歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1910年、久原房之助氏が経営する日立鉱山で外国製の発電機や電動機を修理していた技術者の小平浪平氏が、輸入電機に支払う高額なロイヤリティと海外技術への依存に反発し、モーターの国産化に踏み切った。外国企業との技術提携を避け、鉱山付属の修理工場で5馬力の誘導電動機を完成させた。鉱山内の自家消費から外部受注へ販路を広げ、1920年に久原鉱業所から独立、翌年には経営難の日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて鉄道車両にも進出した。
決断戦後の日立は、創業者が据えた国産技術主義を自ら撤回した。1952年からRCA・GE・WEと3年連続で外国企業と提携し、テレビ・発電機・半導体に同時参入する。並行して日立金属・電線・化成・建機を分社して個別上場させ、本体が50%超を握る親子上場で60年以上にわたりグループを束ねた。重電では1959年に東芝を追い抜いたが、提携と分社で広げた事業群はやがて個別の収益化に行き詰まり、リーマン後の2009年3月期に製造業最大の7,880億円の最終赤字を計上した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1910年〜1949年 鉱山の修理工場から総合電機メーカーへ発展する時代
国産技術主義による創業と笠戸工場取得
久原房之助が買収して経営した日立銅山で、外国製の発電機や電動機の修理を担った技術者・小平浪平は、輸入電機に支払う高額なロイヤリティと海外技術への依存に強い問題意識を抱き、モーターの国産化と自主開発を決断した[2]。「ロイヤリティを支払うならば同額を自前の研究に投じるべき」(私の履歴書 経済人12)との信念のもと外国企業との技術提携を避け、久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場で1910年に5馬力の誘導電動機を完成させた[1][3]。久原鉱業所は日立鉱山敷地内に芝内工場を新設し、ここが日立製作所の創業地となった。鉱山内での自家消費から始まった国産電機の製造は、独自の技術蓄積を追求する方針を企業に定着させ、戦前の電機産業のなかで特異な性格の会社を生んだ。
鉱山内の自家使用から外部受注へ販路を広げ、電機製造は独立採算で運営する事業として成長した。久原房之助は電機部門の多角化に消極的であったが、小平浪平が分離独立を主張した結果、1920年2月に日立・亀戸の両工場を擁する株式会社日立製作所として久原鉱業所から独立した[4]。翌1921年2月には経営難の日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて笠戸工場を増設し[5]、電機メーカーが鉄道車両製造へ進出する異例の事業構成を採った。1935年5月には共成冷機工業に資本参加して冷凍・空調分野へ広げ[6]、モーター・発電機・変圧器に鉄道車両まで手がける総合電機メーカーの形を整えた。財閥資本と外国技術を相手に国産技術を旗印に掲げた日立の社風は、三井とGEを後ろ盾にした東芝の合理主義と対照的な「ウェット」型と業界で評された(ダイヤモンド臨時増刊 1961/09/10)。
戦時期における事業拡大と敗戦後の経営危機
1937年5月に国産工業株式会社を吸収合併して戸塚工場など7工場を増設した[7]のを皮切りに、軍需対応のため全国各地の電機メーカーを買収し、生産能力の拡張を続けた。1939年4月に多賀工場を新設して日立工場から日立研究所を独立させ、1940年9月に水戸工場、1942年4月に中央研究所を新設し、1943年9月には理研真空工業を吸収合併して茂原工場を増設する[8]など、短期間で研究と生産の両面で全国的な体制を築いた。戦時中には18工場を擁する日本有数の電機メーカーへ発展したが、1945年の終戦で軍需発注が消滅し、4万4千名の従業員のうち約8500名が余剰と判断される事態に直面した[9]。経営の収益基盤を揺るがす危機であり、創業以来最大の試練に日立は直面した。
