トヨタ自動車が電装品部門を分離した理由は、1949年のトヨタ自動車の経営危機にあった。
1945年の終戦によってトヨタ自動車は「軍需向けトラック製造」の需要を失い、人員削減を伴うリストラ(1600名の解雇)を決定。この過程で各部門を分離(伝送・琺瑯・紡績)する経営再建が実施され、電装部門および電装工場(刈谷工場)はデンソーとして分離することが決まった。
1949年にトヨタ自動車の自動車向け電装部品(モーター)の製造部門を分離させる形で日本電装(現デンソー)を設立した。同部門の生産拠点であった「トヨタ自動車刈谷北工場」も譲渡されて、刈谷に本社を設置した。デンソーの初代社長にはトヨタ自動車の電装品部門工場長であった林虎雄氏が就任。会社は即時の従業員数は1,445名であった。
設立直後の1951年時点におけるデンソーの生産品目は、電装品(ダイナモ・スターターなど)・冷却器(ラジエーター)・計器(メーター)などであり、電装品を中心に各種自動車部品の製造を手掛けた。特異なものとしては、1950年代には家庭向け電気洗濯機に参入していたが、販路開拓に苦戦したため撤退している。
なお、デンソーの発足時において、トヨタ自動車は日本電装の株式の大半を保有せず、関係会社・子会社といった位置づけにはされなかった。デンソーの会社発足時の実態は「不採算の電装部門の分離」であり、日本電装はトヨタ自動車から資本的にも切り捨てられた存在であった。
社名に「トヨタ」の名前が関せられずに「日本電装」となった理由も、仮にデンソーが倒産した場合に「トヨタ電装」という名前を冠していたら、トヨタ自動車にとって迷惑であるため、そのリスクヘッジとして「トヨタ」の商号を使うことが許されなかった。
財務面でも厳しいスタートを切った。会社設立時における資本金1500万円に対して、1.5億円の負債を抱えた状態であり、自己資本比率は5%であった。これはトヨタ自動車から設備とともに、ラジエータ部門の累積赤字1.4億円を債務(トヨタ自動車からの借入金扱い)を受け継いだことが理由であった。
会社設立直後の1950年3月にはデンソーの経営が行き詰まり、人員削減を決定。従業員約1400名のうち473名を解雇する再建案を発表。残留する社員に対しても10%の賃金カットを決めるなど、人件費が経営の重荷となった。人員削減に際しては、労働組合と経営陣の対立が発生するなど、デンソーは会社設立時から前途多難なスタートを切った。
このため、デンソーの会社設立当時の評判は悪く「一番早く潰れる」「トヨタの寄生虫」といった声もあがった。デンソーとしは「潰れる」という悪評を消すために、岩月氏(当時デンソー・取締役)が「日本電装は潰れるか」という論文を執筆するなど、火消しに注力していた。
まず第一に、トヨタ自工としても、また日本電装の経営者としても、具体的にわれわれの工場を解散または閉鎖しようという考えは毛頭ないし、話題にすら出たこともない。したがって、現在このことを心配する必要は一切ない。 しからば、わが社が将来も永久につぶれないという保証があると言われるかもしれないが、このことについては軽々しくイエスともノーとも返事しかねる。強いて言えば『それは日本電装全員(重役も含めた)の心構え次第だ』ということになる。そして「最上の品質、最低の原価」の電装品を作り、業界第1位の会社となるよう、全員が協力して頑張り通す以外に道はない。こうした点に着目し、自覚して、全員総努力の実をあげることによって飲み会社も生き残れる。重役室はこの自覚のもとに最善の対策を樹立していく所存であるから、全従業員諸君もここに思いをいたして、お互いの生活拠点を守り抜く決意を持って重役室の方針に協力し、意見具申もしていってほしい。
1950年に勃発した朝鮮特需により自動車の需要が増加し、電装部品を手がけるデンソーの業績が好転。主にトヨタ自動車からの発注により売上を拡大した
生産性改善のために1.6億円の設備機械(巻線・研削・歯切盤・自動盤・計器など)の購入を決定。新鋭工作機械を海外から輸入
1951年の上場直後の筆頭株主上位3名の構成は「互恵会」「帝国銀行」「林虎雄(デンソー当時社長)」であり、トヨタ自動車は筆頭株主ではなかった。
1953年時点の販売先の売上構成は「トヨタ自動車向け60%」「三輪車メーカー(ダイハツ・マツダなど)向け17%」「いすゞ・オオタ向け11%」「代理店12%」(出所:証券24(12))であり、トヨタ自動車を中心としつつも三輪車メーカーを中心にトヨタ以外の自動車メーカーとの取引にも注力した。
