日本電装を設立
終戦直後にトヨタ自動車は経営不振に陥り、自動車部品事業を非注力分野として分離を決定。戦時中に航空機部品を製造していた刈谷工場を継承する形で「日本電装(以下、デンソー)」が設立された。
分離独立の際に「トヨタ」という名称が与えられなかったため、実質的な自動車部品事業の切り捨てであり、人員削減にも追われた。このため、当時のデンソーの社員は「トヨタを追い越してやる」と発奮したという。
なお、トヨタ自動車がデンソーの筆頭株主になったのは1960年代であり、当初の資本関係は希薄であり、名実ともにデンソーが「トヨタから見捨てられた」存在であったことを示唆している。
東証1部に株式上場
1951年の上場直後の筆頭株主上位3名の構成は「互恵会」「帝国銀行」「林虎雄(デンソー当時社長)」であり、トヨタ自動車は筆頭株主ではなかった。
なお、当時は自動車部品(電装品=モーター)以外にも、家庭用洗濯機の製造も手がけていた(のちに撤退)
ロバートボシュと提携
設立当初の日本電装は、自動車向けのモーターを製造しており、コイルを巻く生産が事業の主力であり、エンジン部品の開発力や、生産技術には乏しかった。
そこで、1953年にデンソーはドイツの自動車部品メーカー「ロバートボッシュ」との資本提携を決定。ボッシュに数%の株式を保有させる一方で、デンソーはエンジンに関する高度な技術や、効率的な生産技術の習得に注力するようになった。
この提携は、特に生産技術に対する意識向上に大きな役割を果たした。デンソーは生産技術をさらに磨くために、技能養成所の設置や、デミング賞への参加を相次いで決めるなど、全社的に生産改善に惜しみなく取り組むようになった。
現在でもデンソーは生産技術を重視しており、毎年開催される技能五輪では若手技術者が活躍している。