カネカ の歴史

更新: Author:

創業 1949年
母体 鐘淵紡績からの分離独立
創業地 大阪市
創業
1949年9月1日、鐘淵紡績の企業再建整備計画に基づき、繊維以外の全事業を引き受けて鐘淵化学工業が資本金2億円で大阪に発足した。譲り受けた中身はか性ソーダ・搾油・石鹸・洋紙・化粧品と散らばり、どれも会社の中核にはなりえない。翌10月に東京証券取引所へ上場し、1950年7月には塩素を自製するソーダ設備と戦時中の合成ゴム研究を組み合わせて、日本で初めて塩化ビニルを工業化した。月産60トンで始めた設備は1955年3月に月産400トンへ達する。1957年にはアクリル繊維カネカロンの製造を始め、社名をカネカへ改めたのは2004年である。
決断
過半を取れる大きさの市場だけを選び、取れなくなれば素材の側へ退いてきた。1967年に塩ビモノマーの原料をカーバイド法から石油化学方式へ替えし、カーバイド法との1kgあたり20円の原価差を取り込んでいる。人工毛では世界生産の8割をカネカロンが占めながら、1985年8月に直営を含め140店を持つフォンテーヌをアデランスへ譲渡した。売り場を譲っても素材そのものの需要は増えるという判断である。500億円前後のニッチで過半を確保し、3位へ後退したら撤退するという規律が、以後の事業の出入りを決める基準になった。
現況
四つのユニットは、売上と利益率で首位が一致しない。2026年3月期の連結売上高8,116億円のうちマテリアルが3,272億円で最大だが、セグメント利益率は7.6%にとどまる。上回るのはヘルスケアの829億円・17.9%である。ニュートリション2,059億円、クオリティ・オブ・ライフ1,943億円が続き、最大と最小の売上差は4倍に収まる。1998年にカネカソーラーテックを設立して100億円超を投じした太陽電池は主力にならず、薄膜シリコンからヘテロ接合結晶シリコンへ作り替えられた。売り先も発電所ではなく、瓦一体型のVISOLAやプリウスPHEVのルーフガラスという建材・車載の部材へ絞られている。
競合
同じ塩ビで出発した各社は、規模を追うか降りるかで三方向へ分かれた。信越化学工業は米シンテックの完全子会社化とテキサス立地で垂直統合を進めて世界首位となり、東ソーは汎用のクロールアルカリと塩ビを基盤事業として磨き続けた。逆に日本ゼオンは2000年に水島での生産を打ち切り、祖業の塩ビから撤退している。カネカはいずれも選ばず、塩ビを残したまま発泡樹脂・食品用油脂・医薬中間体・医療機器へ広げた。ただしこの形は、500億円規模のニッチが存在し続けることを前提にしている。太陽電池が発電所向けから建材と車載へ移ったように、市場の側が動けば同じ規律が増設の理由にも撤退の理由にもなる。
カネカ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

設立ストーリー 鐘淵紡績の第二会社として発足し塩化ビニールで自立の足場を得るまで (1949年〜)

繊維以外の全事業を引き受けた第二会社

1949年9月1日、鐘淵紡績の企業再建整備計画[1]の認可に基づき、繊維部門を除く全事業を引き受けて鐘淵化学工業が発足した。資本金は2億円、本社は大阪市東区本町[2]に置いた[3]。継承した事業はか性ソーダ、搾油、石鹸、食油、酵母、食品類、洋紙、和紙、エナメル電線[4]、化粧品、澱粉におよぶ。化学会社の看板を掲げてはいたものの、実態は紡績会社が戦中戦後に抱え込んだ雑多な事業の受け皿であり、法的には新会社でありながら、事業そのものは鐘紡の歴史と同じだけ古かった。1949年10月には東京証券取引所などに株式を上場[5]している。

  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1949年9月1日に鐘淵紡績の企業再建整備計画に基づき分離独立して設立された
    • [5]1949年10月に東京証券取引所等へ株式を上場した
  • カネカ 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【沿革】
    • [2]設立時の資本金は2億円
    • [4]継承事業はか性ソーダ・搾油・石鹸・食油・酵母・食品類・洋紙・和紙・エナメル電線・化粧品・澱粉
  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [3]設立時の本社は大阪市東区本町4の27

