結果

川崎重工業の長期業績

1950年〜2024年
売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
18,492億円
売上収益:2024/3
売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結
1.3%
利益率:2024/3
CF

キャッシュフローの長期推移

連結優先
営業CF
単位:億円
投資CF
単位:億円
財務CF
単位:億円
PL

売上高の長期推移

売上高・売上収益ベース(連結優先)| 単位:億円
PL

税引後利益の長期推移

税引後利益・当期純利益・当期利益ベース(連結優先)| 単位:億円
1878
4月

川崎築地造船所を創業

貿易業に従事していた川崎正蔵氏は、明治時代初頭に成長産業として造船に着眼。1878年(明治11年)4月に東京築地にて川崎築地造船所を創業した。このため、川崎重工業の創業は明治11年とされる。新規造船に加えて修繕業務に従事し、明治20年の時点で従業員数約600名を抱えた。

現在に至る川崎重工の起点は、1896年に明治政府から「官営兵庫造船所」の払い下げを受けたことに始まる。東京築地における造船所が手狭となったことや、海運業が神戸を中心に発展することを予測し、東京から神戸に拠点を移した。なお、買収における払い下げは50ヵ年の分割払いに設定され、明治政府は川崎正蔵氏を信用した。

神戸への移転後も業容を拡大。明治20年から明治29年までの10年間において、新造船80隻・修繕船589隻に携わり、日本国内では三菱に次ぐ造船所として頭角を表した。

1878年
4月
川崎築地造船所を創業
1887年
川崎兵庫造船所を新設(官営払い下げ)
分割払い 50
出所
参考文献
会社銀行八十年史, 1955年
川崎重工業株式会社百二十五年史
1896
10月

株式会社川崎造船所を設立

川崎正蔵氏は事業の永続的な発展を図るために、1896年に株式会社として川崎造船所(現・川崎重工業)を設立。設立時点の川崎正蔵氏の株式保有比率は21.48%であり事業承継を意図した。そこで、川崎造船所の初代社長として、日本国首相であった松方正義氏の三男・松方幸次郎氏が就任した。会社設立時点の従業員数は1,800名であった。

設備投資の面では、1902年11月に神戸ぞにおいて「6,000トンの乾ドック」を約6年の工期を経て新設。当時としては最大規模のドッグであり、大型船の建造に対応。海軍向けの艦艇製造に従事した。1915年には神戸造船所において巡洋戦艦榛名を竣工した。

以後、川崎重工は主に海軍から鑑定を受注することで、造船メーカーとして業容を拡大したが、一方で海軍の艦艇建造(軍拡・軍縮)の動向によって業績が浮き沈みする構造的な課題を抱えた。

1896年
10月
株式会社川崎造船所を設立
1906年
兵庫工場を新設(鉄道車両)
1922年
12月
岐阜工場を新設(航空機)
1940年
9月
明石工場を新設
1919年4月
川崎汽船株式会社を設立

川崎造船は第一次世界大戦時の好況を受けて、1918年1月に船舶部を発足して海運事業に参入。11隻の汽船を保有して海運業に従事したが、1919年に第一次世界大戦が終結したことで好況が終わりを告げた。

このため、1919年4月に海運事業の分離を決定し、保有汽船11隻の現物出資も合わせて川崎汽船を設立。設立当時は株式数40万株のうち、39.9万株を川崎造船所が保有しており、川崎重工の子会社として運営された。

その後、終戦による財閥解体により、1949年に川崎汽船は株式を上場。川崎重工との資本関係を解消し、単独の海運会社として独立した。

1918年
1月
船舶部を設置
1919年
4月
開運事業を分離・川崎汽船株式会社を設立
1945年
8月
第二次世界大戦により保有船舶を大量喪失
喪失数 60
1949年
企業再建整備法・川崎重工業との資本関係を解消
1928年5月
鉄道車両事業を分離・川崎車輛を設立(担保設定)
1931
7月

軍縮を受けて和議申請

昭和恐慌と海軍軍縮による艦艇需要の減少により、昭和初期に川崎造船は慢性的な赤字に転落。当時の従業員数は1.3万名であり、非稼働の人件費が収益を圧迫した。そこで、1931年に川崎造船所は和議を申請し、従業員3000名を人員整理した。

ただし、日本政府としては海軍艦艇を建造する大企業を解散させることが、国益にならないと判断して特別の融資を決定。川崎造船所は和議を申請しつつも、会社を存続させるに至った。

