1881年4月1日、英国人貿易商のE.H.ハンター氏は大阪・安治川の川岸で大阪鉄工所を開業した。E.H.ハンター氏は神戸の居留地で商会を営み、1877年の西南戦争で軍需物資を扱って資金を蓄えていた。戦争を境に大阪発の汽船航路が増え、E.H.ハンター氏は帆船が汽船に置き換わる日が近いとみた。民間の造船所は官営工場の払い下げを受けた三社が主で、政府と関係のない外国人の創業は例外だった。用地は材木問屋の門田三郎兵衛氏が出し、1879年2月にE.H.ハンター氏ら3人が1万円ずつ投じて建設に入った。工作機械を外国製で揃え、開業の年の暮れまでに蒸気船33隻を修繕した。官の後ろ盾を持たないE.H.ハンター氏は、汽船の修繕という既存の需要から参入したとみられる。
開業から間もなく、西南戦争の好況が去って大阪鉄工所の受注は減少した。安治川を通る蒸気船は月に数隻で、大阪で蒸気動力を使う工場も8か所にとどまった。出資を約した人々は出資を見送り、兵庫造船局の佐畑信之氏も官の立場から関与を打ち切って、資金が不足した。E.H.ハンター氏と総理の秋月清十郎氏は本業の外で資金を得ようと、1882年に芦屋でアンチモニーの精錬所を設立した。1884年には兵庫に精米所を建てて米の輸出を狙ったが、精錬は量が出ず精米所も火災で焼けた。E.H.ハンター氏は1884年3月、鉄工所の設備と事業を門田三郎兵衛氏に洋銀8万7,000ドルの分割払いで譲渡した。造船に通じない門田三郎兵衛氏は代金を払えず、同年末には休業寸前に陥った。副業の収益で本業の赤字を埋める施策は、需要そのものの不足には効かなかったのだろう。
門田三郎兵衛氏の経営が行き詰まった後、E.H.ハンター氏は1885年初めに大阪鉄工所を取り戻して再建に入った。1884年12月に西洋型船舶検査規則が定められ、多くの汽船が大修繕を迫られた。同じ年の5月には船主55人が船を持ち寄り、有限責任大阪商船会社が発足していた。E.H.ハンター氏は大阪商船の木造汽船淀川丸を受注し、1886年1月に引き渡した。以後は大阪商船から修繕と新造を次々に受け、業績を回復させた。1888年には腐った木造ドックを人造石で改築し、1,500総トンの船を入れられるようにした。規則が生んだ修繕需要と、地元の船会社という安定した得意先が重なって再建が進んだと推察される。
創業時から技術を指導した英国人技師のJ.F.カルダー氏は1884年12月に去り、G.M.エラートン氏も翌年に辞めた。E.H.ハンター氏は工部省兵庫造船局から佐山芳太郎氏を3年間借り受け、1885年9月に造船主任に据えた。同年12月には兵庫造船局の機械設計主任だった家入安氏も入所し、機関主任に就いた。以後の再建は外国人を雇わず、日本人技術者だけで進めた。1888年には国産の浚渫機が引き取りを拒まれ、佐山芳太郎氏と家入安氏が責任を負って退いた。それでも1890年3月、大阪商船の球磨川丸を国内初の鋼船として完成させた。大阪商船は政府の助成金でこうした鋼船を大阪鉄工所などに発注し、国内造船所の技術を押し上げた。
1894年に日清戦争が始まると、社船は徴用され、係留中の古船まで軍用に回された。その修繕が大阪鉄工所に集まり、舶用機関と陸上機械の受注も増加した。1895年3月には呉鎮守府から戦地用の汽艇8隻を50日で造るよう命じられ、期日の2日前に納めた。戦後は新造は木船だけに縮小したが、企業の設立ブームで陸上用の汽機・汽缶や鉱山機械の注文が続いた。職工は1890年の380人から1894年に500人を超え、製品の生産高は1893年の21万円から1895年に34万円へ増えた。ただ日本の造船業は、技術も設備もなお先進国に及ばなかった。船の修繕に陸上機械を重ねた構成が、新造船の受注が減少した時期の収益源になったと考えられる。
1895年6月、E.H.ハンター氏は第一線を退き、嫡子の範多竜太郎氏が大阪鉄工所の所主を継いだ。範多竜太郎氏は英国グラスゴー大学で土木・機械・造船を学び、1893年に学位を得て帰国していた。E.H.ハンター氏も退いた後なお出所し、決裁に加わった。範多竜太郎氏は職制を事務と技術に分け、技術には造船と造機の部長を置いた。造船奨励法に備えて東京帝国大学出の造船技術者を招き、大型船への体制も整えた。前年の1894年10月には、大阪府の注文で邦人設計のバケット式浚渫船、第二大浚丸を完成させていた。続いて大阪市の築港工事で、輸入浚渫船の組み立てと船体建造を一手に担った。他社が敬遠した浚渫船を先に手がけたことが、範多竜太郎氏の代の得意分野になったと推定される。
