川崎重工業

の歴史

創業

1878年

創業者

川崎正蔵

創業地

東京都中央区

直近売上高(2026/3)

23,113億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1886年に、東京築地で始めた造船所を神戸へ移したのか
A 造船は受注できる場所に近いほど強く、立地が受注力を直接左右する。東京築地は敷地拡張に限界がある一方、海運の中心は東京から神戸へ移りつつあり、関西に拠点を構えるほうが将来の船舶需要を取り込みやすかった。そこで川崎正蔵は、1881年に兵庫東出町へ第二拠点を設けたうえで、1886年に官営兵庫造船所を借り受けて併合し、商号を川崎造船所と改めて事業一切を神戸へ移した。この立地の選び直しが、後年に三菱と並ぶ二大造船所へ伸びる土台となった
Q なぜ1931年に経営破綻した川崎造船所は、解散を免れて存続できたのか
A 艦艇を建造できる大規模造船所は国内に数えるほどしかなく、解散させれば帝国海軍の建造能力ごと失われる。政府はそれを国益に反すると判断し、特別融資で存続を支えた。海軍受注に依存した稼ぎ方は、1922年のワシントン軍縮条約と1927年の金融恐慌が重なって半期利益の大赤字へ反転し、1万7,000名の従業員を抱える川崎造船所は1931年7月に和議を申請していた。会社は救われた一方で軍需への依存は一段と深まり、1937年に川崎航空機を分離、1939年に川崎重工業へ改称して戦時の巨大軍需企業へ進んだ
Q なぜ2013年に、現職の長谷川聰社長は取締役会で解任されたのか
A 三井造船との統合に企業価値を高めるシナジーが見えず、むしろ重荷になると役員の多くが見たためである。川崎重工で造船は売上の1割に満たない一方、三井造船は造船への依存度が高く、統合報道のあとに株価も下げていた。それでも長谷川聰社長が統合ありきで進め、社内会議の議事を操作して反対意見を退けたことに、村山滋らは取締役会を軽視する行動と不信を募らせた。2013年6月の臨時取締役会は賛成十・反対三で解任動議を可決し、村山滋が後任社長に就いて統合交渉を白紙へ戻した

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1878年〜 築地創業から和議申請を経て巨大軍需企業への転身

  1. 1878年川崎築地造船所を創業
  2. 1881年川崎兵庫造船所を開設
  3. 1886年官営兵庫造船所を借受け川崎造船所と改称
  4. 1896年株式会社川崎造船所を設立
  5. 1906年兵庫工場を開設
  6. 1919年川崎汽船株式会社を設立
  7. 1931年軍縮を受けて和議申請

川崎重工業の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

築地から神戸への立地移転が切り開いた造船業の命運

1878年4月、貿易商であった川崎正蔵氏は東京築地において造船業を始めた。和船に比べて格段に優れた西洋型船の建造こそ国家の急務であるという信念が出発点にあり、明治維新後の富国強兵・殖産興業の流れと海運近代化のなかで船舶需要の将来性を見込んだ当時としては大胆な早期参入であった。しかし築地の立地では敷地の拡張に限界があり、海運の中心が東京から神戸へ移りつつあった状況を受けて、1881年3月には兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設して第二拠点を関西に設けた。さらに1886年5月には官営兵庫造船所を借り受けてこれと併合し、商号を川崎造船所へと改めて造船事業の主たる拠点を神戸へ移し、同年には東京から事業一切を神戸に移すこととなった。 [1][2][3][4][5]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年4月 川崎正蔵が東京築地で造船業を始めた(川崎築地造船所を創業)
    • [2]創業者は川崎正蔵
    • [4]1881年3月 兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設(第二拠点)
    • [5]1886年5月に官営兵庫造船所を借り受け・併合し川崎造船所へ商号変更、同年に事業一切を神戸へ移転
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [3]創業の動機は西洋型船の建造が国家の急務との考え(概略書)

