上村工業本社への薬品部設置とめっき用化学品の製造開始
仕入れた薬品を売り続けるか、処方を自前で持つか——ニッケル高騰が迫った問い
- 概要
- 1957年、株式会社上村長兵衞商店が本社に薬品部を設け、同年9月にめっき用化学品の製造を始めた経営判断。それまで自社製品は研摩剤だけで、めっき薬品は他社から仕入れて売っていた。6代の上村長兵衞社長のもとで、研摩剤に次ぐ二本目の自社製品の柱を立てた。
- 背景
- 光沢めっき自体は1937年ごろ米国で実用化され、日本には終戦後に入っていたが、広まったのは1955年以降であった。押し出したのは朝鮮戦争の特需で、戦略物資のニッケルが高騰し量的にも不足したため、代替と節約から光沢ニッケルめっき法が浮上した。
- 内容
- 本社に薬品部を置いてめっき技術の研究と光沢剤の開発に入り、同じ1957年に光沢ニッケル浴の添加剤の開発へ着手した。翌1958年に最初のニッケル光沢浴としてアサヒライトを発売し、淀川工場にも薬品部を設けた。1961年ころには青化銅光沢剤アサヒカプナーが続いた。
- 含意
- 研摩剤が自社製品でその他は仕入商品という商社的な色合いは、この年を境に薄れた。1960年の機械事業部設置と合わせて研摩剤・薬品・機械の三本がそろい、1969年には社名を上村工業へ改めた。1997年時点でめっき用化学薬品市場の約20%を占めるに至った。
仕入品に寄りかかることの弱さ
研摩剤が自社製品で、その他は仕入商品——上村長兵衞商店が自らをそう書き残せたのは、そこに引け目があったからだとみられる。1957年に動いたのは扱う品目ではなく、処方を持つ側に回るかどうかであった。青化第一銅を月10トンから15トン売っても、作っていたのは千葉の総房化学であり、供給元が方針を変えれば商いはそのまま揺れる。ニッケルの高騰は材料難であると同時に、仕入品に寄りかかる商いの弱さを見せた出来事でもあった。
ただ、1957年に立った柱はまだ細い。アサヒライトは古い型の光沢剤で、自動車産業の要求が厳しくなるとすぐ追いつかなくなり、アサヒベースと二層ニッケルめっきへの作り直しを迫られた。40年後に上村寛也社長が挙げたハードディスク用のシェア80%も、薬品だけでは説明がつかず、機械と液管理装置を併せ持ったことに理由を求めている。1957年の判断が効いたのは、そこで完成したからではなく、作り直しを続ける場所を社内に確保したからである。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
ニッケルの高騰が呼び込んだ光沢めっき
光沢めっきは、めっき業界にとって目新しい技術ではなかった。米国で実用化されたのは1937年から1938年ごろで、日本へ入ったのは終戦後の1947年から1948年ごろにあたる。それでも国内で実際に広まるまでには、そこからさらに10年を要した。押し出したのは朝鮮戦争の特需で、戦略物資であったニッケルが高騰し、量的にも不足して深刻な事態になった。代替材料の開発とニッケルの節約に関心が集まり、光沢ニッケルめっき法が急に浮かび上がった[1]。
光沢めっきが選ばれた理由は二つ重なっていた。一つは、研摩工程で消耗するニッケルが長期には相当の量に達するため、光沢ニッケルめっきに替えれば節約できることである。もう一つは、バフ研摩の工程そのものを省けることであった。社史はこれを一挙両得と書き、のちのマスプロダクション時代にめっきの高速化として生きたと振り返る。材料難への対処が、量産の速さを求める産業界の要求と重なった[2]。
研摩剤だけが自社製品だった商い
当時の株式会社上村長兵衞商店は、めっき資材を扱う商いであった。1848年に大阪・道修町で薬種商として始まり、1922年に医薬品部門を小西伊兵衞商店へ譲ってめっき資材と研摩剤に絞った経緯を持つ。戦後も自社で作っていたのは研摩剤で、薬品は仕入れて売った。1940年代後半に総房化学と組んで一手販売した青化第一銅は月10トンから15トンに達し、社史がホームラン商品と呼ぶほど売れたが、作っていたのは千葉の総房化学であった[3]。
商いの規模は小さくなかった。1957年11月期の売上高は6億9,620万円、純利益は2,408万円で、10年前の1947年11月期の売上高2,222万円から30倍を超えていた。それでも、伸びの多くは他社が作った薬品を運んで売った分にあたる。社史はこの時期の自社を、研摩剤が自社製品でその他は仕入商品という商社的な色合いを持つ会社と書いた。利幅も技術も、作り手の側に残った[4][5]。