発足後の10年は、引き受けた事業を減らす作業に費やされた。アミノ酸は1952年6月に製造を中止し、澱粉は1953年3月、洋紙は同年7月にそれぞれ譲渡、和紙[6]も1954年8月に整理している。整理を免れたのはか性ソーダ、食油、酵母の3つで、それ以外は順次たたんだ。1967年になると、鐘紡から引き継いだ事業で残っていたのは苛性ソーダと石鹸だけになっている。[7]同時に既設設備の改善増強と新規事業の立ち上げを進めており、引き算と足し算を同じ時期に行っている。石鹸、電解苛性ソーダ、BHCの設備を増強し、自家発電設備[8]を整えて動かしたのもこの時期である。1951年8月には資本金を4億円へ増やし、1954年度の総売上高は61[9]億円に達した。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [6]アミノ酸は1952年6月に製造中止、澱粉は1953年3月、洋紙は1953年7月に譲渡、和紙は1954年8月に整理
    • [8]整理したのはアミノ酸・澱粉・洋紙・和紙で、石鹸・電解苛性ソーダ・BHCの設備増強と自家発電設備の整備稼働を並行して実施した
    • [9]1951年8月に資本金を4億円とし、1954年度の総売上高は61億円
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [7]その後、か性ソーダ・食油・酵母以外の事業を順次整理し、1967年時点で鐘紡から引き継いで続いていたのは苛性ソーダと石鹸だけであった

会社の輪郭が定まらない時期は長く続き、無配の期を何度も重ねている。設立から18年たった1967年になっても、鐘淵化学工業は世間から鐘紡の一部門と見られていた。同社の常務取締役だった大澤孝氏は[10]、証券アナリスト協会の講演でその状況を率直に語っている。資本金は43億8,000万円に増え、1967[11]年の年初からその年の夏までに約2,000万株が一般株主から金融機関へ移り、従来分と合わせて発行株式の50%近くが安定株主の手に渡った。独立した会社としての体裁は、株主構成の面から先に整った。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [10]1967年時点の常務取締役は大澤孝
    • [11]1967年時点の資本金は43億8,000万円で、約2,000万株が一般株主から金融機関へ移り安定株主が50%近くになった
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1949年9月1日に鐘淵紡績の企業再建整備計画に基づき分離独立して設立された
    • [5]1949年10月に東京証券取引所等へ株式を上場した
  • カネカ 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【沿革】
    • [2]設立時の資本金は2億円
    • [4]継承事業はか性ソーダ・搾油・石鹸・食油・酵母・食品類・洋紙・和紙・エナメル電線・化粧品・澱粉
  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [3]設立時の本社は大阪市東区本町4の27
    • [6]アミノ酸は1952年6月に製造中止、澱粉は1953年3月、洋紙は1953年7月に譲渡、和紙は1954年8月に整理
    • [8]整理したのはアミノ酸・澱粉・洋紙・和紙で、石鹸・電解苛性ソーダ・BHCの設備増強と自家発電設備の整備稼働を並行して実施した
    • [9]1951年8月に資本金を4億円とし、1954年度の総売上高は61億円
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [7]その後、か性ソーダ・食油・酵母以外の事業を順次整理し、1967年時点で鐘紡から引き継いで続いていたのは苛性ソーダと石鹸だけであった
    • [10]1967年時点の常務取締役は大澤孝
    • [11]1967年時点の資本金は43億8,000万円で、約2,000万株が一般株主から金融機関へ移り安定株主が50%近くになった

日本で最初の塩化ビニール工業化と塩素からの連鎖

1950年7月、鐘淵化学工業は塩化ビニール[12]の工業化に日本で初めて成功した。戦時中に軍の要請で進めていた合成ゴムの研究で得た技術と経験を[13]、遊休設備の上で組み直したものである。当初の生産能力は月産60トンにすぎなかったが、数次の拡張を経て1955年3月には月産400トンに達した[14]。技術導入ではなく自社技術によったこと、そして塩素の供給源であるソーダ部門を自前で持っていたことが、この事業を会社の中心に据える条件になった。その後も技術の改良と合理化を重ね、質と量の両面で国内トップメーカーの一つに数えられるまでになる。

  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1950年7月に塩化ビニール樹脂の製造を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [13]戦時中から研究してきた合成ゴムの技術と経験を生かし自社技術によって塩ビを企業化した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [14]塩化ビニールは1950年7月にわが国で初めて工業化に成功したもので、当初月産60トン、1955年3月現在で月産400トン設備

