ダイフクビューラー社・ジャービス・ビー・ウェブ社との技術提携による搬送機械への転換

存続の瀬戸際で、赤字の機械工場はなぜ海外技術に活路を求めたか

時期 1957年12月
意思決定者(推定) 益田乾次郎 専務・のち社長
論点 祖業の縮小と新事業への転換
概要
戦後の存続危機を紙一重で切り抜けた大福機工は、鍛圧機械の在来事業に代わる柱として運搬機械(マテハン)を選んだ。1952年にスイスのビューラー社と、1957年に米国のジャービス・ビー・ウェブ社と相次いで技術提携を結び、ばら物搬送のバルクベヤと自動車工場向けチェン・コンベヤを手にして、搬送機械の専業メーカーへと業態を転換した。
背景
朝鮮戦争の特需も及ばず6,000万〜7,000万円の累積赤字を抱えた大福機工は、社員の約4割を整理し工場を売却して御幣島へ集約した。親会社の兼松から資金を打ち切られ、自らの技術しか頼るものがないなかで、荷役運搬機械への転換に活路を求めた。
内容
兼松専務の益田乾次郎が相手側代表を説き伏せ、1952年に妹尾社長がスイスへ渡ってビューラーと提携した。続いて田口重雄がデトロイトのウェブ社を訪ね、トヨタ車体の縁からトヨタ自動車工業がチェン・コンベヤを採用、1957年12月に技術提携が正式許可された。
含意
二つの提携で搬送機械の専業メーカーへ転じた大福機工は、トヨタの量産ラインを支える事業を得て業績を回復し、1961年に大阪証券取引所へ上場した。祖業の鍛圧技術を鍛造チェンの国産化に生かし、後の空港・EC物流まで広げる搬送機械事業の骨格をこの時期に固めた。
筆者の見解

借りた技術と残した技術

この転換を、海外の先進技術をいち早く取り込んだ機敏さと評するだけでは、経緯を単純にしすぎるとみられる。大福機工がビューラーとウェブの技術を導入できたのは、親会社の兼松から資金を打ち切られ、自らの技術しか頼るものがないところまで追い込まれていたからであった。益田乾次郎氏は相手側代表を説き伏せ、大赤字の会社に世界水準の提携先を引き入れた。退路を断たれた機械工場の選択が、搬送機械への道を開いたとみることができる。

もっとも、提携がただちに安定をもたらしたわけではない。鍛造チェンの国産化には多くの困難がともない、ビューラーとの先約とウェブの提携が抵触しかけたように、二筋の技術を併せ持つには絶えざる調整を要した。それでも、祖業の鍛圧技術と外部の搬送技術を接いだこの時期の判断が、後の空港やEC物流まで広げる専業メーカーの土台になった。技術をどこから借り、何を自前で残すかに、業態転換の成否が表れるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

存続危機と在来事業の行き詰まり

終戦直後の大福機工は存続の瀬戸際にあった。朝鮮戦争の特需も頭上を素通りし、6,000万〜7,000万円の累積赤字を抱えて不渡り寸前まで追い込まれた。赤字圧縮のため社員の約4割を整理し、発祥の大和田工場や泉尾工場を売却して資金を捻出し、生産を本社御幣島へ集約した。親会社の兼松からは今後は資金を出さないと告げられ、頼るものは自らの技術しかない状況であった[1][2]

マテハンへの道は自社開発から始まっていた。戦時下に手がけた機関車(ロコモチーブ)を最初の運搬機械とし、戦後は荷役運搬機械を旗印に総合メーカーを目指して、第一号機のスタッカーから1948年のパイラーへと自製の搬送機を広げていた。だが在来の鍛圧機械の延長で作る国産機だけでは、近代的な搬送システムには届かない。先進技術を持つ海外メーカーとの提携が、転換の鍵になった[3]

決断

二筋の技術提携

最初の提携相手はスイスのビューラー社であった。兼松の専務だった益田乾次郎は来日した相手側代表を説き伏せて交渉をまとめ、1952年11月、人員整理の直後に妹尾社長がスイスへ渡って提携にこぎ着けた。導入したのは、穀物や石炭・セメントなどのばら物をトラフ内のチェンで送るバルクベヤと、可搬式の垂直搬送機SKTで、第一号機は四日市倉庫向けのバルクベヤだった[5]。味の素や八幡製鉄の貯炭場へ納入が広がり、はじめの二年で受注が伸びた[4]

もう一筋の提携は、米国の搬送機械メーカー、ジャービス・ビー・ウェブ社との間で結ばれた。1954年夏、兼松の田口重雄が日本人として初めてデトロイトの本社を訪ね、床下チェンで台車を引くトウベヤや自動車工場向けのチェン・コンベヤに着目した。売り込みは自動車各社に当初阻まれたが、1956年、鋼板矯正機の納入で縁のあったトヨタ車体の小島吉郎を介して、トヨタ自動車工業が採用を決めた。1957年12月、ウェブ社との技術提携が正式に許可され、コンベヤはトヨタ各工場へ相次いで納入された[6][7]

結果

搬送機械専業への転身と業績回復

二つの提携には難所があった。ビューラーとの先約はチェン・コンベヤを他社で手がけない条件を含み、ウェブとの提携がこれに触れた。ばら物と重量物で住み分ける解釈で整理し、両提携を併存させた。チェン・コンベヤの心臓部である鍛造チェンは業界の有力会社が手を出さないなか、大福機工は鍛圧機械で培った技術を頼りに国産化へ挑んだ。祖業の鍛圧技術が、搬送機械への転換を内側から支えた[8][9]

トヨタ向けに量産が始まったコンベヤは、自動車の大量生産の波に乗って受注を伸ばした。1960年には年間売上高12億円・月商1億円の水準に達し、兼松からの借入も完済した[10]。存続を危ぶまれた機械工場は、二つの技術提携を支えに搬送機械の専業メーカーへと姿を変え、1961年10月には大阪証券取引所市場第二部へ上場した。後に空港やEC物流まで広げる搬送機械事業の骨格が、この転換とともに定まった[11]

出典・参考

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