川崎重工業 の歴史

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創業 1878年
創業者 川崎正蔵
創業地 東京都中央区
創業 1878年4月、川崎正蔵氏が東京築地南飯田町の官有地を借りて川崎築地造船所を創業
1878年4月、川崎正蔵氏が東京築地南飯田町の官有地を借りて川崎築地造船所を創業した。1881年3月に兵庫東出町へ第二の拠点を開設し、1886年5月には官営兵庫造船所を借り受けて併合し、商号を川崎造船所と改めて事業一切を神戸へ移す。築地は敷地を広げられず、海運の中心も神戸へ移りつつあったためである。1896年10月に株式会社川崎造船所となり、松方幸次郎氏が初代社長に就任した。1919年4月に川崎汽船を設立し、1939年12月に商号を川崎重工業へ改めている。
決断 陸海空を一社で持つという初代社長の構想へ、40年かけて戻ってきた。松方幸次郎氏は
陸海空を一社で持つという初代社長の構想へ、40年かけて戻ってきた。松方幸次郎氏は造船から鉄道車両・航空機・製鉄まで広げたが、1927年の金融恐慌で十五銀行の取り付けに巻き込まれ、造船の本体を残すために1928年5月に鉄道車両事業を川崎車輌として分離した。1931年7月には和議を申請し、1万7,000名を抱える会社は政府の特別融資で存続した。戦後は賠償指定とドッジデフレのもとで1950年8月に製鉄部門を川崎製鉄として分離し、本体は造船・造機・電機に絞られる。1969年4月に川崎航空機工業と川崎車輌を合併し、40年前に手放した鉄道車両と航空機が同じ会社へ戻った。
現況 売上で最も大きい二輪・四輪車は、利益では航空とエネルギーの後ろに回る。2026年
売上で最も大きい二輪・四輪車は、利益では航空とエネルギーの後ろに回る。2026年3月期の売上高2兆3,113億円のうちパワースポーツ&エンジンが6,828億円で最大だが、営業利益1,455億円の内訳では航空宇宙システムが624億円、エネルギーソリューション&マリンが550億円を占め、パワースポーツは227億円にとどまる。1966年3月に米国へ販売会社を設立して始めた二輪車は、受注生産の会社に一つだけあるブランドで売る商売として残り、2021年10月にカワサキモータースへ承継された。2022年には世界初の液化水素運搬船で実証航海を終えたが、商用供給は2030年度以降とされ、受入基地と大型運搬船への投資だけが先行している。
競合 同業との合流は、現職社長の解任という形で止まった。2013年、造船が売上の1割に
同業との合流は、現職社長の解任という形で止まった。2013年、造船が売上の1割に満たない川崎重工業と造船依存の高い三井造船の統合構想は、取締役会が賛成十・反対三で長谷川聰社長を解任して白紙撤回された。相手は構造不況を単独で抱え、2021年に造船から撤退している。以後は事業ごとに相手が替わる。潜水艦は三菱重工業と隔年で交互に受注する寡占市場で、2024年に裏金と検査データ改ざんが露呈した。二輪車は原付第一種を持たないまま北米の中・大型車へ寄り、水素は市場そのものが立ち上がっていない。同じ相手と全面で競う場面がないことが、どの事業の市況が沈んでも別の事業が全社の利益を支える構成を作っている。
長期業績の推移 1949〜2026年
川崎重工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1878年〜 築地の造船所から、「陸海空」の総合重工業という構想へ

1878年〜官営造船所の払下げと株式会社への改組

国家がまず急ぐべきは、和船をはるかにしのぐ西洋型の船を造ることだ──貿易商の川崎正蔵氏はそう考え、1878年4月に東京築地で造船業を起こした。1881年3月に兵庫東出町で川崎兵庫造船所を開き、1886年には東京の事業をすべて神戸へ移している。同じ年の5月、官営兵庫造船所を借り受けると、これに川崎兵庫造船所を併せ、商号を川崎造船所と改めた。翌1887年7月にはその官営兵庫造船所の払下げを受け、築地と兵庫に分かれていた二つの造船所をここへ集約している。正蔵氏は岩崎弥太郎氏とともに日本の造船業の始祖と称された人物であった。

