1881年〜 大阪鉄工所の誕生から日立造船社名誕生までの財閥系列化
- 1881年 英国人E.H.ハンターが大阪鉄工所を大阪安治川岸に創立
- 1911年 因島船渠を買収、因島工場化
- 1914年 大阪鉄工所を設立
- 1934年 日本産業が大阪鉄工所株式を全取得、日本産業大阪鉄工所を設立
- 1934年 社名を大阪鉄工所に商号変更
- 1936年 日立製作所が全株式を肩代わり、日立系列下に
- 1943年 社名を日立造船に商号変更
英国人ハンターが安治川岸で始めた民間造船所の出発と拠点拡大
1881年4月、英国人で貿易商のE.H.ハンターが大阪安治川右岸の六軒屋新田に大阪鉄工所を創立した。明治初期の民間造船業は、横須賀・長崎といった官営造船所と並んで民間資本による近代産業の担い手にあたり、外国人技術者が起こした大阪鉄工所は関西の造船基盤の源流の一つである。創業当時の工場敷地は約1万平方メートル、建物は木造、従業員は200名程度にとどまったが、当時としては珍しい外国製の工作機械を揃えて評判を呼んだ。新造第一船を「初丸」と命名し、船舶の改修とともに陸上機械にも手を広げて出発している。1887年には、創立者の嗣子である範多竜太郎が鉄船建造に乗り出すべく設備の拡張と技術陣の強化に着手し、このときわが国最初の石造りドックが築かれた。1900年4月には桜島造船場の操業を開始し、大阪湾岸に生産拠点を広げている。日清戦争後の造船奨励法を追い風に社業は隆盛をたどり、1911年9月には瀬戸内の因島船渠を買収して因島工場とし、瀬戸内海沿岸の造船集積地に足場を築いた。こうして明治末年には、大阪鉄工所はすでに日本三大造船所の一つとして海外にまで知られる存在になっていた。 [1][2][3][4][5][6][7][8]
- 有価証券報告書
- [1]1881年4月 英国人E.H.ハンターが大阪安治川岸に大阪鉄工所を創立
- [2]1900年4月 桜島造船場の操業開始
- [3]1911年9月 因島船渠を買収して因島工場化
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [4]E.H.ハンターは英国人の貿易商。大阪安治川右岸の六軒屋新田に大阪鉄工所を創立
- [5]創業当時の工場敷地約1万平方メートル・建物は木造・従業員約200名・外国製工作機械で評判
- [6]新造第一船を「初丸」と命名。船舶改修とともに陸上機械にも進出
- [7]1887年(明治20年)創立者ハンターの嗣子・範多竜太郎が鉄船建造に向け設備拡張・技術陣強化に着手し、わが国最初の石造りドックを建設
- [8]日清戦争後の造船奨励法を追い風に社業隆盛。明治末年には日本三大造船所の一つとして海外にまで知られた
1914年3月、「株式会社大阪鉄工所」が設立され、前身の大阪鉄工所の事業一切を継承した。個人経営的な色彩を残していた創業組織から、近代的な株式会社組織への移行である。同じ1914年には大阪商船の山岡順太郎が社長に就任し、外国人創業家から海運資本へと経営権が移り始めた。1916年の増資の際には久原鉱業が大量に株式を取得し、創業家の範多竜太郎は持株全部を譲り渡して経営から退いている。会社は1920年12月に株式会社原田造船所から築港工場を、1924年6月には彦島船渠を買収して彦島工場とし、関西から関門までの造船拠点網を1910年代から1920年代半ばにかけて拡張した。明治末から大正期にかけての日本の造船需要と海運業の拡大に呼応した規模拡大であり、第一次世界大戦期の海運ブームも追い風だった。しかし大正末期になると第一次大戦後の不況で久原鉱業は経営不振に陥り、大阪商船も派遣していた役員を引き揚げるなど、外国人創業者が立ち上げた小さな工場が大株主を次々と変えながら本格的な民間造船企業の姿を整えていった時期であった。 [9][10][11][12][13][14]
- 有価証券報告書
- [9]1914年3月 株式会社大阪鉄工所を設立し前身の大阪鉄工所の事業一切を継承
- [10]1920年12月 株式会社原田造船所から築港工場を買収
