日立製作所が建設機械を手がけた源流は、戦前から戦中にかけて軍需と資源開発の現場へ収めた重機械の実績にさかのぼる。1942年には石炭の露天掘り用として大型電気ショベル『120H』を南満州鉄道の撫順炭鉱へ納入し、1944年には軽戦車を改造した排土車をブルドーザの前身として軍需向けに納めた。ただし、いずれも個別の受注にとどまり、建設機械を量産品として本格的に生産するのは戦後のショベル開発を待った。1948年に発足した建設省は、その前身の建設院の時代から建設機械の国産化を国家的な課題に掲げ、占領軍からの払い下げ機に頼る機械化施工を自国の技術で置き換える担い手を探していた。遊休設備を抱えていた日立製作所の亀有工場は、この国産化の要請に応える形でパワーショベルの製作へ動き出し、戦時下に培った設計と製造の蓄積を民需へ転じた。 [1][2][3][4]
1948年に建設省が日立製作所に対してパワーショベル2台を発注したことが自社の源流となる出来事であり、戦後復興期の国土建設需要に応えて戦前に蓄積された重機械技術が民需に再び活用されるきっかけとなった。日立製作所は1949年に自社開発の機械式ショベル『U05』を完成させて建設省の木曽川工事事務所に納入し、初号機の実用化に到達した。このU05は純国産技術による機械式ショベルとして、業界に先駆けた技術力を示す製品となった。1950年には量産型の『U06』を開発して亀有工場での生産を本格化させ、建設省を中心とする国内の公共工事需要を取り込みながら油圧ショベルへと至る主力機種の開発系譜を積み上げた。1950年代後半には治水と利水を目的とした河川改修や多目的ダムの建設が相次ぎ、こうした国土開発の需要に支えられて日立製作所の建設機械部門は順調に規模を広げていった。 [5][6][7][8][9]
1955年にはアフターサービスを専門に担う日立建設機械サービスを設立し、販売後の顧客対応を専門会社が担う体制を全国規模で整備することで、単品販売にとどまらない建機ビジネスの基礎を作り上げた。地域販売会社とアフターサービス子会社の二層構造を国内に張り巡らせる体制設計が、ここで形をとった。1960年代には全国を6ブロックに分けて地域販売会社を設立し、割賦販売方式を前面に押し出して新車販売を全国の地域販売会社経由で売り出したが、新車販売の80%が割賦取引で構成されていたため、販売を伸ばすほど売掛債権が膨張するという矛盾した構造に直面した。借入金は最終的に134億円にまで達し、製造部門と販売部門が別法人として分離運営される体制も意思決定の迅速さを欠く要因となり、組織全体の再構築が経営課題として前面に押し出された。 [10]
建設機械は売って終わりの商品ではなく、稼働台数が増えるほど修理と部品供給の負担が現場に積み上がっていく。日立製作所は稼働台数の増加にサービスが追いつかなくなる前に手を打ち、1955年12月に日立建設機械サービスを全額出資で設立した。設立時は資本金500万円、工場と事務所を合わせて759平方メートル、従業員27名という小さな所帯で、東京都足立区大谷田町に本社を置いた。同じころ社内では建設機械の位置づけも段階的に上がっていき、1960年8月に機械事業部へ建設機械課が置かれ、翌1961年2月には建設機械部へ昇格し、1964年2月には建設機械事業部が新設されて亀有工場の足立分工場が足立工場として独立した。製品を作る組織とそれを支える組織が、後の分社に先立ってそれぞれ形を整えていった。 [11][12][13]
サービス会社の業務は設立後に段階を追って広がっていった。1956年9月に修理完成後のテスト業務、1957年3月にショベル補給部品の管理、1959年9月に新車納入時の運転指導、1961年3月にブルドーザのサービス業務と、扱う範囲を年ごとに増やしている。顧客からオペレーター育成を求める声が高まったことを受けて1960年2月には東京サービス工場内に教習所を開き、翌年には教員3名と教習機4台を備えた建設機械サービス学校へ拡充して、1965年3月までに1,805名の教習を実施した。1962年7月には部品管理業務にパンチカードシステムを導入し、発注と納入の迅速化と部品在庫の適正化を進めた。機械を納めるだけでなく、それを動かす人と支える部品までを自社で抱え込む事業の型が、この時期に固まっていった。 [14][15][16]