  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年4月 川崎正蔵が東京築地で造船業を開始
    • [3]1881年3月 兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設
    • [5]1886年5月 官営兵庫造船所を借受け川崎造船所へ商号変更
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]西洋型船の建造を国家の急務とする創業の動機
    • [4]1886年 東京から事業一切を神戸へ移転
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [6]1887年7月 官営兵庫造船所の払下げを受け二造船所を集約
    • [7]川崎正蔵は岩崎弥太郎とともに造船業の始祖と称された

1896年10月15日、個人経営から資本金200万円の株式会社へ改組し、株式会社川崎造船所が発足した。初代社長には松方正義氏の三男である松方幸次郎氏を迎え、副社長に川崎芳太郎氏が就任し、創業者の正蔵氏は顧問となっている。新しく発足すると同時に、長く懸案だった6,000総トン級の大乾ドックの構築が始まり、設備が一新された。その背景には、陸海空にまたがる総合重機械工業をつくれば企業は安定して伸び、日本の発展にも役立つという松方氏の信念があった。社章も改めた。創業者正蔵氏の"川"の字を図案にして、風になびく旗の真ん中に置き、積極と前進の意味を込めている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [8]1896年10月15日 資本金200万円の株式会社川崎造船所を設立
    • [9]初代社長 松方幸次郎(松方正義の三男)、副社長 川崎芳太郎、正蔵は顧問
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [10]新発足とともに6,000総トン級大乾ドックの構築に着手
    • [12]社章は川崎正蔵の「川」を図案化し旗の中央に配したもので積極と前進を表す
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [11]松方幸次郎の「陸海空にわたる総合重機械工業」の信念
参考文献[1]-[12]
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1878年4月 川崎正蔵が東京築地で造船業を開始
    • [3]1881年3月 兵庫東出町に川崎兵庫造船所を開設
    • [5]1886年5月 官営兵庫造船所を借受け川崎造船所へ商号変更
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]西洋型船の建造を国家の急務とする創業の動機
    • [4]1886年 東京から事業一切を神戸へ移転
    • [10]新発足とともに6,000総トン級大乾ドックの構築に着手
    • [12]社章は川崎正蔵の「川」を図案化し旗の中央に配したもので積極と前進を表す
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
    • [6]1887年7月 官営兵庫造船所の払下げを受け二造船所を集約
    • [7]川崎正蔵は岩崎弥太郎とともに造船業の始祖と称された
    • [8]1896年10月15日 資本金200万円の株式会社川崎造船所を設立
    • [9]初代社長 松方幸次郎(松方正義の三男)、副社長 川崎芳太郎、正蔵は顧問
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [11]松方幸次郎の「陸海空にわたる総合重機械工業」の信念

第2章 1928-1959 (気が向いたら執筆します!) 分離の連鎖と、経営権をめぐる攻防の15年

第3章 1960-1989 (気が向いたら執筆します!) 三度の合併失敗を経た、松方の初志への回帰

第4章 1990-2026 (気が向いたら執筆します!) 提案型への転換と、統合破談から水素事業へ

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歴史年表 1878〜2024年

川崎重工業の沿革1878〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1878〜1927年築地の造船所から、「陸海空」の総合重工業という構想へ川崎築地造船所を創業★★
川崎兵庫造船所を開設★
官営兵庫造船所を借受け川崎造船所に商号変更★
松方幸次郎川崎造船所を設立★
松方幸次郎川崎汽船を設立★★
1928〜1959年分離の連鎖と、経営権をめぐる攻防の15年松方幸次郎昭和金融恐慌下での鉄道車両・航空機事業の分離独立

昭和金融恐慌で経営難に陥った川崎造船所が、1928年5月に兵庫工場を分離して川崎車輌を、1937年11月に飛行機部門を分離して川崎航空機工業を設立した判断。造船の本体を残すため、比較的業績の安定した部門を別会社として切り出した。

