利幅を捨てて次の不況での取引継続を買う選択であった。
営業監督として店の実務を担った清水釘吉氏は、シカゴのウイリアム・バーナム社からホテル・フィラデルフィアの鉄骨図面を譲り受け、これを日本へ持ち帰った。当時の日本の建築様式はなお煉瓦造の時代で、アメリカでは鉄骨・鉄筋コンクリート造への移行が進んでいた。清水店はこの図面をもとに鉄骨建築へ着手する。1907年に着工した日本橋の丸善本店3階建は、日本で最初の純粋な鉄骨構造の建物となり、床も鉄筋コンクリート造とされた。設計は佐野利器博士が2年を費やした苦心の作である。煉瓦造の職人技で競っていた市場に、図面と構造計算で競う領域を先に作った判断であった。
信用を資産とする商いは、それを担う人の層に支えられた。1904年からの日露戦争には清水釘吉氏と清水一雄氏の両幹部がそろって出征し、戦後の好景気で建築熱が高まると、のちに清水組の主力となる内山熊八郎氏や福島政吉氏らがこの時期に入店した。1908年には九州・博多に出張所を設け、その後の九州進出の足場としている。日露戦争後は清水店の商圏が全国へ広がり、朝鮮にまで及んだ。この層を作ったのが支配人の原林之助氏で、得意先の門前を通るときは必ず脱帽したと伝えられ、死の数日前にも『店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事』と題した訓示を店員に残した『店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事』。原氏は1912年11月、大阪出張中に心臓麻痺で倒れ、56歳で没した。
合資会社清水組の33年間は、建築の注文が三度にわたって断たれた期間であり、そのたびに清水組が守ったのは工事量ではなく人と信用のほうであった。第一次大戦後の資材暴騰では、請け負った工事を欠損しても完成させた。昭和恐慌では店員1,000名に定年制を敷いて減らす一方、賞与を同族の私財から出し、1928年には経営を縮小しながらなお76人を採っている。敗戦の年には外地の工事をすべて失い、軍関係工事の未収金も戦時補償の打ち切りで消えたが、広島から九州まで支店を増やし、社員を一人も解雇しなかった。
この選び方の根拠は、建設業が受注産業であることに尽きる。発注も工期も施主が決めるため、工事量は自社の努力では平準化できず、均せるものは信用しかない。永年かけて築いたのれんが、この業界では最も高価な資産になる。だとすれば、不況期に削減してよいのは利益であって、施工を担う人と、工期を守るという評判ではない。1929年に東京帝国大学の佐野利器を無限責任社員として迎え、1937年に株式会社へ改組し、1944年に業界最古の研究所を設けた一連の手も、同じ資産を別の面から積み増す動きであった。
清水店の従業員はすでに259名を数え、個人経営のままでは請け負う仕事の大きさに見合わなくなっていた。1914年に第一次世界大戦が始まると日本の産業界は景気づき、建設業界にも国の内外から注文が押し寄せた。こうして1915年10月、宗家の清水満之助氏を中心とし、釘吉氏・一雄氏・揚之助氏の三分家が出資社員となって資本金100万円の合資会社清水組が生まれ、社長には清水釘吉氏が就いた。改組は同族の外へ資本を開放するものではなく、家と分家の出資を会社という器へ移し替えるものであった。この清水組という名は、戦後に清水建設へ改めるまで、ひろく国民のあいだで通った。
施主の都合が発注の時期も工期も決める受注産業である建設業は、景気がよければ工事量が一気に増える一方、景気が悪ければ仕事を確保するのに苦しむ。大戦の終結とともに建築資材と職人の手間賃が急騰し、多方面の工事を抱えていた清水組は値上がりをまともに受けながらも、赤字になる工事を一つ残らず仕上げた。休戦条約が結ばれると、大戦景気の反動で株価が暴落し、企業の不況はどん底に落ちた。こうした波をならして、いつでも安定して仕事を得る手立ては信用しかなく、長年かけて築いた『のれん』こそが最も値の張る資産である『所謂「のれん」は最も高価な資産であります』。欠損を呑んで工期を守る判断は、その資産を目減りさせないための代価であった。
1923年9月1日の関東大震災で、東京の家屋の6割5分が焼失・倒壊した。重要書類を小石川の清水一雄氏宅へ移し、実業之日本社ビル内に仮本店を構えた清水組は、同日午後8時に鞘町本店が炎上したあとも、焼跡にテントを張って翌2日には営業を始めた。本社の建物をなくしたまま、間借りで帝都の復興に取り組んだ。応急工事の最初の注文主は東海銀行で、復興工事は東京市内だけで内閣印刷局工場や富士瓦斯紡績工場など約430余件に及び、横浜でも東京電灯をはじめ57カ所を請け負った。1920年3月に着工していた東京会館は震災で大きく損なわれ、店長の清水釘吉氏はその責任を重く受け止めて、復旧にかかる費用の半分を引き受け、1927年に完成させた。
