創業1804年、越中富山出身の大工・清水喜助が江戸神田鍛冶町で町家請負を開いた。原体験は1859年の横浜開港で居留地の外国商館を受注した洋風建築であり、官需主戦の同業と違って民間商人と直接取引する慣習を初期から積み上げた。江戸末期の商人需要が、後の民間主戦という経営の型を生む土壌となった。
決断1887年に相談役となった渋沢栄一が方針を「民間の建築工事」と定め、専属取引業者の組織化と店内改革を指導した。以後、オフィス・工場・銀行を主要顧客とする路線が1世紀半続き、1989年度にはゼネコン業界で売上トップに立った。バブル期には1987年に総額500億円の無担保転換社債を発行し、施工能力を一挙に拡張した。
課題民間契約は官公需のスライド条項が効かず、資材高騰時にコスト上昇を発注者へ転嫁しにくい課題を抱えている。このため、原価高騰を受けて、2024年3月期は売上2兆55億円で上場来初の営業赤字247億円を計上した。2022年の日本道路TOBと2026年のあおみ建設子会社化で道路舗装・海洋土木を第3・第4の柱に据えたが、買収した事業で収益性を確保できるかは別の論点となる。
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歴史概略
1804年〜1965年大工業からスーパーゼネコンの基盤完成まで
渋沢栄一が定めた「民間の建築工事」路線
1804年、越中富山出身の大工・清水喜助が江戸神田鍛冶町で大工業を開業し、独立した棟梁として町家や商家の建築を請負った。幕末の1859年、横浜開港に伴い横浜店を開設し、居留地の外国商館建築を手がけて西洋建築技術を現場で習得した。2代清水喜助は1872年の第一国立銀行の建築で擬洋風建築の技術力を示し、1886年には工学士を招聘して技師長制を発足させ、設計と施工を一貫させる近代的な組織体制を整えた。当時の建設業は官需が主流で大手組は官公需に依存したが、清水組は民間からの受注で実績を積み上げ、同業他社とは異なる道を歩んだ。明治初期に蓄積した民間建築への傾斜と洋風建築の技術が、渋沢栄一の経営方針と合流する素地となった。
経営方針が固まったのは1887年、3代店主の急逝に伴い渋沢栄一が相談役に就任してからである。渋沢は清水組の営業方針を「民間の建築工事」と定め、専属取引業者の組織化や店内改革を指導しながら30年以上にわたり経営に関与した。官公庁工事への依存を避けて民間企業(オフィス・工場・銀行・商社)を主要顧客とした方針が、清水建設に「民間建築に強い」評価をもたらした。同社は堅実経営と民間建築への強みを自社の特色として継承しており(日本会社史総覧 1995)、渋沢が定めた方針は創業220年を経た現在も同社の基底にある。その結果、民間物件を手がける技術力と顧客基盤が長期間蓄積され、後のバブル期に業界トップへ返り咲く原動力となった。
株式会社化と全国支店網の一挙整備
1915年、清水同族は資本金100万円で合資会社清水組を設立し、創業以来110年続いた個人営業から法人へ転換した。1937年には資本金1,200万円で株式会社清水組を設立し、合資会社を合併すると同時に名古屋・大阪・九州の支店を開設して全国展開体制を整えた。法人統合と全国支店網の整備を同時に行ったことで、関東中心だった営業基盤が広がり、地方の工事にも対応できる組織基盤が整った。戦時中は軍需施設の建設に動員され、技術者の多くが海外の軍需工事に配属された。だが終戦翌日の1945年8月18日には戦災を免れた本社社屋で約3,500人の社員とともに業務を再開した。すなわち、終戦翌日に業務を再開したため、戦後復興需要を他社に先んじて取り込めた。
1948年、企業再建整備計画に基づき社名を「清水建設株式会社」に改称し、在外資産喪失と戦時補償打ち切りによる損失を処理したうえで、清水同族以外から初めて外部資本を導入した。資本金を7,000万円に増資したこの再建は、清水同族の個人商店から公開企業への転換点だった。余剰人員対策として丸喜産業などの子会社を設立して雇用を維持しつつ、1946年には研究室(のちの技術研究所)を設置し、戦後の復興需要を見据えて技術主導型の経営体制を業界に先んじて整えた。その結果、技術研究所は土木・建築の先端技術開発の拠点となり、1960年代以降のインフラ需要と高度成長期の建築工事の品質確保を技術面から支えた。
土木部門の強化と東証上場──総合建設業の完成
清水建設は創業以来、建築を主業とした。しかし戦後の高度成長期に加速したインフラ投資需要を取り込むには土木の能力が不可欠で、建築専業のままでは市場成長に追随できず、業界順位の低下が懸念された。そこで1954年に土木部組織を整備拡充し、子会社の新清土木を吸収合併して土木部門を強化した。道路・ダム・トンネル・港湾などの公共工事を受注して技術を蓄え、1960年代には総売上高の約2割を土木部門が担うまでに成長し、建築専業から「総合建設業」への移行を終えた。1960年代に築かれた土木部門の技術基盤は、後のスーパーゼネコンとしての事業基盤を支え、建築と土木の両輪で業界トップ層を維持する足場となった。
