1978年〜 染料問屋とビルメンテから始まった独立2社の歴史シミュレーションとアクション
- 1978年 襟川陽一が「光栄」を創業
- 1981年 テーカン、アミューズメントソフト自社開発第一弾『プレアデス』を発売
- 1981年 光栄、エンタテインメントソフト第一弾『川中島の合戦』を発売
- 1983年 光栄、『信長の野望』を発売
- 1986年 テクモ、家庭用ソフト第一弾『マイティボンジャック』を発売
- 1996年 テクモ、対戦格闘ゲーム『DEAD OR ALIVE』を発売
- 2008年 テクモとコーエーが経営統合に関する「統合契約書」を締結
染料問屋の家業を継いだ襟川陽一氏が「川中島の合戦」でゲーム業界へ転換した最初の事例
1978年7月、襟川陽一氏は[1]栃木県足利市で染料・工業薬品問屋として光栄を創業した[2]。前年に倒産した家業を再建する目的での創業で、当初の事業内容はゲーム業界とは無縁の問屋業だった。転機は1980年10月、襟川氏の30歳の誕生日に妻の襟川恵子氏[3]が贈ったシャープ製パソコンMZ-80Cである。これを契機に襟川陽一氏はパソコン用ゲームの自作を始め、1981年10月に処女作「川中島の合戦」を発売した[4]。コンピュータRPGや海外発のアドベンチャーゲームが日本市場の中心だった時代に、戦国時代を題材にした歴史シミュレーションという独自ジャンルを切り開いた製品となった。
- コーエーテクモホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]創業者は襟川陽一氏
- [2]1978年7月 襟川陽一氏が栃木県足利市で染料・工業薬品問屋として光栄を創業
- [4]1981年10月 処女作「川中島の合戦」を発売
- [3]1980年10月 襟川陽一氏30歳の誕生日に妻・襟川恵子氏がシャープ製MZ-80Cを贈った
1983年3月に「信長の野望」を発売[5]した頃には事業の軸足をソフト開発へ移し、染料事業から撤退した。「信長の野望」(1983年)と「三國志」(1985年)の2[6]大シリーズで歴史シミュレーションというジャンルを確立し、後発の競合が容易に模倣できない長期IPの基盤を築いた。光栄の事業転換は、自社開発のパソコン用シミュレーションゲームという当時新興のニッチ市場に経営資源を集中投下する判断で、染料問屋時代の販路・取引先・営業ノウハウのいずれもゲーム事業には継承されず、文字どおりの異業種転換となった。襟川陽一氏の30歳時の決意は、後年のインタビューで以下のとおり語られた。
- コーエーテクモホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1983年3月 「信長の野望」を発売(前後して主力をソフト開発に移し染料事業から撤退)
- [6]「信長の野望」(1983年)・「三國志」(1985年)の2大歴史シミュレーションシリーズ
収益の中心はあくまで歴史シミュレーション系シリーズだったが、光栄は1990年代を通じて他ジャンルへの拡張も進めた。後年の財務体質を特徴づける有価証券運用も同時期から始まっており、襟川恵子氏が個人で培った株式投資の経験[7]を生かして運用ノウハウを社内に持ち込んだ。創業から30年余を経た時点で、光栄は無借金経営とIP長期運営という二つの特徴を備えた独立系ゲーム会社となっていた。後の統合相手となるテクモは、別ルートでゲーム業界に参入していた。
- [7]襟川恵子氏が個人で培った株式投資の経験を社内の有価証券運用に持ち込んだ
- コーエーテクモホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]創業者は襟川陽一氏
- [2]1978年7月 襟川陽一氏が栃木県足利市で染料・工業薬品問屋として光栄を創業
- [4]1981年10月 処女作「川中島の合戦」を発売
- [5]1983年3月 「信長の野望」を発売(前後して主力をソフト開発に移し染料事業から撤退)
- [6]「信長の野望」(1983年)・「三國志」(1985年)の2大歴史シミュレーションシリーズ
- [3]1980年10月 襟川陽一氏30歳の誕生日に妻・襟川恵子氏がシャープ製MZ-80Cを贈った
