米国現地法人の設立(1979年・竹内製作所の決断) 更新:2026/07/22 論点 円高でも米国の拠点を維持するか 竹内製作所:業績の推移 売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所 円高下でも引き揚げなかった北米残留 何をなぜ決めたか:円高下でも引き揚げなかった北米残留 概要 竹内製作所が1978年1月の輸出開始の翌年、1979年2月に米国へTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.を設立し、その後の円高で他社が北米から引き揚げるなかでも赤字を抱えたまま残留した判断。竹内明雄社長は本社の社長を務めながら米国法人の代表も兼ねた。 背景 相手先ブランド供給の先細りを受けて竹内ブランドでの自力販売に転じたが、国内では後発扱いされて名が通らず、主軸を輸出へ移していた。売上は1978年8月期45億円から1979年8月期69億円へ伸び、輸出先での足場づくりが課題となっていた。 内容 創業16年目、長野県坂城町の中小メーカーが米国に自前の子会社を設立した。竹内明雄社長が現地法人の取締役社長を兼ね、のちに英国・フランスの現地法人代表も兼務した。円高で赤字となった時期も蓄えを取り崩して耐え、拠点を畳まなかった。 含意 米国はその後、同社の最大市場となった。2018年2月期には北米の売上が420億円超に達し、2022年9月には米サウスカロライナ州でクローラーローダーの現地生産を開始した。2025年2月期の米国売上は1,201億円で連結の約56%を占めた。 いつ何が起きたか 6件 考察:残ることの費用と、残ったことの果実 考察 考察:残ることの費用と、残ったことの果実 1979年の米国進出そのものは、輸出を開始した会社が販売先に拠点を開設するという、順序としては自然な一手であった。この判断を際立たせているのは、その後の円高で赤字になっても畳まなかったことのほうだとみられる。撤退すれば当期の損は止まるが、名の通っていないブランドを扱ってくれる相手と、現地で積んだ時間はもう一度は買えない。他社が引き揚げた同じ時期に耐えたことが、後に北米が最大市場になったときの差になった。 ただし、残った結果として同社は北米への依存を深めた。2025年2月期には米国が連結売上の半分を超え、住宅着工やインフラ投資といった一国の景気に業績が強く連動する構造となっている。リーマンショック後に売上がピークの4分の1近くまで縮んだ経験は、その裏面にあたる。円高に耐えて残った拠点が、今度は単一市場への集中という別の課題を残した——1979年の判断は、その両方の始まりであったと推察される。 Yutaka Sugiura, 2026年7月 参考文献 参考文献 参考JMC journal(日本機械輸出組合, 1998年11月)坂城町工業発達史(坂城町, 1988)竹内製作所 有価証券報告書 第63期(2025年2月期)【沿革】東商信用録 中部版 昭和56年版(東京商工リサーチ名古屋支社, 1981)竹内製作所「米国の連結子会社における新工場稼働開始のお知らせ」(2022年9月26日) 次に読む決断 竹内製作所の意思決定1978年竹内製作所竹内製作所ヤンマーOEMから直販転換OEM供給依存から竹内ブランドでの直接販売への転換1978年2002年竹内製作所竹内製作所JASDAQへの登録上場登録上場による同族の非公開企業から公開企業への移行2002年同じ問い:現地生産からグローバル経営へ1980年ヒロセ電機ヒロセ電機米国現地法人設立北米を第一歩とする海外拠点網の構築による、国内中心の事業体制からの転換1980年1977年日本精工日本精工豪州・英国・米国に工場設置販売会社中心の海外展開から現地生産体制へ切り替える方針の転換1977年1983年ダイフクダイフクDaifuku U.S.A.設立現地法人を設立することによる北米市場への初めての自力進出1983年1985年上村工業上村工業プラザ合意後の10か国展開顧客の海外移転に追随した10か国への拠点設置と、地域完結型の営業体制の構築1985年1972年クボタクボタクボタトラクターCorp.設立水田向け小型トラクタを武器とした北米・欧州市場への進出1972年 × 出所