清水建設 の歴史

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創業 1804年
創業者 清水喜助
創業地 江戸神田鍛冶町
創業 1804年、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏が22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の
1804年、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏が22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住み、銀三分を元手に大工業を創業した。町家と商家の請負で評判を得ると表通りの神田新石町へ移り、屋号を清水屋として弟子を養った。1859年の横浜開港では2代喜助氏が横浜店を開設し、外国商館の建築で煉瓦造やトラス構造を現場で覚えている。1872年には三井組大番頭・三野村利左衛門氏の下命で第一国立銀行を手がけた。1886年7月には工学士を招いて技師長制を発足させ、翌1887年、3代店主の急逝を受けて相談役となった渋沢栄一氏が営業の方針を"民間の建築工事"と定める。個人営業は1915年10月の合資会社清水組設立まで110年余続き、1937年8月に株式会社清水組、1948年2月に清水建設となった。
決断 非建設事業で収益の3割超を占める目標を、40年のあいだに二度掲げた。一度目は19
非建設事業で収益の3割超を占める目標を、40年のあいだに二度掲げた。一度目は1985年5月の"シミズスプリング計画"で、本業以外の比率を5%から10年で35%へ引き上げる構想だった。1978年7月に決めたEC化で企画から維持保全までを請け負う体制へ移り、清水不動産やシミズリフォームを相次いで設立している。だがバブル崩壊で前提が崩れ、1991年2月の新長期ビジョン「SHIMZ-21」が開発・エンジニアリング・海外・新規の4事業を本業を支える位置へ下げた。二度目のSHIMZ VISION 2030は2030年度に非建設で連結収益の35%を掲げ、今度は自社開発ではなく買収で進めている。2022年3月に道路舗装の日本道路を株式公開買付けで子会社化し、2026年には海洋土木のあおみ建設を約250億円で取得した。
現況 当期純利益が営業利益を上回るのは、保有資産の売却益が積み上がったからである。20
当期純利益が営業利益を上回るのは、保有資産の売却益が積み上がったからである。2026年3月期の連結売上高は2兆578億円、営業利益1,187億円に対し、特別利益964億円を計上して当期純利益は1,266億円となった。セグメントでは当社建設事業が売上1兆4,778億円に対し利益907億円で6.1%、当社投資開発事業が526億円に対し167億円で31.8%、2022年に加えた道路舗装事業が1,557億円に対し106億円である。地域別は日本1兆8,480億円に対しアジア1,646億円・その他452億円で、海外は1割強にとどまる。2024年3月期には資材高と労務費の高騰で上場来初の連結営業損失247億円を出したが、不採算工事の消化とともに請負の採算は2026年3月期に戻った。
競合 同じ最大手でも、清水建設は民間建築の景気をそのまま損益へ映してきた。渋沢栄一氏が
同じ最大手でも、清水建設は民間建築の景気をそのまま損益へ映してきた。渋沢栄一氏が1887年に定めた民間主体の路線は、都市の建築ブームと噛み合った1990年3月期に売上高・受注高・経常利益の三冠を生んだ一方、スライド条項の置かれない民間工事では資材の上昇分を自社が負担する。関西では1991年時点の受注シェアが13%台にとどまり、竹中工務店の35%と大林組の32%に及ばず、近畿営業本部を新設して立て直しに入った。官需の土木を早くに備えた鉄道専業へ転じた鹿島建設や、財閥解体で創業家を離れた社員の会社となった大成建設とは、顧客の構成そのものが違う。2022年の日本道路と2026年のあおみ建設の取得は、この振れを請負の外側で埋める手当てにあたる。
長期業績の推移 1957〜2026年
清水建設:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1804年〜 神田鍛冶町の裏店に開いた大工業が、渋沢栄一の定めた民間建築の路線に行き着くまで

筆者考察y.sugiura, author

清水建設の最初の110年は、腕の立つ棟梁が請負業者へ変わっていく過程というより、代替わりのたびに当主を失う家業が、それでも得意先を手放さずに済む仕組みを探した過程であった。初代清水喜助から4代満之助まで、当主の座は三度にわたって婚姻で継がれ、3代満之助は店を継いだ6年後に夭折している。技能は弟子に、得意先は番頭に蓄えられ、当主だけが入れ替わる。この構造で店が割れずに残ったのは、支配人の原林之助が日々の采配を引き受け、渋沢栄一が外から路線を定めるという、家の外へ経営を預ける仕掛けが働いたからである。清水屋という屋号が110年もったのは、当主が強かったからではなかった。

渋沢栄一が与えた「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」という指針は、清水店の受注先を官庁から民間へ寄せただけではない。発注者の都合で工事量が上下する受注産業で、値段ではなく施工で選ばれる店を作れという要求でもあった。日清戦争後の好景気にも暴利を戒めた清水店は、1903年に店員81人と本店の新築を得たあと、アメリカから持ち帰った鉄骨の図面をもとに、1907年の丸善本店で日本最初の純鉄骨構造に届いている。信用を守る方針と、新しい構造へ先に手を出す姿勢は、同じ計算の裏表であった。次の不況で残るのは、安さで選ばれた店ではなく、他が施工できないものを施工できる店である。

店員数(清水店) 1875年〜1914年(人)

