1896年〜 井上勝氏の国策創業から東西二拠点の確立と戦時量産体制まで
- 1896年 汽車製造を創立
- 1899年 平岡熈を副社長に迎え社名を大阪汽車製造に変更
- 1899年 大阪工場で開業式を挙行
- 1900年 南海鉄道に四輪客車16両を納入
- 1901年 わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」が誕生
- 1906年 鉄道国有法公布により顧客激減
- 1949年 蒸気機関車製造を中止・佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
井上勝氏の創業と平岡工場合流による東西二拠点体制
1896年9月、鉄道局長を退いた井上勝氏が大阪府西成郡川北村に汽車製造合資会社を創立した。資本金64万円、出資社員18人には黒田長成・前田利嗣・毛利五郎ら旧大藩諸侯、岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・藤田伝三郎ら明治財界の中核が並んだ。後に「鉄道の父」と呼ばれる井上氏が早々に民間車両会社の創立に動いたのは、当時の鉄道資材が輸入一辺倒で外貨が流出し続けた状況を変える目的があった。井上氏自身が掲げた創立趣意の第一項は「外貨を節約することができる」、第三項は「わが国の労働者に職を与えることができる」であり、創業時点から国策的性格を帯びていた。 [1][2][3]
- 川崎重工業百年史
- [1]1896年9月 鉄道局長を退いた井上勝が大阪府西成郡川北村に汽車製造合資会社を創立
- [2]創立時の資本金は64万円
- [3]出資社員18人に黒田長成・前田利嗣・岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎ら旧大名家と財界人が並んだ
1899年6月、東京小石川で平岡工場を経営していた平岡熈氏を副社長に迎え、社名を大阪汽車製造合資会社に変更、資本金を90万円に増資した。同年7月5日に大阪工場で開業式を挙行し、製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社に発送した。日清戦争後の不況下での船出だったが、開業前から41件・6万円超の引き合いがあり、初年度から安定的に受注を確保した。1901年7月には東京本所区錦糸町の平岡工場一切を譲り受け、社名は再び汽車製造合資会社に戻された。この買収によって、東京と大阪の二拠点体制が成立した。 [4][5][6][7][8]
- 川崎重工業百年史
- [4]1899年6月 平岡熈を副社長に迎え社名を大阪汽車製造合資会社に変更・資本金90万円に増資
- [5]1899年7月 大阪工場で開業式・製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社へ発送
- [6]開業前から41件・6万円超の引き合いがあった
- [7]1901年 東京本所区錦糸町の平岡工場一切を譲り受け社名を再び汽車製造合資会社に戻した(社名再変更1901/6・平岡工場買収1901/7)
- [8]平岡工場買収により東京と大阪の二拠点体制が成立
1901年8月、わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」を完成、同系列9号機は鉄道作業局民間発注第1号機「A10形」となり、1911年に川崎造船所製「6700形」が登場するまでの10年間、汽車製造が国産機関車市場を独占した。車輪旋盤など工作機械の自社生産も1899年以降進め、官営・民営鉄道の各工場へ供給した。だが1906年の鉄道国有法で主要顧客が一気に消失、1909年8月には汽車製造・日本車輛・川崎造船所の3社で鉄道用品製造共同事務所を設立、1910年に井上勝氏が急逝、1912年6月に株式会社へ改組し専務取締役に長谷川正五氏が就任するなど、創業16年で官民の構造変化を立て続けに迎えた。 [9][10][11][12][13][14]
- 川崎重工業百年史
- [9]1901年8月 わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」完成・同系列9号機が鉄道作業局民間発注第1号機「A10形」
- [10]1911年の川崎造船所製「6700形」登場まで約10年間 汽車製造が国産機関車市場を独占
- [11]1906年 鉄道国有法で主要顧客が一気に消失
- [12]1909年8月 汽車製造・日本車輛・川崎造船所の3社で鉄道用品製造共同事務所を設立
- [13]1910年 創業者 井上勝が急逝
- [14]1912年6月 合資会社を株式会社へ改組・専務取締役に長谷川正五が就任