1896年10月15日には従来の個人経営から株式会社へと改組して株式会社川崎造船所が発足し、初代社長には大蔵大臣から内閣総理大臣へと上り詰めた松方正義氏の三男である松方幸次郎氏が迎えられ、創業者の川崎正蔵翁は顧問となった。新発足とともに六〇〇G・T級の大乾ドックの構築に着手するなど設備を一新し、技術面でも1902年から45年にかけて外国船を建造して海外に同社技術が認められた。1904年には民間で初めて海軍から潜水艇二隻を受注し、これが後年の潜水艦建造技術につながる出発点となった。1914年7月に第一次世界大戦が突発すると船舶需要が急増して海運・造船界は空前の好況を迎え、戦艦・巡洋艦をはじめ各種艦艇の建造能力と技術の点で川崎造船所はわが国二大造船所の一つに数えられるに至った。当時の新聞は同社を「東洋唯一の大工場」「基礎の強固なるにおいて優に欧米先進国を凌駕せるもの」と評している。 [6][7][8][9][10][11][12][13]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1896年10月15日 個人経営から株式会社へ改組し株式会社川崎造船所が発足
    • [7]初代社長は松方幸次郎(松方正義の三男)、川崎正蔵は顧問に退いた
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [8]株式会社発足とともに600G.T級の大乾ドック構築に着手(概略書)
    • [9]明治35〜45年(1902〜1912)に外国船を建造し技術が海外に認められた(概略書)
    • [10]明治37年(1904)民間で初めて海軍から潜水艇2隻を受注し潜水艦建造技術につながる出発点となった(概略書)
    • [11]大正3年(1914)7月の第一次世界大戦突発で海運・造船界は空前の好況(概略書)
    • [12]各種艦艇の建造能力・技術でわが国二大造船所の一つに数えられた(概略書)
  • 大阪新報(1919年1月13日)
    • [13]1919年の新聞は川崎造船所を「東洋唯一の大工場」「欧米先進国を凌駕」と評価
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年4月 川崎正蔵が東京築地で造船業を始めた(川崎築地造船所を創業)
    • [2]創業者は川崎正蔵
    • [4]1881年3月 兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設(第二拠点)
    • [5]1886年5月に官営兵庫造船所を借り受け・併合し川崎造船所へ商号変更、同年に事業一切を神戸へ移転
    • [6]1896年10月15日 個人経営から株式会社へ改組し株式会社川崎造船所が発足
    • [7]初代社長は松方幸次郎(松方正義の三男)、川崎正蔵は顧問に退いた
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [3]創業の動機は西洋型船の建造が国家の急務との考え(概略書)
    • [8]株式会社発足とともに600G.T級の大乾ドック構築に着手(概略書)
    • [9]明治35〜45年(1902〜1912)に外国船を建造し技術が海外に認められた(概略書)
    • [10]明治37年(1904)民間で初めて海軍から潜水艇2隻を受注し潜水艦建造技術につながる出発点となった(概略書)
    • [11]大正3年(1914)7月の第一次世界大戦突発で海運・造船界は空前の好況(概略書)
    • [12]各種艦艇の建造能力・技術でわが国二大造船所の一つに数えられた(概略書)
  • 大阪新報(1919年1月13日)
    • [13]1919年の新聞は川崎造船所を「東洋唯一の大工場」「欧米先進国を凌駕」と評価

和議申請と政府特別融資が支えた軍需企業への変身

海軍需要への依存は、軍拡期の急伸と軍縮期の急減を表裏で抱える構造であった。1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約は艦艇建造需要を直撃したが、川崎造船所はこの時点では加賀・愛宕の工事中止の代わりに特務艦二隻の建造を内命されており、当面は「一名の失職者をも出さぬ方針である」と語る余地があった。しかし1927年すなわち1927年にわが国空前の金融恐慌が起こると事態は一変し、半期利益は1927年下期に約3,300万円の赤字へと転落、川崎造船所は「思い設けぬ財界大恐慌の余波を食ってひん死の状態に陥った」と報じられるに至った。1万7,000名に及ぶ従業員の死活と神戸の盛衰に直結する問題であったために政府が救済の斡旋に動き、軍縮と恐慌の二重の逆風のなかで同社は1931年7月に遂に和議を申請して事実上の経営破綻へと追い込まれた。 [14][15][16][17][18][19]

