manufacturing

日立の歴史

1910
*1
日立製作所を創業
創業

日立製作所の創業は1910年にさかのぼる。当時、茨城県に存在した久原鉱業の日立鉱山では、鉱物の採掘に必要な排水ポンプなどの動力源を電気機器によってまかなっていたが、当時の日本の電気技術は未熟で、電気機器は外国メーカーものが一般的であった。そこで、電気技師であった久原鉱業の社員・小平浪平は発電機などの国産化を目指して日立製作所を創業し、鉱業ではなく電機メーカーを志向した。小平浪平は開発で最も重要な人材を東京帝国大学を卒業した若者を確保することで研究開発力を向上させ、戦前の日立製作所を電機メーカーとして発展させた。

1950
*2
終戦により余剰人員8500名を削減。過激な労働争議を乗り越える

第二次世界大戦中に日立製作所は全国各地に軍需工場を新設して企業としては発展したものの、終戦後に軍需が皆無になったために大量の余剰人員を抱え込む形となった。終戦から4年を経た1949年には全社で4.4万人の従業員を抱えていたが、日立製作所の経営陣はこのうち8500名の従業員は余剰であると判断してリストラを決めた。この決定に対して、日立製作所の各工場の労働組合は猛反発し、日立製作所の工場長などの経営幹部に対してリストラを撤回するように申し出るとともに、一部の組合員が工場長に暴行を加えた。これに対し、当時の日立製作所の経営陣は組合の要求を断固拒否で対抗した。この間、日立製作所の生産はストップしたが、徐々に組合内での意見分裂が生じるなど足並みが崩れ、最終的に日立製作所は余剰人員のリストラと、過激派の追放によって生産面の危機を乗り越えた。

1953
*3
GEと技術提携を締結し、国産技術路線の旗を下ろす

終戦直後の1953年に日立製作所はアメリカのGEと提携し、国産技術路線を撤回した上で、外国の最先端の技術導入を決断した。GEの提携によって日立製作所は火力発電所向けのタービンなどの製造技術を磨き、東京電力などの大口顧客に納入することで業容を拡大した。1960年代は火力発電を中心とし、1970年代以降は原子力発電などの時代の最先端であった発電設備を開発することで日本有数の重電メーカーへと発展した。

1972
*4
「日本の代表的ビックビジネス」と賞賛される

1953年以降、日立製作所は外国メーカーからの積極的な技術導入によって技術開発力に磨きをかけた。また日立製作所は設備投資においても優れた投資判断を下しており、1965年の経済不況期直前に投資を事前に抑制して不況に備えたのに対し、競合の東芝は不況直前に投資を続行したことが仇となり社長更迭を伴う経営不振に陥った。この結果、技術と投資判断で優位に立った日立製作所は、東芝に対する下克上を成し遂げて、1960年代後半には日本を代表する電機メーカーとなり、週刊東洋経済は日立について「日産自動車、松下電器と並ぶ日本の代表的ビックビジネス」(1972/07/29週刊東洋経済)と高く評価した。

2009
*5
リーマンショックにより国内の製造業では最大となる最終赤字8000億円を計上
業績低迷

1990年代までの日立は様々な事業分野に参入して売上を増大させてきたが、2000年代に入ると各事業での競争が激化して2009年3月期に約8000億円という巨額赤字を計上した。日立製作所は実質的な経営危機に陥り、2009年4月に川村隆が社長に就任して再建に着手した。赤字の原因であった半導体およびテレビ事業を縮小し、海外の鉄道車両などの収益飲み込める事業に投資するなど、事業の選択と集中を推し進めた。なお、事業の縮小に対しては事業に愛着を持つ社員からの反発も大きかったといわれている。

2011
*6
V字回復を達成

リーマンショック直後に選択と集中を加速させ、一部事業を売却することで日立製作所の業績はV字回復を達成して電機業界では「勝ち組」としてメディアから賞賛された。以降、原子力発電事業で苦戦する東芝と、幅広い事業が好調な日立製作所の優劣が鮮明となった。