汽車製造の沿革・歴史的証言
1896年〜1972年
汽車製造の1896年〜1972年の主要な出来事・経営判断・組織変化を年月順に並べた沿革(社史年表)と、経営者・当事者の歴史的証言
| 年度 | 売上高 | 純利益 | 年月 | 区分 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|---|---|---|---|
1896 1-12月 | 会社設立 | 汽車製造合資会社を創立 鉄道局長を退いた井上勝が大阪府西成郡川北村に創立。出資社員18人には黒田長成・前田利嗣・岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎ら旧大名家と財界人が並んだ | 鉄道資材の輸入一辺倒を断つ目的で「鉄道の父」井上勝が興した日本初の本格的車両メーカー | |||
1899 1-12月 | 組織再編 | 平岡熈を副社長に迎え社名を大阪汽車製造合資会社に変更 東京小石川で平岡工場(1890年創業・わが国最初の貨客車メーカー)を経営していた平岡を副社長として迎入。資本金を90万円に増資 | 客車・貨車部門の取り込みによる総合車両メーカー化の第一歩 | |||
大阪工場で開業式を挙行 製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社に発送・新聞20紙に絵入り広告。開業前から41件・6万円超の引き合い | 日清戦争後不況下での船出 | |||||
1900 1-12月 | 研究開発 | 南海鉄道に四輪客車16両を納入 大阪工場での客車製造1号 | ||||
1901 1-12月 | 組織再編 | 社名を汽車製造合資会社に再変更 大阪汽車製造合資会社から再び汽車製造合資会社へ | ||||
企業買収 | 平岡工場を買収 東京本所区錦糸町で操業していた平岡工場の一切を譲受。井上馨・渋沢栄一の説得により実現 | 東西両拠点体制の確立 | ||||
研究開発 | わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」が誕生 同系列9号機は鉄道作業局の民間発注第1号機「A10形」となる。1911年に川崎造船所製「6700形」が登場するまで汽車製造が機関車を独占 | 鉄道機関車の国産化の幕開け | ||||
1906 1-12月 | 鉄道国有法公布により顧客激減 日本鉄道や山陽鉄道など有力民営鉄道が国有化され、汽車製造の主要顧客が消失 | 民営鉄道顧客の喪失。鉄道院依存体制への構造転換を強いられる | ||||
1909 1-12月 | 研究開発 | 特許工藤式蒸気動車を初瀬鉄道に納入 客車に小型ボイラを積んだ気動車。台湾・朝鮮にも輸出 | ガソリンカー出現前の小輸送車両として活躍 | |||
業務提携 | 鉄道用品製造共同事務所を設立 汽車製造・日本車輛製造・川崎造船所の3社が各15万円を出し合い設立。理事長は平岡熈 | 業界カルテル的共同受注体制の構築。平岡は公平への配慮から汽車製造副社長を辞任 | ||||
1910 1-12月 | 井上勝が急逝 創業者井上の死去に加え三菱造船所の車両事業進出など経営環境が悪化 | 創業者の喪失と業界競争激化の同時進行 | ||||
1912 1-12月 | 組織再編 | 合資会社を株式会社に改組 専務取締役に長谷川正五が就任(社長は空席)。同年11月に資本金270万円に増資 | 株式会社化による資本調達基盤の拡張 | |||
1918 1-12月 | 8時間労働制を採用 長谷川正五がワシントンの国際労働会議に経営者顧問として参加したことが契機 | 労働環境の近代化 | ||||
1923 1-12月 | 社長交代 | 長谷川正五が社長に就任 1912年の専務取締役就任以来11年を経ての社長就任 | ||||
1931 1-12月 | 設備投資 | 東京支店を錦糸町から南砂町に移転 移転後の敷地は最終的に21万5000㎡と大阪に匹敵する規模に | 東京拠点の本格的拡張。飛躍の原動力に | |||
