創業地茨城県多賀郡
2025/3 売上高97,834億円YoY+0.6%
2025/3 売上総利益28,208億円YoY+9.2%
2025/3 営業利益9,627億円YoY+16.6%
FY24 単体平均給与961万円前年度比+25万円
2025年3月末 時価総額158,174億円前年度比+132,405億円
創業1910小平浪平(創業者)
上場1949-

1910年、小平浪平が久原鉱業所日立鉱山の修理工場で5馬力誘導電動機の国産化に成功した。輸入電機のロイヤリティ負担を嫌い外国提携を避ける国産技術主義を掲げ、1920年に株式会社日立製作所として独立、1921年に笠戸造船所を譲受して鉄道車両に進出、1949年に東証上場した。戦後は1952〜54年にRCA・GE・WEと提携してテレビ・発電機・半導体に同時参入、非電機事業を子会社化して上場させる親子上場構造でグループを拡大した。2009年3月期に製造業最大の7,880億円最終赤字を計上、川村隆が構造改革を断行しテレビ自社生産やHDDから撤退、2020年スイスABBパワーグリッド約7,200億円、2021年米GlobalLogic約1兆円の買収で社会インフラとデジタルの融合企業に転換した。2024年4月就任の徳永俊昭体制下でLumadaを軸に親子上場依存からの脱却が課題である。

日立製作所:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
売上高(億円)営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
歴代社長
FY01
FY02
FY03
FY04
FY05
FY06
FY07
FY08
FY09
FY10
FY11
FY12
FY13
FY14
FY15
FY16
FY17
FY18
FY19
FY20
FY21
FY22
FY23
FY24
FY25
FY26
FY27
FY28
古川一夫
執行役社長
川村隆
執..
歴代社長
FY05
FY06
FY07
FY08
FY09
FY10
FY11
FY12
FY13
FY14
FY15
FY16
FY17
FY18
FY19
FY20
FY21
FY22
FY23
FY24
古川一夫
執行役社長
川村隆
執行役会長兼執行役社長
中西宏明
執行役社長
東原敏昭
執行役社長兼COO
東原敏昭
執行役社長兼CEO
小島啓二
執行役社長兼COO
小島啓二
執行役社長兼CEO
德永俊昭
執行役社長兼CEO
日立製作所:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
日立金属(現プロテリアル)株式を譲渡2023
GlobalLogic社を買収2021
Western DigitalへHDD事業を売却2012
カンパニー制を導入(事業グループ再編)2009
委員会等設置会社へ移行2003

歴史概略

1910年〜1949鉱山の修理工場から総合電機メーカーへ発展する時代

国産技術主義による創業と笠戸工場取得

久原房之助が買収して経営した日立銅山で、外国製の発電機や電動機の修理を担った技術者・小平浪平は、輸入電機に支払う高額なロイヤリティと海外技術への依存に強い問題意識を抱き、モーターの国産化と自主開発を決断した。「ロイヤリティを支払うならば同額を自前の研究に投じるべき」(私の履歴書 経済人12)との信念のもと外国企業との技術提携を避け、久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場で1910年に5馬力の誘導電動機を完成させた。久原鉱業所は日立鉱山敷地内に芝内工場を新設し、ここが日立製作所の創業地となった。鉱山内での自家消費から始まった国産電機の製造は、独自の技術蓄積を追求する方針を企業に定着させ、戦前の電機産業のなかで特異な性格の会社を生んだ。

鉱山内の自家使用から外部受注へ販路を広げ、電機製造は独立採算で運営する事業として成長した。久原房之助は電機部門の多角化に消極的であったが、小平浪平が分離独立を主張した結果、1920年2月に日立・亀戸の両工場を擁する株式会社日立製作所として久原鉱業所から独立した。翌1921年2月には経営難の日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて笠戸工場を増設し、電機メーカーが鉄道車両製造へ進出する異例の事業構成を採った。1935年5月には共成冷機工業に資本参加して冷凍・空調分野へ広げ、モーター・発電機・変圧器に鉄道車両まで手がける総合電機メーカーの形を整えた。財閥資本と外国技術を相手に国産技術を旗印に掲げた日立の社風は、三井とGEを後ろ盾にした東芝の合理主義と対照的な「ウェット」型と業界で位置づけられた(ダイヤモンド臨時増刊 1961/09/10)。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 私の履歴書 経済人12
  • 読売 1950/6/23
  • 証券 1950/1
  • 経済時代 1954/1
  • ダイヤモンド臨時増刊 1961/9/10