8 1875 81 1903 259 1914

1804年〜銀三分の元手と、横浜居留地で覚えた洋式の工法

1804年、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏は22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開業した。開業まもない時期は、昼に日本橋あたりの商店の仕事へ呼ばれ、夜は日用の家具を作って売って日々の糧を得ていた。町家や商家の請負で評判を得ると裏店を出て、表通りの神田新石町に店と仕事場を構え、屋号を"清水屋"として多数の弟子を養った。江戸後期は町人が富を蓄えて商家や町家の建築需要が広がり、腕一つの職人が民間の施主から直に普請を請け負う余地が生まれていた。神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町で、地方から出た棟梁が民間の仕事を取り込める街区であった。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [1]創業者 越中富山出身の宮大工・清水喜助(開業時22歳)
    • [2]1804年 江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店で銀三分を元手に大工業を開業
    • [3]開業当初は昼に日本橋の商店の仕事、夜は日用の家具の製作と販売
    • [4]神田新石町に店と仕事場を構え屋号「清水屋」として弟子を養う
    • [5]江戸後期 町人の蓄財による商家・町家の建築需要の広がり
    • [6]神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町

1859年の横浜開港にあたり、家業を承継した2代清水喜助氏は横浜店を出店した。得意先だった大老・井伊直弼氏の執りなしで開港の準備を一手に引き受け、幕府の諸施設と居留地の外国商館の建築を任された。江戸の弟子衆もこの転身に同行し、古参の職人は東京の得意先を他の出入り大工へ譲って横浜へ移った。居留地の商館は規模も構造も建材も在来の工法とは異なり、棟梁は外国人技師の図面を読みながら煉瓦造やトラス構造を現場で覚えた。官の御用に連なる格式ではなく、外国商人という民間の施主と直に向き合う仕事が、開港地では大量に生まれていた。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [7]1859年 横浜開港に伴い2代清水喜助が横浜店を開設
    • [8]大老・井伊直弼の執りなしで開港準備を引き受け幕府諸施設と外国商館を建築
    • [9]江戸の弟子衆が横浜へ同行し古参職人は東京の得意先を他の大工へ譲渡
    • [11]開港地で外国商人という民間の施主と直接向き合う仕事が拡大
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [10]居留地の外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造など西洋建築技術を習得

2代清水喜助氏は築地ホテル館を手がけたのち、1872年に三井組大番頭・三野村利左衛門氏の下命で第一国立銀行を担った。銀行建築を見たことのないまま自前で設計し、明治初期を代表する擬洋風建築として技術を世に示した。第一国立銀行は三井組ハウスの名でも呼ばれ、明治初期の東京を代表する建物として知られた。明治中期に入ると建築の規模と構造が複雑になり、棟梁の経験だけでは設計と施工の品質を保ちにくくなった。清水組は1886年7月に工学士を招いて技師長制を発足させ、図面を引く技術者と現場を結ぶ体制を同業に先んじて整えた。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [12]築地ホテル館の施工
    • [13]1872年 三野村利左衛門の下命で第一国立銀行を建築
    • [14]洋行経験のないまま自前で設計し擬洋風建築として技術を示す
    • [15]第一国立銀行は三井組ハウスとも呼ばれた
    • [16]明治中期 建築の規模と構造の複雑化で棟梁の経験だけでは品質保持が困難
    • [17]1886年7月 工学士を招聘し技師長制を発足
参考文献[1]-[17]
  • 清水建設百五十年(1956)
    • [1]創業者 越中富山出身の宮大工・清水喜助(開業時22歳)
    • [2]1804年 江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店で銀三分を元手に大工業を開業
    • [3]開業当初は昼に日本橋の商店の仕事、夜は日用の家具の製作と販売
    • [4]神田新石町に店と仕事場を構え屋号「清水屋」として弟子を養う
    • [5]江戸後期 町人の蓄財による商家・町家の建築需要の広がり
    • [6]神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町
    • [7]1859年 横浜開港に伴い2代清水喜助が横浜店を開設
    • [8]大老・井伊直弼の執りなしで開港準備を引き受け幕府諸施設と外国商館を建築
    • [9]江戸の弟子衆が横浜へ同行し古参職人は東京の得意先を他の大工へ譲渡
    • [11]開港地で外国商人という民間の施主と直接向き合う仕事が拡大
    • [12]築地ホテル館の施工
    • [13]1872年 三野村利左衛門の下命で第一国立銀行を建築
    • [14]洋行経験のないまま自前で設計し擬洋風建築として技術を示す
    • [15]第一国立銀行は三井組ハウスとも呼ばれた
    • [16]明治中期 建築の規模と構造の複雑化で棟梁の経験だけでは品質保持が困難
    • [17]1886年7月 工学士を招聘し技師長制を発足
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [10]居留地の外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造など西洋建築技術を習得

1881年〜相続の断絶と、支配人・顧問への経営の委任

1881年8月に2代清水喜助氏が没すると、店は横浜店と東京店に分かれ、前者を女婿の3代清水満之助氏が、後者を同じく女婿の武治氏が継いだ。ほどなく東京店は横浜店に吸収され、清水満之助本店として一本に戻った。分裂と再統合が数年のうちに起きたのは、清水屋が屋号と得意先を持つ商家でありながら、家督を継ぐ男子を欠いていたためであった。初代喜助氏の跡を継いだ2代喜助氏も、弟子の藤沢清七氏が女婿となって襲名した人物であり、3代満之助氏も武士の出の村田家から入った婿であった。技能は弟子に、得意先は番頭に蓄えられ、当主の座だけが婚姻で継がれた。この構造が、次に当主を失ったときの備えの薄さをそのまま残した。

  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [18]1881年8月 2代清水喜助の逝去により横浜店を女婿の3代満之助、東京店を女婿の武治が継承
    • [19]まもなく東京店が横浜店に吸収され清水満之助本店となる
    • [20]2代清水喜助は初代の弟子・藤沢清七で、初代の女婿となり2代目を襲名
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [21]3代清水満之助は武士の出身(旧姓・村田)