  • 大阪時事新報(1922年2月8日)
    • [14]1922年2月署名のワシントン海軍軍縮条約が艦艇建造需要を縮小(年順を1922→1927金融恐慌→1931和議へ整序)
    • [15]軍縮直後、加賀・愛宕の工事中止の代わりに特務艦2隻の建造を内命され失職者を出さぬ方針と表明
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [16]昭和2年(1927)にわが国空前の金融恐慌が起こり同社は苦難に直面(概略書)
  • 東京朝日新聞(1927年5月24日)
    • [17]1927年5月 財界大恐慌の余波で川崎造船所が「ひん死の状態」と報じられた
    • [18]救済問題は1万7,000名の従業員の死活問題でもあり政府が斡旋に動いた
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1931年7月 軍縮を受けて和議申請

造船所の解散は国益に反するとの判断から、政府の特別融資によって川崎造船所は存続した。1930年代の業績回復は、日本海運業の船舶拡充策としての優秀船建造助成施設の実行と、帝国海軍が世界の海軍無条約状態への移行を前に新艦艇の建造を始めたことに由因した。1936年の新聞が「大“川崎”に栄光燦たり」と伝えたとおり業績は好転し、1937年7月に日華事変が起こると繁忙の度を加え、同年11月には航空機事業を分離して川崎航空機工業を設立、1939年12月1日には社名を川崎重工業と改めて非常時局に即応する体制を確立した。海運は1919年4月に川崎汽船、鉄道車両は1928年5月に川崎車輛として既に分離独立しており、軍需依存は深化した。第二次世界大戦の終結で軍需工場としての打撃を受け、戦後の連合国軍総司令部による財閥解体では造船・航空機・鉄道車両・製鉄・海運の各事業が分離され、戦前の企業集団は三面で分断された。 [20][21][22][23][24][25][26][27]

  • 大阪毎日新聞(1936年8月31日)
    • [20]1930年代の業績回復は優秀船建造助成施設と海軍無条約状態移行に伴う新艦艇建造に由来
    • [21]1936年の新聞が「大“川崎”に栄光燦たり」と業績回復を報じた
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [22]昭和12年(1937)7月の日華事変で同社は繁忙の度を加えた(概略書)
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1937年11月 航空機事業を分離し川崎航空機工業を設立
    • [24]1939年12月1日 社名を川崎重工業へ変更
    • [25]海運は1919年4月に川崎汽船として分離独立
    • [26]鉄道車両は1928年5月に川崎車輛として分離独立
    • [27]戦後の財閥解体で造船・航空機・鉄道車両・製鉄・海運の各事業が分離(時系列の概括)
  • 大阪時事新報(1922年2月8日)
    • [14]1922年2月署名のワシントン海軍軍縮条約が艦艇建造需要を縮小(年順を1922→1927金融恐慌→1931和議へ整序)
    • [15]軍縮直後、加賀・愛宕の工事中止の代わりに特務艦2隻の建造を内命され失職者を出さぬ方針と表明
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [16]昭和2年(1927)にわが国空前の金融恐慌が起こり同社は苦難に直面(概略書)
    • [22]昭和12年(1937)7月の日華事変で同社は繁忙の度を加えた(概略書)
  • 東京朝日新聞(1927年5月24日)
    • [17]1927年5月 財界大恐慌の余波で川崎造船所が「ひん死の状態」と報じられた
    • [18]救済問題は1万7,000名の従業員の死活問題でもあり政府が斡旋に動いた
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1931年7月 軍縮を受けて和議申請
    • [23]1937年11月 航空機事業を分離し川崎航空機工業を設立
    • [24]1939年12月1日 社名を川崎重工業へ変更
    • [25]海運は1919年4月に川崎汽船として分離独立
    • [26]鉄道車両は1928年5月に川崎車輛として分離独立
    • [27]戦後の財閥解体で造船・航空機・鉄道車両・製鉄・海運の各事業が分離(時系列の概括)
  • 大阪毎日新聞(1936年8月31日)
    • [20]1930年代の業績回復は優秀船建造助成施設と海軍無条約状態移行に伴う新艦艇建造に由来
    • [21]1936年の新聞が「大“川崎”に栄光燦たり」と業績回復を報じた

