この創業の性格は、石炭という成熟産業で得た財閥の資本を、輸入に頼っていた電機の国産化という未成熟な分野へ振り向けた点にあるだろう。父・安川敬一郎氏が『資金は出すが、口出しはせぬ』と経営を委ね、技術者である第五郎氏が電機機械を選んだ構図は、資本の出し手と技術の担い手を分けたうえで、稼ぎ頭の産業とは異なる領域へ資本を移す判断であった。良い物を作れば売れるという理想から出発した点に、技術者が興した会社らしい始まりがうかがえる。
もっとも、その理想は先発の壁の前で17年の赤字となって返ってきた。全品目を手がける総合重電で日立や芝浦製作所に正面から挑んだ選択が、後発の力量を超えていたとみられる。それでも会社が消えずに済んだのは、石炭で得た財閥の資本が損失を吸収し続けたからであった。稼いだ資本をどの産業へ置くか、そしてどこまで理想に付き合うか——安川電機の歴史は、この創業判断が残した問いから始まっている。