カナデビア彦島工場の三菱重工業への譲渡と、日立製作所保有株の整理を経た独立系造船会社への再出発

資本の持ち主が三度替わった会社は誰のものか——範多家・久原・日本産業・日立製作所を経て市場へ

時期 1947年1月
意思決定者(推定) 日立製作所・持株会社整理委員会 のち松原与三松社長
論点 資本の所属と戦後の再出発
概要
1881年に英国人ハンターが創立した大阪鉄工所が、久原鉱業・日本産業・日立製作所と資本の持ち主を替えたのち、1947年1月に日立製作所保有株を持株会社整理委員会へ移し、株式公開と上場を経て独立系の造船会社として再出発した経過。
背景
造船は助成と発注で国の政策と結びついた事業であり、官営でない造船所は資本の不安定と隣り合っていた。1916年の増資で範多竜太郎氏は持株の全部を譲り渡し、以後の資本は久原鉱業、日本産業、日立製作所へ移った。
内容
1943年3月に社名を日立造船と改め、同年12月には彦島工場を三菱重工業へ譲渡した。1947年1月に日立製作所の保有株が持株会社整理委員会へ移り、1948年12月に全株式が一般に放出され、1949年5月に大阪・東京証券取引所へ上場した。
含意
資本の移動はいずれも会社が望んで起こしたものではないが、独立後に選んだ技術研究所の開設、B&Wディーゼルのサブライセンス取得、キャラス社からの4隻一括受注は自社の判断であった。誰の系列でもない造船会社としての位置がここで定まった。
筆者の見解

与えられた変化のなかで、選べたもの

1881年から1947年までに、この会社の資本の持ち主は範多家から久原鉱業、日本産業、日立製作所と替わり、最後は持株会社整理委員会へ移った。どれも会社が望んで起こした移動ではない。それでも1943年に彦島工場を三菱重工業へ渡し、1949年に技術研究所を開き、1950年にB&Wのサブライセンスを取り、1951年にキャラス社から4隻を一括受注したのは、いずれも自社の判断であった。資本が外から決まる会社にも、選べる範囲は残っていたとみることができる。

ただ、その範囲は狭かった。ポーレー案が実施されれば造船業は明治30年代の水準に戻る計画であり、賠償指定を受けた20造船所には日立の神奈川も入っていた。指定が解けたのは会社の努力によるものではない。築港工場で梵鐘を227本鋳ったのも、そうしなければ千人を養えなかったからであった。独立は勝ち取ったものではなく、与えられた条件のなかで生き延びた結果に近いといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

外国人が始めた民間造船所

1881年4月、英国人貿易商E・H・ハンターが大阪安治川右岸の六軒屋新田に大阪鉄工所を創立した。当時の敷地は約1万平方メートル、建物は木造、従業員は200名程度であったが、工作機械は当時珍しい外国製ばかりで業界を驚かせた。1895年にハンターが隠退すると嗣子の範多竜太郎氏が所主となり、鉄船建造のために設備を広げ、日本最初の石造ドックを建設した[1][2]

官の造船所ではないという位置は、はじめから意味を持っていた。1899年に桜島工場を建て、1911年に因島船渠を買収して、唯一の民間造船所としての地位を固めた。1921年のワシントン軍縮会議の時点で駆逐艦以上を建造できる民間工場は9つであり、大阪鉄工所はその一つに数えられている。造船は助成と発注で国の政策と結びついた事業であり、その枠の外に立つことは資本の不安定と隣り合っていた[3][4]

資本が三度替わった

1914年3月に株式会社へ改組し、大阪商船の山岡順太郎氏が社長に就いた。1916年の増資で久原鉱業が株式を大量に取得し、範多竜太郎氏は持株の全部を譲り渡した。第一次大戦後の不況で久原鉱業が不振に陥ると、大阪商船も派遣していた役員を引き上げた。1934年5月、経営の安定と合理化のために日本産業が株式を全取得し、鮎川義介氏が会長に就いた[5][6]