- 川崎重工業百年史
- [1]1896年9月 鉄道局長を退いた井上勝が大阪府西成郡川北村に汽車製造合資会社を創立
- [2]創立時の資本金は64万円
- [3]出資社員18人に黒田長成・前田利嗣・岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎ら旧大名家と財界人が並んだ
- [4]1899年6月 平岡熈を副社長に迎え社名を大阪汽車製造合資会社に変更・資本金90万円に増資
- [5]1899年7月 大阪工場で開業式・製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社へ発送
- [6]開業前から41件・6万円超の引き合いがあった
- [7]1901年 東京本所区錦糸町の平岡工場一切を譲り受け社名を再び汽車製造合資会社に戻した(社名再変更1901/6・平岡工場買収1901/7)
- [8]平岡工場買収により東京と大阪の二拠点体制が成立
- [9]1901年8月 わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」完成・同系列9号機が鉄道作業局民間発注第1号機「A10形」
- [10]1911年の川崎造船所製「6700形」登場まで約10年間 汽車製造が国産機関車市場を独占
- [11]1906年 鉄道国有法で主要顧客が一気に消失
- [12]1909年8月 汽車製造・日本車輛・川崎造船所の3社で鉄道用品製造共同事務所を設立
- [13]1910年 創業者 井上勝が急逝
- [14]1912年6月 合資会社を株式会社へ改組・専務取締役に長谷川正五が就任
東京拠点の拡張と戦時下の量産体制
1931年、東京支店を錦糸町から江東区南砂町に移転した。最終的に敷地は21万5,000㎡と大阪に匹敵する規模に達し、東京拠点の本格的拡張が同社の飛躍の原動力となった。1936年には創業40周年を機に本社を東京丸ノ内の丸ビルに進出させ、本社移転と同時に増資・工場大増設を実施した。大阪と東京の二大製造拠点を丸ノ内本社が統括する体制が、ここで整った。この時期は海外向け橋梁の輸出も拡大し、車両以外の収益基盤の広がりを示した。 [15][16][17]
- 川崎重工業百年史
- [15]1931年 東京支店を錦糸町から南砂町(江東区)へ移転
- [16]移転後の敷地は最終的に21万5,000㎡と大阪に匹敵する規模
- [17]1936年 創業40周年を機に本社を東京丸ノ内の丸ビルに進出・同時に増資と工場大増設
1940年2月には岡山県児島湾の干拓地に約33万㎡を取得して岡山工場の建設に着手し、1943年6月に操業を開始した。戦時下の物資統制と労働力動員のなかで、岡山工場は小型ボイラ・ストーカ・クレーマなどを若干製造したにとどまり、完成を見ないまま1950年4月に閉鎖された。1944年5月、大阪本店は大阪製作所、東京支店は東京製作所と改称され、丸ビル本社と2製作所による組織体制を確立した。1944年時点の製品は、大阪製作所が機関車・ボイラ・ストーカ・橋桁・鉄骨・工作機械・軍需品、東京製作所が客車・貨車・電車・自動車車体・鉱山用諸機械と、生産品目別の分業がすでに定着していた。 [18][19][20][21]
- 川崎重工業百年史
- [18]1940年2月 岡山県児島湾の干拓地に約33万㎡を取得し岡山工場の建設に着手
- [19]1943年6月 岡山工場が操業開始(小型ボイラ・ストーカ・クレーマなど若干製造にとどまる)
- 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
- [20]岡山工場は完成を見ないまま1950年に閉鎖
- [21]1944年5月 大阪本店を大阪製作所・東京支店を東京製作所と改称し丸ビル本社と2製作所体制を確立
- 川崎重工業百年史
- [15]1931年 東京支店を錦糸町から南砂町(江東区)へ移転
- [16]移転後の敷地は最終的に21万5,000㎡と大阪に匹敵する規模
- [17]1936年 創業40周年を機に本社を東京丸ノ内の丸ビルに進出・同時に増資と工場大増設
- [18]1940年2月 岡山県児島湾の干拓地に約33万㎡を取得し岡山工場の建設に着手
- [19]1943年6月 岡山工場が操業開始(小型ボイラ・ストーカ・クレーマなど若干製造にとどまる)
- 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
- [20]岡山工場は完成を見ないまま1950年に閉鎖
- [21]1944年5月 大阪本店を大阪製作所・東京支店を東京製作所と改称し丸ビル本社と2製作所体制を確立