1896年、政府は造船奨励法を公布し、700総トン以上の鉄船・鋼船の国内建造に補助金を出した。安治川の工場は川幅と水深の制約から700総トン以上を造れず、範多竜太郎氏は1900年4月に桜島造船場を開設した。桜島の第1船、大阪商船の大義丸は1901年5月に竣工し、奨励法の適格船となった。1904年に日露戦争が始まると、海軍の指定工場として駆逐艦朝露と疾風を建造した。貨客船も1904・05年に4隻ずつ造り、8隻のうち6隻が奨励法の適格船だった。当時の国内の鋼船建造は年平均2万総トンほどで、大阪で目立つ造船所は大阪鉄工所と木津川筋の4社に限られた。範多竜太郎氏は技術者を海外へ送り出し、桜島を大型船の建造拠点に育てた。
日露戦争後の不況で、大阪鉄工所の奨励法適格船は1909・10年度に1隻ずつまで減った。範多竜太郎氏はトロール漁船や捕鯨船、橋梁や鋳鉄管に事業を広げて受注の減少を補った。他方で1910年からの改正造船奨励法と遠洋航路補助法により、日本の船は急速に大型化した。範多竜太郎氏は1909年に桜島の6,000総トンドックを仕上げ、1911年9月には閉鎖中の因島船渠を9万7,000円で取得した。因島分工場は1912年3月に最初の入渠船を迎え、修繕を主に営んだ。ただ大型化に見合う拡張と資本は、範多竜太郎氏個人の経営で担える規模を超えていた。範多商会は香港上海銀行への負債も抱えていた。範多竜太郎氏は大阪商船の監査役を務め、大阪鉄工所は大阪商船の国内新造船82隻のうち35隻を請け負っていた。最大の得意先との結び付きが、個人経営を株式会社へ改組する際の出資者になったと思われる。
因島の工場まで抱えた範多竜太郎氏の個人経営は、船の大型化に応じた拡張と資本の充実に対応できなくなっていた。範多商会が香港上海銀行への負債を抱える中、海運と造船の総合経営を構想した大阪商船株式会社が株式会社への改組を勧めた。1914年3月18日に株式会社大阪鉄工所が資本金600万円で発足し、大阪商船専務取締役の山岡順太郎氏が社長に就任した。範多竜太郎氏が8万株、大阪商船系が4万株を引き受け、新会社は旧鉄工所の資産と負債を500万円で譲り受けた。株式の過半はなお範多竜太郎氏が保有していたが、経営の主導権は資本を出した大阪商船へ移ったとみられる。
株式会社となった鉄工所は第1次世界大戦の船不足を受けて工場を広げ、年間建造能力を7万5,000トンまで高めた。桜島工場では船台3基を1万総トン級に改め、因島工場には3,000総トン級の船台3基を新設した。1916年から1919年までの新造船76隻のうち68隻は貨物船で、同じ型の船を続けて建造した。制約は鋼材で、英国は1916年4月に、米国は1917年8月に鋼材の輸出を止めた。鉄工所は日本汽船株式会社を通じて第1回船鉄交換に3隻を出し、1918年5月の第2回では4隻約4万2,000重量トンを契約した。大戦期の受注の伸びは、船と引き換えに鋼材を得る取引に支えられていたと考えられる。
1920年3月の恐慌で大戦後の景気が終わると、鉄工所の業績は悪化に転じた。国内の造船量は1925年に最盛期の10分の1以下まで縮小し、1922年の軍縮条約で艦艇の需要も減少した。好況期に1万7,000人を超えた職工は2年余りで約1万人減り、桜島工場は約4,000人、因島工場は約3,000人となった。新造船の不足は、修繕船と車両・鉄骨・水圧鉄管などの陸上工事で補った。1925年の収入は160万円と最高時の6分の1に落ち、社債の利息51万円が収入の3分の1近くを占めた。配当を続けながら借入に依存する経営は、いずれ株主から経営の刷新を迫られるものだったと推察される。
不振が続く中の1926年1月、大阪商船系の取締役が全員退き、久原系の津村秀松氏が会長に就任した。久原系の資本は資本金を1,200万円とした1916年の増資で大きく入っていた。その持ち株は1918年上期に総株式24万株の過半に達し、範多家の持ち株は同年末までに無くなった。津村秀松会長は冗員の整理と配当の停止を中心に据え、経営方針を根本から改めた。桜島工場を新造船と陸上工事に充て、ほかの4工場を修繕専門とする分業に組み替えた。1926年3月に職員140人と職工450人を整理し、翌年には整理損失166万5,000円を償却した。
1929年秋の世界恐慌で工事量が再び減少すると、鉄工所は新造船の設備を陸上工事に振り向け、修繕船を本位とする方針を掲げた。陸上工事の基盤は1927年4月の鉄道省指定工場で、橋輛課を設けて車両・橋梁・鉄塔・水圧鉄管を手がけていた。1930年から翌年にかけて職員106人と傭員137人を解職したが、1931年下期には損失を計上した。株主構成では、1928年に発足した日本産業株式会社の傘下に鉄工所が入っていた。1932年1月に津村秀松会長が退き、同年10月に原田六郎氏が社長に就任して、日本産業社長の鮎川義介氏が会長を務める体制となった。