1949年〜 3社再統合と二輪車・ロボットによる事業多角化の歩み

  1. 1949年再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ)
  2. 1950年製鉄事業を分離し川崎製鐵を設立
  3. 1961年事業部制を採用
  4. 1966年国内生産拠点を拡充
  5. 1969年川崎重工業が川崎航空機工業・川崎車輛を吸収合併し総合重工業として再出発
  6. 1981年米国にKawasaki Motors Mfg.を設立
  7. 1989年米国にKawasaki Rail Carを設立

川崎重工業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

戦後3社分割からの再統合と二輪Kawasakiブランドの誕生

戦後の財閥解体を経て、川崎重工業は造船と造機と電機の三つの部門のみで細々と再発足することとなり、航空機事業は川崎航空機として、鉄道車両事業は川崎車輛として、海運は川崎汽船として、製鉄は川崎製鉄(現JFEスチール)として、それぞれ分離独立した。各社は東京証券取引所に個別に上場を果たして相互の資本関係を一度は解消したが、それから20年後となる1969年4月には川崎重工・川崎航空機・川崎車輛の三社が歴史的な合併を実現して総合重工メーカーとして再統合を果たすこととなった。約20年以上にわたって別会社として独立運営されていた三社がふたたび一つの経営体へと結集する道筋が開かれ、戦前の川崎グループの姿が部分的に復元された。 [28][29]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [28]戦後は造船・造機・電機の3部門で再発足、航空機=川崎航空機・鉄道車両=川崎車輛・海運=川崎汽船・製鉄=川崎製鉄(現JFEスチール)として分離独立
    • [29]1969年4月 川崎重工・川崎航空機・川崎車輛の3社が合併

合併後の新生川崎重工は祖業の造船と航空と鉄道車両という三つの主力に加えて、新規の民生事業の開拓へと事業領域を広げた。1966年には二輪車の北米市場への本格展開を新たに開始し、Kawasakiブランドは米国の排気量900cc級バイク市場で「Zシリーズ」などのヒット車種を発売し、1970年代初頭までに民生消費財の代表事業として米国市場に定着した。1969年には産業ロボット事業にも早期に参入し、国内の自動車工場向けの溶接ロボットの納入実績で1970年代に事業基盤を組み立てた。1971年には老舗の汽車製造株式会社を吸収合併して鉄道車両事業の国内における生産能力と受注力を一段と強化した。 [30][31][32]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1966年 二輪車の北米市場展開を開始
    • [31]1969年 産業ロボット事業に参入
    • [32]1971年 汽車製造株式会社を吸収合併
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [28]戦後は造船・造機・電機の3部門で再発足、航空機=川崎航空機・鉄道車両=川崎車輛・海運=川崎汽船・製鉄=川崎製鉄(現JFEスチール)として分離独立
    • [29]1969年4月 川崎重工・川崎航空機・川崎車輛の3社が合併
    • [30]1966年 二輪車の北米市場展開を開始
    • [31]1969年 産業ロボット事業に参入
    • [32]1971年 汽車製造株式会社を吸収合併

P-3C国産化と造船低迷下の経営合理化への歩み

1978年にはP-3C対潜哨戒機のライセンス生産を国内で開始することとなり、戦後日本の防衛航空機メーカーとして三菱重工業に次ぐ明確な二番手の地位を対外的にも制度的にも防衛庁との継続契約で固めた。1990年代にはボーイング社向けの民間航空機部品の生産を本格化させ、防衛航空機だけでなく民間航空機分野においても確かな存在感を示していくこととなった。鉄道車両事業では1997年にニューヨーク市交通局向けに地下鉄車両の製造を受注し、北米を中心とする海外の公共交通インフラ案件において長期にわたる実績と信頼を積み上げていくことに成功した。車両と航空機という二つの事業でそれぞれ米国の大口顧客との長期関係を築き上げた時期であった。 [33][34][35]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1978年 P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を国内で開始
    • [34]1990年代 ボーイング向け民間航空機部品の生産を本格化
    • [35]1997年 ニューヨーク市交通局向け地下鉄車両の製造を受注

