歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1968年2月、親会社の東亞特殊電機が製造する血球計数装置を売る販売会社として、東亞医用電子が神戸市兵庫区に設立された。自社製品を持たず、機器の利益は親会社に落ち、薄い販売手数料しか手元に残らない依存構造での出発だった。中谷太郎らは、自動化検査機器の市場が広がるなか他社製品の販売に依存していては十分な収益を取り切れないと早くから見ており、4年後に親会社の医用電子機器開発製造部門を譲り受けて、機器設計から試薬開発まで自社で抱える体制に移した。
決断血球計数装置という一つのカテゴリーに資源を集め、機器とそれに紐づく試薬の継続販売で稼ぐ仕組みをつくった。1980年のドイツ進出を皮切りに、欧州・米州・アジアで現地の代理店を順次買収して直販へ切り替え、海外売上比率を8割超まで引き上げている。ロシュやアボットが臨床化学や免疫といった高単価領域に注力する間隙を縫い、欧米大手が深追いしなかった血球計数装置で世界シェアの過半を取った。単品の寡占と消耗品の継続収益が、安定した利益基盤になっている。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ創業4年後の1972年に、親会社製品を売るだけの販社から開発製造一貫体制へ転換したのか
- A 他社の製品を売る販社のままでは、機器の利益の大半が製造元の親会社に落ち、手元には薄い販売手数料しか残らない。自動化検査機器の市場が広がるほど、自社で機器と試薬を握らなければ拡大する需要を収益に変えられないと早くに見切った。1968年2月に東亞特殊電機が製造する血球計数装置の販社として神戸で出発した東亞医用電子は、1972年2月に親会社の医用電子機器開発製造部門を譲り受け、機器設計から試薬開発まで自前で抱える体外診断機器メーカーへ業態を改めた。
- Q なぜ1980年代以降、血球計数装置という単一カテゴリーに資源を集め、代理店を買収して直販に切り替えたのか
- A 機器をいったん病院に置けば、検査のたびに専用試薬が継続して売れ、装置の据え置きと消耗品の反復購入が安定収益を生む。ロシュやアボットが高単価の臨床化学・免疫に注力する間隙で、欧米大手が深追いしなかった血球計数装置に絞れば、規模で先行して寡占を取れると読んだ。代理店任せでは試薬の継続収益と顧客接点を握れないため、1980年のドイツ進出を皮切りに欧州・米州・アジアで現地代理店を順次子会社化して直販へ切り替え、海外売上比率を8割超へ高めた。2000年代には試薬の売上が装置を上回り、血球計数で世界シェアの過半を占めた。
- Q なぜ2014年以降に遺伝子検査へ布石を打ち、2023年に創業家外の浅野薫氏へ経営を委ねたのか
- A 血球計数の寡占で稼ぐ仕組みは欧米3強が握る臨床化学・免疫・分子診断の高単価領域には自動では広がらず、患者ごとの遺伝子情報で治療を選ぶ個別化医療の需要に応えるには自前で次の柱を作る必要があった。2014年6月に凸版印刷子会社の理研ジェネシスへ資本参加し、2016年6月に完全子会社化して、検体検査の機器・試薬で培った技術と遺伝子解析を結びつけ、コンパニオン診断とがん遺伝子検査へ事業を広げた。海外売上比率が約9割へ高まるなか、家次恒会長は「もはや創業家一族で経営する規模の会社ではない」と判断し、川崎重工出身で手術支援ロボットを手掛けたCTOの浅野薫氏へ2023年4月にCEOを承継した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1968年〜1989年 血球計数装置の販社から開発製造一貫体制へ転換した創業期
神戸での創業と「販売会社」としての出発
1968年2月、兵庫県神戸市兵庫区下沢通5丁目4番地に東亞医用電子株式会社が設立された[1]。親会社にあたる東亞特殊電機株式会社(現TOA株式会社)が製造する血球計数装置の販売を専業とする小規模な会社で、[2]自社製品を持たず機器の利益は親会社へ落ちる構造での出発だった。設立を主導した中谷太郎氏は、人間ドックが広まり健康な人も検査を受ける予防医学の到来を訪米で見て、血液という健康情報を測る機器に大きな需要を読んだ[3]。東亞特殊電機の出資には頼らず中谷氏らの個人出資で別会社として興したのは、本業の電機事業から離れて多角化の一本を自前で立てる狙いからであった[4]。