1949年7月末の自己資本比率は14.1%まで低下し、各地の工場で労組の激しいストライキが連日続いた。一部の組合員が暴徒化し、工場長に対する「熱砂の誓」や「ダルマ落とし」と呼ばれる吊し上げ行為が各拠点で横行した。社長の倉田主税は組合側が譲歩するまで交渉に応じず、全工場の生産を約60日間停止する持久戦を選択[10]、17工場・4営業所を擁する企業として東芝をしのぐ民間最大の人員整理に踏み切った[11](読売 1950/06/23)。組合内部の分裂で争議は終結し、8500名規模の人員削減を完遂、興業銀行を中心とする協調融資4億円で資金繰り破綻を回避、同年に東京証券取引所へ上場した[12]。翌1950年の経営方針で倉田は「1950年こそは正にこの苦難克服後の光明の年」(証券 1950/01)と総括、対日講和条約と見返り資金運用、電源開発・造船計画・国鉄電化の需要を再建の支えとした。
1950年〜2012年 技術提携と事業多角化を推進する戦後成長の時代
GE技術提携と親子上場構造の確立
1952年にアメリカのRCA社(テレビ用ブラウン管)、1953年にGE社(蒸気タービン・発電機)[13]、1954年にWE社(トランジスタ)と、3年連続で外国企業との技術提携を結んだ。創業以来40年以上維持した小平浪平の国産技術主義を事実上撤回した決断である。電源関係の受注を担当した駒井健一郎は当時の技術環境を[14]「日立の火力は戦前はドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵を拝していた」(日経新聞 1981/01)と回想し、GE提携の背景を「早急に外国の一流メーカーと技術提携して、対等に勝負したい」(日経新聞 1981/01)と語る。GE提携は東芝が先行し日立は後追いの立場であったが、火力タービンの大容量化と需要増加が見込まれるためGEも複数ライセンシーを認めた[15]。テレビ・発電機・半導体の三分野を同時に押さえ、発電機や蒸気タービンの技術はのちの社会インフラ事業の骨格を成す柱となった。
高度経済成長期には非電機事業の子会社分離を加速し、1956年10月に日立金属工業(後の日立金属)と日立電線[16]、1963年4月に日立化成工業、1969年12月に日立建設機械製造(現日立建機)を順次分離独立させ[17]、1961年にはマクセル電気工業へ資本参加した[18]。1950年の日東運輸(後の日立物流)設立以来[19]、周辺事業の分社化は続いてきた。各社を株式上場させつつ日立が50%超の株式を保有する「親子上場」の構造を採り、事業運営の独立性と親会社の支配権を両立させた。この構造は60年以上にわたり日立グループの基本形態として維持された。1959年には重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知され[20]、「東芝に追いつき追い越せをモットーとして来た日立製作所が、企業全体としてのスケールのみならず、ついに重電機部門においても東芝を完全に追い抜いた」(マネジメント 1959/06)と評された。
| 企業名 | 設立年 | 上場年 | 現況 |
|---|---|---|---|
| 日立電線(通称:日立御三家) | 1956年 | 1961年 | 日立金属が日立電線を吸収合併(2013年) |
| 日立金属(通称:日立御三家) | 1956年 | 1961年 | 日立が株式売却(2023年) |
| 日立化成(通称:日立御三家) | 1963年 | 1970年 | 昭和電工が日立化成を買収(2020年) |
| 日立建機 | 1969年 | 1981年 | 日立が持分法適用会社化(2022年) |
| 日立物流 | 1950年 | 1989年 | 日立が株式譲渡し持分法適用会社化(2016年) |
半導体・ハードディスク事業への進出と業績悪化