戦時期における事業拡大と敗戦後の経営危機

1937年5月に国産工業株式会社を吸収合併して戸塚工場など7工場を増設したのを皮切りに、軍需対応のため全国各地の電機メーカーを買収し、生産能力の拡張を続けた。1939年4月に多賀工場を新設して日立工場から日立研究所を独立させ、1940年9月に水戸工場、1942年4月に中央研究所を新設し、1943年9月には理研真空工業を吸収合併して茂原工場を増設するなど、短期間で研究と生産の両面で全国的な体制を築いた。戦時中には18工場を擁する日本有数の電機メーカーへ発展したが、1945年の終戦で軍需発注が消滅し、4万4千名の従業員のうち約8500名が余剰と判断される事態に直面した。経営の屋台骨を揺るがす危機であり、創業以来最大の試練に日立は直面した。

1949年7月末の自己資本比率は14.1%まで低下し、各地の工場で労組の激しいストライキが連日続いた。一部の組合員が暴徒化し、工場長に対する「熱砂の誓」や「ダルマ落とし」と呼ばれる吊し上げ行為が各拠点で横行した。社長の倉田主税は組合側が譲歩するまで交渉に応じず、全工場の生産を約60日間停止する持久戦を選択、17工場・4営業所を擁する企業として東芝をしのぐ民間最大の人員整理に踏み切った(読売 1950/06/23)。組合内部の分裂で争議は終結し、8500名規模の人員削減を完遂、興業銀行を中心とする協調融資4億円で資金繰り破綻を回避、同年に東京証券取引所へ上場した。翌1950年の経営方針で倉田は「1950年こそは正にこの苦難克服後の光明の年」(証券 1950/01)と総括、対日講和条約と見返り資金運用、電源開発・造船計画・国鉄電化の需要を再建の支えとした。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 私の履歴書 経済人12
  • 読売 1950/6/23
  • 証券 1950/1
  • 経済時代 1954/1
  • ダイヤモンド臨時増刊 1961/9/10

1950年〜2012技術提携と事業多角化を推進する戦後成長の時代

GE技術提携と親子上場構造の確立

1952年にアメリカのRCA社(テレビ用ブラウン管)、1953年にGE社(蒸気タービン・発電機)、1954年にWE社(トランジスタ)と、3年連続で外国企業との技術提携を結んだ。創業以来40年以上維持した小平浪平の国産技術主義を事実上撤回した決断である。電源関係の受注を担当した駒井健一郎は当時の技術環境を「日立の火力は戦前はドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵を拝していた」(日経新聞 1981/01)と回想し、GE提携の背景を「早急に外国の一流メーカーと技術提携して、対等に勝負したい」(日経新聞 1981/01)と語る。GE提携は東芝が先行し日立は後追いの立場であったが、火力タービンの大容量化と需要増加が見込まれるためGEも複数ライセンシーを認めた。テレビ・発電機・半導体の三分野を同時に押さえ、発電機や蒸気タービンの技術はのちの社会インフラ事業の骨格を成す柱となった。

高度経済成長期には非電機事業の子会社分離を加速し、1956年10月に日立金属工業(後の日立金属)と日立電線、1963年4月に日立化成工業、1969年12月に日立建設機械製造(現日立建機)を順次分離独立させ、1961年にはマクセル電気工業へ資本参加した。1950年の日東運輸(後の日立物流)設立以来、周辺事業の分社化は続いてきた。各社を株式上場させつつ日立が50%超の株式を保有する「親子上場」の構造を採り、事業運営の独立性と親会社の支配権を両立させた。この構造は60年以上にわたり日立グループの基本形態として維持された。1959年には重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知され、「東芝に追いつき追い越せをモットーとして来た日立製作所が、企業全体としてのスケールのみならず、ついに重電機部門においても東芝を完全に追い抜いた」(マネジメント 1959/06)と評された。