10年の間に積み上がったものは規模の数字にも表れた。1955年の発足時に324台だった日立建設機械の稼働台数は1965年3月には約4,000台へ伸び、これに合わせてサービス会社は資本金6億円・従業員約1,000名へと拡大し、サービス工場やサービスセンタなど10か所に駐在所8か所と指定サービス工場13か所を加えた計31か所の拠点を持ち、メーカーの直営サービス網としては業界随一と自ら位置づける規模に達した。巡回サービスや工場内修理で得たデータを部品の一点ごとに設計へ返して製品改良に役立てるという原則も、この過程で定まっている。販売の側では1962年以降に大阪・東京・九州・東北・中部・北海道の各地域販売会社が設立され、1965年4月にはこれらとサービス会社を合併して旧日立建機が発足し、販売とサービスが一つの会社へ束ねられた。 [17][18][19]
製造と販売が別法人で運営される体制の非効率を解消するために、1970年10月に日立建設機械製造と旧日立建機を合併して新生日立建機を発足させる組織再編が実行された。足立工場と土浦工場の工場用地について簿価譲渡の税法特例を活用し、金融機関4行から合計64億円を新規に借り入れるスキームで合併を実現させたが、発足時の総資産596億円のうち売掛債権が47%を占めるという極端に偏った財務構造を抱えており、自己資本比率はわずか6.4%という当時としては異例の脆弱さであった。日立製作所の側には、本業の総合電機・機械と関連の薄い建設機械を、生産・販売・サービスを一体化した別会社に委ねるほうが経営効率でも資金調達でも有効だという判断があった。製販統合という組織上の合理化は完了したが、財務面の体質改善までは同時には進められず、合併の直後から日立建機は構造的な危機に直面した。 [20][21]
発足直後から業績は悪化していき、1971年9月期と1972年3月期に2期連続の経常赤字を計上し累計28.1億円の損失を出し、自己資本比率は1.8%にまで低下する危機的な水準に陥ることとなった。1974年には東京都内の足立工場を閉鎖して12万平方メートルの跡地を売却し、その売却益を原資に土浦工場へ135億円を投下して一貫生産体制を築き、生産効率の向上と固定費の圧縮を同時に進めた。製造部門の土浦への統合は1974年3月までに完了した。1981年には株式に上場し、上場時点の売上高は1,219億9,500万円で建設機械業界6位、うち油圧ショベルが60.0%を占めて同機種では首位、従業員は4,030人だった。油圧ショベルを主力機種とする国内メーカーとして市場における地位を固め、海外展開に向けた経営体力の基盤を1980年代前半までに何とか整えた。 [22][23][24][25]
土浦への集約と並行して、日立建機は製品の幅を自前だけで埋めない道も選んでいる。1976年5月、同業の久保田鉄工と油圧ショベルをめぐる相互OEM提携を結び、久保田製のミニバックホウを自社ブランドで販売する一方、久保田は日立建機製の油圧ショベルを自社ブランドで販売する形をとった。この提携に先立って日立建機は生産開始寸前だったミニバックホウへの進出計画を取りやめ、久保田は西ドイツからの技術導入で生産していた油圧ショベルから撤退している。技術も販売網もどちらかといえば大型寄りだという自己認識が、小型機を自前で抱えない判断の背後にあった。製造上のトラブルが起きたときは最終的に製造した側の意見に合わせるという合意を置いた点で通常のOEMとは異なり、この提携は1980年3月に不整地走行車へも対象を広げた。 [26][27][28][29]
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|---|---|---|---|---|
| 1948〜1982年日立製作所の建機事業と製販統合による試練の時代 | 日立製作所が「ショベルU05」を建設省に納品 | ★ | ||
| 日立建設機械サービスを設立 | ★ | |||
| 油圧ショベル「UH03」を発売 | ★★ | |||
| (旧)日立建機を設立 | ★ | |||
| 土浦工場で建機生産を開始 | ★ | |||
