信越化学工業米ゼネラル・エレクトリック社との技術提携によるシリコーンの事業化と、肥料中心の売上構成の入れ替え

売上の8割を肥料が占める会社が、なぜ5年間ほとんど売上に寄与しない事業を抱え続けられたか

時期 1953年1月
意思決定者(推定) 小坂順造(社長)・小坂徳三郎 副社長
論点 事業構成の転換と新素材への参入
概要
1953年、信越化学工業は米ゼネラル・エレクトリック社と珪素樹脂(シリコーン)の生産技術提携を契約し、同年4月にシリコーンの本格的な生産販売を始めた経営判断。売上の8割を肥料が占める会社が、企業化から5年ほとんど売上に寄与しない事業を抱え続け、10年で事業構成を入れ替えた。
背景
戦後の化学工業は政府の重点産業として肥料の復興から再出発し、化学肥料部門は1949年に戦前の最高水準まで生産を戻した。信越化学工業も化学肥料緊急増産令の指定工場として石灰窒素を増産したが、1948年以降の統制廃止で販売戦が激しくなる。昭和30年度でも肥料・カーバイド部門が売上の82.8%を占めていた。
内容
終戦直後から磯部で続けたシリコーン研究を土台に、技術提携と同時にパイロットプラントを基にした生産設備を拡充新設した。1954年末には粗製シラン年産360トンの設備を完成させて販売価格を引き下げ、輸入シリコーンへの依存を下げる。原料は珪石と、直江津工場で天然ガスと塩素から作るメチルクロライドであった。
含意
1955年に7割3分を占めていた肥料部門は、1963年11月期には純粋の肥料で19%まで下がり、塩化ビニール・苛性ソーダ43%、シリコン関係17%という構成へ入れ替わった。シリコーンで手に入れた塩素とメチルクロライドの系統から塩ビと高純度シリコンが続き、後年の三本柱の最初の一本となった。
筆者の見解

売れない5年を数えなかったこと

1953年に契約したシリコーンが収益に結びついたのは1960年ごろで、需要が本格的に伸びたのはさらに10年あとであった。小坂徳三郎氏が「ほとんど商品とは言えない状態」と振り返った5年を、肥料が売上の8割を占める会社が抱え続けた点に、この判断の重さがある。技術を買う決断そのものより、買ったあと売れない期間を数えずに続けた経営のほうが、実際には難しかったとみられる。

ただし、シリコーンだけで事業構成が入れ替わったわけではない。1963年11月期に最大の43%を占めたのは塩化ビニールと苛性ソーダで、シリコン関係は17%にとどまる。シリコーンが会社を作り替えたというより、シリコーンで手に入れた塩素とメチルクロライドの系統が塩ビや高純度シリコンを次々に呼び込んだとみるほうが実情に近い。一本の新事業ではなく、原料の連なりが肥料会社を化学会社に変えたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

肥料に偏って再出発した戦後の化学工業

戦後の化学工業は硫安の復興から再出発した。食糧不足が社会不安に直結する情勢のもとで、政府はGHQの同意を得て化学肥料の増産指令を出し、電力・石炭・鉄鋼と並ぶ重点産業として保護を加える。傾斜生産方式による資材と資金の優先配分を受け、化学肥料部門は1949年に戦前の最高水準まで生産を回復した。化学工業全体が、再び肥料に偏った構造をとりながら拡大した時期にあたる[1][2]

信越化学工業も1946年の化学肥料緊急増産令で直江津・武生の両工場が指定工場となり、石灰窒素の増産にあたった。ところが1948年以降は肥料統制の廃止で販売戦が激しくなり、設備の合理化と生産の多角化を迫られる。1951年12月に直江津工場、翌1952年7月に武生工場へ熔成燐肥の設備を新設し、各種配合肥料の生産にも着手したが、いずれも肥料の内側での手直しにとどまった[3][4]

売上の8割を肥料が占める体質

常務取締役の西川荘二郎氏は、1976年の証券アナリスト協会での講演で、戦後の同社を「つくれば売れる時代」と振り返っている。「酸性土壌の中和には石灰窒素が最適」という農林省の奨励もあり、食糧増産が至上命令の時代に会社の基盤が固まった。ただしその頃の売上構成は80%が肥料で、残りは合金鉄とカーバイドにすぎない。基盤を固めた事情が、そのまま一本足の事業構成を作っていた[5]

