日本光電工業 の歴史

更新:

創業 1951年
創業者 荻野義夫
創業地 東京都新宿区
創業 1951年8月、荻野義夫氏らが東京都文京区で日本光電工業を12名で設立した。荻野
1951年8月、荻野義夫氏らが東京都文京区で日本光電工業を12名で設立した。荻野義夫氏は早稲田大学理工学部で電気工学を学び、戦時中は陸軍科学研究所で光電話の研究にあたった技術者で、医学と工学の結合を掲げ、会社の目的に医理学機器と光関連機器の研究製造を置いた。初代社長には陸軍軍医出身の松崎陽氏を迎えたが、実務は荻野義夫氏が代行し、自らの土地家屋まで担保に入れて運転資金を工面している。当初の収入源は、トリオ電気研究所から引き継いだトリオ補聴器だった。設立4か月後の1951年12月には世界初の8チャンネル全交流直記式脳波装置ME-1Dを完成させ、翌年に国立下総療養所へ納めている。1956年6月に荻野義夫氏が社長へ就任し、1961年11月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。
決断 数字に期限を付けた標語で、社内を動かしてきた。1958年に主要部品を真空管からト
数字に期限を付けた標語で、社内を動かしてきた。1958年に主要部品を真空管からトランジスタへ置き換え、小型軽量のME機器へ切り替えた。だが1973年10月の石油危機で1974年8月期は大幅な欠損となり、二度目の無配と富岡製作所の人員整理に及んだ。同年8月、在庫削減・原価低減・人件費の圧縮を骨子とする減量経営「危機突破2-4作戦」を打ち出す。続く1976年8月期には、借金ゼロ・東証一部上場・2割配当・年3回賞与の復活を「0、1、2、3計画」として創立30周年までに掲げた。1979年7月期に売上高が初めて100億円を超えて無借金と年3回賞与を満たし、2割配当は1981年、東証一部上場は1982年に達成する。4つの数字に達成の順番を付けたことが、無配の年に始めた減量経営を、1979年の米国直販に踏み出す元手を残す形で終わらせた。
現況 コロナで積んだ利益は、売上が過去最高へ戻っても戻らなかった。2026年3月期の連
コロナで積んだ利益は、売上が過去最高へ戻っても戻らなかった。2026年3月期の連結売上高2,351億円は過去最高だが、営業利益は187億円で、人工呼吸器と生体情報モニタの需要が急増した2022年3月期の310億円を下回る。地域別の売上は日本1,444億円、北米498億円、アジア州他216億円、欧州136億円、中南米56億円で、海外は39%にとどまる。販売費及び一般管理費は1,029億円と売上の44%を占め、2008年12月の米ニューロトロニクスから2024年11月の米ニューロアドバンスドまで買い重ねた会社を維持する費用がここに乗る。買った会社の数だけ販売とサービスの費用が積み上がり、コロナ期に一度届いた営業利益率15%は、平時の8%へ戻った。
競合 海外では他社の名前で売られていた機器に、自社の名を付け直した。1970年代まで日
海外では他社の名前で売られていた機器に、自社の名を付け直した。1970年代まで日本光電の機器は現地メーカーのブランドで売られることが多く、欧米市場の伸びも知名度も振るわなかった。1976年に米国心臓協会の年次大会へ心電計を出展して好評を得ると、米国のシェアが世界市場での位置に直結すると見て、自社ブランドの直販と保守網の整備を急いだ。1979年11月、ロサンゼルス近郊に3名で日本光電アメリカを設立し、脳波計は後に米国で7割のシェアを占める。1985年2月にはドイツ子会社を設立し、以後50カ国超へ広げた。同じ医療機器でも、規模の大きい相手は買収で入る。キヤノンは医療機器事業ののれん1,651億円を減損し、本社一体化で立て直しに入った。自分の名前で売る網を先に作ったことが、買収で加えたAEDや人工呼吸器といった製品を、取引のある病院へそのまま載せる経路にした。
長期業績の推移 1951〜2026年
日本光電工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

第1章 1951-1961 (気が向いたら執筆します!) 「医学と工学の結合」を理念に創業──補聴器で食いつなぎ世界初を世に出す

第2章 1962-1989 (気が向いたら執筆します!) 富岡工場と石油危機下の「危機突破2-4作戦」、米欧子会社と東証一部指定

第3章 1990-2014 (気が向いたら執筆します!) 上海合弁と日本光電への呼称決定、川本工場と欧米での子会社設立、デフィブテック買収

第4章 2015-2026 (気が向いたら執筆します!) 富岡生産センタと国内販社11社の吸収合併、持株会社体制と人工呼吸器事業の分社

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1951〜2024年

日本光電工業の沿革1951〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1951〜1961年「医学と工学の結合」を理念に創業──補聴器で食いつなぎ世界初を世に出す松崎陽日本光電工業を設立し医理学機器・電気光関連機器の研究製造を開始
松崎陽本社・工場を新宿区西落合へ移転
主要部品を真空管から置き換えることによる小型ME機器への移行

1958年、日本光電工業は高感度の前置増幅器など一部を除き、従来の真空管の大部分をトランジスタへ置き換えることに成功した。同じ年の初めには創立10周年までを計画年度とする初の中期計画"第1次3カ年計画"を実施し、7月には10部門制へ組織を改めている。従業員83名規模の専業メーカーが、主力の心電計・脳波計の中身をまとめて入れ替えた技術転換であった。

詳細を読む
★★★
東京証券取引所二部に上場
1962〜1989年富岡工場と石油危機下の「危機突破2-4作戦」、米欧子会社と東証一部指定富岡工場を設立
無配転落下での減量経営「」と、復配目標「0、1、2、3計画」の設定

1973年10月の石油危機の前後、日本光電工業は二度の無配に沈んだ。荻野義夫社長は1974年8月に始まる第24期に"危機突破2-4作戦"を掲げ、人員削減と経費圧縮を進めながら、並行して営業拠点の分社化に着手した。1976年8月には創立30周年へ向けた"0、1、2、3計画"を掲げ、1977年7月期に3年ぶりの復配を果たした。

詳細を読む
★★★
子会社(日本光電アメリカ)を設立
鶴ヶ島工場を設立
東京証券取引所一部に指定
子会社(日本光電ヨーロッパ)を設立
1990〜2014年上海合弁と日本光電への呼称決定、川本工場と欧米での子会社設立、デフィブテック買収荻野和郎中国上海で合弁会社を設立(2008年完全子会社化)
荻野和郎呼称を「日本光電」と決定
荻野和郎川本工場を設立
荻野和郎子会社を設立
荻野和郎NKUSラボを設立
荻野和郎子会社を設立
荻野和郎フィレンツェ子会社を設立
荻野和郎ベネフィックスを子会社化
荻野和郎日本バイオテスト研究所を子会社化
鈴木文雄ニューロトロニクスを買収
鈴木文雄デフィブテックを買収★★
2015〜2026年富岡生産センタと国内販社11社の吸収合併、持株会社体制と人工呼吸器事業の分社鈴木文雄富岡生産センタ完成
鈴木文雄オレンジメッドを設立・取得
荻野博一所沢に総合技術開発センタを開設
荻野博一国内販売子会社11社を吸収合併
荻野博一アンプスリーディを買収
荻野博一子会社を再編、持株会社体制に移行★★
荻野博一持株会社を商号変更し人工呼吸器事業を新会社に承継
荻野博一アドテック親会社のニューロアドバンスドを買収
出典・参考

免責事項およびポリシー