配電盤と変圧器を捨て「安川のモートル」へ絞る

17年赤字の後発が、なぜ総合重電の全品目を畳んで一品種へ集中したのか

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時期 1932年5月
意思決定者 安川第五郎 共同創業者
論点 危機下の品目整理と選択と集中
概要
1932年、創業以来17年赤字を続けた安川電機が、利益の出ない配電盤と変圧器から退き、量産の利く電動機と制御器だけに品目を絞った経営判断。設備を活かせる「安川のモートル」に資源を集中し、累積赤字の解消につなげた。
背景
発電機から変圧器まで手がける総合重電は、先発の日立や芝浦製作所(東芝)に技術でもコストでも歯が立たず、17年間の赤字と無配が続いた。1930年12月には昭和恐慌に襲われ、約400名の従業員のうち200名を整理している。
内容
小工場が大工場と全品目で競っても勝てない。金をかけた設備を活かすなら電動機が最もやりやすいとして、1931年暮に配電盤・変圧器を中止し、電動機と制御器の専門メーカーへ切り替えた。変圧器・配電盤の熟練工を手放す痛みを伴う再建であった。
含意
「安川のモートル」は満州事変後の軍備拡張に乗って伸び、1937年に累積赤字が解消した。同年に安川第五郎氏が社長へ就き、財閥の支援なしで立つ会社になった。広げて敗れ、絞って蘇るという再建の型が、ここで最初に現れた。
筆者の見解

何を捨てるかで立て直す

この判断の核心は、何を伸ばすかではなく、何を捨てるかにあったとみることができる。17年の赤字は、後発でありながら先発と同じ全品目を抱え込んだことの帰結であった。第五郎氏が配電盤と変圧器を中止し、設備を活かせる電動機へ絞ったのは、勝てない領域を手放して初めて資源が一つに集まるという理屈に沿っていた。腕のいい技術者を涙をのんで手放してまで品種を減らした点に、集中が痛みと引き換えでしか成り立たなかった事情がうかがえる。

もっとも、モートルへの集中が実を結んだ背景には、満州事変後の軍需という外部の追い風もあった。絞り込みそのものが黒字転換を保証したわけではなく、集中した先に運よく需要が伸びた面は否めない。それでも、広げて敗れ絞って蘇るというこの往復は、以後の安川電機が銀行管理下のロボット事業や近年のROIC経営に至るまで繰り返していく。捨てる領域を決めることから立て直しが始まる——1932年の選択は、その型を最初に示した点で今日にも通じている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

17年赤字と昭和恐慌

発電機・電動機・回転変流機・変圧器をひととおり手がける総合重電の路線は、先発の日立や芝浦製作所(東芝)が市場を押さえており、後発の安川電機は技術でもコストでも歯が立たなかった。良い物さえ作れば売れるという第五郎氏の書生論は現実の前に崩れ、創業から17年というもの、赤字と無配の経営が続いた。長く赤字を許容できたのは、父・安川敬一郎氏と安川財閥の中核である明治鉱業の後ろ盾があったからであった。石炭で得た潤沢な資本が、稼げない電機部門を毎期支え続けていた[1][2]

追い打ちをかけたのが昭和恐慌であった。1930年12月、安川電機は約400名の従業員のうち200名を整理する。第五郎氏にとっては、腕利きの技術者や職工を手放す二度目の人員整理であり、本人はのちに身を切られる思いだったと振り返っている。変圧器のエキスパートも配電盤の有能な設計者も、それに従う熟練工も抱えていただけに、それを失うことは掌中の玉を失うにひとしい痛手であった。会社の浮沈がかかる瀬戸際で、痛みを避けられないところまで追い込まれていた[3][4]

決断

一品種への集中という決断

第五郎氏がたどり着いた結論は、全品目で大工場と張り合うのをやめることであった。安川電機のような小工場が大工場を相手に何でも造るのでは勝てず、小規模なら自社に適した品目を定めてそこに力を注ぎ、他は整理すべきだと考えた。次に、ではどの品目を選ぶかを検討する。全分野で先発に伍そうとして17年を失った経験が、勝てる領域を一つに定め、残りを切り離す判断へと第五郎氏を向かわせた[5]

選んだのは電動機であった。変圧器や配電盤は特別な設備がなくても造れるが、せっかく金をかけて据えた設備を活かすなら電動機が最もやりやすい。この判断のもと、1931年暮に配電盤と変圧器をいったん中止し、モータ専門の工場へ切り替えた。1932年5月には従来の広範な製品種目を重点的に整理し、多量生産方式を採って電動機と制御器の専門メーカーとなる。腕のいい技術者を手放してでも品種を減らす、痛みを伴う集中であった[6][7]

集中の代償は、人にも及んだ。第五郎氏は、会社浮沈の瀬戸際で未練を口にしてはいられないとして、モーターの担当者を残したほかは全員に辞めてもらう決断を下す。それを言い渡す苦しさは、のちに生涯でいちばん苦難の絶頂だったと述懐するほどであった。変圧器や配電盤を捨てるとは、その品目を支えた設計者や熟練工を手放すことにほかならない。品種の絞り込みは、まず人員の絞り込みとして先に立った[8]

結果

モートルへの集中がもたらした自立

品目を電動機と制御器に絞った安川電機は、「安川のモートル」のブランドを掲げたところへ、満州事変を契機とする軍備拡張が追い風となった[9]。電動機と制御器の販売は伸び、税引前損益は1933年3月期にわずかながら黒字へ転じる。以後は1934年3月期に売上高321万円、1936年3月期に517万円と増収が続き、1937年3月期には売上高679万円・税引前利益118万円へ伸びて、創業以来17年続いた累積赤字はようやく解消した。全品目で敗れた会社が、一品種への集中で採算に乗るまで、およそ5年を要している[10]

1937年、安川電機は「安川モートル」を商標登録し、同年に社長へ就いた第五郎氏のもとで、安川財閥の金庫に頼らず自力で立つ会社になった。それまで技術を担いながら経営の座には就いていなかった第五郎氏が社長へ回ったことは、明治鉱業の減資・増資に支えられる後発から、みずからの稼ぎで立つ専業への切り替わりを意味した。創業から22年、広げて敗れ、絞って蘇るという、この会社が以後も繰り返す再建の型が、ここで最初に現れる。総合重電の全品目を畳んで一品種へ集中した選択が、後発を専業として自立させたとみられる[11]

出典・参考
  • 日本経済新聞「私の履歴書(安川第五郎)」1958年10月連載
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 安川電機75年史(安川電機製作所, 1990)
  • 安川電機 有価証券報告書【沿革】
  • 安川電機 統合報告書(2017年)
  • 私の履歴書 経済人 第3巻(日本経済新聞社)