一方、戦前から祖業の主力であった造船事業は1970年代後半からの長期にわたる低迷期に入ったことを受けて、1977年からは本格的な経営合理化に着手した。1976年には産業用ガスタービンの民間需要向け営業活動を開始し、軍需以外の新たな収益源の多角化を図ることとなった。しかし2001年にはIHIとの造船事業統合計画を突如として白紙撤回する方針転換を行うなど、事業構造の改革は必ずしも順調とは言いがたく、重工業という業態に特有の事業ポートフォリオ管理の根本的な困難さを繰り返し露呈した。造船事業における戦略的判断の遅れは、後の2013年の社長解任劇へとつながる組織的な課題として社内で蓄積されていくこととなった。 [36][37][38][39]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1977年 経営合理化に着手
    • [37]1976年 産業用ガスタービンの民需営業を開始
    • [38]2001年 IHIとの造船事業統合を白紙撤回
    • [39]2013年 社長解任劇(後段で詳述)
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1978年 P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を国内で開始
    • [34]1990年代 ボーイング向け民間航空機部品の生産を本格化
    • [35]1997年 ニューヨーク市交通局向け地下鉄車両の製造を受注
    • [36]1977年 経営合理化に着手
    • [37]1976年 産業用ガスタービンの民需営業を開始
    • [38]2001年 IHIとの造船事業統合を白紙撤回
    • [39]2013年 社長解任劇(後段で詳述)

2000年〜 社長解任劇を経た構造改革とグループビジョン2030の策定

  1. 2001年IHIとの造船事業の統合を白紙撤回
  2. 2002年船舶事業と精密機械事業を分社
  3. 2010年造船・精密機械・プラント子会社を再合併
  4. 2013年長谷川氏が社長解任
  5. 2015年建設機械事業から撤退
  6. 2020年グループビジョン2030を策定
  7. 2021年車両事業と二輪事業を分社化

川崎重工業の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

三井造船統合をめぐる社長解任劇の衝撃と後任体制

2013年6月、造船事業における三井造船との経営統合計画をめぐって川崎重工社内では深刻な不満が噴出することとなり、臨時取締役会の場で長谷川社長に対する解任動議が賛成十・反対三という票差によって異例の可決を迎えることとなった。経営不振に陥っていた三井造船との統合そのものを強く疑問視する声が社内で広がっており、上場企業において現職社長が取締役会の場で解任されるという異例の社長解任劇として国内の経済ニュースでも大々的に報じられる結果となった。川崎重工のガバナンスの問題と事業ポートフォリオ管理の構造的な難しさが、この一件によって対外的にも決定的に露呈する象徴的な出来事となった。 [40][41][42]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書
    • [40]2013年6月 三井造船との経営統合計画をめぐり臨時取締役会で社長解任動議が可決
    • [41]解任されたのは長谷川社長(長谷川聰、FY08〜FY11社長)
    • [42]解任動議の票差は賛成10・反対3

後任として就任した村山社長のもとでは、2015年には建設機械事業から撤退することが決定され、2017年には船舶海洋事業の本格的な構造改革が実施されるなど、事業ポートフォリオの抜本的な見直しが着実な形で進められることとなった。造船事業については神戸と坂出の二拠点を維持しつつも、商船の新造よりも艦艇と特殊船を中心とする高付加価値領域への資源集中を進めるという明確な方向性が経営会議で明確化された。経営陣の刷新と事業の選択と集中の両輪によって、1970年代後半から約40年にわたり川崎重工を悩ませた造船事業の低採算構造に対する組織的な回答が制度面でも実質面でも模索されていくことになり、2020年代初頭にかけて新たな事業構造への転換が現実となった。 [43][44][45]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書
    • [43]後任社長は村山滋(FY12〜FY14社長)
    • [45]2017年 船舶海洋事業の構造改革を実施
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [44]2015年 建設機械事業から撤退
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書
    • [40]2013年6月 三井造船との経営統合計画をめぐり臨時取締役会で社長解任動議が可決
    • [41]解任されたのは長谷川社長(長谷川聰、FY08〜FY11社長)
    • [42]解任動議の票差は賛成10・反対3
    • [43]後任社長は村山滋(FY12〜FY14社長)
    • [45]2017年 船舶海洋事業の構造改革を実施
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [44]2015年 建設機械事業から撤退