1961年、資本金を30億円に増資して株式を公開し、翌1962年に東証一部に上場、名古屋・大阪の両証券取引所にも上場した。その結果、高度成長期の設備投資に対応する資金調達力が高まり、以後の工事受注、全国支店網の拡充、研究開発への投資に回せる原資が確保された。並行してPC住宅の量産にも着手し、1966年に相模工場を新設、1972年には全国6工場・年間生産能力1万戸の量産態勢を整備した。建設会社による工業化住宅では業界に先行した位置取りとなったが、PC住宅市場は住宅メーカーの攻勢もあり縮小し、量産住宅事業は収束した。建築と土木を2本柱とするスーパーゼネコンの事業基盤は1960年代前半にほぼ完成し、長期成長を支える土台となった。
1966年〜2009年堅実経営と機会損失の二面性から省力化改革へ
「石橋を叩いて壊す」── 堅実経営が機会を逸するとき
1966年、社長の清水康雄が死去し、清水同族以外から初めて吉川清一が社長に就任した。以後、非同族社長が続き、専門経営者による企業統治が定着して、創業一族の求心力から組織的な経営体制への移行が進んだ。1973年の第一次石油危機で国内建設需要が冷え込むと、清水建設は「造注」(自ら需要を創出する営業)と海外進出を同時に進め、ブラジルを皮切りに東南アジア・中近東・欧米など34カ国に営業網を拡大した。1978年にはEC(エンジニアリング・コンストラクター)化を決定し、設計・施工にとどまらず企画から維持保全までを一括で請け負う体制に移行して、建設請負単体では得られない付加価値の獲得をめざした。この方針は1980年代の多角化路線の土台となった。
しかし社内には創業以来の慎重さや事なかれ主義が根強く、清水建設は石橋を叩いて壊してしまうほど慎重と称された(日経ビジネス 1987/5/25)。堅実さは品質保証の源泉だったが、急成長市場で機会を逸するリスクも抱えた。1985年、就任3年目の野村哲也社長は「堅実だけでは足りない」と認め、「走りながら考えろ」(日経ビジネス 1987/5/25)を掲げて不動産開発など攻めの経営への転換を図った。同年策定した10年ビジョン「シミズスプリング計画」は建設周辺分野から異業種までの多角化を目指すもので、堅実一辺倒の企業文化を内側から変える経営陣の意思表示だった。その転換の試みはバブル経済の拡大期と重なり、首都圏の民間物件の受注拡大につながった。
首都圏の民間建築ブームで業界トップに返り咲く
バブル経済は清水建設の競争優位が噛み合った時期である。首都圏ではオフィスビルや商業施設の建設ラッシュが続き、民間建築を主力とする同社は需要を直接取り込んで民間案件を連続受注した。1987年には急な資金需要に対応するため総額500億円の無担保転換社債を初めて発行し、当時の資本金357億円を上回る調達で施工能力の拡充に備えた。1989年度には業界トップの業績を達成し、渋沢栄一が1世紀前に定めた「民間の建築工事」路線の強みが収益面で現れた。建築部門は首都圏のオフィスビル需要と地方の再開発案件を同時に取り込み、両部門が揃って高水準の受注を獲得した。つまり、バブル期の成功体験が、後の収益構造のひずみを生む引き金となった。
業界トップの地位は長くは続かなかった。1990年のバブル崩壊で建設需要は萎縮し、手持ち工事は売上高の2倍から1.4〜1.5倍に減少、将来の受注見通しも細った。1991年には新長期ビジョン「SHIMZ-21」を策定し、前ビジョンの多角化路線を撤回して建設本業への回帰を宣言した。同年、港区芝浦に新本社を建設・移転したが、その直後から受注低迷が本格化し、バブル期の余熱で着手した不動産開発や関連投資の採算は悪化した。建設産業は戦後一貫して拡大基調にあったが、バブル崩壊で萎縮に転じ、業界全体が構造転換を迫られた。清水建設もその例外ではなく、多角化路線の撤回は本業の建設で生き残るという判断に基づいていた。
省力化に500億円を投じた「作り方」の改革
バブル崩壊後の受注低迷期に、清水建設は建設の「作り方」そのものを変える改革に着手した。1989年から累計約500億円を省力化投資に投じ、鉄骨溶接ロボットで省力化率40%、コンクリート自動圧送で15%を達成した。今村治輔社長は「建設のシステム化を物質まで推し進め、省力化・工期半減を実現する」(日経ビジネス 1992/2/10)と語り、工場で部材を製造し現場で組み立てる方式をオフィスビルからマンション・流通施設へ順次拡大した。その結果、建設現場の労働集約性を変える長期的な生産性向上の基盤が整った。受注環境が厳しい時期にも生産技術への投資を続けた判断は、後の技術優位の出発点となった。