3代清水満之助氏は洋学を修めた人物で、1881年に店を継ぐと、従来の大福帳を当時まだ珍しかった複式簿記へ切り替え、力のある店員を場所掛に任じ、店員の服装を背広に改めた。洋式簿記の採用と海外視察を軸とする進歩的な経営は、この代に始まる。1886年に発足させた技師長に就任したのは、工部大学校造家学科を出た造家学士の坂本復経氏である。同学科の卒業者が建設業者に迎えられたのは坂本氏が最初で、大学で建築を学んだ技術者を店の内側に抱える体制は同業に先んじた。満之助氏は坂本氏を伴って米英仏独を視察し、1887年に帰国している。棟梁の腕と口約束で回してきた商いへ、帳簿・職階・設計という三つの器を同時に持ち込んだ数年であった。

  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [22]3代清水満之助は武士の出身で洋学を学ぶ
    • [23]明治14年 家督相続と同時に大福帳を複式簿記へ切替、能力ある店員を場所掛に任命、服装を背広に改める
    • [25]明治19年 工部大学校出身の造家学士・坂本復経が入社し初代の技師長となる
    • [26]工部大学造家学科の卒業者で建設業者へ迎えられたのは坂本復経が最初
    • [27]満之助は坂本復経とともに米英仏独を視察し明治20年に帰国
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [24]3代満之助は洋式簿記を採用し海外を視察するなど進歩的経営を行う

初代喜助氏の孫にあたる原林之助氏が支配人、女婿の清水釘吉氏が営業監督という布陣が敷かれたのは、1887年に満之助氏が夭折し、跡を継いだ4代満之助氏がまだ年少だったからである。顧問には第一国立銀行を設立した渋沢栄一氏が招かれ、店の再建に手を貸した。当主が幼く番頭が采配を振るう店にとって、官の御用に頼らず民間の施主から仕事を取るという路線は外部の人物が与えたもので、渋沢氏の指針は「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」というものだった『御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ』。1889年には相談役となった渋沢氏を招いて謝意を表す宴を開き、これが毎年得意先をもてなす宴会の慣例の始まりとなった。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [28]原林之助は初代喜助の孫で、のちに清水店の支配人となる
    • [33]明治22年 相談役の渋沢栄一を感謝の宴に招き、以後毎年得意先を招く宴会を催す
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [29]年少の4代満之助を助けて原林之助を支配人、女婿の釘吉を営業監督とする
    • [30]3代清水満之助は明治20年に夭折
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [31]3代満之助の早世後、第一国立銀行の設立者でもある渋沢栄一を顧問に迎えて再建
    • [32]渋沢栄一の指針「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」に従い民間工事を続ける
参考文献[18]-[33]
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [18]1881年8月 2代清水喜助の逝去により横浜店を女婿の3代満之助、東京店を女婿の武治が継承
    • [19]まもなく東京店が横浜店に吸収され清水満之助本店となる
    • [20]2代清水喜助は初代の弟子・藤沢清七で、初代の女婿となり2代目を襲名
    • [24]3代満之助は洋式簿記を採用し海外を視察するなど進歩的経営を行う
    • [29]年少の4代満之助を助けて原林之助を支配人、女婿の釘吉を営業監督とする
    • [30]3代清水満之助は明治20年に夭折
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [21]3代清水満之助は武士の出身(旧姓・村田)
    • [31]3代満之助の早世後、第一国立銀行の設立者でもある渋沢栄一を顧問に迎えて再建
    • [32]渋沢栄一の指針「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」に従い民間工事を続ける
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [22]3代清水満之助は武士の出身で洋学を学ぶ
    • [23]明治14年 家督相続と同時に大福帳を複式簿記へ切替、能力ある店員を場所掛に任命、服装を背広に改める
    • [25]明治19年 工部大学校出身の造家学士・坂本復経が入社し初代の技師長となる
    • [26]工部大学造家学科の卒業者で建設業者へ迎えられたのは坂本復経が最初
    • [27]満之助は坂本復経とともに米英仏独を視察し明治20年に帰国
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [28]原林之助は初代喜助の孫で、のちに清水店の支配人となる
    • [33]明治22年 相談役の渋沢栄一を感謝の宴に招き、以後毎年得意先を招く宴会を催す

1895年〜信用を値段より上に置いた受注と、純鉄骨への一番乗り

渋沢栄一氏の定めた民間工事の路線は、受注の取り方にそのまま降りた。清水店は日清戦争後の好景気にあっても『暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する』という方針を崩さず『暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する』、名古屋・京都・大阪に出張店を開設して商圏を広げ、明治中期には建築では東京随一との評価を得た。店員数は1875年にわずか8人だったものが、1903年には81人へ増えている。同年、清水店は京橋南鞘町に木造2階建の本店を新築して移った。創業から100年目にあたるこの年には百年祭を挙行し、記念品に染め抜いた丸喜の印を、以後の正式な店章と定めている。好景気に値を吊り上げない方針は、目先の利幅を捨てて次の不況での取引継続を買う選択であった。

  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [34]日清戦争後の好景気の時代も「暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する」方針を貫く
    • [35]名古屋・京都・大阪に出張店を開店
    • [36]明治中期に「建築では東京随一」との評価を得る
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [37]店員数は明治8年の8人から明治36年の81人へ増加
    • [38]明治36年 京橋南鞘町に木造2階建の建物を新築し本店を移転
    • [39]明治36年 創業100年の百年祭を挙行し、記念品に染め抜いた丸喜のマークを正式な清水店のマークと定める