1934年7月1日、株式会社大阪鉄工所は日本産業株式会社に合併されて解散した。社長の原田六郎氏は株主総会で、社債と借入金が資本金を上回る資本構成と、経営首脳の交代の続発を欠点に挙げた。合併に先立つ5月29日には、日本産業が全株を持つ株式会社日本産業大阪鉄工所が資本金1,200万円で設立されていた。新会社は旧会社の設備と事業を引き継ぎ、8月に社名を大阪鉄工所へ戻して会長には鮎川義介氏が就任した。日立造船は後に、この1934年5月29日を会社の設立日と定めた。過大な借入を抱えた会社を持株会社に合併し、新会社へ設備と事業だけを移す日本産業の手法が、鉄工所の財務を立て直したのだろう。
日産系での再建は2年足らずで終わり、1936年3月23日に日本産業の持つ全株式が株式会社日立製作所へ1株60円で譲渡された。原田六郎社長の急逝に加え、株式ブームの退潮と臨時利得税の新設で、日本産業は手元資金を確保する必要に迫られていた。鉄工所と日立製作所の事業は関係が深く、日立の下に置くのが将来に適うとの結論になった。2月29日の臨時株主総会で、日立製作所社長の小平浪平氏が会長、同社常務取締役の六角三郎氏が社長に就任した。船舶改善助成施設と漁業の伸びで、1935年下期から受注の環境は一変した。1938年5月には資本金を3,000万円に増やし、3万トンの乾船渠や内燃機工場を設けた。
1943年3月11日の臨時株主総会で、株式会社大阪鉄工所は社名を日立造船株式会社に改めた。改称を決めたのは、1936年2月から1947年3月まで社長を務めた六角三郎氏の代である。新しい社名は造船と日立製作所の傘下にあることを示し、旧名は大会社としての認知が薄く募集にも不便だった。資本金は神奈川造船所の建設に向けて1940年に6,000万円への倍増が決まっていた。改称後の11月には倍額増資を決め、資本金は1億2,180万円となった。商船の建造量は1943年に30隻6万総トン、1944年に30隻約10万総トンを数えた。
敗戦後の財閥解体で、日立製作所が一手に持っていた日立造船の全株式は持株会社整理委員会へ移り、1947年1月から同委員会が議決権を行使した。公職追放で1946年5月に小平浪平会長が退き、1947年4月1日に出田孝行氏が六角三郎氏に代わって社長に就任した。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定で3社への分割案まで作られたが、同年11月に指定は解かれた。1948年12月には、同委員会の手にあった全株式が一般へ放出された。出田孝行社長のもとでは、後に社長となる松原與三松氏が専務取締役に就任した。大阪商船系から日立製作所系まで33年続いた資本の後ろ盾を離れ、日立造船は経営の責任を自ら負う立場となった。
1948年12月、日立製作所が持っていた日立造船の全株式が一般に売り出された。株主は一挙に1万数千人に増え、日立製作所との資本の関係はなくなった。株式は東京・大阪などの取引所に上場され、資金と信用を市場に求める立場に移った。1950年5月に社長となった松原與三松氏は、会社の実態を従業員に見せる「硝子張りの中の経営」を掲げた。あわせて打ち出した2大方針が、輸出に最重点を置くことと労使関係の確立であった。親会社も財閥系の固定客も持たない会社にとって、経営を公開することは株主と従業員をつなぎ留め、輸出に経営資源を集中する前提だったとみられる。
日立造船が成長を求めたのは、国内の計画造船ではなく自力で受注する輸出船であった。1947〜49年の計画造船では財閥系船主と結ぶ三菱重工が23隻を受注し、日立造船は6隻にとどまった。1950年に米キャラス社から1万9,000重量トンのタンカーの引き合いを受け、1951年2月に成約した。民間貿易が再開してから日本で最初の輸出船であった。契約船価では赤字が確実になったが、同型3隻を同じ船価で追加受注し、4隻一括の建造で黒字に変えた。1隻目の損失を量産効果で回収する判断が、北米・欧州の船主に日本の造船所を認知させる契機になったと推察される。
輸出船を受注し続けるうえで、日立造船は主機関の調達に課題を抱えていた。船体は日立造船、機関は日立製作所という分業で、必要な馬力の機関を必要な時に確保しにくかった。1950年、三井造船を通じてデンマークのB&W社と再実施権契約を結び、ディーゼル機関の製造に入った。1951年7月に第1番機の4,600馬力主機関を完成させ、1953年3月にはアルファ型機関の補足契約も結んだ。1955年末までの5年間で主機関30基・13万2,650馬力を造り、自社建造船の大型主機関をほぼ内製した。船体と機関を一つの造船所で揃えたことが、短い納期で輸出船を受注する能力を支えたと考えられる。