塩化ビニールは単体の樹脂としてだけでなく、川下へ次々と枝分かれした。1950年7月には合成樹脂部門から塩ビの供給を受けて塩化ビニール電線の製造を始め、1952[15]年1月には塩化ビニリデンと塩化ビニールの共重合ラテックスを紙に塗った塩ビ加工紙カネプルーフ・ペーパーを送り出している。防湿紙、防油紙として化学肥料や農薬の包装に回った。1953年4月には可塑剤と安定剤を加えて加工業者がそのまま成型できる塩ビコンパウンドを、1953年2月にはショートニングの製造[16]を始め、食品にも足を伸ばした。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [15]1950年7月から塩化ビニール電線、1952年1月から塩ビ加工紙カネプルーフ・ペーパーの製造を開始した
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1953年2月にショートニング、1953年4月に塩ビコンパウンドの製造を開始した

塩素を出発点にした事業の並べ方は、この時期に固まった。1948年から製造していたBHCは[17]当初DDTに押されたものの、設備の拡充と品質改良によって原沫では業界1位となる。1954年7月にはジフェニールを塩素化した五塩化ジフェニール、商品名カネクロールを月産100トンの設備で製造開始した[18]。合成電気絶縁油や熱媒可塑剤として使われるもので、1955年時点で日本で製造していたのは鐘淵化学工業だけである[19]。塩素を使う工業が増えるにつれてソーダ部門も拡張し、1955年3月時点で苛性ソーダは月産1,000トン設備[20]を持つに至った。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [17]BHCは1948年から製造を開始し、原沫で業界第一位にあった
    • [18]1954年7月にカネクロール(五塩化ジフェニール)を月産100トン設備で製造開始し、わが国では唯一のものであった
    • [20]1955年3月末時点で苛性ソーダは月産1,000トン設備を有した
    • [19]PCBの国内製造は1954年(昭和29年)に開始され、製造したのは鐘淵化学工業と三菱モンサント化成の2社である(三菱モンサント化成の製造開始は後年)
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1950年7月に塩化ビニール樹脂の製造を開始した
    • [16]1953年2月にショートニング、1953年4月に塩ビコンパウンドの製造を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [13]戦時中から研究してきた合成ゴムの技術と経験を生かし自社技術によって塩ビを企業化した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [14]塩化ビニールは1950年7月にわが国で初めて工業化に成功したもので、当初月産60トン、1955年3月現在で月産400トン設備
    • [15]1950年7月から塩化ビニール電線、1952年1月から塩ビ加工紙カネプルーフ・ペーパーの製造を開始した
    • [17]BHCは1948年から製造を開始し、原沫で業界第一位にあった
    • [18]1954年7月にカネクロール(五塩化ジフェニール)を月産100トン設備で製造開始し、わが国では唯一のものであった
    • [20]1955年3月末時点で苛性ソーダは月産1,000トン設備を有した
    • [19]PCBの国内製造は1954年(昭和29年)に開始され、製造したのは鐘淵化学工業と三菱モンサント化成の2社である(三菱モンサント化成の製造開始は後年)

高分子化学が売上の6割を占めるまでの積み上げ

1957年7月にアクリル系合成繊維カネカロン、1964年6月[21]にMBS樹脂カネエース、1965年7月に発泡スチレン[22]樹脂カネパールと、主力になる製品が10年足らずの間に並んだ。いずれも自社技術による企業化である。1966年下期の売上構成を見ると、合成樹脂が34%、カネカロンが14%、電線が15%で[23]、高分子化学部門だけで63%を占めた。設立時に引き受けた油脂や酵母は、すでに会社の中心から外れている。既存部門でも製品は増えており、1961年12月に高級製菓用油脂、1967[24]年6月に塩ビ系特殊樹脂の製造を始めた。

主力の塩ビは1967年時点で公称月産能力6,600トンに達し、日本ゼオン[25]と並ぶ国内首位のメーカーとなった。世界の生産能力で見ると11位から12位に位置する。ABS樹脂も月産900トンで国内首位を占め、宇部サイコンの750トン、東洋レーヨンの600[26]トンを上回った。もっとも、ABSは業界全体で大幅な能力過剰にあり、鐘淵化学工業が伸びたのはSタイプではなくBタイプ、つまり塩ビと混合して透明性と耐衝撃性[27]を与える型を持っていたからである。同じ市場で同じ製品を売って勝ったわけではない。欧米の食品衛生規格の試験に通れば容器用途で需要が一気に伸びる、というのが当時の見立てであった。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [25]1967年時点の塩ビ公称月産能力は6,600トンで、日本ゼオンと並ぶわが国トップメーカー、世界では11〜12位
    • [26]ABS樹脂の月産能力は鐘淵化学900トンで国内首位、宇部サイコン750トン、東洋レーヨン600トンが続く
    • [27]当社のABSはSタイプとBタイプがあり、Bタイプは塩ビと混合して透明性と耐衝撃性を与えるもので大きく伸びていた