大正末期から続いた不況は、1929年のアメリカ株式大暴落による世界恐慌で決定的となり、内務省の統計でも全国の失業者数は30万に達した。清水組は1927年にまず職制を改革し、清水釘吉氏は店長から社長となって、内山熊八郎氏をはじめとする幹部が赤字対策に奔走した。当時の店員は1,000名に達していたが、定年制を敷いて人員を減らす一方、賞与などは同族の私財から支出するという有様であった。1931年には一部店員の整理も行い、残す者には予備員制度を設けて本俸の8割を支給している。それでも1928年には経営を縮小しながら76人の新社員を採用しており、人を全部は手放さなかった。創業以来の危機を職制の改革で切り抜けたと後年の記録は記す。
恐慌下の清水組は、機構を改め経営を引き締める努力を重ねていた。その只中の1929年11月、清水釘吉氏は第一銀行頭取 佐々木勇之助氏の勧めに応じ、東京帝国大学建築学科で主任教授の職にあった佐野利器氏を無限責任の社員に加えた。佐野氏には副社長の地位が与えられた。入社した佐野氏がまず手を付けたのは、技術水準の引き上げと経営の合理化である。出資社員を同族だけで固めていた合資会社に学界の技術者を無限責任の社員として据えたことで、削る対象と残す対象を同族の情実から離れて決める道も開けた。同じ1929年には、東京の地下鉄工事と天竜川流域の泰阜水力発電所工事を、競り合った数多くの入札者を退けて受注し、土木部の転機とした。建築で得た信用を土木の分野へ持ち込めるかどうかが、このころの清水組の課題となった。
聖路加病院は1928年に着工し、完成までに10年以上かかった工事である。資金が詰まった1931年の暮れ、施主側が好意で前渡しした10万円は、翌日には店員への賞与に回された。長い工期がそのまま賃金を払う元手になった形である。恐慌の底にあった清水組を支えたのは、同族の私財と得意先の好意だった。同じ1931年には、明治・大正期の経済界を導き、清水組にとって4代60年にわたり育ての親であった渋沢栄一氏が92歳で亡くなった。翌1932年7月、清水組は震災前の鞘町本店とほぼ同じ位置にあたる宝町に本社を新築し、丸ビルから移転した。関東大震災での焼失以来、初めて自前の本社に戻ったことになる。
1937年8月、清水組は資本金1,000万円の株式会社清水組として新発足し、合資会社清水組を合併した。無限責任社員の出資で回していた器を株式会社へ改めたのは、昭和7年ごろから業界が好転して事業が順調になり、工事の大型化に見合う資本の調達が要ったためである。同じ時期、日中戦争の拡大とともに清水組は大陸へ出た。天津・青島・北京、さらに上海方面で軍関係・工場・満鉄関係の工事を請け負い、1938年には北京に北支支店を置き、1940年には満洲国法によって満洲清水組を設立している。1940年の紀元2600年記念式典では宮城前の祝典式場を施工し、これを契機に清水釘吉氏は第一線を退いて相談役となり、清水康雄氏が社長に就任した。
建設業者全体を見ると、1941年の国家総動員法、1942年の企業整備、1943年の労務報国会、1945年の戦時建設団設立と段階を追って請負営業の自由は大きく縛られ、半ば直営工事の手伝いのような立場で陸海軍や軍需工場の工事を担った。清水組も陸海軍協力会に入り、そのうち他の建築会社とひとまとめにされて戦時建設団へ組み込まれていった。戦局が厳しくなるにつれて工事の量は減ったが、1944年には業界で最も古い研究所を設けている。米軍機による本土空襲は1944年11月ごろに始まり、1945年1月には本社も爆撃された。全国の支店・出張所や社員の住宅が相次いで焼け、本社の機構も散り散りに疎開するほかなくなった。
軍関係の工事で受け取るはずだった残高は戦時補償の打ち切りで棚上げになり、政府工事の代金の支払いも遅れた。外地の工事は敗戦で失われ、清水組が頼れるのは内地の仕事だけになっていた。外地からは社員が戻ってきたが、本格的な工事はほとんどなかった。大手業者にとって、この時期はむしろ苦しい時代であった。清水組はここで積極策を採り、広島・仙台・北陸・四国・北海道・九州と新たに支店網を拡充して工事の入手に努め、社業を縮小せず、社員を一人も解雇しなかった。世田谷には1,600坪の『砧・清水村』を建設し、社員の住宅難に応急の措置を取っている。受注の当てが無い時期に人と拠点を増やす判断は、次の需要が戻ったときに受けられる体を残す賭けであった。
