日立建機株式会社を設立・製販統合へ
油圧ショベルの台頭とコマツへの劣勢、農機事業の不振
1960年代後半、日立製作所の建設機械部門は主力製品をめぐる競争環境の変化に直面していた。建機市場では機械式ショベルから油圧式ショベルへの技術転換が進行し、日立が強みを持っていた機械式ショベルの需要は構造的に縮小しつつあった。油圧ショベルの分野ではコマツが急速にシェアを拡大しており、日立の建機部門はコマツとの競争において劣勢に立たされていた。
一方、建機に次ぐ収益源として期待された農機(トラクター)事業も苦境にあった。1961年に土浦に工場用地を取得してトラクターの生産を開始したものの、クボタ・ヤンマー・井関農機といった先発メーカーの販売基盤は堅固であり、日立のトラクターは市場で十分な実績を確保できなかった。農機事業は建機部門の業績を補完するどころか、投資回収の見通しが立たない状態にあった。
こうした事業環境の中で、建設機械の製造と販売が別法人で運営される体制が経営上の制約として認識されるようになった。製造は日立製作所の建設機械製造部が、販売は1965年設立の日立建機が担当する分離体制では、市場変化への迅速な対応や製販一体の意思決定が困難であった。競争激化に対処するため、製造販売の統合が不可避であるとの判断が日立製作所の経営陣の間で形成された。
簿価譲渡の特例を活用した製販統合と新生日立建機の発足
1969年、日立製作所は建設機械の製造販売を統合する方針を決定した。具体的には、1969年に新設した日立建設機械製造(建製)が、1965年設立の旧日立建機を吸収合併し、商号を日立建機に変更する形式をとった。建製の設立からわずか11カ月での合併であり、法的には建製が存続会社となったが、実質的には製造部門と販売部門の統合を目的とした組織再編であった。
合併の実現にあたっては、工場用地の評価方法が障壁となった。足立工場(東京都足立区)や広大な土浦工場の土地は、取得時の簿価と時価の間に大きな乖離が生じており、時価評価で合併すれば巨額の資本調達が必要となる。しかし旧日立建機は割賦販売による財務悪化で自己資本比率が低下しており、追加の資本調達は困難であった。そこで、簿価での譲渡を認める税法上の特例を活用し、条件を充足するため金融機関4行(興銀・三和・富士・第一)から合計64億円を借り入れて日立製作所からの債務を返済した。
1970年10月1日、新生日立建機株式会社が発足した。発足時の事業基盤は生産拠点3カ所、支店12カ所、営業所45カ所、出張所27カ所、サービスセンター21カ所であり、製造から販売・サービスに至る一貫体制が実現された。上場前の株主構成は日立製作所が98.7%、中央商事が1.3%を保有し、実質的に日立の完全子会社として運営された。
総資産の47%を売掛債権が占める財務構造と発足直後の赤字転落
新生日立建機は発足時から厳しい財務状況を抱えていた。総資産596億円のうち、割賦販売に起因する売掛債権が47%を占め、売掛のための借入金も多額にのぼった。自己資本比率はわずか6.4%であり、債務超過に対する余力がきわめて限られた状態での経営開始であった。
発足直後から業績は急速に悪化した。1971年9月期および1972年3月期の半期決算で2期連続の経常赤字(累計28.1億円)に転落し、1971年度末の自己資本比率は1.8%にまで低下した。景気後退による建機需要の冷え込みに加え、油圧ショベルへの技術転換への対応遅れと農機事業の不振が重なり、製販統合の効果が発現する前に業績が底を打つ展開となった。
製販統合による日立建機の新生発足は、事業環境の悪化と財務体質の脆弱性が重なった中での経営判断であった。製造と販売の一体化という組織再編の合理性は明確であったものの、その効果が短期的に業績に反映されるには至らず、発足直後の2期連続赤字と自己資本比率1.8%という数字は、製販統合が経営課題の解決ではなく出発点にすぎなかったことを示している。