安川財閥の石炭資本を電機国産化へ投じた創業
筑豊の石炭で得た資本を、なぜ輸入頼みだった電機の国産化へ振り向けたのか
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- 概要
- 1915年7月、筑豊炭田で財を築いた安川財閥の安川敬一郎氏が息子の清三郎氏と第五郎氏に事業を勧め、福岡県遠賀郡黒崎町に資本金25万円の合資会社安川電機製作所を興した創業判断。石炭で得た資本を、当時なお輸入に頼っていた電機の国産化へ投じた。
- 背景
- 大正の初め、電動機の総馬力が蒸気機関を上回り、電機は電鉄・電気化学・電気冶金など各産業へ広がりつつあった。しかし主要な機械はほとんど輸入品で、国産は数えるほどしかない。第五郎氏は東京帝国大学電気工学科を出て日立製作所とウェスチングハウスで実習した技術者であった。
- 内容
- 安川敬一郎氏は「資金は出すが、口出しはせぬ」と経営を兄弟に委ねた。第五郎氏は経験のある電機機械の製造を選び、黒崎の水田地帯に1万坪の用地を買収し、発電機・電動機・回転変流機・変圧器を一手に扱う総合重電を目指した。技師長にはウェスチングハウス出身の酒井安治郎氏を招いた。
- 含意
- 参入先は日立や芝浦製作所(東芝)が既に押さえ、後発の同社は技術でもコストでも歯が立たなかった。良い物を作れば売れるという第五郎氏の理想は経営と結びつかず、1932年までの17年間、赤字と無配が続いた。
資本の置き場所としての創業
この創業の性格は、石炭という成熟産業で得た財閥の資本を、輸入に頼っていた電機の国産化という未成熟な分野へ振り向けた点にあるとみることができる。父・安川敬一郎氏が「資金は出すが、口出しはせぬ」と経営を委ね、技術者である第五郎氏が電機機械を選んだ構図は、資本の出し手と技術の担い手を分けたうえで、稼ぎ頭の産業とは異なる領域へ資本を移す判断であった。良い物を作れば売れるという理想から出発した点に、技術者が興した会社らしい始まりがうかがえる。
もっとも、その理想は先発の壁の前で17年の赤字となって返ってきた。全品目を手がける総合重電で日立や芝浦製作所に正面から挑んだ選択が、後発の力量を超えていたとみられる。それでも会社が消えずに済んだのは、石炭で得た財閥の資本が損失を吸収し続けたからであった。稼いだ資本をどの産業へ置くか、そしてどこまで理想に付き合うか——安川電機の歴史は、この創業判断が残した問いから始まっている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
輸入頼みの電機と、石炭で得た財閥資本
大正の初め、日本では電動機の総馬力が蒸気機関の総馬力を上回りつつあった。電動機は蒸気機関に代わる動力として、電鉄・電気化学工業・電気冶金工業など各産業への広がりを見せ始めていた。もっとも、主要な機械や器具はまだほとんどが輸入品で、国内の技術者が設計・製造したものは数えるほどしかない。各種工業のなかでも電機製造は欧米の技術に比べてはなはだ幼稚であり、これに取り組むことは時代の最先端をいく試みであった。裏を返せば、輸入に頼っていた機械を国産へ置き換える余地が、この分野には広く残されていた[1]。
この創業に資本を出したのは、筑豊炭田の石炭で財を築いた安川財閥であった。財閥の当主・安川敬一郎氏は、息子の清三郎氏と第五郎氏に事業を起こすよう勧め、「資金は出すが、口出しはせぬ」と経営を兄弟に委ねた。第五郎氏は明治45年7月に東京帝国大学電気工学科を卒業し、翌月に久原鉱業所日立製作所へ入り、その後は渡米してウェスチングハウスで一介の職工として約1年の実習を積んだ技術者であった。石炭で得た財閥の資本と、第五郎氏の電機の素養とが、後発参入の元手になった[2][3]。
決断
電機機械という選択と総合重電への参入
父・安川敬一郎氏から「資本を出してやるから何か仕事をしろ」と促された第五郎氏が選んだのは、経験のある電機の分野であった。当人は電気化学に関心を寄せたが経験がなく、日立製作所とウェスチングハウスでの実習で電機機械の製造なら学問的にも技術的にもいくらかわかると考え、電機機械へ進む道を採った。1915年7月、福岡県遠賀郡黒崎町の水田地帯に1万坪の用地を買収し、資本金25万円の合資会社安川電機製作所を興す。25万円は、父・敬一郎氏が10万円、松本健次郎氏と清三郎氏・第五郎氏がそれぞれ5万円を出す形で組まれ、初代社長には清三郎氏が就いた。技術に明るい第五郎氏が現場を担い、資本と社長の座は財閥の側が押さえる分担であった[4][5][6]。
兄弟が目指したのは、発電機・電動機・回転変流機・変圧器をひととおり手がける総合重電であった。技師長には、ウェスチングハウスで第五郎氏の紹介状を書いた酒井安治郎氏を九州へ招き、機械設備の選定から初期製品の設計までを託している。1916年11月に黒崎の本社工場を竣工し、1919年12月には資本金125万円の株式会社安川電機製作所を別に設け、翌1920年に両社を合併して事業の基礎を固めた。輸入品に依存していた電機の主要機械を、みずから国産する構えである[7][8]。
結果
先発に阻まれた17年の赤字
総合重電の路線は、すでに日立や芝浦製作所(東芝)が市場を押さえており、後発の安川電機は技術でもコストでも歯が立たなかった。日立は第一次世界大戦のブームで機械へ第一歩を踏み出し、1923年の関東大震災では東京の芝浦が大打撃を受けるなか、茨城にあった強みを生かして大躍進を遂げる。その盲点を突けなかった安川電機は、大戦のさなかに工場を始め、学校を出たての無経験な者が失敗を重ねる苦労の連続であった。改良された機械がようやくできるころには、世に不景気の風が吹きまくっていた。良い物さえ作れば売れるという第五郎氏の信念は、経営とは結びつかなかった[9][10]。
1932年までの17年間、安川電機は赤字と無配を続け、安川財閥の中核である明治鉱業の減資・増資による金融支援で、辛うじて存続した。現存する最古の1920年3月期以降も、売上高こそ緩やかに増えたものの、税引前損益は毎期のように損失を計上し続けている。長期にわたって赤字を許容できた背景には、父・敬一郎氏と明治鉱業の後ろ盾があった。石炭で稼いだ財閥の資本が、後発参入の授業料を支え続けた期間にあたる。技術を持たない後発が先発の領域すべてに挑んだことが、この長い苦戦を招いたとみられる[11][12]。
- 日本経済新聞「私の履歴書(安川第五郎)」1958年10月連載
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 安川電機75年史(安川電機製作所, 1990)
- 安川電機 統合報告書(2017年)
- 私の履歴書 経済人 第3巻(日本経済新聞社)