| ジョン・ディア社向けに建機をOEM輸出 | ★ | |||
| 日立製作所の建設機械製造部門が分離独立し日立建設機械製造を設立 | ★ | |||
| 日立建機を設立・製販統合へ | ★★ | |||
| トラクターの生産中止 | ★ | |||
| 相模工業と合併 | ★ | |||
| 製販統合による新生日立建機の発足と、足立工場の閉鎖・土浦一貫生産への集約 日立製作所の建設機械製造部門として1969年に分離独立した日立建機が、1970年10月に販売会社と合併して製販を一体化し、後発だったトラクター類の生産を捨て、1974年3月までに東京の足立工場を閉じて茨城の土浦工場へ生産を全面集約した一連の経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 油圧ショベルの競争激化 | ★ | |||
| 東京証券取引所第2部に株式上場 | ★ | |||
| 1983〜2003年OEM提携による海外展開と三極体制の構築 | アジア展開を本格化 | ★ | ||
| 米ディーア・伊フィアットとの日米欧3極体制 油圧ショベルで世界首位に立つ日立建機が、1980年代後半に米ディーア・伊フィアットアリスと合弁と相互OEM供給で結び、日米欧3極体制を築いて米キャタピラー・小松製作所の総合建機2大巨人に挑んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部指定 | ★ | |||
| 日立建機ティエラの経営権を取得 | ★ | |||
| P.T.日立建機インドネシア設立 | ★ | |||
| 日立建機有限公司設立 | ★ | |||
| P.T.ヘキシンドアディプルカサTbk出資 | ★ | |||
| 日立建機トラックLtd.の経営権を取得 | ★ | |||
| 欧州推進事業本部を新設・フィアットと提携解消 | ★★ | |||
| 日立住友重機械クレーンを設立 | ★ | |||
| 2004〜2022年マイニング参入と独立した建機メーカーへの道筋 | 木川理二郎 | 中国における製造販売に投資 | ★ | |
| 木川理二郎 | 日立建機日本発足 | ★ | ||
| 木川理二郎 | ウェンコ社を買収 | ★ | ||
| 木川理二郎 | タタ日立コンストラクションマシナリーCo.,Pvt.,Ltd.の経営権を取得 | ★ | ||
| 辻本雄一 | 国内の建設機械販売・サービス事業を会社分割により日立建機日本へ譲渡 | ★ | ||
| 辻本雄一 | KCMを完全子会社化 | ★ | ||
| 辻本雄一 | H-E Parts International LLCを完全子会社化 | ★ | ||
| 辻本雄一 | 鉱山機械への本格参入と、米H-Eパーツ・豪ブラッドケンの取得による消耗部品事業の獲得 日立建機が2008年に鉱山用の大型ダンプトラックで市場へ本格参入し、2009年にカナダのウェンコを買収して運行管理へ広げたうえ、2016年12月に米H-Eパーツを約280億円、2017年3月に豪ブラッドケンを約516億円で取得して、鉱山機械の消耗部品とアフターサービスを事業の柱に据えた一連の判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 平野耕太郎 | ディア社との合弁提携を解消 | ★ | ||
| 平野耕太郎 | HCJIHDと資本提携契約を締結 | ★★ | ||
| 平野耕太郎 | 日立製作所による保有株26%の売却と、伊藤忠・日本産業パートナーズ連合への筆頭株主の異動 2022年1月14日、日立製作所が保有する日立建機株式51.5%のうち26.0%を1,824億5,700万円で伊藤忠商事と日本産業パートナーズの共同出資会社HCJIホールディングスへ譲渡すると発表し、同年8月に筆頭株主が日立からHCJIへ移った資本異動。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 先崎正文 | 米州を中心に海外比率が上昇 | ★ |
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事実根拠:出所(日立建機)