竹内製作所JASDAQ登録・上場による同族非公開企業から公開企業への移行

創業家が株式の過半を握る非公開企業のまま続けるか、市場に開くか——創業39年目の資本政策

時期 2002年12月
意思決定者(推定) 竹内明雄 社長
論点 資本構成と成長資金
概要
創業から39年、竹内製作所が2002年12月に株式を日本証券業協会(JASDAQ)へ登録し、2004年12月にジャスダック証券取引所へ上場した判断。創業家が株式の過半を握る非公開の同族企業から、公開企業への移行にあたる。
背景
1993年時点の株式は創業者・竹内明雄氏が40%、東京中小企業投資育成が20%、専務・竹内好敏氏が10%を保有する非公開の同族企業であった。1990年代後半にドイツでの共同生産、英国・フランスへの販売拠点設置と海外網を広げ、投資と信用の裏づけが要る規模になっていた。
内容
2002年12月にJASDAQへ株式を登録し、2004年12月にジャスダック証券取引所へ上場して店頭登録を取り消した。上場後は2005年3月に本社工場内の第二工場、同年4月に中国青島の子会社を設け、2006年3月には1株を2株とする株式分割を行った。
含意
連結売上高は2002年2月期の166億円から2008年2月期の844億円へ拡大し、2015年3月に東証一部、2022年4月にプライム市場へ移行した。創業家の持株比率は下がったが、会長・社長を創業家が占める同族経営は2025年時点でも続いている。
筆者の見解

開いた資本と、開かなかった経営

この決断の中心にあるのは、資金の調達手段よりも、会社の性格を変えるかどうかという点にあったとみることができる。創業者が旋盤1台から始め、自分の給料を止めて資金を繋いだ会社が、39年を経て外部の投資家に評価される場へ出た。輸出比率の高い事業は為替と海外景気に揺れやすく、拠点と生産能力への投資を続けるには、創業家と一社の投資育成会社が支える資本では細かったとみられる。登録から上場までを段階的に踏んだ運びにも、市場との距離を慎重に測った跡がうかがえる。

一方で、開かれたのは資本の側だけであった。持株比率は下がったものの、会長と社長は創業家が占め、2019年の社長交代も長男への承継であった。市場から資金と信用を受け取りながら、経営の意思決定は創業家の手に残す形が20年以上続いている。同族の継続性と公開企業としての規律をどう両立させるかという問いは、業績が好調な現在よりも、次の代替わりの場面でこそ現れるのかもしれない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

創業家が握っていた非公開企業の資本

竹内製作所は1963年8月、長野県埴科郡坂城町に資本金300万円で設立された。創業者の竹内明雄氏が兄を含む6人で始めた工場で、運転資金150万円の借入には前の勤め先の社長が保証人に立ち、資金が回らない時期には自身の給料を5か月止め、以前に得ていた取引先の株を換金してしのいだこともあった。株式は創業家の手元にとどまり、外部から資本を入れる形はとらずに、受託加工からミニショベル専業メーカーへ育った会社である[1][2]

1993年時点の株主構成は、創業者・竹内明雄氏が40%、東京中小企業投資育成が20%、専務・竹内好敏氏が10%、商社のトーメンが2%であった。創業家と公的な投資育成会社が資本の中心を占め、市場での取引はない。同じ時期の売上構成はミニバックホーが95%、撹拌機が5%で、事業は建設機械のほぼ一本足であった。ひとつの製品と創業家の資本で回してきた会社の形が、1990年代半ばまで続いていた[3][4]

海外拠点の増設と、必要になった資金の裏づけ

1990年代半ばから、同社は海外の拠点を相次いで設けた。1995年3月にドイツのHBM/NOBASと油圧ショベル(ホイール式)の共同生産を始め、1996年10月には英国にTAKEUCHI MFG.(U.K.) LTD.を設立して欧州の販売拠点を自前で整えた。1998年5月にはショベルとクローラーキャリアの設計・製造でISO9001の認証を取得し、同年10月には本社工場内に開発センターを新設して開発機能を社内に置いた。2000年5月にはフランスにTAKEUCHI FRANCE S.A.S.を設けた[5][6]