1936 1-12月 | 設備投資 | 創業40周年を機に本社を東京丸ノ内丸ビルに進出 本社移転と同時に増資・工場大増設を実施 | 大阪発祥企業の東京シフトの完成 | |||
1940 1-12月 | 設備投資 | 岡山県児島湾の干拓地に岡山工場用地を取得 大阪工場が狭隘化したため約33万㎡を取得。同年「鮮鉄マテイ形」製造開始・鴨緑江橋りょう完成 | 戦時下の生産拡大需要への対応 | |||
1941 1-12月 | 船田要之助が会長就任 島会長が辞任。同年2000号機関車(C591)完成・二次給炭装置製造開始 | 戦時統制下の経営体制再編 | ||||
1943 1-12月 | 設備投資 | 岡山工場が操業開始 戦時下のため小型ボイラ・ストーカ・クレーマなど一部製品の製造に留まる。同年D52形製造開始・青函可動橋完成 | 戦時量産体制の構築(しかし未完成のまま) | |||
1944 1-12月 | 組織再編 | 大阪本店を大阪製作所・東京支店を東京製作所と改称 丸ビル本社と2製作所の組織体制が確立。佃分工場も設置・上陸用舟艇製造 | 本社・製作所の機能分離による近代的事業部制の前段。戦時最末期の量産体制 | |||
1946 1-12月 | 経営危機 | 特別経理会社・制限会社に指定 連合国軍の経済民主化政策により特別経理処理対象に。同年4月オート三輪車「なにわ号」生産開始(わが国初の丸ハンドル車)・クレマーミル製作開始 | 戦後改革による経営再出発 | |||
1947 1-12月 | 社長交代 | 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任。大ストライキ発生 同年三輪自動車(ナニワ号)・温水ボイラ・キ620ロータリー除雪車製造 | 戦後労働運動の高揚と経営体制の再編 | |||
1949 1-12月 | 社長交代事業撤退 | 蒸気機関車製造を中止・佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任 国鉄電化方針によりC62形を最後に蒸気機関車製造中止。同年振動応用機械の製造を開始 | 創業以来の主力製品の終焉と多角化の起点。社長相次ぐ死去で意思決定が滞る | |||
FY50 1950/4 | 売上高 50.25億円 | 当期純利益 -8.32億円 | 経営危機 | 岡山製作所閉鎖と大阪製作所大水害 大人員整理も同時実施。湘南電車(モハ80)製造・全溶接橋を開始 | 戦後最大の経営危機。蒸気機関車終了と工場閉鎖が重なる | |
FY51 1951/4 | 売上高 39.18億円 | 当期純利益 -1.22億円 | 研究開発 | ディーゼル機関車製造を再開 他社に先駆けて再開。流体変速機を用いた液圧式で他社を制し多数製造 | 鉄道車両動力転換期の主導権獲得 | |
研究開発 | 電気機関車製造を再開・カーダンパ製造開始 提携先の東洋電機製造を通じて戦後初の電気機関車受注。同年国鉄列車暖房用SG蒸気発生機を開発 | 蒸気機関車終了からわずか2年での電気機関車復活 | ||||
FY52 1952/4 | 売上高 57.76億円 | 当期純利益 4.53億円 | 社長交代 | 玉置社長逝去。SG蒸気発生機・液体式ディーゼル機関車製造開始(わが国最初) 3人目の社長病死。札幌・小倉に営業所設置 | 4年で社長3人を失う異例の事態。経営の停滞要因に | |
FY53 1953/4 | 売上高 76.57億円 | 当期純利益 3.96億円 | 社長交代 | 後藤悌次社長就任・社名通称「KSKボイラ」を導入 田熊汽缶製造とのネーミング混同を避けるため「KSKボイラ」に名称統一 | 長期病死社長を経た経営安定化の起点 | |
FY54 1954/4 | 売上高 35.2億円 | 当期純利益 1.3億円 | ||||
FY55 1955/4 | 売上高 32.7億円 | 当期純利益 0.85億円 | 研究開発 | 空気ばね台車の製造を開始(わが国最初) ボックスガーダー製造も同年開始 | ||
FY56 1956/4 | 売上高 42.4億円 | 当期純利益 1.3億円 | 研究開発 | 「モハ90形」(後の101系)電車製造を開始 高速電動機・カルダン駆動・電気ブレーキなど新性能電車の基本技術が結集 | その後の国鉄電車の基本となる新性能電車の誕生 | |