1969年2月にソフトウェア工場を新設してシステム開発を本格化し[21]、1984年には256キロビットDRAMの量産を開始して半導体事業へ本格参入した。1984年に社長へ就任した三田勝茂は、組織の肥大化への危機感を[22]「自己増殖した組織ばかりが林立し酸欠状態になってしまう。いってみれば大企業病」(日経ビジネス 1984/11/26)と語り、「市場全体の動向をつかみにくい」(日経ビジネス 1984/11/26)機関室の従業員に代わって船の方向付けをするのが経営者の責務と位置づけた。1999年にはNECと合弁でNEC日立メモリを設立してメモリ事業を統合し、規模拡大を図った。しかし米韓勢との価格競争と設備投資負担が重くのしかかり、シリコンサイクルの低迷と重なって2002年3月期には最終赤字へ転落、全社で2万人規模の人員削減に踏み切った。半導体事業は2003年4月に三菱電機との合弁でルネサステクノロジに分離移管され[23]、中核事業の座から外れた。
2003年1月には米国のIBM社からハードディスクドライブ事業を約20億ドルで買収し、Hitachi Global Storage Technologiesとしてグローバルに11拠点・従業員約2万4千名規模の事業を一括して引き継いだ[24]。2002年10月にはディスプレイ事業を分割して日立ディスプレイズを設立し[25]、通信機器・産業機器・家電・情報機器など各事業の会社分割を同時並行で行った。2003年6月には委員会等設置会社へ移行し、指名・監査・報酬の各委員会を設置[26]、日本の大手製造業として早期のガバナンス改革に先鞭をつけた。しかし東京電力など大口顧客の設備投資が1兆円を割り込む、いわゆる東電ショックと重電業界のゼロサム化が重なり、事業ポートフォリオは拡大と縮小を繰り返した。重電から家電まで抱える総合電機の収益力低下には歯止めがかからず、2007年8月には時価総額で三菱電機に追い抜かれ求心力低下も表面化した[27]。
リーマンショックと過去最大7880億円の赤字
2008年秋のリーマンショックによって世界的な需要急減に見舞われ、2009年3月期に日本の製造業として過去最大の約7880億円の最終赤字を計上した。主因は繰延税金資産の取り崩し約3900億円であり、連結自己資本比率は前年度の20.6%から11.2%へ低下した。関係者のあいだでは、もう一度リーマンショック級の景気後退が来ていれば倒産していたとも後に語られる水準であり、2009年2月には国内外で7000名規模の人員削減を決定した。社長の古川一夫は経営責任を取って辞任を表明し[28]、指名委員会は後継人事の検討に入った。社内では経営危機の深刻さが末端まで共有され、従来の延長線上では立て直しが不可能との認識が広がった。
指名委員会は経営危機を受けて社長交代を決定し、子会社である日立マクセルの会長に転じていた川村隆を本社社長に呼び戻す判断を下した[29]。川村自身が後に予想外の事態だったと振り返るほど異例の出戻り人事で、日立本体を経験した経営者が子会社から本体の社長へ復帰する前例は乏しかった。川村は就任直後の2009年10月に事業グループを社内カンパニー制に再編し[30]、主要グループ会社と同様に独立採算による迅速な運営を徹底する体制を導入した。同時に川村を支える副社長の集団指導体制を敷き、経営の責任所在をはっきりさせた。この人事と組織改革が、事業構造を変える構造改革の起点となり、以後の「選択と集中」を支える制度的基盤を形成した。
2013年〜2026年 構造改革を経てデジタル・エネルギー企業へ転換する時代
川村改革と事業ポートフォリオの再構築
川村隆は就任直後に3492億円の公募増資を断行し、既存株主には約13%の希薄化が生じた。世界中の株主から厳しい批判を浴びたが、自己資本比率の早期回復を他の課題に優先すべきとの判断であった。2012年3月には米国のWestern Digital社へViviti Technologies株式を譲渡してハードディスクドライブ事業を約48億ドルで売却し[31]、自己資本比率を11.2%から18.8%へ回復させた。同月には日立ディスプレイズ株式を譲渡して中小型ディスプレイ事業も売却、2011年には1956年以来55年続けた薄型テレビの自社生産からも撤退した。家電・情報機器・半導体など、かつて日立の顔であった事業が本体から切り離され、総合電機の看板を降ろす過程がここで具体化した。
