日本光電工業主要部品の真空管からトランジスタへの置き換えと、小型ME機器への転換
補聴器で食いつないできた創業7年目の会社は、なぜ主力機器の中身を総取り替えしたか
- 概要
- 1958年、日本光電工業は高感度の前置増幅器など一部を除き、従来の真空管の大部分をトランジスタへ置き換えることに成功した。同じ年の初めには創立10周年までを計画年度とする初の中期計画「第1次3カ年計画」を実施し、7月には10部門制へ組織を改めている。従業員83名規模の専業メーカーが、主力の心電計・脳波計の中身をまとめて入れ替えた技術転換であった。
- 背景
- 創業当初の収入源は補聴器で、決算は3期連続の赤字であった。1956年7月期にようやく売上高1億円台と初の黒字を計上し、医用電子機器が売上高比率の83.5%を占めた。この時期、トランジスタが量産段階に入り、電子デバイスの主流が真空管から移りはじめていた。
- 内容
- 高感度の前置増幅器など一部には真空管を残しつつ、大部分をトランジスタへ置換した。あわせて、主要製品を性能・価格の両面で国内随一の商品に仕立てることを最重要目標とする第1次3カ年計画を実施し、技術部門と設計部門に品種別・機構別の担当者を配置した。
- 含意
- トランジスタ化は小型化・軽量化にとどまらず、新しい回路、電池を必要としない較正電圧回路、記録用ガルバノメータの小型化など、その後のME機器を支える技術を生んだ。1960年にトランジスタ式の心電計と脳波計を発売し、1961年11月にはME機器の専門メーカーとして初めて東証二部へ上場している。
部品を替えるのではなく、設計を替える
時代の波に乗った部品更新として片づけるのは、この転換を軽く見すぎている。1958年の日本光電工業は従業員83名、前々期に初の黒字390万円を出したばかりの会社で、主力の心電計も脳波計も真空管を前提に組まれていた。その中身を入れ替える判断は、既存の設計を捨てる作業に等しい。同じ年に初の3カ年計画を掲げ、技術部と設計部を分ける組織へ改めた事実に、荻野義夫社長がこれを部品ではなく設計の問題とみていたことがうかがえる。
もっとも、判断がすぐ果実を生んだわけではない。置き換えの成功から心電計MC-1TRの発売までは2年近くを要し、高感度の前置増幅器など一部には真空管が残った。量産化そのものは社外で進んだ変化でもある。それでも、電池を必要としない較正電圧回路や記録用ガルバノメータの小型化は、この作り直しからしか生まれなかったといえる。外から来た部品をどれだけ早く自社の設計へ引き込むか——1958年の転換は、その速度が問われた例といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
補聴器で食いつないだ創業期
日本光電工業は1951年8月、医学と工学の結合を目的として、荻野義夫氏ら12名で発足した。もっとも、創業当初の唯一の収入源は、トリオ電気研究所から引き継いだ補聴器の製造販売であった。身体障害者福祉法にもとづく交付制度が販路の頼りで、当初の契約先は長野・茨城・青森の3県にとどまる。1回の試聴テストに10人が来場しても3台契約できればよいほうで、ゼロという結果もたびたびであった[1][2]。
装置そのものにも弱点があった。当時の補聴器は米軍放出のミニチュア管を使い、マイクやイヤホーンはロッシェル塩で動作が不安定で、各人の耳形や聴力に合わせた現地調整が欠かせない。工具一式を携えて客先を回る販売は、経費も労力も重かった。売上は年々倍の勢いで伸びていたが、工場の取得や設備の増強といった先行投資が重なり、決算は3期連続の赤字であった[3][4]。
医用電子機器が主力になるまで
本来の目的であった医用電子機器の開発は、創業直後から走っていた。1951年11月には慶応義塾大学の植村操教授らと組んで世界初の電気眼底血圧計の試作に成功し、12月末には全交流直記式脳波装置ME-1Dを完成させている。ただ、いずれも当時はまだ一般的でない装置で、販売ルートの開拓に追われ、すぐには売上へ結びつかない。これらが市場で地位を得たのは1950年代の後半に入ってからであった[5][6]。
転機は1956年7月期に訪れる。売上高が初めて1億円台の1億1,214万円に達し、純利益390万円を計上して創業以来初の黒字となった。売上高比率では医用電子機器が83.5%を占め、内訳は脳波計26.3%、心電計16.1%、眼底血圧計14.1%。同年6月には創業以来の実質的な経営者であった荻野義夫氏が正式に社長へ就き、従業員83名の会社は本格的な発展期を迎えていた[7][8][9]。