構成比はシリコーン参入後もしばらく動かなかった。1973年の講演で示された部門別売上高では、昭和30年度の総売上32億100万円のうち肥料・カーバイド部門が26億5,100万円で82.8%を占め、合金鉄が13.4%、合成樹脂を含む化学品部門は1億2,200万円の3.8%にとどまる。一方、1938年に群馬県磯部町へ建てた金属試験所が、のちの技術の母体になっていた[6][7]

決断

ゼネラル・エレクトリック社との技術提携と1953年の量産開始

1953年、信越化学工業は米ゼネラル・エレクトリック社と珪素樹脂(シリコーン)の生産技術提携を契約した。研究そのものは終戦直後から磯部で始めており、契約と同時に従来のパイロットプラントを基にして生産設備を拡充新設し、同年4月には本格的な生産販売に入っている。技術を導入してから設備を考えたのではなく、自前の試作を先に持っていたことが、この速さを支えていた[8][9]

1954年末には粗製シラン年産360トンの設備を完成させて販売価格を引き下げ、輸入シリコーンへの依存を下げにかかる。同じ年にドイツのバイエル社とも技術協定を結んだ。1955年時点の社長は小坂順造氏、副社長は小坂徳三郎氏で、事業は石灰窒素・熔成燐肥・合金鉄・珪素樹脂の四つ。同時代の記録は、化学肥料・合金鉄・珪素樹脂の三大支柱を確立したと書いている[10][11]

5年間は売上に寄与しない事業を続ける

事業化してからが長かった。小坂徳三郎氏は後年、「企業化後も5年間は、ほとんど商品とは言えない状態で、売り上げに寄与するどころではなかった」と語っている。それでも開発をやめず、1960年ごろからようやく収益に結びつき始めた。シリコーン樹脂が業界で注目され、需要が実際に大きく伸びたのは1970年代に入ってからで、着手から需要までに30年以上が空いていた[12][13]

待てた理由の一つは、原料の系統が自社の内側で閉じていた点にあるとみられる。シリコーンの原料は珪石で、石油化学とは無縁の系統に立つ。直江津工場では天然ガスと塩素からメチルクロライドなど四種の塩化物を作り、そのメチルクロライドを磯部工場へ運んでシリコーンの原料にあてた。肥料で使ってきたカーバイドと電気炉の技術が、そのまま次の製品につながっていた[14]

結果

10年で入れ替わった売上構成

1964年5月の経済時代は、この入れ替わりを数字で押さえている。1955年に会社全体の7割3分を占めていた肥料部門は、1963年11月期の決算でカーバイド・アロイ・化学肥料が31%、塩化ビニールと苛性ソーダが43%、シリコン関係が17%、その他9%という構成に変わった。純粋の肥料部門だけを取れば、すでに20%を割って19%へ下がっていた[15]

同誌はこれを、この10年間に体質改善が進んで経営が安定してきたことの証明だとし、株式市場でも高度成長が買われていると書いている。実際、シリコーンで扱い始めた塩素とメチルクロライドの系統から製品が連なる。1951年の熔成燐肥、1953年のシリコーンに続き、1957年に塩化ビニルと苛性ソーダ、1959年にクロロメタン、1960年にタンタル・スーパーシリコン・ポバールと企業化が重なった[16][17]

旧製品は売上の12.2%へ

1973年の講演では、昭和30年当時すでにあった製品を旧製品と呼び、昭和30年度に売上高の96.2%を占めた旧製品が48年度には12.2%へ、52年度には10.7%へ下がる見込みだと説明された。1976年の講演では、肥料はわずかに売上の5%を占めるにすぎないと語られている。同じ講演で、米国の関連会社シンテック社が年産10万トン体制を15万トン体制へ広げる増設工事に入ったことも報告された[18][19]

シリコーンはその間に主力へ育った。1973年の講演は、磯部の専門工場で作るシリコーンの売上高が1971年度に前年度比130%の伸びを示し、利益率がきわめて高い最も有望な製品の一つだと述べている。1980年に社長の小田切新太郎氏が「1955年当時、うちでつくっていたものは、現在ほぼゼロ」と語った時点で、ファインケミカルは売上高の4割を占めていた[20][21]

出典・参考
  • 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「信越化学工業」(1955年)
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻 化学「肩で風切る肥料」
  • 証券アナリストジャーナル 1973 第11巻第4号「信越化学工業 新しい分野に挑戦する」
  • 証券アナリストジャーナル 1976 第14巻第11号「信越化学工業 技術の向上による可能性の追求」
  • 経済時代 1964年5月号「化学工業ブームで躍進する信越化学」
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)
  • 日経ビジネス 1980年9月22日号「ケーススタディ 信越化学工業 絶妙の連携『植林型技術+小資本』」

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