輸出で規模を広げた会社は、1962年11月に松原與三松氏が会長に退き、副社長の永田敬生氏が社長を継いだ。就任時の永田敬生氏は51歳で、労務畑を歩み、関西財界で労務問題の第一人者であった。永田敬生氏は労働組合を経営の対等なパートナーとみなす「百万人の経営」を唱えた。堺工場の建設も、1962年7月から構想を組合に説明し、意見を聞きながら進めた。1968年には日立造船労働組合と労使協議制の協定を結び、経営審議会と労使協議会を設けた。この労使協調路線は、石油危機後の造船不況で人員の合理化が遅れる一因になったという。
1964年3月、日立造船は大阪府堺市で総工費150億円の堺工場に着工した。船主から寄せられる引き合いでは10万重量トン超の船型が相次ぎ、20万重量トン台の到来が近いと予想されていた。手狭な既存工場では応じきれず、計画を改めて長さ400mの25万重量トン建造ドックを1基据えた。1隻半を同じドックで並行して造るセミタンデム方式で、少ない投資で大型船を連続して建造する狙いであった。完成後の生産高は既存5工場の合計に匹敵する見込みで、1工場に会社の将来を託す投資となった。大型タンカーの需要に能力を合わせたことで、造船への事業の偏りは深まったのだろう。
1971年4月1日、日立造船は舞鶴重工業を合併し、7番目の工場とした。旧海軍工廠を前身とする飯野重工業を1963年に傘下に収め、足かけ10年の再建を経た合併であった。一方の堺工場は28万重量トン型が建造能力の限界で、30万重量トン超の需要に追いつかなかった。1970年1〜6月に引き合いのあった20万重量トン以上の42隻のうち、36隻を辞退していた。熊本県長洲町の有明工場は造船を先に建てる計画に改められ、1973年4月に操業を始めた。1972年3月期の造船依存度は69%で、三菱重工の32%を大きく上回っていた。
1973年の石油危機でタンカーの注文が途絶え、大型化に合わせて拡張した造船能力が過剰になった。1975年3月期の従業員は2万4,457人で、売上高の近い三井造船より約8,000人多かった。日立造船は1976〜79年度の4年間、大学から高校まで新規学卒の採用を止めた。1977年6月には労使が事業構造転換計画で合意し、陸機部門への配置替えや出向・転籍を進めた。1977年8月、有明工場で造った50万トン級タンカーの引き渡しで、大型タンカーの時代は終わりに向かった。1978年3月に始めた転職転進援助制度には1,902人が応じて会社を離れた。
1979年6月、永田敬生氏は会長に退き、副社長の木下昌雄氏が社長に昇格した。出田・松原・永田と事務系が3代続いたあとの技術系の社長であった。木下昌雄氏は1949年に技術研究所の設立に合わせて入社し、研究所長を務めた造船技術者であった。1979年8月、次の世代の事業の収益源を育てるカンパニープロジェクトとして10件の開発目標を決めた。低燃費船や超自動化船と並び、廃棄物の熱分解・灰溶融や石炭焚きボイラ、排煙脱硝が選ばれた。1980年度からの中期計画では、船舶と非船舶の構成比を改めて事業のバランスを整えることを掲げた。
新たな収益源の候補のうち先に育っていたのは環境装置で、1973年にはごみ焼却施設だけで200億円超を受注した。1960年にスイスのデロール式焼却炉の合弁に加わり、1965年に大阪市西淀清掃工場の1号機を完成させた。石油危機後は廃熱による発電や塩化水素の除去など、省エネと公害規制の求めに技術で応えた。売上高に占める新造船の比率は、1975年3月期に64%を占めていた。1985年3月期には新造船が24%まで下がり、鉄構・環境装置は11%であった。環境装置が育ち始めた一方で船台とドックの余剰は抱えたままとなり、次の縮小の判断へ持ち越されたと推測される。
過剰な造船設備を抱えたまま、日立造船は株式売却益を除く実質で1985年度に728億円、1986年度に969億円の経常赤字を出した。1985年には第2次合理化計画を労働組合に示し、人員の大幅な削減と工場の生産集約に着手した。1986年10月に合理化策の中身が伝わると、広島県の因島市と向島町は強い衝撃を受けた。3,300人を抱えた因島工場は新造船から撤退し、人員削減の負担が最も重くかかった。全社の従業員は1985年3月末の1万7,000人から、1989年3月末には約4,500人まで減った。有明に生産を寄せて採算を守るには、瀬戸内の老朽工場から縮小するほかなかったと思われる。