販路構築に苦戦して撤退を決定。製造設備を愛知工場に譲渡し、設備の清算を完了
北工場(第5工場・第6工場)を新設して噴射ポンプおよびメーター計器の生産に従事。ただし本社工場は北工場の新設をもって拡張が難しくなり、これ以降の増産は西三河地区(安城・刈谷・西尾など)に工場を新設する形で対応した
完成日時 | 建物 | 生産品目 |
- | 第1工場 | スターター |
- | 第2工場 | プレス |
- | 第3工場 | 部品 |
- | 第4工場 | ラジエーター |
1961 | 第5工場 | 点火プラグ |
1961 | 第6工場(北工場) | 噴射ポンプ、メーター計器 |
- | ダイナモ工場 | - |
- | 工機工場 | - |
- | その他 | ダイガスト工場、型工場、フィルター工場 |
本社近くに10万m2の土地を取得して池田工場を新設。カーヒーター、カークーラーの増産に対応した(1970年の西尾製作所の新設でカーエアコンは西尾に移設)。
完成日時 | 建物 | 生産品目 |
1966/07 | ヒーター・クーラー工場 | ヒーター・クーラー |
1967/09 | ラジエーター工場 | ラジエーター |
デンソーの大口顧客はトヨタ自動車などの大手自動車メーカーであり、価格圧力が厳しい状況に置かれていた。トヨタからはコストダウンや性能向上の厳しい目標が設定され、デンソーとしては「下請けとして選ばれ続ける部品メーカー」であるために、量産によるスケールメリットに活路を求めた。
このため、1970年代前半までに「安城・西尾・高棚」の各製作所を新設して対応。折しも、モータリゼーションにより乗用車の市場規模が急拡大しており、デンソーはこれらの乗用車向け部品の量産によって業容を拡大した。
特に、カーエアコンの量産による売上拡大が顕著で、売上構成費で祖業である「電装品」を逆転。デンソーの業績に寄与する大型製品に育った。
なお、1970年代当時のカーエアコンの販売先は、トヨタ自動車工業(製造担当)向けではなく、トヨタ自動車販売(販売会社)や各自動車販売店向けが主流であった。これは、当時のカーエアコンは高級品(=嗜好品)であり、オプション販売による市販品が中心だったことに由来する。このため、デンソーのカーエアコンは「トヨタ(正確にはトヨタ自動車工業)の価格圧力」から逃れて高収益を確保していたという。
しかし、カーエアコンが普及すると「市販品」ではなく「標準品」の扱いとなり、完成車メーカーの価格圧力が強まり、利益率は抑えられてしまった。特に、1982年のトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併(工販合併)によって、「トヨタ自販」という優良顧客を失い、デンソーは価格コントロールができない立場におかれたことも影響している。このため、カーエアコンの拡大の一方で、全社利益率の水準は5%前後という横ばいで推移した。
本社以外では初となる量産工場として新設。不二越の旧安城工場の跡地を取得して活用。電装品(オルターネーター、スターター)の事業部を移設して量産を開始
完成日時 | 建物 | 生産品目 |
1967/09(1期工事) | 第1工場 | 電装品(レギュレーター、オルタネータ、スターター等) |
1968/11(2期工事) | 第2工場 | 電装品 |
1969/02(2期工事) | 第3工場 | 電装品 |
1973/12(新工場) | 211工場 | 電装品 |
カーエアコン・カーヒーター・噴射ポンプの量産拠点として新設
完成日時 | 建物 | 生産品目 |
1970/08(1期工事) | 401工場 | ヒーター |
1971/05(1期工事) | 402工場 | クーラー |
1971/05(2期工事) | 405工場 | ウォッシャー、ワイパー等 |
1971/05(2期工事) | 407工場 | 噴射ポンプ等 |
1971/04(3期工事) | 404工場 | バスクーラー等 |
1972/11(3期工事) | 406工場 | コンプレッサー等 |
1973/10(3期工事) | 403工場 | 排気関係製品 |
1973/08 | 西尾教育センター | - |
メーター計器の量産拠点として新設
完成日時 | 建物 | 生産品目 |
1974/06 | 501工場 | メーター計器など |
1974/06 | 502工場 | メーター計器など |
