1921年〜 輸液工場から「飲む点滴」へ、医薬と消費財の同居
大塚HDの業績推移:単体
- 1921年 大塚製薬工場を創業
- 1964年 医薬品事業の分社による大塚製薬の設立と二階建てモデルの構築 他社模倣に傾いたグループから、自社開発を担う一社をどう切り出したか
- 1965年 オロナミンCドリンクを発売
- 1980年 ポカリスエットを発売
- 1983年 カロリーメイトを発売
塩田の苦汁が規定した化学プラント型の工場運営
大塚グループの原点は、1921年9月に大塚武三郎が徳島県鳴門で創業した大塚製薬工場にある。塩田地帯の苦汁を原料に医療用の塩化マグネシウムや輸液を製造する町工場として出発した。輸液は患者の体液を補う基幹医療品で、製造には大量の水と塩、安定した品質管理が要求される。鳴門は製塩業の中心地であり、塩作りで生じる苦汁から化学品を取り出す技術が土地に根付いていた。大量生産と厳格な品質管理を同時に達成する化学プラント型の工場運営が創業から戦後にかけて鳴門で鍛えられ、医薬の枠に収まらない生産技術の基盤になった。大塚製薬が1946年に注射液の生産に乗り出して以降、輸液は基幹事業として位置付けられる。 [1]
- 大塚HD 有価証券報告書/大塚ホールディングス公式沿革
- [1]1921年9月に大塚製薬工場が創業した
徳島の地理的条件と化学プラント的な工場運営の組み合わせが、後の大塚グループにおいて、医薬と消費財を同じ製造リテラシーで扱う異形のDNAになった。同時代の国内製薬企業の多くが医療用医薬品の研究開発に特化したのに対し、大塚は生産現場で培った水・塩・電解質の扱いを医療の外側にも持ち出す発想を持っていた。この違いが後年、酒販ルートに栄養ドリンクを流し込み、輸液の設計思想で清涼飲料を作るという独自の事業領域を切り開く土台になる。輸液という医療品を作る技術と、健康飲料・栄養食品を作る技術は、品質管理と配合設計の面で近い位置にある。この工場技術の共通性が、医薬と消費財を同じ組織で並走させられた理由の芯にある。
この輸液技術の完成度は、1970年代後半に海外でも試された。大塚正士は自ら中東諸国を回り、医療資材の大半を欧米からの輸入に頼っていた実情を見て、中東を「将来の最有力市場」と見立てた。複数の候補地で断念を重ねた末、1977年12月にエジプト・カイロのフリーゾーンへ全額大塚グループ出資の輸液製造会社アラブ大塚製薬を設立し、1979年に工場を稼働させた。同社の吉田勝保社長は「工場こそなかったが、過去の輸出努力が実り、"輸液の大塚"のイメージはアラブ、アフリカ各国に浸透している」(日経ビジネス 1979/09/10)と述べた。国内の酒販ルート開拓に先立ち、輸液の技術力だけで海外拠点を築いた事実は、大塚の生産技術が医薬の枠を超えて展開できる汎用性を持っていたことの裏付けになる。 [2][3][4]
- 日経ビジネス(1979-09-10)
- [2]1977年12月にエジプトでアラブ大塚製薬を設立し、1979年に工場を稼働させた
- [3]大塚正士が自ら中東諸国を回り「将来の最有力市場」と見立てた
- [4]アラブ大塚製薬の吉田勝保社長は「輸液の大塚」のイメージが中東・アフリカ各国に浸透していると述べた
- 大塚HD 有価証券報告書/大塚ホールディングス公式沿革
- [1]1921年9月に大塚製薬工場が創業した
- 日経ビジネス(1979-09-10)
- [2]1977年12月にエジプトでアラブ大塚製薬を設立し、1979年に工場を稼働させた
- [3]大塚正士が自ら中東諸国を回り「将来の最有力市場」と見立てた
- [4]アラブ大塚製薬の吉田勝保社長は「輸液の大塚」のイメージが中東・アフリカ各国に浸透していると述べた
医薬品事業の分社で作られた二階建てモデルの出発点
1964年8月、医薬品事業を分社する形で大塚製薬が設立された。輸液という制約の多い基幹品で稼ぎながら、新規領域に資金と人を回せる構造ができ、グループは医療と並行して飲料・栄養食という消費財に進出する素地を得た。この分社が、後年の医薬/ニュートラシューティカルズ二本柱の出発点である。分社によって医薬品の研究開発と営業機能が独立会社として動けるようになり、大塚製薬工場は輸液と医療栄養の基幹生産を担う体制に落ち着いた。役割分担がなり、グループ全体として医薬で稼ぎつつ消費財にも資源を回せる構造が整った。分社時点での事業規模は小さく、武田や三共のような先行製薬大手と比べれば新参の位置だった。 [5]