日立製作所:子会社の概況
  • 日立物流(1950年)・日立金属/日立電線(1956年)・日立化成(1963年)・日立建機(1969年)の主要5社が、設立から十数年以内に個別上場して親子上場群を形成した。
  • 一方で2013年の金属・電線合併、2016年の物流持分法化、2020年の化成売却と、60年以上続いた親子上場構造は川村改革以降に解体へ向かった。
企業名設立年上場年現況
日立電線(通称:日立御三家)1956年1961年日立金属が日立電線を吸収合併(2013年)
日立金属(通称:日立御三家)1956年1961年日立が株式売却(2023年)
日立化成(通称:日立御三家)1963年1970年昭和電工が日立化成を買収(2020年)
日立建機1969年1981年日立が持分法適用会社化(2022年)
日立物流1950年1989年日立が株式譲渡し持分法適用会社化(2016年)
出所有価証券報告書
参考文献
  • 有価証券報告書
  • 日経新聞 1981/1
  • マネジメント 1959/6
  • 日経ビジネス 1984/11/26
  • 日経産業新聞 2001/3/6
  • 日経ビジネス 2008/4/14

半導体・ハードディスク事業への進出と業績悪化

1969年2月にソフトウェア工場を新設してシステム開発を本格化し、1984年には256キロビットDRAMの量産を開始して半導体事業へ本格参入した。1984年に社長へ就任した三田勝茂は、組織の肥大化への危機感を「自己増殖した組織ばかりが林立し酸欠状態になってしまう。いってみれば大企業病」(日経ビジネス 1984/11/26)と語り、「市場全体の動向をつかみにくい」(日経ビジネス 1984/11/26)機関室の従業員に代わって船の方向付けをするのが経営者の責務と位置づけた。1999年にはNECと合弁でNEC日立メモリを設立してメモリ事業を統合し、規模拡大を図った。しかし米韓勢との価格競争と設備投資負担が重くのしかかり、シリコンサイクルの低迷と重なって2002年3月期には最終赤字へ転落、全社で2万人規模の人員削減に踏み切った。半導体事業は2003年4月に三菱電機との合弁でルネサステクノロジに分離移管され、中核事業の座から外れた。

2003年1月には米国のIBM社からハードディスクドライブ事業を約20億ドルで買収し、Hitachi Global Storage Technologiesとしてグローバルに11拠点・従業員約2万4千名規模の事業を一括して引き継いだ。2002年10月にはディスプレイ事業を分割して日立ディスプレイズを設立し、通信機器・産業機器・家電・情報機器など各事業の会社分割を同時並行で進めた。2003年6月には委員会等設置会社へ移行し、指名・監査・報酬の各委員会を設置、日本の大手製造業として早期のガバナンス改革に先鞭をつけた。しかし東京電力など大口顧客の設備投資が1兆円を割る「東電ショック」(日経産業新聞 2001/03/06)と重電業界のゼロサム化が重なり、事業ポートフォリオは拡大と縮小を繰り返した。重電から家電まで抱える総合電機の収益力低下には歯止めがかからず、2007年8月には時価総額で三菱電機に追い抜かれ求心力低下も表面化した(日経ビジネス 2008/04/14)。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 日経新聞 1981/1
  • マネジメント 1959/6
  • 日経ビジネス 1984/11/26
  • 日経産業新聞 2001/3/6
  • 日経ビジネス 2008/4/14

リーマンショックと過去最大7880億円の赤字

2008年秋のリーマンショックによって世界的な需要急減に見舞われ、2009年3月期に日本の製造業として過去最大の約7880億円の最終赤字を計上した。主因は繰延税金資産の取り崩し約3900億円であり、連結自己資本比率は前年度の20.6%から11.2%へ低下した。関係者のあいだでは、もう一度リーマンショック級の景気後退が来ていれば倒産していたとも後に語られる水準であり、2009年2月には国内外で7000名規模の人員削減を決定した。社長の古川一夫は経営責任を取って辞任を表明し、指名委員会は後継人事の検討に入った。社内では経営危機の深刻さが末端まで共有され、従来の延長線上では立て直しが不可能との認識が広がった。

指名委員会は経営危機を受けて社長交代を決定し、子会社である日立マクセルの会長に転じていた川村隆を本社社長に呼び戻す判断を下した。川村自身が後に「まったく予想をしていない大変なこと」(日経ビジネス電子版 2021/03/21)と述べた異例の出戻り人事で、日立本体を経験した経営者が子会社から本体の社長へ復帰する前例は乏しかった。川村は就任直後の2009年10月に事業グループを社内カンパニー制に再編し、主要グループ会社と同様に独立採算による迅速な運営を徹底する体制を導入した。同時に川村を支える副社長の集団指導体制を敷き、経営の責任所在をはっきりさせた。この人事と組織改革が、事業構造を変える構造改革の起点となり、その後の「選択と集中」を支える制度的基盤を形成した。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 日経新聞 1981/1
  • マネジメント 1959/6
  • 日経ビジネス 1984/11/26
  • 日経産業新聞 2001/3/6
  • 日経ビジネス 2008/4/14