1988年6月、メーンバンクの三和銀行で副会長を務めた藤井義弘氏が社長に就任した。就任時には人員の削減がほぼ終わっており、従業員は1986年の1万2,000人から1988年に4,600人となっていた。藤井義弘氏は目標を定めると短期で実行する方針をとり、赤字となる造船の受注は一切認めなかった。経常損益は1989年度に黒字化し、1990年1月には大阪市江戸堀の本社ビルを売却して借入金の返済に充てた。1991年度からの中期計画「Attack-93」では、全事業本部で経常利益率5%以上とし、全事業の黒字化を掲げた。再建の手順は、損失の拡大を先に止め、事業の組み替えを後に回すものだったと推測できる。
藤井義弘氏は1988年7月の賞与から、部課長の査定額に所属事業部の業績で2〜3割の差をつけた。人事考課は1990年12月に加点方式へ改め、新入社員から主事までの資格は7階層を4階層に整理した。1992年には約6,000人の従業員のうち1,500人の配置が変わり、グループ会社との間の異動は200人を数えた。造船の縮小で生じた余剰人員は、1990年に事業本部として独立させた環境部門へ移された。新規事業ではバイオ事業部の杜仲茶が伸び、売上は1992年度の11億円から翌年度に60億円を見込んだ。人員削減の段階から、余剰人員を成長部門へ再配置する段階へ移ったとみられる。
1995年6月、南維三氏が社長に就任し、藤井義弘氏は社長を退任して会長となった。生え抜きの社長は7年ぶりで、南維三氏は造船ではなく環境と産業機械の事業を歩んできた。1990年には初代の環境事業本部長として、環境の中でも都市ごみ焼却炉に絞る方針を敷いた。藤井義弘氏が南維三氏を指名した狙いは、造船以外の新規事業を広げることにあった。南維三氏は就任時に売上高の27%を占めた造船への依存を、10%まで下げる目標を掲げた。1996年春の時点で、売上高に占める船の割合は19%まで下がっていた。社名に造船を残したまま、事業の重心を陸上へ移す方針がこの交代で固まったと思われる。
1991年の時点で、国内のごみ焼却施設の4分の1は日立造船が手がけたものだった。1997年3月期には、都市ごみ焼却炉を主力とする環境分野が営業利益の47%を稼いだ。同じ期の焼却炉の受注シェアは金額で前期の12.6%から35.0%に広がり、同業の中で首位に立った。1992年に動かした3次元CADで現場組立の手戻りを減らし、組立を担う子会社を設けて建設会社と価格を競わせた。処理能力日量1トン当たりの相場は、2年前の4,000万円台から1997年には3,000万円台に下がった。値下げを続けられる原価の仕組みが、自治体の入札での競争優位になったのだろう。
1996年4月、日立造船は桜島工場の陸上機械を有明工場へ移す新工場の建設に入り、エンジンから船までの一貫生産を狙った。1997年10月に有明機械工場が動き出し、同年12月に大阪の桜島工場を閉じた。同じ月に大阪市住之江区の南港ビルが完成し、営業・設計・調達と本社部門をそこに集めた。有明機械工場は1999年10月、日立造船ディーゼルアンドエンジニアリングとして分社した。拠点を絞っても、1999年3月期の連結決算は経常損失198億円、当期純損失273億円を計上した。陸上へ移した事業だけでは、なお残る造船の負担を吸収しきれなかったと推察される。
2002年10月、日立造船は造船事業を、日本鋼管(NKK)と共同で出資するユニバーサル造船へ営業譲渡した。決めたのは2001年6月に社長となった重藤毅直氏で、新造船よりも修繕と改修の現場を長く歩んだ人物だった。造船は売上高の約3割を占めており、切り離した後は環境装置・プラントと情報システムを中核に据える方針だった。同じ2002年3月には、会社更生法を申請した新潟鉄工所の環境関連事業を営業譲渡で引き受ける合意を結んでいた。ユニバーサル造船への出資比率は50%で、造船は本体から持分法の関連会社へ移った。社名に造船を掲げながら船を造らない会社として再出発した直後、株価は一時19円まで下落したという。
2005年4月に古川実氏が社長に就任し、翌2006年3月期に当期純損失29,057百万円を計上した。退職給付制度の終了損失と不動産の減損が中心で、特別損失は34,029百万円に上った。同じ期に転換社債型新株予約権付社債で300億円を調達し、構造改革の費用と成長分野への投資に充てるとした。2006年11月には、日立造船が造船から撤退する方針が報じられた。2007年度にはユニバーサル造船株の一部をJFEホールディングスへ譲り、売却益を特別利益に計上した。赤字の続いた環境のEPC部門では、古川実氏が『赤字工事は絶対とらないという方針』を示し、受注の選別を進めた。自己資本比率は2006年3月末の6.2%から、2008年3月末に19.4%へ戻った。