販社専業の事業構造は4年で改められた。1972年2月、東亞医用電子は親会社東亞特殊電機の医用電子機器開発製造部門の営業を譲り受け、機器の開発・製造・販売を一貫して担う体制へ移った[5]。他社の製品を売る立場では、広がる検査自動化の需要を収益に変え切れないという判断であった。主力の自動血球計数器は、赤血球や白血球の数を技師が顕微鏡で数えていた作業を機械に置き換えるもので、1964年に大阪大学医学部の協力で国産化された国産第一号機にさかのぼる[6]。輸入されていた米コールター社製に対し、小さな病院でも採算が取れる価格と手厚い保守で対抗し、[7]機器設計から試薬まで自前で抱える体外診断機器メーカーへの道に入った。
血球計数器の国産化と国内トップシェアの確立
1973年5月、兵庫県加古川市に加古川工場が新設され、営業・生産・研究開発の各部門が集約された[8]。神戸本社から独立した主力工場を得て、メーカーとしての量産能力が固まった。自動血球計数器は熊本労災病院への納入を皮切りに全国の病院へ広がり、1979年の時点で国内シェアは約75%に達した[9]。1982年の市場調査では、全自動型のCC-700・CC-800が国産首位の約41%、半自動型のCC-120・CC-108が約43%を占め、[10]米コールター社や三菱化成・日本テクニコンといった内外のメーカーがひしめく市場で、東亞医用電子は血球計数の分野で抜きん出た位置にあった[11]。
血球計数器は機械だけでは完結せず、血液を希釈し溶血させる試薬を使って測る。東亞医用電子は希釈液・溶血剤・洗浄剤といった試薬や検体容器まで自前で商品化し、機器という装置と試薬という消耗品をひと組で売る形をとった[12]。販売は一県一代理店制を敷き、[13]メーカーとして保守と試薬供給に直接あたることで、装置を据え置いたあとも検査のたびに試薬が継続して売れる収益の型を作った。1978年には試薬の専用工場を兵庫県夢前町に新設し、機器の生産を担う加古川工場と合わせて、[14]装置と消耗品の双方を内製する体制をそろえた。
1978年2月、製品ブランドを「Sysmex」に改めた[15]。システムと医療を組み合わせた造語で、自動化された検査システムを名に込め、のちに社名へ昇格する素地が用意された。製品の面では、技師の手作業を前提とする半自動機から、検体をかけるだけで測り終える全自動機への切り替えが1970年代の末から進んだ[17]。1983年の秋には全自動の血球計数装置「Eシリーズ」4タイプを一度に投入し、1台1,850万円から3,750万円までの価格帯で、[16]小さな診療所から大病院まで検査量の異なる需要に品揃えで応えた。機器の性能を上げることと試薬を継続して売ることが、収益を押し上げる両輪になった。
世界市場への進出と研究開発体制の確立
世界の血球計数器は米コールター社が首位を占めており、東亞医用電子はこの先行企業を追って早くから海外へ出た。欧州では1972年にドイツへ駐在所を置き、[19]1980年10月にドイツ現地法人トーア メディカル エレクトロニクス ドイチュラント(現シスメックス ヨーロッパ エスイー)を設立して欧州事業の足場とした[18]。米国へは1977年に北米駐在所、1979年に米国現地法人を構え、[20]医療機器大手のバクスター社を販売代理に得て北米の拠点とした[21]。現地で試薬を生産し機器は日本から運ぶ分業に、欧米で一国一代理店を結ぶ販売網を重ね、輸出比率は1990年度に4割を超えた[22]。
研究開発と生産の拠点づくりも、海外への展開と並んで進んだ。1986年4月、神戸市西区に神戸工場(現テクノパーク)を新設して研究開発部門を移し、[23]電気・機械・化学・光学などにまたがる技術者を一カ所に集めた。1991年2月には兵庫県小野市に小野工場を設けて検体検査試薬の生産を集約し、[24]1993年3月にはテクノセンター(現テクノパーク)本館を加えて研究開発・物流・情報システム・サービスの各部門を束ね、[25]神戸が機能の中核になった。研究開発費は売上高の約15%に達し、全社員のおよそ2割が開発に携わる人と技術への重い投資が、製品の更新を支えた[26]。