営業監督として店の実務を担った清水釘吉氏は、シカゴのウイリアム・バーナム社からホテル・フィラデルフィアの鉄骨図面を譲り受け、これを日本へ持ち帰った。当時の日本の建築様式はなお煉瓦造の時代で、アメリカでは鉄骨・鉄筋コンクリート造への移行が進んでいた。清水店はこの図面をもとに鉄骨建築へ着手する。1907年に着工した日本橋の丸善本店3階建は、日本で最初の純粋な鉄骨構造の建物となり、床も鉄筋コンクリート造とされた。設計は佐野利器博士が2年を費やした苦心の作である。煉瓦造の職人技で競っていた市場に、図面と構造計算で競う領域を先に作った判断であった。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [40]清水釘吉がシカゴのウイリアム・バーナム会社からホテル・フィラデルフィアの鉄骨設計図を譲り受け日本へ持ち帰る
    • [41]当時の日本の建築様式は煉瓦造の時代、アメリカは鉄骨・鉄筋コンクリート時代へ移行しつつあった
    • [42]持ち帰った図面をもとに清水が鉄骨建築に着手
    • [44]明治40年着工の丸善本店3階建は床も鉄筋コンクリート造で、佐野利器が2年をかけて設計
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [43]1907年施工の日本橋丸善はわが国最初の純鉄骨構造の建物

信用を資産とする商いは、それを担う人の層に支えられた。1904年からの日露戦争には清水釘吉氏と清水一雄氏の両幹部がそろって出征し、戦後の好景気で建築熱が高まると、のちに清水組の主力となる内山熊八郎氏や福島政吉氏らがこの時期に入店した。1908年には九州・博多に出張所を設け、その後の九州進出の足場としている。日露戦争後は清水店の商圏が全国へ広がり、朝鮮にまで及んだ。この層を作ったのが支配人の原林之助氏で、得意先の門前を通るときは必ず脱帽したと伝えられ、死の数日前にも『店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事』と題した訓示を店員に残した『店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事』。原氏は1912年11月、大阪出張中に心臓麻痺で倒れ、56歳で没した。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [45]明治37・38年の日露戦争に清水釘吉と清水一雄の両幹部が出征
    • [46]日露戦争後の好景気の時期に内山熊八郎・福島政吉などのちの清水組の主力が入店
    • [47]明治41年 九州・博多に出張所を設置し九州方面進出の足場とする
    • [49]原林之助は得意先の門前を通る時は必ず脱帽したと伝えられる
    • [50]原林之助が死の数日前に「店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事」と題した店員への訓示を残す
    • [51]1912年11月 原林之助が大阪出張中に心臓麻痺で死去、56歳
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [48]日露戦争後 清水店が全国に広まり朝鮮まで進出
参考文献[34]-[51]
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [34]日清戦争後の好景気の時代も「暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する」方針を貫く
    • [35]名古屋・京都・大阪に出張店を開店
    • [36]明治中期に「建築では東京随一」との評価を得る
    • [43]1907年施工の日本橋丸善はわが国最初の純鉄骨構造の建物
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [37]店員数は明治8年の8人から明治36年の81人へ増加
    • [38]明治36年 京橋南鞘町に木造2階建の建物を新築し本店を移転
    • [39]明治36年 創業100年の百年祭を挙行し、記念品に染め抜いた丸喜のマークを正式な清水店のマークと定める
    • [40]清水釘吉がシカゴのウイリアム・バーナム会社からホテル・フィラデルフィアの鉄骨設計図を譲り受け日本へ持ち帰る
    • [41]当時の日本の建築様式は煉瓦造の時代、アメリカは鉄骨・鉄筋コンクリート時代へ移行しつつあった
    • [42]持ち帰った図面をもとに清水が鉄骨建築に着手
    • [44]明治40年着工の丸善本店3階建は床も鉄筋コンクリート造で、佐野利器が2年をかけて設計
    • [45]明治37・38年の日露戦争に清水釘吉と清水一雄の両幹部が出征
    • [46]日露戦争後の好景気の時期に内山熊八郎・福島政吉などのちの清水組の主力が入店
    • [47]明治41年 九州・博多に出張所を設置し九州方面進出の足場とする
    • [49]原林之助は得意先の門前を通る時は必ず脱帽したと伝えられる
    • [50]原林之助が死の数日前に「店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事」と題した店員への訓示を残す
    • [51]1912年11月 原林之助が大阪出張中に心臓麻痺で死去、56歳
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [48]日露戦争後 清水店が全国に広まり朝鮮まで進出

第2章 1915年〜 合資会社清水組の発足から株式会社化と全国支店網、戦時と終戦後の再開

筆者考察y.sugiura, author

合資会社清水組の33年間は、建築の注文が三度にわたって断たれた期間であり、そのたびに清水組が守ったのは工事量ではなく人と信用のほうであった。第一次大戦後の資材暴騰では、請け負った工事を欠損しても完成させた。昭和恐慌では店員1,000名に定年制を敷いて減らす一方、賞与を同族の私財から出し、1928年には経営を縮小しながらなお76人を採っている。敗戦の年には外地の工事をすべて失い、軍関係工事の未収金も戦時補償の打ち切りで消えたが、広島から九州まで支店を増やし、社員を一人も解雇しなかった。

この選び方の根拠は、建設業が受注産業であることに尽きる。発注も工期も施主が決めるため、工事量は自社の努力では平準化できず、均せるものは信用しかない。永年かけて築いたのれんが、この業界では最も高価な資産になる。だとすれば、不況期に削減してよいのは利益であって、施工を担う人と、工期を守るという評判ではない。1929年に東京帝国大学の佐野利器を無限責任社員として迎え、1937年に株式会社へ改組し、1944年に業界最古の研究所を設けた一連の手も、同じ資産を別の面から積み増す動きであった。