2013年〜2026構造改革を経てデジタル・エネルギー企業へ転換する時代

川村改革と事業ポートフォリオの再構築

川村隆は就任直後に3492億円の公募増資を断行し、既存株主には約13%の希薄化が生じた。世界中の株主から厳しい批判を浴びたが、自己資本比率の早期回復を他の課題に優先すべきとの判断であった。2012年3月には米国のWestern Digital社へViviti Technologies株式を譲渡してハードディスクドライブ事業を約48億ドルで売却し、自己資本比率を11.2%から18.8%へ回復させた。同月には日立ディスプレイズ株式を譲渡して中小型ディスプレイ事業も売却、2011年には1956年以来55年続けた薄型テレビの自社生産からも撤退した。家電・情報機器・半導体など、かつて日立の顔であった事業が本体から切り離され、総合電機の看板を降ろす過程がここで具体化した。

日立の先輩経営者から、汗水を垂らして育てた事業を簡単に売るのかという強い反発が上がったが、川村は「社長として決めたことを撤回するわけにはいかない」(日経ビジネス電子版 2021/03/21)と方針を堅持した。2011年に川村は取締役会長に就任し、中西宏明が後任社長に就いて川村路線を継承した。2013年4月には日立プラントテクノロジーを吸収合併して本体に取り込み、同年7月には日立金属が日立電線を吸収合併するなど、グループ内部の統廃合と機能整理も並行して進めた。川村体制の2年間で示した「選択と集中」の方向性は、その後の大型買収案件や上場子会社の整理判断にも引き継がれ、日立グループ全体の経営規律として定着した。事業の聖域という発想そのものが、川村改革を境に日立から消えた。

参考文献
  • 日経ビジネス電子版 2021/3/21
  • 有価証券報告書

大型買収によるデジタル・エネルギー事業への重点シフト

2020年7月にスイスのABB社からパワーグリッド事業を約7200億円で取得し、Hitachi ABB Power Grids(後のHitachi Energy)として送配電分野のグローバル展開を加速した。2021年7月には米国のデジタルエンジニアリング企業GlobalLogic社を約1兆円で完全子会社化する大型案件を実行に移した。年間売上高およそ1000億円規模の企業に1兆円を投じる判断をめぐり取締役会の議論は紛糾したと伝えられるが、Lumadaを核とするデジタル事業の強化を優先する方針がここで採択された。2022年にはフランスのThales社の鉄道信号システム事業を約2150億円で買収し、社会インフラとデジタル技術の組み合わせを世界規模で補強した。三件の大型買収の合計額は2兆円を超え、日本企業としては異例の規模感での海外投資となった。

2014年2月に三菱重工業と火力発電システム事業を統合して設立した三菱日立パワーシステムズでは、日立が単独受注した南アフリカの大型案件で工期遅延が発生し、三菱重工から約7700億円の支払いを請求される紛争に発展した。2019年に和解損失3759億円を計上し、2020年9月には合弁株式を三菱重工に譲渡して、火力発電事業から撤退する道を選んだ。2021年3月には画像診断関連事業を富士フイルムヘルスケアへ承継のうえ譲渡し、ヘルスケア事業も絞り込んだ。大型買収による事業拡張と大型損失による縮退が同時並行で進むなか、事業の取捨選択は加速し、「選択と集中」は、一過性の改革ではなく常時運転の経営規律として定着した。

参考文献
  • 日経ビジネス電子版 2021/3/21
  • 有価証券報告書

上場子会社の整理とグループ構造の根本転換

川村改革以降、60年以上維持した親子上場の構造を解体する方針が進められた。日立電線・日立金属・日立化成・日立建機・日立物流の各社について順次保有株式を売却し、2016年5月に日立物流を持分法適用会社化、2020年4月に日立化成の事業を第三者へ譲渡、2022年8月に日立建機を持分法適用会社化、2023年1月には日立金属(現プロテリアル)の事業を投資ファンドへ譲渡した。2018年にはシステム子会社の日立ソリューションズなど3社を吸収合併してIT事業の内製化を進め、2021年5月には日立ハイテクを完全子会社化してヘルスケア・計測事業を本体に取り込むなど、日立グループは上場子会社型から事業会社型へ形態を切り替えた。グループ経営の根本思想そのものが、およそ60年越しで書き換えられた。

