竹内製作所米国現地法人の設立と、円高下でも引き揚げなかった北米残留

赤字を抱えたまま北米に残るか、他社と同じく引き揚げるか——輸出開始の翌年に置いた拠点をめぐる判断

時期 1979年2月
意思決定者(推定) 竹内明雄 社長
論点 海外拠点と為替耐性
概要
竹内製作所が1978年1月の輸出開始の翌年、1979年2月に米国へTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.を設立し、その後の円高で他社が北米から引き揚げるなかでも赤字を抱えたまま残留した判断。竹内明雄社長は本社の社長を務めながら米国法人の代表も兼ねた。
背景
相手先ブランド供給の先細りを受けて竹内ブランドでの自力販売に転じたが、国内では後発扱いされて名が通らず、主軸を輸出へ移していた。売上は1978年8月期45億円から1979年8月期69億円へ伸び、輸出先での足場づくりが課題となっていた。
内容
創業16年目、長野県坂城町の中小メーカーが米国に自前の子会社を置いた。竹内明雄社長が現地法人の取締役社長を兼ね、のちに英国・フランスの現地法人代表も兼務した。円高で赤字となった時期も蓄えを取り崩して耐え、拠点を畳まなかった。
含意
米国はその後、同社の最大市場となった。2018年2月期には北米の売上が420億円超に達し、2022年9月には米サウスカロライナ州でクローラーローダーの現地生産を始めた。2025年2月期の米国売上は1,201億円で連結の約56%を占めた。
筆者の見解

残ることの費用と、残ったことの果実

1979年の米国進出そのものは、輸出を始めた会社が販売先に拠点を置くという、順序としては自然な一手であった。この判断を際立たせているのは、その後の円高で赤字になっても畳まなかったことのほうだとみることができる。撤退すれば当期の損は止まるが、名の通っていないブランドを扱ってくれる相手と、現地で積んだ時間はもう一度は買えない。他社が引き揚げた同じ時期に耐えたことが、後に北米が最大市場になったときの差になった。

ただし、残った結果として同社は北米への依存を深めた。2025年2月期には米国が連結売上の半分を超え、住宅着工やインフラ投資といった一国の景気に業績が強く連動する構造となっている。リーマンショック後に売上がピークの4分の1近くまで縮んだ経験は、その裏面にあたる。円高に耐えて残った拠点が、今度は単一市場への集中という別の課題を残した——1979年の判断は、その両方の始まりであったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

輸出に切り換えた直後の中小メーカー

竹内製作所は1971年9月にミニショベルを世界で初めて製品化したが、自前の販売網を持たず、量産の受け皿をヤンマーディーゼルや石川島播磨重工業への相手先ブランド供給に求めていた。供給先が順に自社生産へ回って取引が細ると、同社は竹内ブランドでの自力販売に転じる。しかし国内では「竹内なんて聞いたこともない」と相手にされず、最初に開発した当事者でありながら後発メーカーと見なされた。そこで竹内明雄社長は全部を輸出に切り換えると決め、1978年1月にミニショベルの輸出を始めた[1][2]

輸出は同社の規模をすぐに押し上げた。8月決算であった当時、売上高は1978年8月期の45億円から1979年8月期には69億円へ伸び、1980年8月期には81億円に達した。取引は信用状(L/C)による決済としたため代金の焦げ付きを避けられ、据置期間のうえに24回から36回の分割払いが常であった国内販売とは資金の回り方が異なった。ただし販売の実務は各国の販売店に委ねており、輸出先で自社の名がどう扱われるかを直接見る手立ては乏しかった[3][4]

世界初という製品優位と、知られていないという現実

輸出に賭ける根拠は製品の側にあった。相手先ブランドで納めた機械も設計はすべて竹内製作所が担っており、品質と性能は海外で高く評価されていた。小型機は油圧機器類に相応の能力が要るうえ、狭い車体に機器を収める設計が難しく、大型機より組み立ての手間がかかる。世界に先んじてその難所を通った経験が、同社の競争条件であった。狭い現場向けという製品の性格も、古い建物を残して内部だけを改造する欧州の工事に合っていた[5][6]

一方で、会社そのものは長野県埴科郡坂城町の中小メーカーにすぎなかった。1963年に資本金300万円、従業員6人で発足し、工場は創業者が自ら屋根を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造して何年も使った会社である。海外に自前の子会社を置けば、駐在費も維持費も損益に直に効く。輸出を始めたばかりで国内での知名度も乏しい会社が、海の向こうに常設の拠点を構えることには相応の重さがあった[7][8]

決断

創業16年目に置いた米国子会社

1979年2月、同社は米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.を設立した。輸出開始からわずか1年後、創業からは16年目にあたる。竹内明雄社長は後年、いち早く米国へ進出したのは自分たちだと述べており、日本の建設機械メーカーのなかでも早い時期の進出であった。長野県坂城町を本拠とする中小メーカーが、欧州ではなく米国に最初の海外子会社を置いた点に、この判断の性格がある[9][10]

拠点の運営も創業者が自ら握った。竹内明雄社長は本社の代表取締役社長を務めながら、1979年からTAKEUCHI MFG.(U.S.), LTD.の取締役社長を兼ね、その後も1996年に英国、2001年にフランスの現地法人の代表を重ねて務めた。現地に権限を分けて任せるのではなく、創業者が海外子会社の代表として直接束ねる形である。竹内明雄社長は海外では通訳を介しても自分の考えを率直に伝えることを心がけ、相手との違いが見えなくなるような遠慮を避けたと述べている[11][12]

円高と赤字を辛抱する

拠点を置いた後、為替が同社の採算を直撃した。輸出に売上の大半を頼る構造のため、円高が進んだ時期には赤字企業となり、それまでの蓄えを取り崩して対応した。北米に進出していた各社が円高を理由に引き揚げるなか、竹内製作所は赤字を抱えたまま拠点を残した。竹内明雄社長は後年、あのとき撤退しなくてよかったと振り返っている[13]

残るという判断は、精神論だけで支えられたわけではない。同社は為替の水準に耐えられる原価構造をつくることを目標に据え、1998年の時点で1ドル110円程度までは耐えられる体質を持つと語り、1ドル100円でも採算が取れるよう合理化を進めていた。撤退を選べば、輸出比率が85%に達した事業の最大の売り先で、自社の名を扱う相手を失う。拠点を維持しながら原価を詰める道が採られた[14][15]

結果

最大市場となった北米と、現地生産への移行

北米での足場は、その後の同社の中心となった。2002年3月には米国GEHL Companyへクローラーローダーの相手先ブランド生産を始め(2011年2月まで)、自社販売に加えて北米の販路を広げた。2018年2月期の推定売上高900億円のうち、北米と欧州がそれぞれ420億円超を占め、重量6トン未満のミニショベルで北米市場5位、欧州2位という位置につけた。売上の97%超を海外で稼ぐ構造がこの時期には定着していた[16][17]

課題は販売店の網であった。2021年の時点で米国はミニショベルのシェアが欧州より低く、その要因はディーラー網の弱さにあるとされ、同社は現地に販売店向けのトレーニングセンターを建設していた。供給の側でも手を打ち、米国子会社は2022年4月にサウスカロライナ州の建設機械工場を取得し、同年9月23日にクローラーローダーの生産を開始した。グループとして初の米国生産拠点で、日本の本社工場で自走できる状態まで組み立て、残る工程を現地で行う方式から始め、フル稼働時には同製品の生産能力が4割増える見込みとされた。輸出で北米に入った会社が、現地で作る会社へ移り始めた[18][19][20]

出典・参考

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