1988年に社長へ就いた橋本禮造氏は、就任にあたって二つの長期目標を掲げた。一つは血球計数器で世界一になること、もう一つは血球計数器以外の新規分野が売上に占める割合を10年で1割から4割へ引き上げることである[27]。免疫化学検査や尿検査の自動化、血液ガス・電解質の分析へと品目を広げ、血液検査の総合専門メーカーをめざす道筋を示した[28]。世界の体外診断機器市場はロシュ・アボット・シーメンスら欧米の巨大企業が握る寡占で、その隙間を突いて血球計数器という一分野で世界シェアを取りに行く構えである。販社から始まった東亞医用電子は、創業から20年で開発・製造・販売を自前で担う体外診断機器メーカーへ姿を変え、[29]海外と研究開発の土台を築いた。
1990年〜2010年 「シスメックス」へ社名変更しグローバル体外診断機器メーカーへ転換した時代
大証・東証への上場と直販体制への移行
1994年4月、形式上の存続会社である東亞医用電子株式会社に吸収合併される組織再編が完了し、グループの組織体制が整理された[30]。1995年3月にはドイツの代理店デジタナ社の株式を取得して子会社化、社名をシスメックス ゲーエムベーハー ドイチュラントに変更した[31]。代理店経由の販売から直販体制への移行は、顧客との関係の深さと販売利益率の双方を引き上げる転換であった。同年11月に大阪証券取引所市場第二部に株式を上場、[32]1996年7月には東京証券取引所市場第二部にも上場し、[33]公開市場で資金調達できる体制を整えた。1997年2月に米国子会社(シスメックス インフォシステムズ アメリカ インク、現シスメックス アメリカ インク)を設立し、米州事業の本格化に着手した[34]。
1998年2月、シンガポールにシスメックス シンガポール ピーティーイー リミテッド(現シスメックス アジア パシフィック ピーティーイー リミテッド)を設立し、アジア統括拠点を置いた[35]。販社の現地化を欧州・米州・アジアの3地域で完了させ、地域別に経営の独立性と現地ニーズへの対応力を高める体制を整えた。同年10月、社名を東亞医用電子株式会社からシスメックス株式会社へ変更し、本社を神戸市中央区脇浜海岸通1丁目5番1号に移転した[36]。製品ブランドとして1978年に導入した「Sysmex」が、ついに企業名そのものへと昇格した瞬間である。社名変更は単なる呼称の更新ではなく、グローバル体外診断機器メーカーとしての自己定義の宣言であった。
中国進出と東証一部指定
2000年1月、中国に希森美康医用電子(上海)有限公司を設立し、中国市場への進出を本格化した[37]。「希森美康」は中国語で「Sysmex」を音写した名称で、中国法人として現地化を進める起点となった。同年3月には東京証券取引所の市場第一部および大阪証券取引所の市場第一部に指定替えとなり、大企業地位を確立、中央研究所を新設してR&D機能を拡大、フランスにシスメックス フランスを設立して欧州販売網を広げた[38]。
2001年8月に国際試薬株式会社(2006年4月シスメックス国際試薬株式会社へ社名変更)の株式を取得して子会社化し、試薬事業の中核を取得した[39]。試薬は機器に紐づく消耗品で、毎月発生する継続収益の源泉である。同社の収益モデルが「機器の単発販売」から「機器+試薬の継続販売」へと移行する転換点であった。2002年10月にはアール・エー・システムズ(現シスメックスRA株式会社)を子会社化、[40]2004年4月にはシーエヌエー(現シスメックスCNA株式会社)を子会社化し、検査関連サービス・IT・自動化領域での周辺機能を取り込んだ[41]。
血球計数装置の領域では、世界シェアの過半を握る寡占的地位を1990年代後半から維持している。世界の主要病院・検査センター・診療所のおよそ半数がシスメックスの血球分析装置を採用しているという計算で、装置の置き換えと試薬の継続販売の両輪が安定収益を生む構造となった。海外売上比率は1990年代後半から右肩上がりで上昇し、2010年代には8割超に達する。日本市場の人口減少と医療費抑制圧力の中で、シスメックスは早期に海外事業の比重を高め、円建て本社決算でも為替変動と海外景気の影響を強く受ける構造へ移行した。
