1915年7月、筑豊炭田で財をなした安川財閥の安川敬一郎は、息子の清三郎と第五郎に事業を起こすよう勧め、『資金は出すが、口出しはせぬ』[引用元]と経営を兄弟に委ねた。[1]兄弟が選んだのは、主要な機械がまだ輸入品で国産化の遅れていた電機である。第五郎は東京帝国大学電気工学科を出たのち日立製作所とウェスチングハウスで実地経験を積んだ技術者で[2]、安川財閥の資金を背に福岡県遠賀郡黒崎町の水田地帯へ1万坪の用地を買収し[3]、資本金25万円の合資会社安川電機製作所を興した。[4][5]技師長には、ウェスチングハウスで第五郎の紹介状を書いた酒井安治郎を九州へ招き[6]、機械設備の選定から初期製品の設計までを託している。1916年11月には黒崎に本社工場を竣工し、[7]1919年には資本金125万円の株式会社安川電機製作所を別に設け、翌1920年に両社を合併して事業の基礎を固めた。[8]
発電機・電動機・回転変流機・変圧器[9]をひととおり手がける総合重電の路線は、すでに日立や芝浦製作所(東芝)が市場を押さえており、後発の安川電機は技術でもコストでも歯が立たなかった。良いものを作れば売れるという第五郎の理想は、経営とは結びつかない。1932年までの17年間、安川電機は赤字と無配を続け[10]、安川財閥の中核である明治鉱業の減資・増資による金融支援で、辛うじて存続した。長期にわたって赤字を許容できた背景には、父・敬一郎と明治鉱業の後ろ盾があった。技術を持たない後発が、先発の領域すべてに挑んだことが、長い苦戦を招いた。
1930年12月、昭和恐慌に襲われた安川電機は、約400名の従業員のうち200名を整理した[11]。第五郎にとっては腕利きの技術者や職工を手放す二度目の決断で[12]、本人は身を切られる思いだったと振り返っている。さらに1932年、安川電機は何でも手がける総合重電をあらため、利益の出ない配電盤と変圧器から撤退して、電動機と制御器だけに品目を絞り込んだ。[13]先発に伍して全分野を競うのをやめ、自社に最も適した一品種へ経営資源を集中する選択である。腕のいい技術者を手放してでも品種を減らす、痛みを伴う再建で、ここから量産の利くモータへ全力を傾けた。
量産できるモータへ経営資源を集中し、『安川のモートル』のブランドを掲げたところへ、満州事変を契機とする軍備拡張が追い風となった。[14]電動機と制御器の販売は伸び、創業以来17年続いた累積赤字はようやく解消する。[15]1937年には安川モートルを商標登録し、同年に社長へ就いた第五郎のもとで、安川電機は安川財閥の金庫に頼らず自力で立つ会社になった。創業から22年、広げて敗れ、絞って蘇るという、この会社が以後も繰り返す再建の型が、ここで最初に現れた。安川財閥の支援を受ける後発から、自力で稼ぐ専業へと、安川電機の立ち位置が初めて変わった。
戦後、1949年に東京・福岡両証券取引所へ上場した安川電機は、需要の伸びた家電市場への進出を見送った。[16]人がやるから、儲かるからという理由で間口を広げる経営を第五郎は戒め、競争の相対的に緩い産業用途へ的を絞る。目指したのは、電動力とその制御で他社の及ばない技術を持つ専門企業になることである。[17]総合重電で広げて敗れた経験が、家電という戦後最大の成長市場をあえて避ける判断へつながった。家電の華やかなりし頃、第五郎は『安川はなぜ家庭電器をやらないのか』[引用元]と幾度も尋ねられたが、流行を追う総花的な経営を最後まで退けた。
産業用途で安川電機が育てた技術が、サーボモータである。1958年、回転機の設計者が娘の描いた梅の花から着想し、回転子に直接導体を載せた低慣性のミナーシャモータを発明した[18]。油圧が常識だったサーボ制御をモータで置き換える試みである。1960年には富永和郎常務がフォーチュン誌でゼネラル・エレクトリックの産業エレクトロニクス戦略を読み、安川寛社長が産業用エレクトロニクスへの本格進出を決断する[19]。モータエレクトロニクス・データエレクトロニクス・サーボエレクトロニクスの三本柱が、以後の研究開発の枠組[20]みになった。
1964年、安川電機は九州を離れた初の生産拠点として、埼玉県入間市に東京工場を新設し、サーボモータの量産[21]を始めた。既存のモータ事業は黒崎に残し、新規のエレクトロニクスを物理的に離れた関東で社内ベンチャーのように育てる構えである。人口3万人ほどの武蔵町は工場へ通じる道路を起債で整え[22]、その道はいまも安川通りと呼ばれる。1967年に米国安川電機で海外販売へ出た。[23]家電を避けた選択が、半世紀続くモーションコントロール事業の土台になった。黒崎の汎用モータと関東のエレクトロニクスという二本立てが、ここで定まった。