電装品の売上1532億円(対全社売上構成比29.6%)に対して、冷暖房機器の売上2024億円(同構成比39.1%)を達成。冷暖房機器(≒カーエアコン・カーヒーター)が全社製品でNo.1の売上高を確保する製品に育つ
デンソーは売上高1兆円計画を策定。「トヨタ以外の顧客開拓」「海外進出」「エレクトロニクス分野」の3つの方針を掲げた。
販売面では、トヨタ自動車に偏重していた取引体系を見直し、部品関係では日立との結びつきが強かった日産自動車など、トヨタ以外の自動車メーカーとの取引の模索を本格化した。
海外進出では、トヨタ自動車のアメリカ・ケンタッキー工場の稼働に合わせて、デンソーも北米での部品の現地生産を開始した。
エレクトロニクス分野では大規模な投資を決定するものの、トヨタ自動車は急成長するデンソーを警戒。トヨタ自動車は自社で広瀬工場(ICの製造)を1989年に新設することでデンソーを牽制した。
なお、広瀬工場に関しては、2020年にトヨタは電子部品事業の集約を目指して広瀬工場をデンソーに譲渡しており、トヨタは「自らの判断が正しくなかった」ことを認める形となった。
トヨタ自動車のケンタッキー工場の新設を受けて、デンソーも北米現地法人を設立。現地生産の拠点を整備
設立年 | 法人名 | 出資比率 | 従業員数 | 取扱品目 |
1971/03 | Nippondenso Los Angeles Inc. | 80% | 333名 | エアコン |
1984/11 | Nippondenso Manufacturing USA Inc. | 100% | 1296名 | エアコン、ラジエータ |
1985/12 | Nippondenso America Inc. | 100% | 290名 | 電装品、エアコン |
1988/07 | Nippondenso Tenessee Inc. | 100% | 146名 | 電装品、メーター |
1989/01 | Michigan Automotive Compressor Inc. | 50% | 394名 | コンプレッサー |
1989/09 | Purodenso Co. | 50% | 249名 | フィルター |
1989/11 | AFPS Corp. | 50% | 201名 | 噴射ポンプ |
円高の進行による輸出の採算悪化や、日米貿易摩擦(自動車)によってトヨタ自動車などの各社で業績低迷。部品メーカーであるデンソーの業績も悪化
取引先である米ビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)からの要請を受けて、メキシコでの現地生産に着手
グローバル展開を見据えて、社名を日本電装から「デンソー」に変更した。
中国現地法人の統括会社として設立
海外ではグローバル化により米州・欧州・豪州・アジアにおいて拠点が増加し、売上成長の牽引役となった。国内では「ケイレツ」に対する独占禁止法の観点からの批判が強まった。そこで、デンソーは改めて企業が目指す方向を定義することを決め、全社員が拠り所とすべき精神を明文化した「デンソースピリット」を策定した。
アジアの統括会社としてタイに設立
自動車のEV化という潮流に対して危機感を抱いた有馬社長は、この流れに乗り遅れないために「長期ビジョン2030」を策定した。
2019年からの投資計画では、成長が望めない内燃機関に対する投資を抑制する代わりに、成長が望める電駆動分野(インバータ・MG・電池電源など)への重点的な投資を決定するなど、事業構造の変革を進めている。
ただし、2020年の時点でデンソーの売上収益の約50%をトヨタ自動車向けに依存しており、トヨタの電動化の成否が、デンソーの業績の浮沈を左右する構造は変化していない。
カーナビやカーオーディオを手がける富士通テン(1973年にトヨタ自動車が資本参加)を買収。取得対価は205億円。経営は赤字が続いていたが、カーナビなどのソフトウェア技術の習得を目論む。デンソーとしては自動運転の研究開発の強化が狙いであった
車載向け半導体製造拠点を取得
2019年にデンソーの「燃料ポンプ」について、トヨタ自動車がリコールを届出。これを受けてデンソーはリコールを決定。対象は国内322万台。2021年3月末時点で製品保証引当金2148億円を計上しており、燃料ポンプの単価(完成車メーカー向け販売)は2000円/個に対して、リコール費用は6万円/個に及んだ。
一貫してデンソーはトヨタグループ向け売上比率が50%で推移。売上拡大は主にトヨタ向けの売上拡大に起因しており、売上依存の構造は15年以上にわたり変化せず