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|---|---|---|---|---|
| 1804〜1914年神田鍛冶町の裏店に開いた大工業が、渋沢栄一の定めた民間建築の路線に行き着くまで | 絵草紙屋の裏店からの創業と、渋沢栄一氏による民間建築工事への事業展開 文化元年(1804年)、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏が22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開業した。町家や商家の請負で評判を得て表通りの神田新石町に店を構え、屋号を"清水屋"として弟子を養った。以後110年余の個人営業を経て、1915年に資本金100万円で合資会社清水組として法人化し、近代企業への歩みを進めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 技師長制を発足し設計・施工一貫態勢を整備 | ★ | |||
| 渋沢栄一を相談役に迎え民間建築方針を確定 | ★★ | |||
| 1915〜1947年合資会社清水組の発足から株式会社化と全国支店網、戦時と終戦後の再開 | 清水組を設立し会社組織に変更 | ★ | ||
| 東京鐵骨橋梁製作所を設立 | ★ | |||
| 清水組を設立 | ★ | |||
| 清水組を合併し全国支店網を整備 | ★ | |||
| 終戦後本社社屋で業務再開 | ★ | |||
| 研究室を新設 | ★ | |||
| 1948〜1977年清水建設への改称と上場、初の非同族社長と高度成長期の量産化 | 清水建設に商号変更 | ★ | ||
| 土木部門を強化 | ★ | |||
| 株式を東京店頭市場に公開 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 吉川清一 | 非同族社長の就任 | ★★ | ||
| 吉川清一 | 量産住宅用PC板製造工場を新設 | ★ | ||
| 吉川清一 | 不動産取引に関する業務を事業目的に追加 | ★ | ||
| 野地紀一 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 1978〜2008年EC化とTQC導入、シミズスプリング計画で業界首位に返り咲きSHIMZ-21へ | 野地紀一 | EC化(エンジニアリング・コンストラクター化)を決定 | ★★ | |
| 野地紀一 | TQCを本格導入 | ★ | ||
| 野地紀一 | EC化に備えるため定款の事業目的を追加 | ★ | ||
| 野地紀一 | 10年ビジョン「シミズスプリング計画」を策定 | ★ | ||
| 野地紀一 | シミズリフォームを設立 | ★ | ||
| 野地紀一 | 初の無担保転換社債500億円を発行 | ★ | ||
| 今村治輔 | 業界トップの業績を回復 | ★ | ||
| 今村治輔 | 定款の事業目的を追加 | ★ | ||
| 今村治輔 | 多角化路線の撤回と本業回帰 1991年2月、清水建設は今村治輔社長のもとで90年代の経営指針となる新長期ビジョン"SHIMZ-21"を策定し、1985年に打ち出した多角化路線を撤回して建設本業への回帰を宣言した経営判断。同時に受注シェアで劣勢だった関西地区の強化にも乗り出した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 今村治輔 | 本店を移転 | ★ | ||
| 今村治輔 | 東京支店・土木東京支店開設 | ★ | ||
| 野村哲也 | 定款の事業目的を追加 | ★ | ||
| 野村哲也 | 清水総合開発を設立 | ★ | ||
| 野村哲也 | 定款の事業目的を追加 | ★ | ||
| 2009〜2026年初の連結純損失からの立て直し、日本道路の買収と洋上風力のSEP船 | 宮本洋一 | 国際支店開設 | ★ | |
| 宮本洋一 | 初の連結純損失を計上 | ★★ | ||
| 宮本洋一 | 本社を移転 | ★ | ||
| 宮本洋一 | 定款の事業目的を追加 | ★ | ||
| 井上和幸 | 日本道路を株式公開買付けにより子会社化 | ★★ | ||
| 井上和幸 | SEP船「BLUE WIND」完成 | ★ | ||
| 井上和幸 | 初の連結営業損失を計上 | ★★ | ||
| 新村達也 | 新村達也が第10代社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(清水建設)