2019年には日立オートモティブシステムズがホンダ系のケーヒン・ショーワ・日信工業の3社を統合して日立Astemoへ商号変更し、完成車メーカーへの部品供給を一元化する新たな体制を整えた。ところが2023年3月期に純損失810億円へ転落すると、2023年10月には株式の一部譲渡によって持分法適用会社化し、出資比率を引き下げて連結対象から外す判断を日立は下した。上場子会社を60年保有した企業が、新設した子会社をわずか4年で連結対象外に移す。この速度の変化は、事業ポートフォリオが「保有」から「入替」へ切り替わった結果そのものである。事業売買を平常運転とするグループ経営への移行が、ここにひとつの到達点を迎えた。かつての総合電機とは異なる企業像が浮かび上がっている。

参考文献
  • 日経ビジネス電子版 2021/3/21
  • 有価証券報告書

直近の動向と展望

Lumadaを軸とする社会イノベーション事業への集中

2024年3月期の連結売上高は9兆7287億円に達し、営業利益も過去最高水準を更新した。中核に据えるLumadaは、制御技術と情報技術を組み合わせてインフラ運用や製造工程のデジタル最適化を顧客と共創する事業モデルで、GlobalLogicの開発力とHitachi Energyの送配電資産、日立レールの鉄道信号システムを束ね、社会インフラとデジタルの垂直統合を世界規模で推進する。社内カンパニー制導入以来の独立採算経営を徹底し、セクター別の投下資本利益率管理を通じて低採算事業の入れ替えを判断する仕組みが、グループ全体に定着した。グループ全体をLumadaという共通概念の傘の下に再構成する試みが、日立の経営全体を貫く共通言語として働いている。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 2024年3月期決算短信

グローバル経営体制の刷新と環境戦略

2022年4月に小島啓二が社長執行役兼最高経営責任者に就任し、2024年4月には徳永俊昭が最高経営責任者に就いて本社機能のグローバル化を加速した。本社役員の報酬体系や評価制度を買収先のGlobalLogicやHitachi Energyに合わせて全面的に見直し、海外従業員比率が過半を超える体制に対応したグローバル人事制度の整備を進める。環境面では2030年までに自社事業所のカーボンニュートラルを達成する目標を掲げ、送配電や鉄道、データセンター向けソリューションを通じて顧客側の二酸化炭素削減にも貢献する方針を打ち出した。2026年度までの中期経営計画では、Lumada事業の売上拡大と海外比率のさらなる引き上げが経営の中心課題に据えられ、次の経営体制への移行も視野に入れた議論が本社で進められている。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 2024年3月期決算短信

重要な意思決定

1910

日立鉱山において日立製作所を創業

創業の構造で注目すべきは、小平浪平氏が東京電燈での経験から輸入電機依存に問題意識を持ち、日立鉱山の修理工場で外国製品の分解・修理を通じて国産化の技術基盤を築いた過程にある。同時代のGEやWEとの技術提携を選んだ同業他社に対し、小平氏は「ロイヤリティと同額を自前の研究に投じるべき」と判断した。この方針はGE提携に転じる1953年まで40年以上維持され、鉱山の付帯部門が独立企業に転じる過程で技術蓄積の基盤となった。

詳細を見る →
1950

労働組合と対立・約8500名を削減

4万4000人中8500名を余剰と判断しながら全工場の生産停止を約60日間許容した点に、この争議の構造がある。組合の暴力行為(「熱砂の誓」「ダルマ落とし」)に対して交渉を打ち切り、相手の疲弊を待つ方針を採ったのは、自己資本比率14.1%で倒産リスクを抱える中での持久戦であった。争議を終結させたのは経営陣の交渉力ではなく時間の経過による組合内部の分裂であり、興銀の島田常務による協調融資の呼びかけが再建の資金的裏付けとなった。