2011年〜2024年 個別化医療への布石とコンパニオン診断事業の本格化
加古川「アイ スクエア」と理研ジェネシス資本参加
2013年4月、韓国代理店を子会社化し社名をシスメックス コリア カンパニー リミテッドに変更、韓国市場で直販体制を整えた[42]。アジア地域での代理店買収による直販化の動きは、欧州・米州で既に完了していた戦略を東アジアでも完遂する流れであった。
2014年6月、個別化医療における遺伝子検査事業の発展のため、凸版印刷株式会社の子会社である株式会社理研ジェネシスに資本参加し、同時に兵庫県加古川市に新たな機器生産工場「アイ スクエア」を開設した[43]。理研ジェネシスは独立行政法人理化学研究所が起業した遺伝子検査会社であり、シスメックスは2016年5月に同社の株式を凸版印刷株式会社より追加取得して完全子会社化した[44]。遺伝子検査領域への布石は、血球計数装置という比較的単純な機器のビジネスから、抗がん剤適応判断のコンパニオン診断・がん遺伝子パネル検査という個別化医療の高付加価値領域への戦略的拡張を示す。同社の事業ポートフォリオは、機器+試薬の継続販売に加え、検査サービスそのものを提供する体制へと広がった。
加古川アイ スクエアは、機器生産能力を引き上げる主要設備投資で、グローバル市場の需要拡大に対応する生産基盤の整備であった。2018年7月には米国にカスタマートレーニング・サポート拠点を拡張開設し、機器販売後のサービス体制も強化した[45]。装置を売り切るのではなく、長期にわたって試薬とサービスを継続供給するビジネスモデルへの転換が、グローバル拠点網の整備と並行して進められた。
中期経営計画2025と創業家外CEOへの承継
2010年代後半から2020年代前半にかけて、シスメックスの売上収益はFY13の1,845億円からFY24の5,086億円へと約2.8倍に拡大した。営業利益はFY14の444億円からFY24の876億円へと約2.0倍に増加した。コロナ禍の2020-2021年期には世界的な検査需要の急増を取り込んだ一方、中国景気減速の影響でFY23-FY24の中国統括売上の伸びは鈍化した。米州統括・EMEA統括・AP統括の伸びでカバーしながら、円安局面でも円建て海外売上比率の維持で為替収益を確保する局面に入った。地域別の売上構成(FY24)は本社統括(日本市場および本社管理)2,553億円・EMEA統括1,363億円・米州統括1,229億円・中国統括1,183億円・AP統括383億円で、地域分散の進んだポートフォリオが形成されている。研究開発投資の拡大(FY24の販管費1,508億円の大部分を含む)と設備投資(FY24資本支出計495億円規模)が、グローバル販社網の拡張と次世代製品開発の両輪を支える。連結従業員数はFY14の5,903人からFY24の10,533人へとほぼ倍増し、海外子会社の現地スタッフ拡充が反映された。
2023年4月、家次恒会長兼社長CEOは代表取締役会長へ移行し、[47]浅野薫氏が代表取締役社長CEOに就任した[46]。創業家系の家次恒氏が約26年間にわたり率いた経営体制から、創業家外の浅野薫CEOへの承継は、シスメックスにとって初の体制移管である。中期経営計画2025の最終年度を浅野CEO体制で完遂し、次期中計でAI診断・コンパニオン診断・遺伝子検査の事業ポートフォリオを次の成長軸として位置付ける構想が進んでいる。創業から57年を経た同社は、[48]血球計数装置の販社として出発し、グローバル体外診断機器メーカーへと転換した歴史の上に、個別化医療と検査サービス事業を積み上げる新しい段階に入った。
体外診断機器の市場は、ロシュ・ダイアグノスティクス・アボットラボラトリーズ・シーメンスヘルスィニアーズの欧米3強の寡占構造に変化はないが、血球計数装置という単一カテゴリーで世界シェアの過半を取り続けるシスメックスの立ち位置は、ニッチトップとして安定している。中国を含む新興国市場での体外診断検査需要の拡大、個別化医療の進展に伴うコンパニオン診断の市場拡大、AIを活用した検査解析の高度化という3つの構造変化が、次の10年の経営課題となる。