終戦直後の1946年4月に金属加工の職人であった樫尾忠雄氏が「樫尾製作所」を個人創業した。創業地は東京都三鷹市下連朱雀13番地。祖業は機械部品の下請け加工であり、フライス盤や旋盤によって加工に従事した。納入先は近所の工場であった。
樫尾製作所の創業直後から、樫尾家では長男の忠雄氏を手伝うべく、次男の俊雄氏、三男の和雄氏、四男の幸雄氏が家業を手伝うようになった。この結果、長男の忠雄氏を含む4人兄弟が樫尾製作所に入社した。
兄弟は役割分担を志向し、長男の忠雄氏は経営、次男の俊雄氏は研究開発、三男の和雄氏は営業、四男の幸雄氏は生産を担当した。カシオは創業期から一貫して兄弟による経営を思考しており、兄弟経営における成功例として注目された。
ただし、兄弟が入社した当時、長男の忠雄氏は、事業収入を得て兄弟の面倒を見切れるかどうか、不安を抱いたという。
ご存知のように、カシオ計算機は私ども樫尾兄弟4人が助け合い、支え合いながらちっぽけな町工場からなんとかここまで大きくしてきました。世間では身内が固まると意見が食い違ったり、甘さが出たりしてかえって経営がダメになるとよく言われます。私どもに限って言えば、時々これで本当にいいのかなと思うほど兄弟間の役割分担、連携がうまくいったですね。4人が4人とも生まれつきの異質な能力を持ち合わせて、お互い所を得て、それぞれの長所を発揮できたからだろうと思います。
リレー式計算機の製造販売を本格化するため、1957年6月にカシオ計算機株式会社へ組織変更。本社を東京都武蔵野市西久保に設置した。
リレー式計算機の量産のために、1960年4月に東京工場(東大和市)を新設。生産のための人員採用を積極化し、1964年にカシオ計算機は従業員数500名を突破するなど、急成長を遂げた。
1964年に家電メーカーのシャープが「電子式卓上計算機」を開発。カシオ計算機によるリレー式計算機よりも性能に優れていたため、計算機業界ではシャープが業容を拡大した。
カシオ計算機としてはシャープに対抗するために、電子式卓上計算機への投資を決定。1965年にカシオも電子式卓上計算機を開発した。以後、1960年代を通じて計算機の市場において、カシオ計算機とシャープが熾烈な競争を繰り広げた。
電卓量産のために山梨県に甲府工場を新設。カシオミニなどの量産品の生産に従事
従来の1/4のサイズを実現したパーソナル電卓「カシオミニ」を発売。価格は従来品の1/3の12,800円に設定し、一般家庭でも電卓が利用できる時代を切り開いた。