日立の先輩経営者から、汗水を垂らして育てた事業を簡単に売るのかという強い反発が上がったが、川村は社長として決めた以上は撤回しない立場を譲らず方針を堅持した[32]。2011年に川村は取締役会長に就任し、中西宏明が後任社長に就いて川村路線を継承した[33]。2013年4月には日立プラントテクノロジーを吸収合併して本体に取り込み、同年7月には日立金属が日立電線を吸収合併する[34]など、グループ内部の統廃合と部門再配置も並行して実行した。川村体制の2年間で示した「選択と集中」の方向性は、その後の買収案件や上場子会社の整理判断にも引き継がれ、日立グループ全体の経営規律として定着した。事業の聖域という発想そのものが、川村改革を境に日立から消えた。
海外買収によるデジタル・エネルギー事業への重点シフト
2020年7月にスイスのABB社からパワーグリッド事業を約7200億円で取得し、Hitachi ABB Power Grids(後のHitachi Energy)として送配電分野のグローバル展開を加速した[35]。2021年7月には米国のデジタルエンジニアリング企業GlobalLogic社を約1兆円で完全子会社化する案件を実行に移した[36]。年間売上高およそ1000億円規模の企業に1兆円を投じる判断をめぐり取締役会の議論は紛糾したと伝えられるが、Lumadaを核とするデジタル事業の強化を優先する方針がここで採択された。2022年にはフランスのThales社の鉄道信号システム事業を約2150億円で買収し、社会インフラとデジタル技術の組み合わせを世界規模で補強した。三件の買収の合計額は2兆円を超え、日本企業としては異例の規模感での海外投資となった。
2014年2月に三菱重工業と火力発電システム事業を統合して設立した三菱日立パワーシステムズ[37]では、日立が単独受注した南アフリカの石炭火力発電案件で工期遅延が発生し、三菱重工から約7700億円の支払いを請求される紛争に発展した。2019年に和解損失3759億円を計上し、2020年9月には合弁株式を三菱重工に譲渡して、火力発電事業から撤退する道を選んだ[38]。2021年3月には画像診断関連事業を富士フイルムヘルスケアへ承継のうえ譲渡し[39]、ヘルスケア事業も絞り込んだ。買収による事業拡張と3759億円規模の和解損失による縮退が同時並行で進むなか、事業の取捨選択は加速し、「選択と集中」は、一過性の改革ではなく常時運転の経営規律として定着した。
上場子会社の整理とグループ構造の根本転換
川村改革以降、60年以上維持した親子上場の構造を解体する方針が進められた。日立電線・日立金属・日立化成・日立建機・日立物流の各社について順次保有株式を売却し、2016年5月に日立物流を持分法適用会社化、2020年4月に日立化成の事業を第三者へ譲渡、2022年8月に日立建機を持分法適用会社化、2023年1月には日立金属(現プロテリアル)の事業を投資ファンドへ譲渡した[40]。2018年にはシステム子会社の日立ソリューションズなど3社を吸収合併してIT事業の内製化を進め[41]、2021年5月には日立ハイテクを完全子会社化してヘルスケア・計測事業を本体に取り込むなど、日立グループは上場子会社型から事業会社型へ形態を切り替えた。グループ経営の根本思想そのものが、およそ60年越しで書き換えられた。
2019年には日立オートモティブシステムズがホンダ系のケーヒン・ショーワ・日信工業の3社を統合して日立Astemoへ商号変更し、完成車メーカーへの部品供給を一元化する新たな体制を整えた。ところが2023年3月期に純損失810億円へ転落すると、2023年10月には株式の一部譲渡によって持分法適用会社化し[42]、出資比率を引き下げて連結対象から外す判断を日立は下した。上場子会社を60年保有した企業が、新設した子会社をわずか4年で連結対象外に移す。この速度の変化は、事業ポートフォリオが「保有」から「入替」へ切り替わった結果である。事業売買を平常運転とするグループ経営への移行が、ここにひとつの到達点を迎えた。かつての総合電機とは異なる企業像が浮かび上がっている。