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★★★
軍縮を受けて和議申請★★
航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立★
商号を川崎重工業に変更★
再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ)★★
手塚敏雄製鉄部門の切り出しと、造船・造機・電機3部門への集約

1950年8月、川崎重工業が企業再建整備計画に基づいて製鉄部門を分離し、資本金5億円の第二会社として川崎製鉄を設立した。本体は造船・造機・電機の3部門に事業を絞り、初代社長には西山弥太郎氏が就任した。

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★★★
1960〜1989年三度の合併失敗を経た、松方の初志への回帰砂野仁事業部制を採用★
砂野仁国内生産拠点を拡充★
砂野仁二輪車の米国販売会社の設立と、中・大型車に絞った北米市場への傾斜

1966年3月、川崎航空機工業が米国に American Kawasaki Motorcycle Corp. を設立し、国内で主流であった原付第一種を追わず、中・大型車の需要が厚い北米へ販売の足場を置いた判断。1981年12月には米国生産にも着手し、二輪車は重工業の会社が持つ唯一の消費財事業として育った。

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★★★
四本潔産業ロボットに参入★
四本潔陸海空にわたる総合重工業をめざした川崎3社の合併

1968年3月、川崎重工業は一年後を目途に川崎航空機工業・川崎車輛の2社を吸収合併すると発表し、1969年4月1日に合併を実施した判断。6代社長・砂野仁氏が主導し、初代社長・松方幸次郎氏以来の"陸海空にわたる総合重工業"の理想のもと、分かれていた造船・航空・車両を一つの経営体へ統合し直した。合併後の年間売上高は約1,700億円を見込んだ。

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★★★
四本潔汽車製造を合併★
梅田善司産業用ガスタービンの民需営業を開始★
梅田善司経営合理化に着手★
梅田善司P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始★
長谷川謙浩Kawasaki Motors Mfg.を設立★
長谷川謙浩空調・ボイラ事業を川重冷熱工業に承継★
大庭浩Kawasaki Rail Carを設立★
1990〜2026年提案型への転換と、統合破談から水素事業へ大庭浩ボーイング向け航空機部品生産を本格化★
亀井俊郎NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始★
田崎雅元IHIとの造船事業の統合を白紙撤回★
田崎雅元船舶事業と精密機械事業を分社★★
長谷川聰造船・精密機械・プラント子会社を再合併★★
村山滋経営統合構想の白紙撤回と、単独での造船事業の継続

2013年、造船再編をにらんで川崎重工と三井造船が経営統合を交渉したが、約3か月で破談した案件。

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★★★
村山滋建設機械事業から撤退★
金花芳則船舶海洋事業の構造改革★
橋本康彦グループビジョン2030を策定★
橋本康彦車両事業と二輪事業を分社化★
橋本康彦液化水素サプライチェーンへの集中と、世界初の液化水素運搬船の建造

2020年代に入ると、川崎重工業は全社の資源を水素に集中させた。液化水素を運ぶ船として世界で初めての「すいそ ふろんてぃあ」を起点に、受入基地、さらに水素混焼タービンまでを自前でつなごうとした。その出発点は、2010年からの中期経営計画に盛り込んだ液化水素サプライチェーン構想である。ここで扱うのは、これら一連の判断である。

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★★★
橋本康彦防衛省向け販売が好調★
橋本康彦潜水艦事業の裏金と舶用エンジン検査データ改ざんの露呈、そして統治の立て直し

2024年、川崎重工業の潜水艦修繕事業で、取引先との架空取引による裏金を原資に海上自衛隊員へ金品や飲食を供与していた問題が発覚した。8月には舶用エンジンの検査データ改ざんも判明し、橋本康彦社長は特別調査委員会の設置と防衛事業管理本部の新設を決めた。防衛特需のさなかに露呈した相次ぐ不正への対応である。

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★★★
出典・参考 4件
出典・参考
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「川崎重工業」の項
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)

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