資本金 1915年〜1937年(万円)

100 1915 300 1921 1,000 1937

1915年〜三分家の出資による会社組織への改組と、震災翌日の営業再開

清水店の従業員はすでに259名を数え、個人経営のままでは請け負う仕事の大きさに見合わなくなっていた。1914年に第一次世界大戦が始まると日本の産業界は景気づき、建設業界にも国の内外から注文が押し寄せた。こうして1915年10月、宗家の清水満之助氏を中心とし、釘吉氏・一雄氏・揚之助氏の三分家が出資社員となって資本金100万円の合資会社清水組が生まれ、社長には清水釘吉氏が就いた。改組は同族の外へ資本を開放するものではなく、家と分家の出資を会社という器へ移し替えるものであった。この清水組という名は、戦後に清水建設へ改めるまで、ひろく国民のあいだで通った。

  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [52]大正3年当時の従業員数は259名
    • [53]大正3年の第一次世界大戦で日本の産業界が活況を呈し建設業界にも内外の注文が殺到
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [54]大正4年 宗家満之助を中心に釘吉・一雄・揚之助の三分家を出資社員として資本金100万円の合資会社清水組を設立
    • [56]清水組の名は終戦後に清水建設へ改称するまで広く用いられた
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [55]大正4年10月 合資会社へ改組し清水釘吉が社長に就任

施主の都合が発注の時期も工期も決める受注産業である建設業は、景気がよければ工事量が一気に増える一方、景気が悪ければ仕事を確保するのに苦しむ。大戦の終結とともに建築資材と職人の手間賃が急騰し、多方面の工事を抱えていた清水組は値上がりをまともに受けながらも、赤字になる工事を一つ残らず仕上げた。休戦条約が結ばれると、大戦景気の反動で株価が暴落し、企業の不況はどん底に落ちた。こうした波をならして、いつでも安定して仕事を得る手立ては信用しかなく、長年かけて築いた『のれん』こそが最も値の張る資産である『所謂「のれん」は最も高価な資産であります』。欠損を呑んで工期を守る判断は、その資産を目減りさせないための代価であった。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [57]建設業は受注産業で好況時は工事量が激増し不況時は工事量の確保に苦慮する
    • [61]建設需要の不規則性を克服して恒常的・安定的に工事量を確保し得るものは信用以外になく、のれんは最も高価な資産である
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [58]欧州大戦後 建築資材や職人の手間賃が暴騰
    • [59]手広く工事を受け持っていた清水組は打撃を受けたが、請負った工事は欠損しても完成させた
    • [60]休戦条約の成立後、大戦ブームの反動で株が暴落し企業の不況が底をつく

1923年9月1日の関東大震災で、東京の家屋の6割5分が焼失・倒壊した。重要書類を小石川の清水一雄氏宅へ移し、実業之日本社ビル内に仮本店を構えた清水組は、同日午後8時に鞘町本店が炎上したあとも、焼跡にテントを張って翌2日には営業を始めた。本社の建物をなくしたまま、間借りで帝都の復興に取り組んだ。応急工事の最初の注文主は東海銀行で、復興工事は東京市内だけで内閣印刷局工場や富士瓦斯紡績工場など約430余件に及び、横浜でも東京電灯をはじめ57カ所を請け負った。1920年3月に着工していた東京会館は震災で大きく損なわれ、店長の清水釘吉氏はその責任を重く受け止めて、復旧にかかる費用の半分を引き受け、1927年に完成させた。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [62]大正12年9月1日の関東大震災で東京の家屋の6割5分が焼失・倒壊
    • [63]鞘町本店は震災当日午後8時に炎上、重要書類を小石川の清水一雄宅へ移し仮本店を実業之日本社ビル内に設け、焼跡のテントで翌2日に営業開始
    • [65]震災後の応急工事の受注第一号は東海銀行
    • [66]震災復興で東京市内の内閣印刷局工場・富士瓦斯紡績工場など約430余件、横浜で東京電灯ほか57カ所を請負
    • [67]大正9年3月着工の東京会館が震災で被害を受け、清水釘吉が復旧費の半分を負担して昭和2年に完成
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [64]大正12年の関東大震災で本社社屋を焼失し、間借りして帝都の復興に当たる
参考文献[52]-[67]
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [52]大正3年当時の従業員数は259名
    • [53]大正3年の第一次世界大戦で日本の産業界が活況を呈し建設業界にも内外の注文が殺到
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [54]大正4年 宗家満之助を中心に釘吉・一雄・揚之助の三分家を出資社員として資本金100万円の合資会社清水組を設立
    • [56]清水組の名は終戦後に清水建設へ改称するまで広く用いられた
    • [58]欧州大戦後 建築資材や職人の手間賃が暴騰
    • [59]手広く工事を受け持っていた清水組は打撃を受けたが、請負った工事は欠損しても完成させた
    • [60]休戦条約の成立後、大戦ブームの反動で株が暴落し企業の不況が底をつく
    • [62]大正12年9月1日の関東大震災で東京の家屋の6割5分が焼失・倒壊
    • [63]鞘町本店は震災当日午後8時に炎上、重要書類を小石川の清水一雄宅へ移し仮本店を実業之日本社ビル内に設け、焼跡のテントで翌2日に営業開始
    • [65]震災後の応急工事の受注第一号は東海銀行
    • [66]震災復興で東京市内の内閣印刷局工場・富士瓦斯紡績工場など約430余件、横浜で東京電灯ほか57カ所を請負
    • [67]大正9年3月着工の東京会館が震災で被害を受け、清水釘吉が復旧費の半分を負担して昭和2年に完成
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [55]大正4年10月 合資会社へ改組し清水釘吉が社長に就任
    • [64]大正12年の関東大震災で本社社屋を焼失し、間借りして帝都の復興に当たる
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [57]建設業は受注産業で好況時は工事量が激増し不況時は工事量の確保に苦慮する
    • [61]建設需要の不規則性を克服して恒常的・安定的に工事量を確保し得るものは信用以外になく、のれんは最も高価な資産である