2009年3月、日立造船は鉄構製品を造っていた神奈川工場を閉じた。需要の減った鉄構では、堺工場を産業機械の工場に転じ、橋梁は向島工場1か所で造る体制とした。2009年4月には連結子会社10社を吸収合併し、古川実氏は理由を『あまりにも細分化しすぎた結果、逆にグループ力を発揮しにくい非効率な面が顕在化し始めていました』と説明した。主力の環境・プラント事業は2008年度に売上高1,207億円を上げたが、営業利益は21億円にとどまった。地方自治体の財政難で公共投資は低調で、ごみ焼却施設の新設の受注環境は厳しかった。古川実氏は中国での舶用エンジン合弁の設立にあたり、『当社グループは、これまで国内戦略を重視する傾向にありましたが、この合弁会社の設立を足がかりに、中国ビジネスを本格的に展開していきます』と年報に記した。国内の自治体需要に依存する焼却炉では成長余地が乏しく、次の成長を海外に求める素地がここで整ったと考えられる。
国内の自治体需要が頭打ちとなるなか、日立造船は2010年3月期に訴訟損失引当金繰入額6,174百万円を特別損失に計上した。ごみ焼却炉の入札をめぐる独占禁止法違反について、発注者からの損害賠償請求に備えた引当だった。会長兼社長の古川実氏はこの計上を先々の負担を出し切る措置と位置づけ、1997年度以来12期ぶりの復配を果たした。ところが2010年11月10日、公正取引委員会は審判審決で4,901百万円の課徴金納付を命じた。日立造船は東京高等裁判所に審決取消請求訴訟を起こし、住民訴訟1件と損害賠償請求訴訟3件も抱えたままだった。売上の多くを自治体の発注に依存する事業では、談合の処分と訴訟が長く収益を圧迫し続けたのだろう。
課徴金が命じられた翌月の2010年12月20日、日立造船はスイスのAE&E Inova AGの全株式を取得した。Inovaは、日立造船が1960年にデロール式ごみ焼却炉の技術を導入したフォンロール社を前身とする。古川実氏は2016年度に売上高5,000億円とする構想を掲げ、15%程度の海外売上高比率を30%以上へ上げる必要を示していた。ライセンシーだった日立造船について、古川実氏は子会社化の効果を『これまで営業地域などに制限がありましたが、今回の子会社化により全世界での展開が可能となりました。』と位置づけた。欧州では、ごみの処理が埋立から熱回収を重んじる焼却へ移りつつあった。技術の供与元を買収することで、国内需要の頭打ちを欧州と新興国の市場で補う事業基盤を得たとみられる。
欧州の拠点を得た日立造船は、2014年4月1日に水処理の子会社アタカ大機を吸収合併した。合併の目的は、環境・グリーンエネルギー分野の海外市場開拓に向け、一体で運営して事業の推進力を高めることにあった。アタカ大機の2013年度は、受注高344億円に対し営業利益が2億円にとどまり、水処理で不採算工事も出ていた。取締役社長兼COOの谷所敬氏は、合併の効果について『当社のごみ焼却発電プラントと組み合わせて海外展開するなど、協業による効果を狙うことができます。』とした。合併と同時に水処理・産業装置本部が発足し、し尿処理や上下水処理を国内外へ売る体制が整った。単独では海外展開の力が乏しい水処理を、ごみ焼却発電の海外案件に組み込む判断だったと推察される。
アタカ大機の合併で水処理を集約した日立造船は、2017年2月に豪州のOsmoflo Holdingsを子会社化した。Osmofloは海水淡水化と産業用水処理のシステムを設計・製造・販売する。日立造船は国内の水市場を横ばいとみる一方、水資源の不足する海外で上水と造水が伸びると見込んでいた。OsmofloのRO造水技術やリース事業と、自社の繊維ろ過・取水技術を合わせ、東南アジアへ水を供給する構想だった。前の3か年計画では営業利益の達成率が86%にとどまっており、谷所敬氏は『まずは足もとの事業の収益力を強化することから始めるべき』とした。買収後は統合の指針に沿って100日プランを実行し、経営幹部を3名ほど送り込んだ。
2020年4月、三野禎男氏が取締役社長兼COOに就任し、日立造船は中期経営計画「Forward 22」を始めた。前の計画「Change & Growth」は受注高と売上高の目標を満たしたが、利益は計画を下回っていた。Forward 22は付加価値の向上、事業の選択・集中と伸長分野へのシフト、働き方改革を基本方針に据えた。欧州のHitachi Zosen Inovaは数年業績が低迷し、受注前のリスク検討とサービス・バイオガス事業で立て直しを進めていた。2018年にInovaの会長となった桑原道氏が経営改革を進め、Inovaは2019年以降に回復へ向かった。1年目の施策には、柏工場の売却とInovaのサービス事業を広げる仏社の買収が並んだ。