詳細を見る →
1953

GEと技術提携を締結・外国技術を導入

RCA(テレビ)・GE(蒸気タービン)・WE(トランジスタ)の3年連続の技術提携は、小平浪平氏が創業時に掲げた「他人の力に依存しない」方針の撤回であった。GE提携は東芝が先行し日立は後追いの立場にある。注目すべきは三分野を同時に押さえた点で、戦後の総合電機としての事業基盤を3年間で一括設計したことになる。技術格差を認識した上で自前主義から提携主義に転じた判断は、方針の「固執」と「転換」の境界を示す事例である。

詳細を見る →
1956

日立金属・日立電線を設立(子会社分離を開始)

1956年の日立金属・日立電線に始まり日立化成・日立建機・日立物流と、非電機事業を次々に子会社化して上場させた構造は、事業売却によるキャッシュ確保ではなく支配権維持と資本市場活用の両立を志向したものであった。上場子会社は各社が独自に資金調達と人材確保を行う一方、親会社が経営方針に関与する仕組みとなった。2010年代にこの構造が非効率の象徴として解体されるまでの60年間は、日本型企業グループの形成と変容を映している。

詳細を見る →
2009年4月

財務危機改善のため川村隆氏が社長就任

川村隆氏の就任経緯は、1999年に取締役就任後に子会社の日立マクセル会長に転じた人物が7880億円の赤字で本社社長に呼び戻されたという異例のものである。着手した施策は3492億円の増資(既存株主に13%の希薄化)とHDD事業の48億ドル売却であり、自己資本比率を11.2%から18.8%に回復させた。55年間のテレビ生産撤退は総合電機の看板を手放す判断であり、先輩経営者の反発を押し切った点に意思決定の転換が表れている。

詳細を見る →
2019

南アフリカPJで三菱重工と和解・火力発電から撤退

日立が単独で5700億円を受注した南アフリカの火力発電PJは、三菱重工との合弁移管後に工期遅延で損失が発生し、三菱重工から7700億円の支払を請求される事態に至った。和解損失3759億円を計上して合弁株式を譲渡した結果、出資比率35%で設立した合弁は5年で解消された。合弁設立前に日立が単独受注した案件の損失負担がパートナーとの紛争に発展した経緯は、合弁における受注責任の帰属の曖昧さを示す構造的な事例である。

詳細を見る →
2019

日立Astemoを発足・ホンダ系部品メーカー3社を統合

1960億円を投じてホンダ系3社を統合し出資比率66.6%で子会社化した日立Astemoは、FY2022に純利益369億円を計上したが翌FY2023に▲810億円へ転落した。日立製作所は出資比率を約40%引き下げて持分法適用外に移行し、1580億円を回収した。上場子会社を60年保有した企業が新設子会社を4年で連結外へ移した事実は、川村改革以降の事業管理が「保有」から「入替」に転じたことを示している。