1927年〜昭和恐慌下の雇用維持と、外部から迎えた技術の統率

大正末期から続いた不況は、1929年のアメリカ株式大暴落による世界恐慌で決定的となり、内務省の統計でも全国の失業者数は30万に達した。清水組は1927年にまず職制を改革し、清水釘吉氏は店長から社長となって、内山熊八郎氏をはじめとする幹部が赤字対策に奔走した。当時の店員は1,000名に達していたが、定年制を敷いて人員を減らす一方、賞与などは同族の私財から支出するという有様であった。1931年には一部店員の整理も行い、残す者には予備員制度を設けて本俸の8割を支給している。それでも1928年には経営を縮小しながら76人の新社員を採用しており、人を全部は手放さなかった。創業以来の危機を職制の改革で切り抜けたと後年の記録は記す。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [68]昭和4年のアメリカ株式大暴落による世界恐慌で日本経済も大打撃、内務省統計で全国の失業者数は30万
    • [69]昭和2年 職制を改革し清水釘吉が店長から社長となり、内山熊八郎ら幹部が赤字対策に当たる
    • [70]当時の店員は1,000名、定年制を敷いて人員を減らす一方で賞与は同族の私財から支出
    • [71]昭和6年 一部店員を整理し、予備員制度を設けて本俸の8割を支給
    • [72]昭和3年 経営を縮小しながら76人の新社員を採用
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [73]昭和4年の世界恐慌で創業以来の危機に遭遇したが職制の改革など赤字対策で切り抜けた

恐慌下の清水組は、機構を改め経営を引き締める努力を重ねていた。その只中の1929年11月、清水釘吉氏は第一銀行頭取 佐々木勇之助氏の勧めに応じ、東京帝国大学建築学科で主任教授の職にあった佐野利器氏を無限責任の社員に加えた。佐野氏には副社長の地位が与えられた。入社した佐野氏がまず手を付けたのは、技術水準の引き上げと経営の合理化である。出資社員を同族だけで固めていた合資会社に学界の技術者を無限責任の社員として据えたことで、削る対象と残す対象を同族の情実から離れて決める道も開けた。同じ1929年には、東京の地下鉄工事と天竜川流域の泰阜水力発電所工事を、競り合った数多くの入札者を退けて受注し、土木部の転機とした。建築で得た信用を土木の分野へ持ち込めるかどうかが、このころの清水組の課題となった。

  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [74]1929年の大恐慌下で機構改革や経営合理化の努力が重ねられた
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [75]昭和4年11月 第一銀行頭取・佐々木勇之助のすすめで東大建築学科主任教授の佐野利器を無限責任社員として迎え副社長に就任させる
    • [76]佐野利器は入社と同時に経営の合理化と技術の向上を断行
    • [77]昭和4年 多くの競争入札者のなかから選ばれて東京の地下鉄工事と天竜川流域の泰阜水力発電所工事を施工
    • [78]地下鉄工事と泰阜水力発電所工事は清水組土木部にとって画期となり土木技術が飛躍

聖路加病院は1928年に着工し、完成までに10年以上かかった工事である。資金が詰まった1931年の暮れ、施主側が好意で前渡しした10万円は、翌日には店員への賞与に回された。長い工期がそのまま賃金を払う元手になった形である。恐慌の底にあった清水組を支えたのは、同族の私財と得意先の好意だった。同じ1931年には、明治・大正期の経済界を導き、清水組にとって4代60年にわたり育ての親であった渋沢栄一氏が92歳で亡くなった。翌1932年7月、清水組は震災前の鞘町本店とほぼ同じ位置にあたる宝町に本社を新築し、丸ビルから移転した。関東大震災での焼失以来、初めて自前の本社に戻ったことになる。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [79]聖路加病院は昭和3年の着工から完成まで10年以上を要した
    • [80]昭和6年暮 聖路加側の好意で前渡しされた10万円が翌日に賞与として店員へ配られる
    • [81]昭和6年 渋沢栄一が92歳で死去、清水組にとって4代60年にわたる育ての親であった
    • [83]昭和7年 震災前の鞘町本店とほぼ同位置の宝町に本社を新築し丸ビルから移転
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [82]昭和7年7月 現在地に本社社屋を完成
参考文献[68]-[83]
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [68]昭和4年のアメリカ株式大暴落による世界恐慌で日本経済も大打撃、内務省統計で全国の失業者数は30万
    • [69]昭和2年 職制を改革し清水釘吉が店長から社長となり、内山熊八郎ら幹部が赤字対策に当たる
    • [70]当時の店員は1,000名、定年制を敷いて人員を減らす一方で賞与は同族の私財から支出
    • [71]昭和6年 一部店員を整理し、予備員制度を設けて本俸の8割を支給
    • [72]昭和3年 経営を縮小しながら76人の新社員を採用
    • [75]昭和4年11月 第一銀行頭取・佐々木勇之助のすすめで東大建築学科主任教授の佐野利器を無限責任社員として迎え副社長に就任させる
    • [76]佐野利器は入社と同時に経営の合理化と技術の向上を断行
    • [77]昭和4年 多くの競争入札者のなかから選ばれて東京の地下鉄工事と天竜川流域の泰阜水力発電所工事を施工
    • [78]地下鉄工事と泰阜水力発電所工事は清水組土木部にとって画期となり土木技術が飛躍
    • [79]聖路加病院は昭和3年の着工から完成まで10年以上を要した
    • [80]昭和6年暮 聖路加側の好意で前渡しされた10万円が翌日に賞与として店員へ配られる
    • [81]昭和6年 渋沢栄一が92歳で死去、清水組にとって4代60年にわたる育ての親であった
    • [83]昭和7年 震災前の鞘町本店とほぼ同位置の宝町に本社を新築し丸ビルから移転
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [73]昭和4年の世界恐慌で創業以来の危機に遭遇したが職制の改革など赤字対策で切り抜けた
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [74]1929年の大恐慌下で機構改革や経営合理化の努力が重ねられた
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [82]昭和7年7月 現在地に本社社屋を完成