Forward 22の選択と集中で、日立造船はシールド掘進機事業を川崎重工業と統合した。2014年の時点で谷所敬氏はシールド掘進機を舶用エンジンと並ぶ不振事業に挙げ、専門のチームを組んでいた。米国の建設会社JVに納めた掘進機は掘削中に停止し、JVとの損害賠償請求訴訟は2019年10月の和解まで続いた。2021年に両社は新会社設立の基本合意を結び、出資を50%ずつとし、製造拠点の複数確保を利点に挙げた。2021年10月、営業・設計・修理などの事業は共同新設分割で地中空間開発に移り、製造だけは両社に残った。受注の波が大きい大型機を単独で抱えず、他社と分担する体制を選んだと考えられる。
シールド掘進機事業を統合した翌年の2022年2月、InovaはSteinmüller Babcock Environment(SBE)を買収した。ドイツのSBEは日鉄エンジニアリングの全額出資で、スペインなどの大口赤字案件を抱え、2020年末の純資産はマイナス15百万ユーロだった。それでも買収したのは、ごみ焼却発電のEPCに偏るInovaの収益を、運営・保守などの継続的事業へ広げるためだった。SBEはInovaの事業基盤が弱いドイツやフィンランド、スカンジナビアに強く、欧州の既設炉は約7割が建設から15年を超えていた。Inovaは継続的事業の売上高を2025年度に250百万スイスフランとする目標を置いた。SBEの連結では負ののれん発生益を特別利益に計上した。
2024年7月、日立造船は子会社の日立造船マリンエンジンなどで、舶用エンジンの試運転データの改ざんを公表した。同月17日に外部有識者の特別調査委員会を置き、1999年7月以降に公試を行ったエンジンを主に調べた。日立造船マリンエンジンでは959台すべて、アイメックスでは412台で燃料消費量の改ざんが確認された。ライセンスエンジンで差別化が難しく、価格競争のもとで公試を一回で通して納期を守る圧力が改ざんを常態化させた。調査は他事業にも及び、可燃ごみ焼却施設やし尿処理施設のほか橋梁・鋳物製品・特殊バルブでも不適切行為が判明した。主力の環境事業の運転記録にまで及んだことで、改ざんは一工場の問題ではなく組織風土の問題と読める。
2024年10月1日、日立造船はカナデビア株式会社へ商号を変えた。2002年に造船事業を分離し、脱炭素化や資源循環などの分野で世界に事業を広げてきたことを改称の理由に挙げた。社長兼COOの桑原道氏は、改称を『2024年10月のカナデビアへの社名変更は、私たちのDNAである挑戦の精神を社員全体に再び呼び起こす絶好の機会であると考えています。』と位置づけた。2025年3月期は海外売上高比率が49%に達し、環境セグメントの売上高453,471百万円が全体の74%を占めた。2024年4月に敷いた会長兼CEOの三野禎男氏と社長兼COOの桑原道氏の2人体制は、不適切行為を受けた経営体制の見直しで改まった。2025年4月から桑原道氏が社長兼CEOとして一人で経営を率いる体制となり、2026年に至る。
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|---|---|---|---|---|
| 1881〜1913年英国人E.H.ハンター氏の大阪鉄工所と、範多竜太郎氏による因島船渠の買収 | 英国人E.H.ハンター氏が大阪鉄工所を大阪安治川岸に創立 | ★★ | ||
| 因島船渠を買収、因島工場化 | ★ | |||
| 1914〜1948年大阪商船・久原・日産・日立へ移った経営権と、日立造船への改称 | 大阪鉄工所を設立 | ★ | ||
| 日本産業が大阪鉄工所株式を全取得、日本産業大阪鉄工所を設立 | ★★ | |||
| 社名を大阪鉄工所に商号変更 | ★ | |||
| 日立製作所が全株式を譲り受け、日立系列下に | ★★ | |||
| 社名を日立造船に商号変更 | ★ | |||
| 日立製作所保有株の整理を経た独立系造船会社への再出発 1881年に英国人ハンターが創立した大阪鉄工所が、久原鉱業・日本産業・日立製作所と資本の持ち主を替えたのち、1947年1月に日立製作所保有株を持株会社整理委員会へ移し、株式公開と上場を経て独立系の造船会社として再出発した経過。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 出田孝行 | 全株式を一般に放出・公開 | ★ | ||
| 1949〜1985年輸出船で伸ばした堺・有明の大型造船所と、構造不況下の減量経営 | 出田孝行 | 大阪・東京証券取引所に上場 | ★ | |
| 永田敬生 | 総工費150億円の桜島工場の造船からの撤収 1964年3月、日立造船が大阪府堺の臨海工業地帯に総工費150億円で新造船所を着工し、長さ400メートルのドックを構えて超大型タンカーの建造に主力を移した経営判断。1966年4月の竣工にあわせて発祥の地・桜島工場は造船から撤収した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 永田敬生 | 福井機械を設立 | ★ | ||