決断
1957年、本社に薬品部を置く
1957年、上村長兵衞商店は本社に薬品部を設けた。有価証券報告書の沿革は、同年9月にめっき用化学品の製造を開始したと記す。薬品を扱うこと自体は1940年代から続けており、光沢剤ウエライトや硫酸コバルト、青化亜鉛といった商品を持っていた。変えたのは品揃えではなく、めっき技術の研究を自ら進め、光沢剤を含む薬品類の開発に取り組む部署を社内に構えた点である。社史は、この年を境に自社の独自製品としての大きな柱が築かれたと書く[6][7]。
開発はただちに始まった。同じ1957年に光沢ニッケル浴の添加剤の開発へ着手し、改良を重ねて装飾用・二重ニッケルめっき用・バレル用へ広げた。翌1958年には最初のニッケル光沢浴として添加剤アサヒライトを発売した。ナフタリンスルフォン酸ソーダを主成分とする古い型の光沢剤であったが、ニッケル磨きを省けるため、めっき作業の能率の向上に寄与した。同じ年、淀川工場にも薬品部を置いた[8][9]。
仕入から自製へ回るということ
仕入れて売る商いには、処方も試験設備も要らない。薬品を自社で作るとは、配合を自前で抱え、外れた試作と売れない在庫を引き受ける側に回ることを意味した。決めたのは、1933年12月の株式会社設立から社長を務めた6代の上村長兵衞氏である。上村社長は1918年に国内で初めてトリポリの国産化に成功し、1929年に3Bライムを完成させるなど、輸入品や仕入品を自製へ置き換える仕事を家業の時代から重ねた人物で、社史は根っからの技術者と書く[10]。
自社開発は一品で終わらなかった。1961年ころには青化銅めっき用の光沢剤アサヒカプナーを出し、自社開発品の商標にはすべてアサヒ印を付した。自動車産業が育つにつれてニッケルめっきへの要求は厳しくなり、ピンホールのないこと、展性と延性に富むこと、平滑化の効果が大きいことが求められた。単なる光沢ニッケルめっきでは追いつかず、半光沢のアサヒベースの開発と二層ニッケルめっきの発売へ進んだ[11][12]。
結果
一時の材料高への対処で終わらなかった
1957年の薬品部設置は、特需による一時的な材料高への対応にすぎないとも読める。ニッケルの需給が緩めば、節約という動機の半分は消えるからである。応急の対処と見るなら、需給が戻った時点で薬品の自製をやめる道もあった。しかし上村長兵衞商店はやめなかった。1958年のアサヒライト、1961年ころのアサヒカプナーと自社製品が続き、1960年9月には機械事業部を設けて表面処理用機械の製作にも入った[13]。
1960年に道修町の本社へ置いた技術第二課が機械を担い、新設の機械工場から出たCUF-2型とCUF-1型の全自動めっき装置が川崎航空機工業へ納入された。大手メーカーへの納入はこれが最初で、松下電器産業、フタバ産業、新家工業が続いた。研摩剤・薬品・機械という三つの自社製品がそろい、1969年1月1日には商号を上村工業へ改めた。商店という名が実態と合わなくなったためで、社史は1955年を境にめっき資材の総合メーカーとして飛躍したと説明する[14][15]。
40年後に立っていた場所
1997年12月11日、上村寛也社長は大阪での講演で自社の位置を数字で示した。表面処理用薬品とめっき用化学薬品の市場550億円に対して約20%、研磨剤市場30億円に対して約22%、機械と制御装置の市場240億円に対して17%である。とりわけアルミハードディスク基板用の無電解ニッケルめっき液は、1996年度の国内市場40億円に対して販売33億円、シェアは80%に達していた[16][17]。
ハードディスクのめっき処理には十数社が参入した。上村社長は自社が勝ち残った理由を、めっきの薬品と機械、そしてめっき液を制御する装置の三つを同業者のなかで唯一手がけていたことに求めた。顧客にトラブルが起きたとき、原因がめっき液なのか機械なのか液管理装置なのかが分かりにくくなり、三種を扱う同社への要望が増えたという。三本のうち二本は、1957年と1960年に立てた[18]。
- 上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』(上村工業, 1983年)
- 証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」(1997年12月11日・大阪での講演)
- 上村工業 有価証券報告書【沿革】