製品そのものと同じ重さで語られたのが販売網である。加工メーカーに対する技術指導と技術サービスを徹底し[28]、販売と技術を分けない体制を敷いた。この売り方は塩ビ以外の樹脂を出すたびに効き、後に発泡スチレンで後発として参入したときも、販売力[29]に不安はないと言い切る根拠になっている。製品を作る力ではなく、作った製品を使いこなさせる力を競争の軸に置いた点で、同時期の石油化学各社とは組み立てが違った。発泡スチレンでは積水スポンジと油化バディッシュに後れを取り、参入時には特許に触れると問題にされたものの、米英仏に加えて日本でも自社特許が成立したことを根拠に、解決[30]できると見ていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [28]販売即技術という観点から販売先の加工メーカーへの技術指導・技術サービスを徹底していた
    • [29]発泡スチレンの販売について「塩ビと同様、合成樹脂の販売力は定評のある所であり全く問題はない」と述べた
    • [30]発泡スチレンでは積水スポンジ・油化バディッシュに対し当社は後発で、事業開始時に特許にふれるとして問題になったが、アメリカ・イギリス・フランスで当社の特許が成立しており(日本でも成立)自信をもって解決できるとした
    • [21]1964年に企業化されたカネカのMBS樹脂の商品名は「カネエースB」で、技術的にはABS樹脂の製造から派生した
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1957年7月にカネカロン、1964年6月にモディファイヤー(MBS樹脂)、1965年7月に発泡スチレン樹脂の製造を開始した
    • [24]1961年12月に高級製菓用油脂、1967年6月に塩ビ系特殊樹脂の製造を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [23]1966年下期の売上構成は合成樹脂34%・カネカロン14%・電線15%で高分子化学部門が63%
    • [25]1967年時点の塩ビ公称月産能力は6,600トンで、日本ゼオンと並ぶわが国トップメーカー、世界では11〜12位
    • [26]ABS樹脂の月産能力は鐘淵化学900トンで国内首位、宇部サイコン750トン、東洋レーヨン600トンが続く
    • [27]当社のABSはSタイプとBタイプがあり、Bタイプは塩ビと混合して透明性と耐衝撃性を与えるもので大きく伸びていた
    • [28]販売即技術という観点から販売先の加工メーカーへの技術指導・技術サービスを徹底していた
    • [29]発泡スチレンの販売について「塩ビと同様、合成樹脂の販売力は定評のある所であり全く問題はない」と述べた
    • [30]発泡スチレンでは積水スポンジ・油化バディッシュに対し当社は後発で、事業開始時に特許にふれるとして問題になったが、アメリカ・イギリス・フランスで当社の特許が成立しており(日本でも成立)自信をもって解決できるとした

原料転換と鹿島 ── 石油化学の大型化への合流

1960年代後半、塩ビモノマーの原料をカーバイドから石油に切り替える議論が業界を覆った。鐘淵化学工業はナフサを原料とするウルフ法とエチレンを原料とするオキシクロリネーション法を比べ、技術者を海外に派遣して国内の原料事情を調べたうえで、1967年にオキシクロリネーション法の採用を決めた[31]。米国ストーファー社の技術を導入し、高砂に51億円を投じて1968年10月の完成を目指す計画である[32]。カーバイド法で1キログラムあたり58円だった金利込み工場原価は、転換後に38[33]円まで下がる見込みだった。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [31]ウルフ法とオキシクロリネーション法を比較しオキシクロリネーション法の採用を決定、米国ストーファー社の技術を導入する計画であった
    • [32]建設資金はユーティリティー関係設備を含めて51億円を予定し、翌年10月の完成を目指していた
    • [33]カーバイド法の金利込み工場原価58円/kgに対しオキシクロリネーション法は38円/kg