1937年〜株式会社への改組と、戦時統制が奪った請負営業の自由

1937年8月、清水組は資本金1,000万円の株式会社清水組として新発足し、合資会社清水組を合併した。無限責任社員の出資で回していた器を株式会社へ改めたのは、昭和7年ごろから業界が好転して事業が順調になり、工事の大型化に見合う資本の調達が要ったためである。同じ時期、日中戦争の拡大とともに清水組は大陸へ出た。天津・青島・北京、さらに上海方面で軍関係・工場・満鉄関係の工事を請け負い、1938年には北京に北支支店を置き、1940年には満洲国法によって満洲清水組を設立している。1940年の紀元2600年記念式典では宮城前の祝典式場を施工し、これを契機に清水釘吉氏は第一線を退いて相談役となり、清水康雄氏が社長に就任した。

  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [84]昭和12年8月 資本金1,000万円の株式会社に改組して新発足
    • [86]昭和7年ごろから業界が好転し事業が次第に順調になったのち株式会社へ改組
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [85]1937年 株式会社清水組を設立し合資会社清水組を合併
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [87]日中戦争の拡大とともに天津・青島・北京・上海方面で軍関係・工場・満鉄関係の工事を請負
    • [88]昭和13年 北京に北支支店を設置、昭和15年 満洲国法により満洲清水組を設立し清水康雄が社長に就任
    • [89]昭和15年 紀元2600年記念式典の宮城前祝典式場を施工、これを契機に清水釘吉が相談役に退き清水康雄が社長に就任

建設業者全体を見ると、1941年の国家総動員法、1942年の企業整備、1943年の労務報国会、1945年の戦時建設団設立と段階を追って請負営業の自由は大きく縛られ、半ば直営工事の手伝いのような立場で陸海軍や軍需工場の工事を担った。清水組も陸海軍協力会に入り、そのうち他の建築会社とひとまとめにされて戦時建設団へ組み込まれていった。戦局が厳しくなるにつれて工事の量は減ったが、1944年には業界で最も古い研究所を設けている。米軍機による本土空襲は1944年11月ごろに始まり、1945年1月には本社も爆撃された。全国の支店・出張所や社員の住宅が相次いで焼け、本社の機構も散り散りに疎開するほかなくなった。

  • 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
    • [90]戦時中の建設業者は昭和16年の国家総動員法、17年の企業整備、18年の労務報国会、20年の戦時建設団設立を通じて請負営業の自由に制約を受け、なかば直営工事の手伝い的な地位で陸海軍・軍需工場の工事に当たった
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [91]太平洋戦争末期に清水組は陸海軍協力会に加盟し、のちに他の建築会社と一丸の戦時建設団へ編成
    • [94]昭和19年11月頃から本土空襲が始まり昭和20年1月に本社が爆撃を受け、全国の支店・出張所・社員住宅が焼失して本社機構も分散疎開
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [92]戦局の苛烈化にしたがって清水組の工事量も減少
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [93]清水建設の研究所は戦争中の昭和19年に設立され業界最古の歴史を持つ

軍関係の工事で受け取るはずだった残高は戦時補償の打ち切りで棚上げになり、政府工事の代金の支払いも遅れた。外地の工事は敗戦で失われ、清水組が頼れるのは内地の仕事だけになっていた。外地からは社員が戻ってきたが、本格的な工事はほとんどなかった。大手業者にとって、この時期はむしろ苦しい時代であった。清水組はここで積極策を採り、広島・仙台・北陸・四国・北海道・九州と新たに支店網を拡充して工事の入手に努め、社業を縮小せず、社員を一人も解雇しなかった。世田谷には1,600坪の『砧・清水村』を建設し、社員の住宅難に応急の措置を取っている。受注の当てが無い時期に人と拠点を増やす判断は、次の需要が戻ったときに受けられる体を残す賭けであった。