FY57 1957/4 | 売上高 75.94億円 | 当期純利益 1.96億円 | 研究開発 | 車輪転削盤製造開始(わが国最初)・ガス・エア・コンディショナ製造開始 | 工作機械と空調機の本格参入 | |
FY58 1958/4 | 売上高 69.6億円 | 当期純利益 4.1億円 | 研究開発 | ビジネス特急「こだま形」151系の製造を開始 東京・大阪間日帰りを実現。ステンレスカー「サロ95」2両も同年製造・DD13形製造開始・吸収式冷凍機製造開始 | 在来線特急電車の基本形を確立 | |
FY59 1959/4 | 売上高 66.9億円 | 当期純利益 4.2億円 | ||||
FY60 1960/4 | 売上高 96.9億円 | 当期純利益 4.9億円 | 研究開発 | 「DD14形」ロータリー除雪機関車を完成 従来の蒸気式ロータリー車にはなかった自走と かき寄せ作業の一体化を実現。同年建設機械の製作開始(振動クイ打機が最初) | 除雪機関車技術の革新 | |
FY61 1961/4 | 売上高 131.7億円 | 当期純利益 6.5億円 | 海外進出 | パナマ運河引き船用電気機関車を受注 500‰の急勾配試験のため東京製作所内に「パナマ山」を急造。合計62両納入 | 輸出機関車の象徴的案件 | |
FY62 1962/4 | 売上高 141.8億円 | 当期純利益 7.2億円 | 設備投資 | 滋賀製作所が完成 SG蒸気発生機の増産対応が主目的。新幹線試作電車製造・ユーゴへパルププラント輸出も同年 | 空調・ボイラ事業の本格拠点を確立 | |
FY63 1963/4 | 売上高 141.7億円 | 当期純利益 4.9億円 | ||||
FY64 1964/4 | 売上高 155.5億円 | 当期純利益 4.8億円 | 社長交代 | 後藤社長退任・笹村越郎社長に就任 新幹線電車・国立競技場製作・JCB掘削機製造開始 | 高度成長期の事業多角化の頂点 | |
FY65 1965/4 | 売上高 162.7億円 | 当期純利益 4億円 | 設備投資 | 本社を日本ビルヂングに移転 AS社製A3ボイラ販売開始・二重効用吸収式冷凍機製造開始 | ||
FY66 1966/4 | 売上高 172.2億円 | 当期純利益 4.05億円 | ||||
FY67 1967/4 | 売上高 205.4億円 | 当期純利益 3.36億円 | ||||
FY68 1968/4 | 売上高 265.7億円 | 当期純利益 3.33億円 | ||||
FY69 1969/4 | 売上高 286.7億円 | 当期純利益 -32.18億円 | 設備投資 | 宇都宮工場(東京製作所貨車工場)を開設 広島営業所・台北駐在員事務所も同年開設 | 事業拠点の地理的拡大の到達点 | |
経営危機 | 経営不振が顕在化・無配転落 新製品開発の試験研究費増加と不採算案件受注が原因で経常損失計上。なお翌1970/4に過去7年間の粉飾決算が発覚しており本期の業績悪化数値は粉飾の表面化と表裏一体 | 業績悪化の本格化と粉飾露呈。1972年合併への入口 | ||||
FY70 1970/4 | 売上高 255.2億円 | 当期純利益 17.49億円 | 経営危機 | 7年間にわたる粉飾決算が発覚 4月14日に発覚。1963年頃からの累積粉飾を一括計上したことが同期(45.3)の純損失33.9億円の主因となる。経常損失3.51億との大幅な乖離は特別損失約30億円計上による。同年5月の川重との業務提携・1972年4月吸収合併に至る連鎖の起点 | 「1969年経営不振顕在化」と表記される業績悪化の実質は累積粉飾の表面化。汽車製造合併消滅の真の起点となった事件 | |
業務提携社長交代 | 川崎重工業と業務提携・米谷修二が社長就任 粉飾発覚の翌月。第一銀行(メインバンク・筆頭株主8.8%)の要請のもと川重出身の米谷修二を社長として派遣・他に役員も派遣。鉄道車両・ボイラ・産業機械・鉄構の製販補完が表向きの目的 | 救済合併への前段階。粉飾発覚を受けた銀行団主導の緊急救済措置 | ||||