- [7]襟川恵子氏が個人で培った株式投資の経験を社内の有価証券運用に持ち込んだ
ビルメンテと「忍者外伝」── テクモ30年の屈折と2008年の経営危機
統合相手のテクモは1967年7月、日本ヨット株式会社として設立[8]された別系統の会社である。ビルメンテナンスや業務用アミューズメント機器の販売を主力[9]としていた。ゲーム開発への本格参入は1981年のアーケード「プレアデス」、1986年のファミコン「マイティボンジャック」「テーカン・ワールドカップ」で始まり、同年1月に商号をテクモに変更した[10]。光栄が歴史シミュレーションで独自ジャンルを切り拓いたのに対し、テクモはアクション・スポーツの大衆ジャンルで成長しており、補完的なIPポートフォリオが統合後の成長を支えた。「DEAD OR ALIVE」「忍者外伝」「モンスターファーム」など、アクション・格闘・育成系の代表IPを1990〜2000年代に確立した。
- コーエーテクモホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [8]テクモは1967年7月、日本ヨット株式会社として設立
- [9]設立当初はビルメンテナンス・業務用アミューズメント機器販売が主力
- [10]1986年1月 商号をテクモに変更(同年ファミコン参入)
しかし2008年、テクモは深刻な経営危機に直面した。同年5月、看板タイトル「DEAD OR ALIVE」「NINJA GAIDEN」の主要プロデューサーである板垣伴信氏が成功報酬の未払いを理由に同社と安田善巳社長を相手取り1億4800万円の支払いを求めて提訴した[11]。テクモは同年6月に板垣氏を解雇し、板垣氏は請求額を1億6400万円超に引き上げた[12]。同年8月、安田社長は一身上の理由で辞任を発表し、創業家二代目の柿原康晴会長[13]が社長を兼任する非常体制となった。同社の業績は2000年代後半に減速しており、内紛とトップ交代が重なって独立継続が困難な局面となった。
- [11]2008年5月 板垣伴信氏がテクモと安田善巳社長を提訴(成功報酬未払い・請求額1億4800万円)
- [12]2008年6月 板垣氏を解雇、板垣氏は請求額を1億6400万円超に増額
- [13]2008年8月 安田善巳社長が一身上の理由で辞任、創業家二代目の柿原康晴会長が社長兼任
2008年11月、光栄とテクモは2009年4月の経営統合を発表した[14]。発表時点で光栄の松原健二社長は両社合算で営業利益を3年で倍増[15]させる利益計画を示し、テクモの柿原康晴社長は単独での競争継続が困難であった事業環境を踏まえて統合決断の背景を説明した。両社創業者間の長年の親交、歴史シミュレーションとアクション・格闘という補完的なIPポートフォリオ、北米法人と国内販売網の重複整理によるコスト削減余地が統合の根拠となった。当時のゲーム業界では家庭用ゲーム機の世代交代(PS3・Wii・Xbox 360)に伴う1タイトルあたりの開発費が前世代の3〜5倍規模に上昇しており、独立系中堅ゲーム会社は単独での開発投資負担が困難となる業界構造の変化が背景にあった。
- [14]2008年11月 光栄とテクモが2009年4月の経営統合を発表
- [15]光栄の松原健二社長が両社合算で営業利益を3年で倍増させる利益計画を示した
- コーエーテクモホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [8]テクモは1967年7月、日本ヨット株式会社として設立
- [9]設立当初はビルメンテナンス・業務用アミューズメント機器販売が主力
- [10]1986年1月 商号をテクモに変更(同年ファミコン参入)
- [11]2008年5月 板垣伴信氏がテクモと安田善巳社長を提訴(成功報酬未払い・請求額1億4800万円)
- [12]2008年6月 板垣氏を解雇、板垣氏は請求額を1億6400万円超に増額
- [13]2008年8月 安田善巳社長が一身上の理由で辞任、創業家二代目の柿原康晴会長が社長兼任
- [14]2008年11月 光栄とテクモが2009年4月の経営統合を発表
- [15]光栄の松原健二社長が両社合算で営業利益を3年で倍増させる利益計画を示した