グループビジョン2030と水素・ロボット新事業への投資

2020年11月にはグループビジョン2030を正式に策定し、航空宇宙とエネルギーとモビリティという三つの成長領域を位置づけて同社の中長期戦略における基本的な骨格として対外的に提示した。二輪車事業はKawasakiブランドのもとで安定的な収益源として維持しつつ、産業ロボットや水素関連技術などの新規領域への経営資源の集中投資を一段と拡大する方針が経営陣から掲げられた。液化水素の海上輸送を担う世界初の液化水素運搬船である「すいそふろんてぃあ」は2022年春に日豪間での海上輸送および荷役の実証運航を成功裏に完遂し、2026年初頭までに延べ五カ国にわたって十万キロ以上の航行実績を積み上げるに至り、水素事業の商業化に向けた先行者利益の基盤が築かれた。 [46]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書
    • [46]2020年11月 グループビジョン2030を策定

2023年にかけては日本の防衛予算の拡大を背景として航空宇宙システム事業の受注が2023年に伸び、長年にわたる構造改革と新規事業投資の成果が決算の数字として表面化する初期の段階に入ることとなった。ただし造船事業の根本的な低迷と、自動車量販に依存するパワースポーツ事業における米国市場での競争環境の激化という二つの課題は依然として経営の底流で残り続けており、グループビジョン2030の具体化にあたっては各事業ごとの採算性の継続的な改善と新規領域への投資回収の両立という、二面性を強く抱えた重いテーマが経営陣には繰り返し突きつけられていた。構造改革と成長投資という両輪を同時に回す経営が求められる難しい局面である。 [47]

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書
    • [47]2023年 防衛予算拡大を背景に航空宇宙システム事業の受注が伸長
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書
    • [46]2020年11月 グループビジョン2030を策定
    • [47]2023年 防衛予算拡大を背景に航空宇宙システム事業の受注が伸長

川崎重工業の沿革1878〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
川崎築地造船所を創業★★★
川崎兵庫造船所を開設★★
官営兵庫造船所を借受け川崎造船所と改称★★
株式会社川崎造船所を設立★★★
兵庫工場を開設★★
川崎汽船株式会社を設立★★
岐阜工場を開設
鉄道車両事業を分離・川崎車輛を設立(担保設定)
軍縮を受けて和議申請★★★
航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立
商号を川崎重工業に変更
川崎航空機 明石工場を開設
再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ)★★
製鉄事業を分離し川崎製鐵を設立★★
事業部制を採用
国内生産拠点を拡充
二輪車の北米展開を開始
産業ロボットに参入
川崎重工業が川崎航空機工業・川崎車輛を吸収合併し総合重工業として再出発★★★
汽車製造株式会社を合併
産業用ガスタービンの民需営業を開始
経営合理化に着手
P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始
米国にKawasaki Motors Mfg.を設立★★
空調・ボイラ事業を川重冷熱工業に承継
米国にKawasaki Rail Carを設立★★
ボーイング向け航空機部品生産を本格化
NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始
大橋忠晴IHIとの造船事業の統合を白紙撤回
大橋忠晴船舶事業と精密機械事業を分社★★
長谷川聰造船・精密機械・プラント子会社を再合併★★
村山滋長谷川氏が社長解任★★
金花芳則建設機械事業から撤退
金花芳則船舶海洋事業の構造改革
橋本康彦グループビジョン2030を策定★★
橋本康彦車両事業と二輪事業を分社化★★
橋本康彦防衛省向け販売が好調
橋本康彦潜水艦をめぐる裏金・防衛事業の不正が露呈★★★
出典・参考
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 大阪新報(1919年1月13日)
  • 大阪時事新報(1922年2月8日)
  • 東京朝日新聞(1927年5月24日)
  • 大阪毎日新聞(1936年8月31日)
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書

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