決断
主要部品の大部分をトランジスタへ
1950年代の後半、電子工業の側で前提が動いた。量産段階に入ったトランジスタが真空管に代わって電子デバイスの主流となり、医用機器への応用も一挙に広がる。1957年6月には電子工業振興臨時措置法が施行され、医用電子工学の研究・開発が国の後押しを受けた。この変化に合わせ、日本光電工業は1958年、高感度の前置増幅器など一部のものを除いて、従来の真空管の大部分をトランジスタへ置き換えることに成功した[10][11][12]。
置き換えは、部品を一つずつ差し替える改良ではない。心電計も脳波計も回路と筐体が真空管を前提に組まれており、置換は設計そのものの引き直しをともなった。一方で線引きも残した。高感度の前置増幅器など一部は真空管のままとしている。脳波や心電の信号は微弱で初段の増幅には雑音の少なさが要求され、当時のトランジスタでその水準を満たすのは難しかったとみられる[13][14]。
初の中期計画と10部門制
部品の転換は、経営計画とひと組で走った。1958年初め、日本光電工業は創立10周年にあたる1961年8月までを計画年度とする初の中期経営計画「第1次3カ年計画」を実施する。最重要目標は二つで、主要製品を性能・価格の両面にわたって国内随一の商品に仕立てること、特注品や試作品をタイムリーに処理できる能力をもつことであった。前者を優先し、技術部門には品種別、設計部門には機構別の担当者を置いた[15][16]。
組織も同じ年に組み替えた。1958年7月、1956年以来の6部門制を改め、企画室・総務部・経理部・営業部・生産管理部に、工場長直轄の技術部・設計部・製造部、さらに研究部・補聴器部を加えた10部門制へ移行する。設計と技術を分けて置いたところに、置き換えを設計の作り直しとして扱う構えがうかがえる。あわせて標準化委員会を中心に社内規格の確立へ着手し、製品の規格化を進めた[17][18]。
結果
トランジスタ式製品の投入と東証二部上場
成果が製品の形になったのは1960年であった。1月にトランジスタ式1チャンネル心電計MC-1TR、9月にトランジスタ式4チャンネル脳波計ME-40TRを発売している。トランジスタ化がもたらしたのは小型化・軽量化にとどまらない。トランジスタを使う新しい回路、電池を必要としない較正電圧回路、記録用ガルバノメータの小型化といった技術が、置き換えの過程で生まれた[19][20]。
会社の規模も変わった。創立10周年の1961年8月時点で、売上高は10年間で約30倍、従業員数は約16倍、資本金は約30倍に伸びていた。同年9月に資本金を5,500万円へ増資し、11月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場する。ME機器の専門メーカーとしては初の上場であった。荻野社長は10周年の記念小冊子で、医用電子機器の総合メーカーとして一応の形が整った、と述べている[21][22][23]。
FETからICへ、そして1970年代の試練
置き換えで得た設計の資産は、次のデバイスへ引き継がれた。1960年代後半に電界効果型トランジスタが現れるとME機器の開発・製品化に拍車がかかり、トランジスタからICへの発展を背景に市場はさらに広がる。1962年5月には量産拠点として群馬県富岡に光電工業富岡製作所を設け、1968年にはオールトランジスタ・シールドレスの新型脳波計を完成させた。輸出比率も同年時点で約20%に達している[24][25][26]。
数字の伸びも続いた。創立15周年の1966年に売上高16億円、創立20周年の1971年に36億円と、5年で規模が倍になっている。もっとも、その先は平坦ではなかった。競争の激化に春季賃上げ交渉をめぐる長期ストが重なり、1972年8月を期首とする第22期は2,700万円の赤字決算となって十数年ぶりに無配へ転落する。石油危機下の再建は、この後に控えていた[27][28]。
- 電子技術で病魔に挑戦 : 日本光電40年のあゆみ(日本光電工業, 1993)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 日本光電工業 有価証券報告書【沿革】