2年後、資本はさらに動いた。1936年、日本産業が持っていた株式は全部が日立製作所に肩代わりされ、会長に小平浪平氏、社長に六角三郎氏が就いて再出発した。1943年3月には社名を日立造船と改めている。会社の名前が資本の持ち主の名前になったところに、この時期の位置が表れている。日立製作所の倉田主税氏は1907年に大阪鉄工所で職工見習いとして半年の実習を受け、後年に日立造船の取締役を務めた[7][8]

決断

彦島工場を三菱重工業へ渡した

1943年12月、日立造船は彦島工場を三菱重工業へ譲渡した。彦島船渠は1924年6月に買収して工場化した拠点である。太平洋戦争に入って会社は戦時体制へ移り、各工場の設備拡充、神奈川工場の建設、九竜船渠の委託経営など国策に沿って動いていた。1937年以降の建艦計画のもとで新設した造船所には、神奈川と向島西が含まれる。作る工場と手放す工場を選び分けたことは、この時期に残った数少ない裁量であった[9][10][11]

戦後の拠点構成は、賠償の計画が先に決めようとしていた。1946年11月に発表されたポーレー案は、年間15万総トンの建造施設と300万総トンの修理施設を残し、これを超える施設と軍艦の建造・修理施設の全部を撤去する計画で、三菱の神戸・下関・横浜、石川島の第二、日立の神奈川など20造船所と海軍工廠が賠償指定を受けた。撤去が実施されれば、造船業は明治30年代の水準まで後退する見通しであった[12]

日立の持株が整理委員会へ移った

1947年1月、日立造船の全株式を保有していた日立製作所は、その株式を持株会社整理委員会へ譲渡した。親会社が特経会社に指定されたことに伴う処理である。造船業では過度経済力集中排除の対象として三菱重工業が三分割されたのが唯一の例外で、他は1949年4月までに指定を解除されており、日立造船そのものが分割されることはなかった[13][14][15]

1948年12月に全株式が一般へ放出されて公開となり、1949年5月には大阪・東京証券取引所へ上場した。数回の増資を経て、1953年2月に資本金は31億6,000万円になった。資本の持ち主は特定の一社ではなく市場に移り、日立造船は独立系の造船会社として再出発する。社名だけが、資本を離れたあとも日立を名乗り続けた[16][17]

結果

独立後に自ら選んだ道

再建の苦難期にあった1949年、会社は大規模な技術研究所を開設した。1950年には世界的に定評のあるデンマークのB&Wディーゼル機関のサブライセンスを取得し、同年、松原与三松氏が社長に就いた。1954年には米国ケネディ社とセメントプラントの技術提携を結んでいる。設備の撤去を待つ立場から、自前の技術を積む立場へ移ろうとしていた[18]

1951年、米国キャラス社から2万トン級の大型油槽船4隻を一括受注した。民間貿易再開後の最初の輸出船として業界の注目を集めた受注である。後年の企業史は、B&Wとの技術提携とこの一括受注の2件を画期的な出来事とし、その後の躍進の推進力になったと記した。独立した会社が世界から直に仕事を取る形が、ここで決まった[19][20]

梵鐘から2年分の手持ち工事へ

敗戦直後、造船所は日用品づくりで日をつないだ。日立造船の築港工場では、大ドックにごみと油と流木が流れ込むなかで、千人の従業員に食べさせるためには売れるものを作るほかなく、応徴士の指導に当たっていた元住職の提案で梵鐘の鋳造を決めた。1946年6月の香川県正蓮寺を第一号に、1950年までに227本を鋳造している[21]

そこから10年で位置は変わった。1955年10月時点の手持ちは新造船33隻・45万重量トンで、修繕船や化学機械鉄構工事を合わせて約300億円、2年余分に達した。年間能力は新造船15万総トンで業界第2位、修繕船250万総トンで第1位であり、取引先は十数カ国に及んだ。資本の持ち主が三度替わった会社は、誰の系列でもない造船会社として立っていた[22]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「日立造船」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
  • 日本産業史(日経文庫, 日本経済新聞社)第1巻 機械・輸送機「造船-船は国家なり」
  • 日本産業史(日経文庫, 日本経済新聞社)第2巻 機械・輸送機「造船-政府も手厚い援助」
  • 私の履歴書 経済人12「倉田主税」(日本経済新聞社)
  • カナデビア 有価証券報告書【沿革】

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