| 永田敬生 | 堺工場が操業開始 | ★ | ||
| 永田敬生 | 舞鶴重工業を吸収合併 | ★★ | ||
| 永田敬生 | 有明工場が操業開始 | ★ | ||
| 永田敬生 | アタカ工業を経営系列化 | ★ | ||
| 1986〜2009年因島・向島工場の縮小と、ユニバーサル造船への造船事業譲渡 | 村山利雄 | 二度の合理化策による人員・設備の削減と生産拠点の絞り込み 円切り上げと石油危機で超大型タンカーの需要が消えたあと、日立造船が1975年の間接人員1,260人削減を第一歩に、1986年10月の第二次経営合理化策まで二度にわたって人員と設備を削減し、収益源を造船の外へ移した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 藤井義弘 | 茨城工場が操業開始 | ★ | ||
| 南維三 | 桜島工場閉鎖・南港ビルへ本社部門を集約 | ★★ | ||
| 重藤毅直 | 祖業・造船の分社化と環境企業への転身 2002年、造船に偏った事業構造で造船不況に苦しんだ日立造船が、重藤毅直社長のもとで祖業の造船をNKKと統合し、折半出資のユニバーサル造船として分社化した判断。社名に"造船"を冠したまま造船を持たない会社となり、ごみ焼却プラントを中心とする環境・機械事業を主力とする企業へ転換した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 古川実 | 当期純損失▲290億円を計上 | ★★ | ||
| 古川実 | 神奈川工場閉鎖 | ★ | ||
| 2010〜2026年AE&E Inova買収による環境事業への軸足移動と、カナデビアへの社名変更 | 古川実 | 公正取引委員会の審決を争いながら49億円を納付した選択 1999年8月、公正取引委員会はごみ焼却施設建設工事をめぐり、日立造船を含む5社に独占禁止法違反の勧告を出した。会社はこれを不応諾とし、審判で争うことを選ぶ。2006年6月27日に排除措置を命じる審決が出ると東京高等裁判所へ審決取消請求訴訟を提起し、2007年3月23日の課徴金納付命令に対しても審判を請求して命令を失効させた。 2010年11月10日の審判審決は4,901百万円の課徴金納付を命じた。会社はこれも東京高裁で争いながら2011年1月に国庫へ納付し、2013年10月29日の上告棄却で確定している。 詳細を読む | ||
| 古川実 | 欧州・豪州の環境プラント企業の連続取得と、日立造船からカナデビアへの商号変更 2010年12月にスイスのごみ焼却発電会社AE&E Inovaを49億円で完全子会社化したのを最初の一手として、豪州Osmoflo、ドイツSteinmüller Babcock Environmentへと買収を重ね、2024年10月に社名を日立造船からカナデビアへ改めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 谷所敬 | アタカ大機を吸収合併 | ★ | ||
| 谷所敬 | Osmoflo Holdings(豪)を子会社化 | ★ | ||
| 三野禎男 | 三野禎男氏が社長に就任 | ★ | ||
| 三野禎男 | シールド掘進機事業を川崎重工業との共同新設分割で地中空間開発に承継 | ★★ | ||
| 三野禎男 | Steinmüller Babcock Environmentを子会社化 | ★ | ||
| 桑原道 | 特別調査委員会の設置と、6分野へ広がった不正の認定 2024年7月、舶用エンジン事業を営む連結子会社で不適切行為が発覚した。日立造船は17日付でグループから独立した外部有識者による特別調査委員会を設置し、透明性と実効性を確保した調査に入る。結果は2025年3月25日、同年4月30日、同年11月6日の三度にわたって公表され、舶用エンジンのほか可燃ごみ焼却施設、し尿処理施設、橋梁、鋳物製品、特殊バルブにも不適切行為が及んでいた。 会社はこれを本件不適切行為と呼び、6項目の再発防止策を策定して実施している。 詳細を読む | |||
| 桑原道 | 社名を日立造船からカナデビアに変更 | ★ | ||
| 桑原道 | 連結売上収益6,105億円・営業利益269億円で過去最高 | ★ |
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事実根拠:出所(カナデビア)