彦島工場を三菱重工へ譲渡(1947年・カナデビアの決断)更新:2026/07/26論点どの系列にも属さず再出発するかカナデビア:業績の推移売上高(億円)営業利益率(%)データ出所日立製作所保有株の整理を経た独立系造船会社への再出発何をなぜ決めたか:日立製作所保有株の整理を経た独立系造船会社への再出発概要1881年に英国人ハンターが創立した大阪鉄工所が、久原鉱業・日本産業・日立製作所と資本の持ち主を替えたのち、1947年1月に日立製作所保有株を持株会社整理委員会へ移し、株式公開と上場を経て独立系の造船会社として再出発した経過。背景造船は助成と発注で国の政策と結びついた事業であり、官営でない造船所は資本の不安定と隣り合っていた。1916年の増資で範多竜太郎氏は持株の全部を譲り渡し、以後の資本は久原鉱業、日本産業、日立製作所へ移った。内容1943年3月に社名を日立造船と改め、同年12月には彦島工場を三菱重工業へ譲渡した。1947年1月に日立製作所の保有株が持株会社整理委員会へ移り、1948年12月に全株式が一般に放出され、1949年5月に大阪・東京証券取引所へ上場した。含意資本の移動はいずれも会社が望んで起こしたものではないが、独立後に選んだ技術研究所の開設、B&Wディーゼルのサブライセンス取得、キャラス社からの4隻一括受注は自社の判断であった。誰の系列でもない造船会社としての位置がここで定まった。いつ何が起きたか10件考察:与えられた変化のなかで、選べたもの考察考察:与えられた変化のなかで、選べたもの1881年から1947年までに、この会社の資本の持ち主は範多家から久原鉱業、日本産業、日立製作所と替わり、最後は持株会社整理委員会へ移った。どれも会社が望んで起こした移動ではない。それでも1943年に彦島工場を三菱重工業へ渡し、1949年に技術研究所を開設し、1950年にB&Wのサブライセンスを取り、1951年にキャラス社から4隻を一括受注したのは、いずれも自社の判断であった。資本が外から決まる会社にも、選べる範囲は残っていたと思われる。ただ、その範囲は狭かった。ポーレー案が実施されれば造船業は明治30年代の水準まで縮小する計画であり、賠償指定を受けた20造船所には日立の神奈川も入っていた。指定が解けたのは会社の努力によるものではない。築港工場で梵鐘を227本鋳ったのも、そうしなければ千人を養えなかったからであった。独立は勝ち取ったものではなく、与えられた条件のなかで生き延びた結果に近いといえる。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「日立造船」企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「造船-船は国家なり」日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」私の履歴書 経済人12「倉田主税」(日本経済新聞社)カナデビア 有価証券報告書【沿革】次に読む決断カナデビアの意思決定1964年カナデビアカナデビア堺工場マンモスドック建設超大型船の建造拠点の新設と、発祥の桜島工場の造船からの撤収1964年1986年カナデビアカナデビア築港工場・堺工場の閉鎖100社近い新会社への人員の移籍と、本体従業員の約8割削減1986年同じ問い:創業家企業の上場2021年リガクHDリガクHDカーライルとの共同出資ファンドへの株式譲渡と、創業家持分約20%を残す方式での資本再編2021年2017年ジャパンエレベーターサービスHDジャパンエレベーターサービスHDマザーズへ株式上場創業家が過半を持ち続けたままの株式公開と、支配権を譲らない資金調達2017年2016年ベイカレントベイカレント東証マザーズへ上場PEファンドの出口として設計された、投資回収のための株式公開2016年2010年大塚HD大塚HD持株会社化と東証上場公募・売出の総額が約2200億円に達した、同業に大きく遅れての株式公開2010年2008年ホシザキホシザキ東証・名証への同時上場創業61年目にしての株式公開と、二つの市場への同時上場2008年×出所