詳細を見る →

歴史的証言

倉田主税
1950年こそは正にこの苦難克服後の光明の年として期待されるところ極めて大なりと確信するのである。このことは具体的には、国際的にも対日講和条約の締結間近しと伝えられ、国内的にも見返り資金の運用はいよいよ本格化するであろうし、電機工業界にとっても電源開発、造船計画、国鉄電化、輸出の振興等々極めて明るい見通しがたてられている。
証券 1950/01
倉田主税
電力不足がわが国産業界全般に及ぼす悪影響は誠に大なるものがある。電力の生産増長、すなわち電源の積極的開発は、わが国経済復興のためには何よりもまず優先的に行われねばならぬことは、今更いうまでもないことである。(中略)ただ問題は、対日援助見返り資金がいかにこの方面に対して運用されるかという話だけであって、この話に関して強力な政治力が要望される。
証券 1950/01
倉田主税(日立製作所・社長)
わが国の明治以来の貿易を見れば、明らかなごとく、実際に国際収支の均衡を得ていたという年はほとんどなく、大半が赤字の連続であるのであって、それを日清戦争の賠償金で埋め、あるいは外国借款で埋め、民間社債を募集して臨時的な外資導入で賄っていたのであって、わが国の実情はやはり今後外資導入について真剣な方策を持たねばならぬ運命にあると思われるのである。
経済時代 1954/01
倉田主税(日立製作所・社長)
業界最大の課題は輸出振興の根幹たるべきコストの低減による製品の国際競争力を培うことに他ならないのである。何度となく言い繰り返されたことであるが、企業の合理化は経費の節減のみならず、あらゆる面に行わなければならぬのであって、わが国産業で最も必要なのは設備の合理化、すなわち近代化ということである。わがこくの機械設備は旧式で損耗が甚だしく、外国の新鋭優秀設備に比して、非常に劣っておることは事実であり、またこの機械設備の合理化、近代化におよんで、これを駆使する技術の工場についてもまた、同様、万全の措置を為さねばならぬことも事実である
経済時代 1954/01
倉田主税(日立製作所・社長)
産業合理化はもちろん企業自身の素力こそが根本条件ではあるが、この努力も限界があり設備の近代化、技術の高度化には必然的に莫大な資本の裏付けがなければならぬのである。(中略)この重大な資本蓄積に関連してもう一つ、外資導入の問題が起こるのであるが、この問題は企業より別な観点ではあろうが、国際収支に大きなマイナスが生ずる可能性があったり、わが国の電気工業界の発展に影響ありとせば、あらゆる角度から考えて行く必要はあるのであろう。
経済時代 1954/01
三田勝茂
雑誌や新聞ではよく企業は利益を上げるために存在するといいますでしょう。私はそういうことではないと思う。製品にしても世の中の役にたつからこそ売れるんであって、企業の方がこの成否を売れば儲かると考えても売れない。
日経ビジネス 1984/11/26
三田勝茂
創業社長(小平波平氏)も言っていることなんですがね、なぜ日立製作所を作ったかというと、自分が大儲けして金持ちになろうとしたわけではない。大学を出て電力会社へ就職した。発電所の建設現場へ行くとすべての機会が外国製。しかも外国人技術者が現場で采配をフル言っている。こんなことで日本の将来があるだろうかと考えた、これが日立の出発点ですよ。日本人が自分たちの頭と手で未来を切り開いていくというのがね。
日経ビジネス 1984/11/26
三田勝茂
組織は自分ではなかなか縮まらないんです。ある製品を作っている工場とか事業部は必ず自分たちがさらに生き延びるように最大の努力をする。そうなるとマーケットは伸びないのに組織は生きようとする跛行的競争状況になってしまう。(中略)やがて自己増殖した組織ばかりが林立し酸欠状態になってしまう。いってみれば大企業病ですよね。
日経ビジネス 1984/11/26
三田勝茂
私どもも苦心しているんです。考えてみると石油ショック(1973年より)前は比較的楽でしたね。重電も家電もコンピューターも多少の差はあれ全部が伸びていましたから。今はそうはいきません。ばらつきが出てきた。その時まさに組織の対応力が問われているわけですよ。組織の中にいる人は例えて言えば機関室でボイラーをたいているようなものですから外の状況、つまり市場全体の動向をつかみにくい。こちらはその船を方向付けてやらなければいけないし、そのためのコンセンサス作りもしなければならない。
日経ビジネス 1984/11/26
三田勝茂
茨城県には私どもの工場がたくさんあるんですけれど、今後30年、40年を考えた場合、はたして今のままでいれるかどうか。といいますのはね、今伸びているような製品を作っている工場は割に京浜地区に多いんです。そうしますと茨城県の方が将来、製品が沈没するのに従って、仕事のない人が大勢出てきかねない。それじゃ困る。
日経ビジネス 1984/11/26
駒井健一郎
日立の火力は戦前はドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵を拝していた
日経新聞 1981/01
駒井健一郎
早急に外国の一流メーカーと技術提携して、対等に勝負したい
日経新聞 1981/01

参考文献・数字根拠

参考文献

有価証券報告書
私の履歴書 経済人12
読売 1950/06/23
証券 1950/01
経済時代 1954/01
ダイヤモンド臨時増刊 1961/09/10
日経新聞 1981/01
マネジメント 1959/06
日経ビジネス 1984/11/26
日経産業新聞 2001/03/06
日経ビジネス 2008/04/14
日経ビジネス電子版 2021/03/21
2024年3月期決算短信
読売
証券
経済時代
ダイヤモンド臨時増刊
日経新聞
マネジメント
日経ビジネス
日経産業新聞
日経ビジネス電子版

数字根拠

2009年3月期最終赤字

約7880億円

有価証券報告書

2009年3月期自己資本比率

11.2%

有価証券報告書

ハードディスク事業売却額

約48億ドル

有価証券報告書

ABBパワーグリッド取得額

約7200億円

有価証券報告書

GlobalLogic取得額

約1兆円

有価証券報告書

2024年3月期連結売上高

9兆7287億円

2024年3月期決算短信