1971 1-12月 | 経営危機 | 川崎重工業との合併を決議 世界最大ホットシンタースクリーン完成等の技術実績を残しつつ合併決定 | 75年の独立経営の終焉決定 | |||
1972 1-12月 | 事業撤退 | 最終製造番号機「DE10 1171」完成 合併直前の最終出荷 | 機関車製造メーカーとしての最後の作品 | |||
組織再編 | 川崎重工業に吸収合併され社名消滅 合併前1971年上期実績は資本金26億5200万円・売上114億円(車両15%・橋梁鉄骨12%・ボイラ35%・化工機20%・機械18%)。大阪・滋賀・宇都宮製作所が川重に引き継がれ、後に滋賀は川重冷熱工業へ・宇都宮はアイ・ケイ・コーチへ移管 | 日本最初の民間鉄道車両メーカー75年の歴史終焉。技術は川崎重工各事業部門に継承 |
- 汽車製造合資会社を創立
鉄道局長を退いた井上勝が大阪府西成郡川北村に創立。出資社員18人には黒田長成・前田利嗣・岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎ら旧大名家と財界人が並んだ
鉄道資材の輸入一辺倒を断つ目的で「鉄道の父」井上勝が興した日本初の本格的車両メーカー - 平岡熈を副社長に迎え社名を大阪汽車製造合資会社に変更
東京小石川で平岡工場(1890年創業・わが国最初の貨客車メーカー)を経営していた平岡を副社長として迎入。資本金を90万円に増資
客車・貨車部門の取り込みによる総合車両メーカー化の第一歩 - 大阪工場で開業式を挙行
製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社に発送・新聞20紙に絵入り広告。開業前から41件・6万円超の引き合い
日清戦争後不況下での船出 - 南海鉄道に四輪客車16両を納入
大阪工場での客車製造1号
- 社名を汽車製造合資会社に再変更
大阪汽車製造合資会社から再び汽車製造合資会社へ
- 平岡工場を買収
東京本所区錦糸町で操業していた平岡工場の一切を譲受。井上馨・渋沢栄一の説得により実現
東西両拠点体制の確立 - わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」が誕生
同系列9号機は鉄道作業局の民間発注第1号機「A10形」となる。1911年に川崎造船所製「6700形」が登場するまで汽車製造が機関車を独占
鉄道機関車の国産化の幕開け - 鉄道国有法公布により顧客激減
日本鉄道や山陽鉄道など有力民営鉄道が国有化され、汽車製造の主要顧客が消失
民営鉄道顧客の喪失。鉄道院依存体制への構造転換を強いられる - 特許工藤式蒸気動車を初瀬鉄道に納入
客車に小型ボイラを積んだ気動車。台湾・朝鮮にも輸出
ガソリンカー出現前の小輸送車両として活躍 - 鉄道用品製造共同事務所を設立
汽車製造・日本車輛製造・川崎造船所の3社が各15万円を出し合い設立。理事長は平岡熈
業界カルテル的共同受注体制の構築。平岡は公平への配慮から汽車製造副社長を辞任 - 井上勝が急逝
創業者井上の死去に加え三菱造船所の車両事業進出など経営環境が悪化
創業者の喪失と業界競争激化の同時進行 - 合資会社を株式会社に改組
専務取締役に長谷川正五が就任(社長は空席)。同年11月に資本金270万円に増資
株式会社化による資本調達基盤の拡張 - 8時間労働制を採用
長谷川正五がワシントンの国際労働会議に経営者顧問として参加したことが契機
労働環境の近代化 - 長谷川正五が社長に就任
1912年の専務取締役就任以来11年を経ての社長就任
- 東京支店を錦糸町から南砂町に移転
移転後の敷地は最終的に21万5000㎡と大阪に匹敵する規模に
東京拠点の本格的拡張。飛躍の原動力に - 創業40周年を機に本社を東京丸ノ内丸ビルに進出
本社移転と同時に増資・工場大増設を実施
大阪発祥企業の東京シフトの完成 - 岡山県児島湾の干拓地に岡山工場用地を取得
大阪工場が狭隘化したため約33万㎡を取得。同年「鮮鉄マテイ形」製造開始・鴨緑江橋りょう完成
戦時下の生産拡大需要への対応 - 船田要之助が会長就任