- [11]1924年6月 彦島船渠を買収して彦島工場化
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]1914年(大正3年)大阪商船の山岡順太郎が社長に就任
- [13]1916年(大正5年)の増資で久原鉱業が大量に株式取得、創業家の範多竜太郎が持株全部を譲渡
- [14]大正末期、第一次大戦後の不況で久原鉱業が不振となり、大阪商船も派遣役員を引き揚げた
- 有価証券報告書
- [1]1881年4月 英国人E.H.ハンターが大阪安治川岸に大阪鉄工所を創立
- [2]1900年4月 桜島造船場の操業開始
- [3]1911年9月 因島船渠を買収して因島工場化
- [9]1914年3月 株式会社大阪鉄工所を設立し前身の大阪鉄工所の事業一切を継承
- [10]1920年12月 株式会社原田造船所から築港工場を買収
- [11]1924年6月 彦島船渠を買収して彦島工場化
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [4]E.H.ハンターは英国人の貿易商。大阪安治川右岸の六軒屋新田に大阪鉄工所を創立
- [5]創業当時の工場敷地約1万平方メートル・建物は木造・従業員約200名・外国製工作機械で評判
- [6]新造第一船を「初丸」と命名。船舶改修とともに陸上機械にも進出
- [7]1887年(明治20年)創立者ハンターの嗣子・範多竜太郎が鉄船建造に向け設備拡張・技術陣強化に着手し、わが国最初の石造りドックを建設
- [8]日清戦争後の造船奨励法を追い風に社業隆盛。明治末年には日本三大造船所の一つとして海外にまで知られた
- [12]1914年(大正3年)大阪商船の山岡順太郎が社長に就任
- [13]1916年(大正5年)の増資で久原鉱業が大量に株式取得、創業家の範多竜太郎が持株全部を譲渡
- [14]大正末期、第一次大戦後の不況で久原鉱業が不振となり、大阪商船も派遣役員を引き揚げた
日産コンツェルンから日立系列へ、そして「日立造船」誕生
大正末期に大株主だった久原鉱業の不振と大阪商船の役員引き揚げを経て、経営の安定化と合理化を図るため、1934年5月、日本産業株式会社(日産コンツェルン)が大阪鉄工所の全株式を取得し、株式会社日本産業大阪鉄工所(資本金1,200万円)を設立した。鮎川義介が率いる日産コンツェルンへの系列化であり、同年8月には社名を再度「株式会社大阪鉄工所」に戻している。しかし系列関係は長く続かず、1936年2月、日本産業保有の全株式が日立製作所に肩代わりされ、大阪鉄工所は日立製作所の系列下に入ることとなった。日立との資本関係はここから戦後まで一貫して続き、後に社名に「日立」が入る直接のきっかけとなった。外資創業の造船会社が、戦前期の財閥系列化の流れのなかで日産・日立という日本資本の中核へ吸収されていった時期であり、この日立との関係が後の社名にそのまま刻まれることになった。 [15][16][17][18]
- 有価証券報告書
- [15]1934年5月 日本産業が大阪鉄工所の全株式を取得し株式会社日本産業大阪鉄工所を設立(資本金1,200万円)
- [17]1934年8月 社名を株式会社大阪鉄工所に改称(戻す)
- [18]1936年2月 日本産業保有の全株式を日立製作所が肩代わり、日立系列下に
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [16]1934年(昭和9年)の日本産業への吸収合併は経営の安定化と合理化が目的。合併後に社名を大阪鉄工所に改称