事業の規模も伸びていた。連結売上高は2002年2月期に166億円、経常利益7.99億円、純利益3.80億円で、上場前夜の事業規模は中堅の機械メーカーの水準にあたる。2002年3月には米国GEHL Companyへのクローラーローダー供給を始めて北米の販路を加え、翌2003年2月期の連結売上高は217億円へ伸びた。拠点の増設と生産能力の拡張を続けるには、創業家と投資育成会社の資本だけでは足りない規模に達していた[7][8]

決断

2002年12月の店頭登録と、2004年12月の上場

2002年12月、創業から39年で、同社は株式を日本証券業協会(JASDAQ)に登録した。市場での売買が可能になり、創業者個人の手元に置かれてきた株式が外部の投資家へ渡る道が開いた。続いて2004年12月にはジャスダック証券取引所へ株式を上場し、日本証券業協会への店頭登録は取り消された。登録から上場までを2年で通した形で、公開企業としての位置を段階的に固めた[9][10]

調達した資金は生産と海外の拠点に向かった。2005年3月には本社工場内に第二工場を新設して生産能力を広げ、翌4月には中国青島市に竹内工程機械(青島)有限公司を設立して部品の生産機能を海外へ置いた。2006年3月には普通株式1株を2株とする株式分割を行い、株式の売買単位を下げて投資家の裾野を広げた。非公開の同族企業が持ちにくかった、資本市場を通じた資金と流動性を、同社はこの数年で手にした[11]

創業家の持分の変化

公開によって資本構成は組み替わった。1993年に40%を保有していた創業者・竹内明雄氏の持株比率は、2006年2月期には7.17%となり、当時の筆頭株主は長男の竹内敏也氏の8.47%であった。東京中小企業投資育成は20%から6.90%へ下がり、資産管理サービス信託銀行が4.51%、日本トラスティ・サービス信託銀行が3.57%と、信託銀行の名義が上位株主に並んだ。創業家の合計持分はなお相応の水準にあったが、単独で意思決定を通せる比率ではなくなった[12][13]

一方で、経営の担い手は創業家にとどまった。竹内明雄氏は2019年5月まで代表取締役社長を務め、その後は代表取締役会長として在任している。社長を継いだのは長男の竹内敏也氏で、1985年4月に入社し、執行役員部品部長、取締役村上工場長、取締役副社長を経ての内部昇進であった。株式を市場へ開きながら、経営の中枢は創業家が持ち続ける形が選ばれた[14][15]

結果

公開後の拡大と、市場区分の階段

上場前後の数年は、業績が急に伸びた時期にあたる。連結売上高は2002年2月期の166億円から2006年2月期に572億円、2008年2月期には844億円へ達し、同期の経常利益は106.6億円、純利益は64.9億円と創業以来の最高水準となった。北米の住宅市場の好調と欧州市場の拡大が重なり、ミニショベルを最初に手がけたメーカーとしての地位のもとで販売を伸ばした。中堅の機械メーカーであった会社が、数年で準大手の規模になった[16][17]

もっとも、公開後の道のりは一本調子ではなかった。2008年9月以降の金融危機で輸出の需要が急減し、2009年2月期の連結売上高は524億円、2010年2月期は232億円とピークの4分の1近くまで縮み、2期続けて損失を計上した。売上がピークを超えたのは2015年2月期の699億円で、回復には5年以上を要した。その後、2015年3月に東京証券取引所市場第一部へ市場を変更し、2022年4月にはプライム市場へ移行した。2025年2月期の連結売上高は2,132億円、純利益261億円、自己資本比率77%となり、公開企業としての規模と財務の厚みを備えた[18][19][20]

出典・参考
  • 竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】
  • 竹内製作所 有価証券報告書(2003年2月期・連結)
  • 竹内製作所 有価証券報告書(2006年2月期)
  • 竹内製作所 有価証券報告書(2008年2月期・連結)
  • 竹内製作所 有価証券報告書(2010年2月期・連結)
  • 投資育成名鑑 平成5年版(東京中小企業投資育成, 1993)
  • 坂城町工業発達史(坂城町, 1988)
  • 竹内製作所 会社沿革(公式サイト)

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