国家がまず急ぐべきは、和船をはるかにしのぐ西洋型の船を造ることだ──貿易商の川崎正蔵氏はそう考え、1878年4月に東京築地で造船業を起こした。1881年3月に兵庫東出町で川崎兵庫造船所を開き、1886年には東京の事業をすべて神戸へ移している。同じ年の5月、官営兵庫造船所を借り受けると、これに川崎兵庫造船所を併せ、商号を川崎造船所と改めた。翌1887年7月にはその官営兵庫造船所の払下げを受け、築地と兵庫に分かれていた二つの造船所をここへ集約している。正蔵氏は岩崎弥太郎氏とともに日本の造船業の始祖と称された人物であった。
1896年10月15日、個人経営から資本金200万円の株式会社へ改組し、株式会社川崎造船所が発足した。初代社長には松方正義氏の三男である松方幸次郎氏を迎え、副社長に川崎芳太郎氏が就任し、創業者の正蔵氏は顧問となっている。新しく発足すると同時に、長く懸案だった6,000総トン級の大乾ドックの構築が始まり、設備が一新された。その背景には、陸海空にまたがる総合重機械工業をつくれば企業は安定して伸び、日本の発展にも役立つという松方氏の信念があった。社章も改めた。創業者正蔵氏の"川"の字を図案にして、風になびく旗の真ん中に置き、積極と前進の意味を込めている。
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|---|---|---|---|---|
| 1878〜1927年築地の造船所から、「陸海空」の総合重工業という構想へ | 川崎築地造船所を創業 | ★★ | ||
| 川崎兵庫造船所を開設 | ★ | |||
| 官営兵庫造船所を借受け川崎造船所に商号変更 | ★ | |||
| 松方幸次郎 | 川崎造船所を設立 | ★ | ||
| 松方幸次郎 | 川崎汽船を設立 | ★★ | ||
| 1928〜1959年分離の連鎖と、経営権をめぐる攻防の15年 | 松方幸次郎 | 昭和金融恐慌下での鉄道車両・航空機事業の分離独立 昭和金融恐慌で経営難に陥った川崎造船所が、1928年5月に兵庫工場を分離して川崎車輌を、1937年11月に飛行機部門を分離して川崎航空機工業を設立した判断。造船の本体を残すため、比較的業績の安定した部門を別会社として切り出した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 軍縮を受けて和議申請 | ★★ | |||
| 航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立 | ★ | |||
| 商号を川崎重工業に変更 | ★ | |||
| 再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ) | ★★ | |||
| 手塚敏雄 | 製鉄部門の切り出しと、造船・造機・電機3部門への集約 1950年8月、川崎重工業が企業再建整備計画に基づいて製鉄部門を分離し、資本金5億円の第二会社として川崎製鉄を設立した。本体は造船・造機・電機の3部門に事業を絞り、初代社長には西山弥太郎氏が就任した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1960〜1989年三度の合併失敗を経た、松方の初志への回帰 | 砂野仁 | 事業部制を採用 | ★ | |
| 砂野仁 | 国内生産拠点を拡充 | ★ | ||
| 砂野仁 | 二輪車の米国販売会社の設立と、中・大型車に絞った北米市場への傾斜 1966年3月、川崎航空機工業が米国に American Kawasaki Motorcycle Corp. を設立し、国内で主流であった原付第一種を追わず、中・大型車の需要が厚い北米へ販売の足場を置いた判断。1981年12月には米国生産にも着手し、二輪車は重工業の会社が持つ唯一の消費財事業として育った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 四本潔 | 産業ロボットに参入 | ★ | ||
| 四本潔 | 陸海空にわたる総合重工業をめざした川崎3社の合併 1968年3月、川崎重工業は一年後を目途に川崎航空機工業・川崎車輛の2社を吸収合併すると発表し、1969年4月1日に合併を実施した判断。6代社長・砂野仁氏が主導し、初代社長・松方幸次郎氏以来の"陸海空にわたる総合重工業"の理想のもと、分かれていた造船・航空・車両を一つの経営体へ統合し直した。合併後の年間売上高は約1,700億円を見込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 四本潔 | 汽車製造を合併 | ★ | ||
| 梅田善司 | 産業用ガスタービンの民需営業を開始 | ★ | ||
| 梅田善司 | 経営合理化に着手 | ★ | ||
| 梅田善司 | P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始 | ★ | ||
| 長谷川謙浩 | Kawasaki Motors Mfg.を設立 | ★ | ||
| 長谷川謙浩 | 空調・ボイラ事業を川重冷熱工業に承継 | ★ | ||
| 大庭浩 | Kawasaki Rail Carを設立 | ★ | ||
| 1990〜2026年提案型への転換と、統合破談から水素事業へ | 大庭浩 | ボーイング向け航空機部品生産を本格化 | ★ | |
| 亀井俊郎 | NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始 | ★ | ||
| 田崎雅元 | IHIとの造船事業の統合を白紙撤回 | ★ | ||
| 田崎雅元 | 船舶事業と精密機械事業を分社 | ★★ | ||
| 長谷川聰 | 造船・精密機械・プラント子会社を再合併 | ★★ | ||
| 村山滋 | 経営統合構想の白紙撤回と、単独での造船事業の継続 2013年、造船再編をにらんで川崎重工と三井造船が経営統合を交渉したが、約3か月で破談した案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 村山滋 | 建設機械事業から撤退 | ★ | ||
| 金花芳則 | 船舶海洋事業の構造改革 | ★ | ||
| 橋本康彦 | グループビジョン2030を策定 | ★ | ||
| 橋本康彦 | 車両事業と二輪事業を分社化 | ★ | ||
| 橋本康彦 | 液化水素サプライチェーンへの集中と、世界初の液化水素運搬船の建造 2020年代に入ると、川崎重工業は全社の資源を水素に集中させた。液化水素を運ぶ船として世界で初めての「すいそ ふろんてぃあ」を起点に、受入基地、さらに水素混焼タービンまでを自前でつなごうとした。その出発点は、2010年からの中期経営計画に盛り込んだ液化水素サプライチェーン構想である。ここで扱うのは、これら一連の判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 橋本康彦 | 防衛省向け販売が好調 | ★ | ||
| 橋本康彦 | 潜水艦事業の裏金と舶用エンジン検査データ改ざんの露呈、そして統治の立て直し 2024年、川崎重工業の潜水艦修繕事業で、取引先との架空取引による裏金を原資に海上自衛隊員へ金品や飲食を供与していた問題が発覚した。8月には舶用エンジンの検査データ改ざんも判明し、橋本康彦社長は特別調査委員会の設置と防衛事業管理本部の新設を決めた。防衛特需のさなかに露呈した相次ぐ不正への対応である。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(川崎重工業)