戦時経済下で造船業が重要産業として扱われるなか、1943年3月、同社は社名を「日立造船株式会社」と改めた。大阪鉄工所の62年の歴史がここで「日立造船」へと名前を改めた。1943年9月には向島船渠・原田造船を吸収合併し、同年12月には旧海軍の要請により彦島工場を三菱重工業に譲渡、1944年6月には神奈川造船所を操業開始、同年9月にミツワ製材工業を買収するなど、戦時下の生産拠点の再編が立て続けに続いた。日立系列下で日立造船として戦時需要を支える体制が、1943年にほぼ完成している。「日立造船」という社名は以後81年間にわたり会社の顔となり続けた重要なブランドであり、戦時動員期が同社のアイデンティティの原点となった。経営の重心の置き方が1940年代前半に少しずつ動いていたことを示す出来事の連続である。 [19][20][21][22][23][24]
- 有価証券報告書
- [19]1943年3月 社名を日立造船株式会社と改称
- [20]大阪鉄工所の歴史62年(1881年創立→1943年改称=62年)
- [21]1943年9月 向島船渠・原田造船を吸収合併
- [22]1943年12月 旧海軍の要請で彦島工場を三菱重工業に譲渡
- [23]1944年6月 神奈川造船所を操業開始
- [24]「日立造船」社名は81年間使われた(1943年改称→2024年カナデビア改称=81年)
- 有価証券報告書
- [15]1934年5月 日本産業が大阪鉄工所の全株式を取得し株式会社日本産業大阪鉄工所を設立(資本金1,200万円)
- [17]1934年8月 社名を株式会社大阪鉄工所に改称(戻す)
- [18]1936年2月 日本産業保有の全株式を日立製作所が肩代わり、日立系列下に
- [19]1943年3月 社名を日立造船株式会社と改称
- [20]大阪鉄工所の歴史62年(1881年創立→1943年改称=62年)
- [21]1943年9月 向島船渠・原田造船を吸収合併
- [22]1943年12月 旧海軍の要請で彦島工場を三菱重工業に譲渡
- [23]1944年6月 神奈川造船所を操業開始
- [24]「日立造船」社名は81年間使われた(1943年改称→2024年カナデビア改称=81年)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [16]1934年(昭和9年)の日本産業への吸収合併は経営の安定化と合理化が目的。合併後に社名を大阪鉄工所に改称
戦時動員下の生産拠点再編と終戦前夜の会社の姿
1943年からの数年間は、日立造船の国内拠点網が戦時要請のもとで組み換えられていく時期にあたる。新たな生産拠点の立ち上げと既存拠点の軍需目的への振り向け、他社への強制的な譲渡などが同時に進み、会社組織そのものが戦時体制の内側で再編された。造船という単一の事業領域に特化しながらも、艦艇・輸送船・港湾設備・機械製造といった戦時需要を抱え込む形で生産が維持されている。戦時統制経済のなかで国家的な要請に応え続ける巨大造船企業として、日立造船は1943〜45年に確たる地歩を築いた。戦前と戦後を結ぶ骨格がこの時期の急速な組織再編のなかで形づくられていたといえる節目である。当時の経営判断が後の会社のかたちを決定づけていた時期だったと言える局面である。 [25]
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- [25]1943〜45年にかけて戦時要請のもと国内拠点網を組み換え
終戦直前の1945年にかけて、空襲や海上封鎖によって日本の造船業全体が打撃を受けるなかでも、同社の国内拠点は敗戦後の復興局面で再び稼働できる設備基盤をかろうじて残した。戦時中に拠点を広げたこと、日立という親会社の支援を受けたことが、戦後期の早期立ち上がりを可能にする土壌を形作った。戦時期の組織再編の記憶は、後年の度重なる事業譲渡や社名変更といった構造転換の場面でも参照される、会社の長い歴史のなかで重要な経験として戦後の経営陣に受け継がれた。戦時下の日立造船が築いた拠点と組織体制は、戦後復興期の出発点としても重要な意味を1950〜60年代まで持った。この動きのなかで戦後経営陣は次の時代に向けた基盤を組み立てた。
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- [25]1943〜45年にかけて戦時要請のもと国内拠点網を組み換え