  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [95]太平洋戦争中の軍工事の支払い打ち切りと政府工事の支払い遅延で苦境に立つ
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [96]敗戦により内地だけの工事に頼らねばならなくなる
    • [99]社業を縮小せず社員を一名も解雇しなかった
    • [100]世田谷に1,600坪の「砧・清水村」を建設し社員の住宅難に応急措置を取る
  • 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
    • [97]戦後の大手建設業者は外地からの社員帰還と工事の払底で苦難の時代を迎えた
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [98]混乱期に積極策を採り広島・仙台・北陸・四国・北海道・九州と支店網を拡充して工事の入手に努める
参考文献[84]-[100]
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [84]昭和12年8月 資本金1,000万円の株式会社に改組して新発足
    • [86]昭和7年ごろから業界が好転し事業が次第に順調になったのち株式会社へ改組
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [85]1937年 株式会社清水組を設立し合資会社清水組を合併
    • [95]太平洋戦争中の軍工事の支払い打ち切りと政府工事の支払い遅延で苦境に立つ
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [87]日中戦争の拡大とともに天津・青島・北京・上海方面で軍関係・工場・満鉄関係の工事を請負
    • [88]昭和13年 北京に北支支店を設置、昭和15年 満洲国法により満洲清水組を設立し清水康雄が社長に就任
    • [89]昭和15年 紀元2600年記念式典の宮城前祝典式場を施工、これを契機に清水釘吉が相談役に退き清水康雄が社長に就任
    • [91]太平洋戦争末期に清水組は陸海軍協力会に加盟し、のちに他の建築会社と一丸の戦時建設団へ編成
    • [94]昭和19年11月頃から本土空襲が始まり昭和20年1月に本社が爆撃を受け、全国の支店・出張所・社員住宅が焼失して本社機構も分散疎開
    • [96]敗戦により内地だけの工事に頼らねばならなくなる
    • [99]社業を縮小せず社員を一名も解雇しなかった
    • [100]世田谷に1,600坪の「砧・清水村」を建設し社員の住宅難に応急措置を取る
  • 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
    • [90]戦時中の建設業者は昭和16年の国家総動員法、17年の企業整備、18年の労務報国会、20年の戦時建設団設立を通じて請負営業の自由に制約を受け、なかば直営工事の手伝い的な地位で陸海軍・軍需工場の工事に当たった
    • [97]戦後の大手建設業者は外地からの社員帰還と工事の払底で苦難の時代を迎えた
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [92]戦局の苛烈化にしたがって清水組の工事量も減少
    • [98]混乱期に積極策を採り広島・仙台・北陸・四国・北海道・九州と支店網を拡充して工事の入手に努める
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [93]清水建設の研究所は戦争中の昭和19年に設立され業界最古の歴史を持つ

第3章 1948-1977 (気が向いたら執筆します!) 清水建設への改称と上場、初の非同族社長と高度成長期の量産化

第4章 1978-2008 (気が向いたら執筆します!) EC化とTQC導入、シミズスプリング計画で業界首位に返り咲きSHIMZ-21へ

第5章 2009-2026 (気が向いたら執筆します!) 初の連結純損失からの立て直し、日本道路の買収と洋上風力のSEP船

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歴史年表 1804〜2025年

清水建設の沿革1804〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1804〜1914年神田鍛冶町の裏店に開いた大工業が、渋沢栄一の定めた民間建築の路線に行き着くまで絵草紙屋の裏店からの創業と、渋沢栄一氏による民間建築工事への事業展開

文化元年(1804年)、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏が22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開業した。町家や商家の請負で評判を得て表通りの神田新石町に店を構え、屋号を"清水屋"として弟子を養った。以後110年余の個人営業を経て、1915年に資本金100万円で合資会社清水組として法人化し、近代企業への歩みを進めた。

詳細を読む
★★★
技師長制を発足し設計・施工一貫態勢を整備★
渋沢栄一を相談役に迎え民間建築方針を確定★★
1915〜1947年合資会社清水組の発足から株式会社化と全国支店網、戦時と終戦後の再開清水組を設立し会社組織に変更★
東京鐵骨橋梁製作所を設立★
清水組を設立★
清水組を合併し全国支店網を整備★
終戦後本社社屋で業務再開★
研究室を新設★
1948〜1977年清水建設への改称と上場、初の非同族社長と高度成長期の量産化清水建設に商号変更★
土木部門を強化★
株式を東京店頭市場に公開★
東京証券取引所市場第一部に上場★
吉川清一非同族社長の就任★★
吉川清一量産住宅用PC板製造工場を新設★
吉川清一不動産取引に関する業務を事業目的に追加★
野地紀一子会社を設立★
1978〜2008年EC化とTQC導入、シミズスプリング計画で業界首位に返り咲きSHIMZ-21へ野地紀一EC化(エンジニアリング・コンストラクター化)を決定★★
野地紀一TQCを本格導入★
野地紀一EC化に備えるため定款の事業目的を追加★
野地紀一10年ビジョン「シミズスプリング計画」を策定★
野地紀一シミズリフォームを設立★
野地紀一初の無担保転換社債500億円を発行★
今村治輔業界トップの業績を回復★
今村治輔定款の事業目的を追加★
今村治輔多角化路線の撤回と本業回帰

1991年2月、清水建設は今村治輔社長のもとで90年代の経営指針となる新長期ビジョン"SHIMZ-21"を策定し、1985年に打ち出した多角化路線を撤回して建設本業への回帰を宣言した経営判断。同時に受注シェアで劣勢だった関西地区の強化にも乗り出した。

詳細を読む
★★★
今村治輔本店を移転★
今村治輔東京支店・土木東京支店開設★
野村哲也定款の事業目的を追加★
野村哲也清水総合開発を設立★
野村哲也定款の事業目的を追加★
2009〜2026年初の連結純損失からの立て直し、日本道路の買収と洋上風力のSEP船宮本洋一国際支店開設★
宮本洋一初の連結純損失を計上★★
宮本洋一本社を移転★
宮本洋一定款の事業目的を追加★
井上和幸日本道路を株式公開買付けにより子会社化★★
井上和幸SEP船「BLUE WIND」完成★
井上和幸初の連結営業損失を計上★★
新村達也新村達也が第10代社長に就任★
出典・参考 8件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
  • 清水建設百五十年(1956)

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