島会長が辞任。同年2000号機関車(C591)完成・二次給炭装置製造開始
戦時統制下の経営体制再編 - 岡山工場が操業開始
戦時下のため小型ボイラ・ストーカ・クレーマなど一部製品の製造に留まる。同年D52形製造開始・青函可動橋完成
戦時量産体制の構築(しかし未完成のまま) - 大阪本店を大阪製作所・東京支店を東京製作所と改称
丸ビル本社と2製作所の組織体制が確立。佃分工場も設置・上陸用舟艇製造
本社・製作所の機能分離による近代的事業部制の前段。戦時最末期の量産体制 - 特別経理会社・制限会社に指定
連合国軍の経済民主化政策により特別経理処理対象に。同年4月オート三輪車「なにわ号」生産開始(わが国初の丸ハンドル車)・クレマーミル製作開始
戦後改革による経営再出発 - 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任。大ストライキ発生
同年三輪自動車(ナニワ号)・温水ボイラ・キ620ロータリー除雪車製造
戦後労働運動の高揚と経営体制の再編 - 蒸気機関車製造を中止・佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
国鉄電化方針によりC62形を最後に蒸気機関車製造中止。同年振動応用機械の製造を開始
創業以来の主力製品の終焉と多角化の起点。社長相次ぐ死去で意思決定が滞る - 岡山製作所閉鎖と大阪製作所大水害
大人員整理も同時実施。湘南電車(モハ80)製造・全溶接橋を開始
戦後最大の経営危機。蒸気機関車終了と工場閉鎖が重なる - ディーゼル機関車製造を再開
他社に先駆けて再開。流体変速機を用いた液圧式で他社を制し多数製造
鉄道車両動力転換期の主導権獲得 - 電気機関車製造を再開・カーダンパ製造開始
提携先の東洋電機製造を通じて戦後初の電気機関車受注。同年国鉄列車暖房用SG蒸気発生機を開発
蒸気機関車終了からわずか2年での電気機関車復活 - 玉置社長逝去。SG蒸気発生機・液体式ディーゼル機関車製造開始(わが国最初)
3人目の社長病死。札幌・小倉に営業所設置
4年で社長3人を失う異例の事態。経営の停滞要因に - 後藤悌次社長就任・社名通称「KSKボイラ」を導入
田熊汽缶製造とのネーミング混同を避けるため「KSKボイラ」に名称統一
長期病死社長を経た経営安定化の起点 - 空気ばね台車の製造を開始(わが国最初)
ボックスガーダー製造も同年開始
- 「モハ90形」(後の101系)電車製造を開始
高速電動機・カルダン駆動・電気ブレーキなど新性能電車の基本技術が結集
その後の国鉄電車の基本となる新性能電車の誕生 - 車輪転削盤製造開始(わが国最初)・ガス・エア・コンディショナ製造開始工作機械と空調機の本格参入
- ビジネス特急「こだま形」151系の製造を開始
東京・大阪間日帰りを実現。ステンレスカー「サロ95」2両も同年製造・DD13形製造開始・吸収式冷凍機製造開始
在来線特急電車の基本形を確立 - 「DD14形」ロータリー除雪機関車を完成
従来の蒸気式ロータリー車にはなかった自走と かき寄せ作業の一体化を実現。同年建設機械の製作開始(振動クイ打機が最初)
除雪機関車技術の革新 - パナマ運河引き船用電気機関車を受注
500‰の急勾配試験のため東京製作所内に「パナマ山」を急造。合計62両納入
輸出機関車の象徴的案件 - 滋賀製作所が完成
SG蒸気発生機の増産対応が主目的。新幹線試作電車製造・ユーゴへパルププラント輸出も同年
空調・ボイラ事業の本格拠点を確立 - 後藤社長退任・笹村越郎社長に就任
新幹線電車・国立競技場製作・JCB掘削機製造開始
高度成長期の事業多角化の頂点 - 本社を日本ビルヂングに移転
AS社製A3ボイラ販売開始・二重効用吸収式冷凍機製造開始
- 宇都宮工場(東京製作所貨車工場)を開設
広島営業所・台北駐在員事務所も同年開設
事業拠点の地理的拡大の到達点 - 経営不振が顕在化・無配転落
新製品開発の試験研究費増加と不採算案件受注が原因で経常損失計上。なお翌1970/4に過去7年間の粉飾決算が発覚しており本期の業績悪化数値は粉飾の表面化と表裏一体
業績悪化の本格化と粉飾露呈。1972年合併への入口 - 7年間にわたる粉飾決算が発覚