1931年に川崎造船所は和議申請を経て経営再建に着手。タイミングよく日本国内では軍拡(日中戦争の勃発・軍縮条約の廃棄)の流れが鮮明化したため、川崎造船所は海軍向け官邸の建造により業績を好転。1945年の終戦まで、軍需によって事業を再拡大した。

1928年
5月
松方社長が引責辞任
1931年
7月
和議申請・人員整理
人員整理 3000
1937年11月
航空機事業を分離・川崎航空機工業を設立
1939年12月
商号を川崎重工業に変更
1936年
空母「飛龍」を起工
1938年
空母「瑞鶴」を起工
1949年10月
再建整備計画が認可(造船・造機・電機の3部門のみ)

戦後の財閥解体により、川崎重工業もグループの解体が決定。川崎重工業は「造船・造機・電機」の3事業で再発足した。

一方、子会社などで運営していた4事業「海運・航空機・鉄道車両・製鉄業」について完全な分離を決定。海運業は川崎汽船、航空機製造は川崎航空機、鉄道車両は川崎車輛、製鉄業は川崎製鉄(現JFE)として分離し、各社の株式上場を通じて川崎重工との資本関係を解消した。

1950年
8月
製鉄事業を分離・川崎製鉄を設立
1961年11月
事業部制を採用
1966年1月
国内生産拠点を拡充
1966年
1月
加古川工場を新設
1966年
11月
横山工業と合併(土木・運搬機械)
1967年
1月
坂出工場を新設
1968年
8月
西神戸工場を新設(油圧機器)
1971年
4月
播磨工場を新設
1966年3月
二輪車の北米展開を開始
1966年
1月
加古川工場を新設(二輪車製造)
1966年
3月
American Kawasaki Motocycle Corp.を設立
1981年
12月
Kawwasaki Motors Manufacturing Corp., U.S.Aを設立
1988年
二輪車部門の人員を500名削減・2000名体制へ
1969年4月
川崎重工・川崎航空機・川崎車輛のが3社合併
1969年
産業ロボットに参入
1971年1月
汽車製造株式会社を合併
1976年
産業用ガスタービンの民需営業を開始
1977年
経営合理化に着手
1978年6月
P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始
1978年
6月
P-3C対潜哨戒機のライセンス生産を開始(2025年まで契約)
1985年
1月
CH-47ヘリコプターのライセンス生産を開始(2030年まで契約)
2004年
9月
EH-101ヘリコプターのライセンス生産を開始(2043年まで契約)
1990年3月
ボーイング向け航空機部品生産を本格化
1979年
12月
飛鳥工場(名古屋第2工場)を新設
1990年
3月
西神工場を新設
1992年
12月
名古屋第1工場を新設
1997年
NY市交通局向け地下鉄車両の製造開始
2001年9月
IHIとの造船事業の統合を白紙撤回
2000年
9月
石川島播磨・川崎重工・三井造船が提携
2001年
4月
IHIと船舶事業の統合合意
2001年
9月
IHI工と船舶事業の統合破談
2002年
10月
船舶事業を分離・川崎造船を設立
2013年6月
長谷川氏が社長解任

造船事業における三井造船との統合計画を受けて、川崎重工業における社内不満が噴出。経営不振に陥っている三井造船との統合計画を疑問視する声が大きくなった。この結果、2013年6月の臨時取締役会において長谷川社長の解任動議が出され、賛成10に対して反対3によって可決。村山氏が新社長に就任した。

決算
川崎重工業の業績
2014年3月期(連結)
売上高
13854
億円
当期純利益
386
億円
従業員数
34620
営業CF
1517
億円
投資CF
-775
億円
財務CF
-625
億円
2015年10月
建設機械事業から撤退
2009年
4月
建設機械事業を分離・KCMを設立
2015年
10月
KCMを日立建機に売却
2017年3月
船舶海洋事業の構造改革
2014年
神戸工場での船舶製造を潜水艦に特化
2020年11月
グループビジョン2030を策定

事業ポートフォリオの変革を目的として、2020年11月に10年間の経営方針として「グループビジョン2030」を策定

決算
川崎重工業の業績
2021年3月期(連結)
売上高
14884
億円
当期純利益
-193
億円
従業員数
36691
営業CF
346
億円
投資CF
-373
億円
財務CF
230
億円
2024年3月
防衛省向け販売が好調
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