- 大塚HD 有価証券報告書/大塚ホールディングス公式沿革
- [5]1964年8月に医薬品事業を分社して大塚製薬が設立された
分社にあたって正士は、大塚製薬を「グループの長男となる会社」と位置づけ、自社開発力の強化を担う責任者に、息子の大塚明彦を据えた。営業関係の仕事は一切やらせず、開発と生産の責任者としての道を歩ませる人事だった。当時の大塚グループは、正士自身が長く掲げてきた「大手の物マネをしろ」という方針に沿って既存の新薬の類似品を売る体質を色濃く残しており、正士は大塚製薬の設立直前に「これからは独自商品をつくる」と宣言したものの、体質は容易には変わらなかった。明彦自身も自らを「大塚の紅衛兵」と呼び、掲げた目標を「正当への回帰」とした。皮肉にも大塚製薬が販売部門しか持たなかったことが幸いし、明彦はゼロから思うままに研究開発体制を築くことができ、これが後年の飲料・栄養食品分野への展開を支える開発力の土台になった。 [6][7]
- 日経ビジネス(1991-04-15)
- [6]正士は大塚製薬を「グループの長男となる会社」と位置づけ、開発・生産の責任者に大塚明彦を据えた
- [7]大塚明彦は自らを「大塚の紅衛兵」と呼び、目標を「正当への回帰」とした
当時の国内製薬業界は1961年の国民皆保険制度成立を受けて医療用医薬品市場が急拡大し、各社が研究開発投資を競う時期にあった。大塚もその流れに乗りつつ消費財への越境を選んだ。輸液で稼いだ現金を医薬品研究だけでなく飲料開発にも回す配分方針が、以降のグループ構造を決めた。1964年の分社は単なる組織再編ではなく、医薬と消費財を並走させる二階建てモデルの出発点だった。武田・三共・山之内といった医薬専業に資源を集中させた同業他社と比べると、大塚の資源配分は医療と生活領域にまたがる横断型で、同じ製薬業界にいながら業態の重心が異なる会社に進んだ。
- 大塚HD 有価証券報告書/大塚ホールディングス公式沿革
- [5]1964年8月に医薬品事業を分社して大塚製薬が設立された
- 日経ビジネス(1991-04-15)
- [6]正士は大塚製薬を「グループの長男となる会社」と位置づけ、開発・生産の責任者に大塚明彦を据えた
- [7]大塚明彦は自らを「大塚の紅衛兵」と呼び、目標を「正当への回帰」とした
「徳島のジュース屋さん」と呼ばれた酒販ルート進出
1965年2月、大塚製薬はオロナミンCドリンクを発売した。当時の栄養ドリンクは茶色いガラス瓶に入った薬局商品で、若い世代が日常的に飲むものではなかった。大塚は黄色い小瓶を全国の酒販店・食料品店ルートに乗せ、医薬品メーカーが消費財の販路で勝負する珍しい構図を作った。発売当初は問屋にも薬局にも在庫が積み上がり、大塚正士は「血の小便は出るし、死んでやろうかと思いました」「うまくいかなくても、自分が参議院選挙に出て落選したと思えばいい」(日経ビジネス 1978/09/11)と当時を振り返っている。九州地区だけで月300万円・半年で2000万円を新聞雑誌広告に投じ、テレビCMにも資金を張って市場を作り直した。薬局チャネルを前提にしていた当時の製薬各社から見れば、酒販ルートへの進出は販路秩序の外に出る行為だった。
1980年4月にはポカリスエットを発売した。発汗で失われる電解質を補う「飲む点滴」というコンセプトは輸液工場の発想そのもので、医薬の知見を消費財に持ち込んだ典型例である。スポーツドリンクという市場カテゴリーは事実上ポカリスエットによって作られた。1983年4月にはカロリーメイトを発売し、栄養補助食品という新ジャンルも開いた。同時代の医薬品業界からは「しょせん徳島のジュース屋さんでしょう」「医薬品業界での認識は"大きな中小企業、大塚飲料"程度」(日経産業新聞 1982/02/19)という冷ややかな評価が返ってきた。それでも大塚は医薬で稼ぎながら飲料・栄養食で別の収益源を育てた。消費財の売上が日々回る現金を供給し、医薬の長い開発期間を耐える財務基盤を支えた。