省力化投資の狙いには、技能労働者の処遇改善という課題もあった。当時の技能労働者の年間賃金は約500万円で製造業を100万円下回り、建設業への若年層の流入が細る懸念が業界全体に広がった。同社は年間600万円への引き上げを目標に掲げ、省力化による原価低減を賃上げ原資に充てる構想を描いた。しかし建設不況の長期化で投資回収は想定より遅れ、目標達成は先送りとなった。1993〜1994年度には計約550億円の経費削減を実施して耐えた。その結果、2000年代の景気回復期に省力化の蓄積が競争力となり、都市再開発ブームでの受注を技術面で支え、長期的な生産性改善にも寄与した。
2010年〜2023年過去最高営業益から上場来初の営業赤字へ
営業利益1,339億円 ── 民間建築の追い風が生んだピーク
リーマンショック後の2010年3月期、清水建設は創業以来初の連結純損失68.5億円を計上した。世界的な金融危機による民間設備投資の急縮小と特別損失の拡大が主因で、営業利益もFY12には131億円まで落ち込み、業績は一時的に業界下位へ沈んだ。しかし建設投資の回復は想定より早く、FY14(2015年3月期)に営業利益500億円へ回復、FY16には売上高1兆5,674億円に対して営業利益1,288億円・営業利益率8.2%を達成した。FY19(2020年3月期)には建設事業セグメントの利益が1,451億円に達し、連結営業利益は1,339億円と過去最高を記録した。つまり、バブル期のピークを超える水準へ到達し、民間建築に強い清水建設の競争優位が数値として示された。
好業績を支えたのは、アベノミクス以降の都市再開発ブームと、民間建築に強い清水建設のポジショニングである。首都圏のオフィスビル・商業施設の建替需要を取り込み、受注時の利益率も高水準で推移した。しかしFY18頃から工事の受注時採算に陰りが出た。その理由は、VE提案(バリューエンジニアリングによる原価改善)の実現が難しくなり、発注者予算の厳格化で利益改善が進まず、鉄骨価格の急騰が原価を押し上げたことにある。つまり採算の前提が崩れつつあった。好業績の裏で収益構造は変調していたが、連結営業利益が1,000億円を超える水準では受注方針の転換に踏み切れず、潜在的な損失は時間差で顕在化した。
資材高騰と営業赤字247億円 ── 受注時の採算が反転するとき
FY23(2024年3月期)、清水建設は上場来初の営業損失247億円を計上した。売上高2兆55億円は過去最高だったが、複数の建築工事で受注時採算の悪化、資材価格と労務費の高騰、工期逼迫に伴う急施工の原価増大が同時に発生して利益が消えた。工事損失引当金の計上が利益を押し下げ、国内建築の完成工事損益率は▲2.9%に沈んだ。FY22時点で国内建築の引当金残高はすでに385億円に達しており、これが2023〜2024年度の利益率低迷の主因だったと決算説明会でも繰り返し説明された。創業220年を経た同社にとって上場来初の営業赤字は転機となり、経営陣は受注方針と採算管理の見直しを迫られた。なお、FY22時点で工事採算の悪化はすでに顕在化しており、FY23の損失は予見された帰結でもあった。
民間工事比率の高さが裏目に出た。公共事業ではスライド条項による価格転嫁が一般的で資材価格上昇は発注者が吸収するが、民間工事では発注者がスライド条項を削除するケースもあり、資材コスト上昇を清水建設が自ら吸収した。シンガポールの工事ではコロナ禍の上海ロックダウンによる資材納入遅延が追い打ちをかけ、海外案件でも想定外の損失が積み上がった。すなわち、バブル期に業界トップの業績を生んだ「民間建築への集中」が、コスト上昇時には逆に損益を押し下げた。その理由は、130年前に渋沢栄一が定めた路線が、好況期と不況期で収益の振れ幅を広げる構造を持っていたことにある。
日本道路のM&AとSEP船 ── 建設事業の「外」への布石
業績が悪化するなかでも、清水建設はグループの事業領域を広げる施策に踏み切った。2022年、道路舗装大手の日本道路をTOBで連結子会社化し、建築・土木に続く第3の柱として道路インフラ領域へ参入した。日本道路は売上高1,260億円・営業利益85億円を稼ぐ子会社となり、道路舗装事業セグメントとして連結業績に寄与した。同年10月には自社建造のSEP船「BLUE WIND」が完成した。クレーン最大揚重能力2,500トン・最高揚重高さ158メートルは国内最大級で、洋上風力発電施設の建設を担う中核設備として、同社の脱炭素領域への参入手段となった。洋上風力は国内で本格稼働を控えた成長分野であり、SEP船の保有は他社との差別化材料となった。
2023年9月には潮見に研究開発拠点の温故創新の森NOVAREを開業した。越中島の技術研究所が手狭になったため、100年後・200年後を見据えた技術革新の拠点として設立し、建物そのものが実験場となる設計思想を採用した。同拠点には渋沢栄一の旧邸宅も移築・復元し、創業の原点と将来の技術を結ぶ施設として、来訪者に同社の歴史と未来志向を同時に示した。建設事業の収益が悪化する時期にも次の成長領域への研究開発投資を続けた判断は、バブル崩壊後の受注低迷期に省力化500億円を投じた前例と重なる。つまり、不況期にこそ将来への投資を続ける運営様式が、創業以来の経営に定着している。