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|---|---|---|---|---|
| 1915〜1968年後発総合重電の17年赤字から産業用エレクトロニクスへ | 安川財閥の石炭資本を電機国産化へ投じた創業 1915年7月、筑豊炭田で財を築いた安川財閥の安川敬一郎氏が息子の清三郎氏と第五郎氏に事業を勧め、福岡県遠賀郡黒崎町に資本金25万円の合資会社安川電機製作所を興した創業判断。石炭で得た資本を、当時なお輸入に頼っていた電機の国産化へ投じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 安川電機製作所を設立 | ★ | |||
| 合資を吸収合併し現社の基礎を確立 | ★ | |||
| 配電盤と変圧器を捨て「安川のモートル」へ絞る 1932年、創業以来17年赤字を続けた安川電機が、利益の出ない配電盤と変圧器から退き、量産の利く電動機と制御器だけに品目を絞った経営判断。設備を活かせる『安川のモートル』に資源を集中し、累積赤字の解消につなげた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 安川第五郎氏が社長就任 | ★ | |||
| 安川寛 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 安川寛 | 福岡証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 安川寛 | 東京工場を新設しDCサーボモータ量産開始 | ★★ | ||
| 安川寛 | 販売会社の米国安川電機を設立 | ★ | ||
| 安川寛 | NC(数値制御)に本格参入 | ★ | ||
| 1969〜2009年メカトロニクスの確立と銀行管理、グローバル再編 | 安川敬二 | 安川エンジニアリングを設立 | ★ | |
| 安川敬二 | ワイ・イー・データを設立 | ★ | ||
| 安川敬二 | 産業用ロボット「MOTOMAN-L10」を開発 | ★★ | ||
| 安川敬二 | 希望退職者募集を検討し経営再建へ | ★★ | ||
| 安川敬二 | ベクトル制御インバータを開発 | ★ | ||
| 安川敬二 | 欧州安川電機を設立 | ★ | ||
| 安川敬二 | ACサーボモータの本格展開 | ★ | ||
| 菊池功 | 商号を安川電機に変更 | ★ | ||
| 菊池功 | モートマンに追加出資し経営権取得 | ★ | ||
| 菊池功 | 欧州ロボテック社を買収 | ★ | ||
| 中山眞 | 安川電機(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 中山眞 | シーメンスとの合弁でドライブ事業に参入 | ★★ | ||
| 中山眞 | 中・大型回転機部門を分社縮小 | ★★ | ||
| 中山眞 | 最終赤字転落 | ★★ | ||
| 2010〜2022年ROIC経営の2025年ビジョンと中国シフト | 津田純嗣 | 営業赤字・最終赤字転落 | ★★ | |
| 津田純嗣 | 中国統括会社として安川電機有限公司を設立 | ★ | ||
| 津田純嗣 | 本社事務所を再編・ロボット村を新設 | ★ | ||
| 小笠原浩 | 長期経営計画「2025年ビジョン」策定 | ★ | ||
| 小笠原浩 | シーメンスからドライブ合弁を完全子会社化 | ★★ | ||
| 小笠原浩 | 過去最高益を達成 | ★ | ||
| 小川昌寛 | 小川昌寛氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 小川昌寛 | NVIDIAとのパートナー連携でMOTOMAN NEXT展開を表明 | ★ | ||
| 小川昌寛 | 2025年ビジョンの中期経営計画目標を実質下方修正 | ★ |
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事実根拠:出所(安川電機)