4月14日に発覚。1963年頃からの累積粉飾を一括計上したことが同期(45.3)の純損失33.9億円の主因となる。経常損失3.51億との大幅な乖離は特別損失約30億円計上による。同年5月の川重との業務提携・1972年4月吸収合併に至る連鎖の起点
「1969年経営不振顕在化」と表記される業績悪化の実質は累積粉飾の表面化。汽車製造合併消滅の真の起点となった事件 - 川崎重工業と業務提携・米谷修二が社長就任
粉飾発覚の翌月。第一銀行(メインバンク・筆頭株主8.8%)の要請のもと川重出身の米谷修二を社長として派遣・他に役員も派遣。鉄道車両・ボイラ・産業機械・鉄構の製販補完が表向きの目的
救済合併への前段階。粉飾発覚を受けた銀行団主導の緊急救済措置 - 川崎重工業との合併を決議
世界最大ホットシンタースクリーン完成等の技術実績を残しつつ合併決定
75年の独立経営の終焉決定 - 最終製造番号機「DE10 1171」完成
合併直前の最終出荷
機関車製造メーカーとしての最後の作品 - 川崎重工業に吸収合併され社名消滅
合併前1971年上期実績は資本金26億5200万円・売上114億円(車両15%・橋梁鉄骨12%・ボイラ35%・化工機20%・機械18%)。大阪・滋賀・宇都宮製作所が川重に引き継がれ、後に滋賀は川重冷熱工業へ・宇都宮はアイ・ケイ・コーチへ移管
日本最初の民間鉄道車両メーカー75年の歴史終焉。技術は川崎重工各事業部門に継承
歴史的証言
設備の回復も図らなければならず併せて戦後の経営方針を定めなければならない大切な時期に、船田要之助、佐々木和三郎、玉置善雄の3社長が相いで病死したことは当社にとり大きな損失であった。 ために諸計画において他社に一歩を譲ったような状態となり、経営状態は悪化した。
大もとを言えば国鉄なんです。国鉄の井上勝という人、鉄道頭なんていわれた人がうちの創立者で、自分が社長になつて、当時機関車なんていうものは、みんなイギリスとか外国から買っていたのですが、これじゃいかんというので、国内で製造しようという一種の国策会社なんです。 三〜四年前か、鉄道は斜陽産業だなんてアメリカで言い出したのですよ。それで、こんなことじゃとてもだめだ。車輌ばかりやつていてはだめだといつて、例の改名問題というので、こんな名前はだめだといってずいぶん議論したのです。それだからボイラーとか化工機とか、そういつたものに大いに力を入れてきたということは考えられますね。
43年度以降、45年度まで国鉄からの発注は大幅に減少した訳であるが、この及ぼした影響は大きく、特に専業メーカーは大打撃を受け、東急車輌が大阪工場での車輌生産を中止したのをはじめとして、日本車輌の蕨工場閉鎖、さらには川崎重工と汽車製造の合併など縮少均衡対策がすすめられた。 また今後についても電車は順調に伸びる反面、一般貨車などは大幅に減少すると思われ、業界全体としては車種別に再編成をすすめ、過剰工場は大幅削減することが必要となろう。
川崎重工業——主力銀行である第一銀行の要請を受け、業績不振から経営的に行き詰った汽車製造と業務提携をし、米谷社長らを送り込み経営再建をはかる一方、汽車製造の主力製品である車両をはじめ、機械、鉄構などの分野で競合する機種がかなり多いことから、両者でKS委員会を設け、この下部機構である車両、鉄構、機械などの部会で機種調整について検討してきたが、大筋がまとまった。
早ければ早いほうがいいが、いろいろ問題がある。最も早くて来年4月——しかしこれもはっきり申し上げられない。 現在当社の車輌部門も赤字であり、この合併でプラスサイドになることは確かであろう。直ちに黒字を期待することは無理だが、「消極的メリット」はある。他方、これは車輌メーカーの集約・集中傾向に沿うものであるし、汽車製造の伝統ある技術を活用することもできる。
ときあたかも国鉄も赤字経営となり、注文両数は著しく減ずるので、車両会社としても自活の道を自ら開発せねばならないときである。政府の委員会も車両会社の数を減ずべきことを提案している。 このときに当り汽車会社が卒先して合併に踏み切ったことは同社が国策会社として起り、遂に国策に殉じたものということができよう。