この決定は一社の設備投資にとどまらない。通商産業省が想定していた塩ビモノマーセンターは徳山、千葉、水島、高岡の4か所で[34]、そこに高砂が加わって5か所となり、さらに三菱油化の鹿島が予定されて計6か所になった。エチレンプラントの最低規模基準が1967年に年産30[35]万トンへ引き上げられ、誘導品の設備も連動して大型化していた時期にあたる。塩化ビニール樹脂は、カーバイド方式から石油化学方式への転換と設備の大型化が進んだ結果、1970年にはポリエチレンを抜いて最大のシェア[36]を占めるプラスチックとなった。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [34]通産省が考えていた塩ビモノマーセンターは徳山・千葉・水島・高岡の4つで、これに高砂が加わり、さらに三菱油化の鹿島が予定されていた
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [35]エチレン・プラントの最低規模基準は昭和42年(1967年)に30万トンへ引き上げられ、誘導品プラントの大型化につながった
    • [36]塩化ビニールモノマーはカーバイド方式から石油化学方式への転換と設備大型化の結果、昭和45年(1970年)にポリエチレンをしのいで最大シェアのプラスチックとなった

1970年11月に鹿島工場が竣工[37]する。三菱油化のエチレン30万トン計画に対応して、信越化学工業、旭硝子[38]、鐘淵化学工業、旭電化工業の4社が共同出資した鹿島塩ビモノマーが、この時期の塩ビセンターを代表している。単独で原料設備を抱えるのではなく、共同出資と輪番投資でナフサ手配と資金調達の負担[39]を分け合う方式が、当時の石油化学では一般的だった。これらの塩ビセンターは、そのほとんどが1970年から1971年にかけて設備を完成させている[40]。同年12月には海外子会社カネカベルギーを設立し、欧州でも生産を始めた。

  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1970年11月に鹿島工場が竣工し、1970年12月に海外子会社カネカベルギーN.V.を設立した
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [38]三菱油化のエチレン30万トン計画に対応し信越化学工業・旭硝子・鐘淵化学工業・旭電化工業が共同出資して鹿島塩ビモノマーを設立した
    • [39]エチレン30万トン計画は丸善石油化学と三菱油化の単独実施を除きすべて共同出資や輪番投資の形をとり、ナフサ手配・資金調達などの負担を分け合った
    • [40]代表的な塩ビセンターはそのほとんどが昭和45〜46年(1970〜1971年)に設備を完成させた
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [31]ウルフ法とオキシクロリネーション法を比較しオキシクロリネーション法の採用を決定、米国ストーファー社の技術を導入する計画であった
    • [32]建設資金はユーティリティー関係設備を含めて51億円を予定し、翌年10月の完成を目指していた
    • [33]カーバイド法の金利込み工場原価58円/kgに対しオキシクロリネーション法は38円/kg
    • [34]通産省が考えていた塩ビモノマーセンターは徳山・千葉・水島・高岡の4つで、これに高砂が加わり、さらに三菱油化の鹿島が予定されていた
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [35]エチレン・プラントの最低規模基準は昭和42年(1967年)に30万トンへ引き上げられ、誘導品プラントの大型化につながった
    • [36]塩化ビニールモノマーはカーバイド方式から石油化学方式への転換と設備大型化の結果、昭和45年(1970年)にポリエチレンをしのいで最大シェアのプラスチックとなった
    • [38]三菱油化のエチレン30万トン計画に対応し信越化学工業・旭硝子・鐘淵化学工業・旭電化工業が共同出資して鹿島塩ビモノマーを設立した
    • [39]エチレン30万トン計画は丸善石油化学と三菱油化の単独実施を除きすべて共同出資や輪番投資の形をとり、ナフサ手配・資金調達などの負担を分け合った
    • [40]代表的な塩ビセンターはそのほとんどが昭和45〜46年(1970〜1971年)に設備を完成させた
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1970年11月に鹿島工場が竣工し、1970年12月に海外子会社カネカベルギーN.V.を設立した

カネカロンの用途転換と、カネクロールが招いたカネミ油症

カネカロンはアクリル系合繊で国内の先陣を切ったが、その後にエクスラン、ボンネル、カシミロン[41]と繊維専業の大手が相次いで参入した。同じ土俵で戦っても勝ち目がないと判断した鐘淵化学工業は、専業各社が手を付けない隙間に商品を寄せる。難燃性という特性を生かしてカーテンとカーペットの室内装飾用に力を入れ[42]、燃えない性質を寝具にも回した。さらに特殊な処理で人毛に近い性質を持たせ、かつらの材料に用いた。合繊を使ったかつらは各社が出したものの、1967[43]年の時点で市場に残っていたのはカネカロン製だけである。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [41]カネカロンはアクリル系繊維でわが国のトップを切ったが、その後エクスラン・ボンネル・カシミロンなど専門メーカーが進出した
    • [42]難燃性を生かしカーテン・カーペットなど室内装飾用と寝具に力を入れ、特殊処理で人毛に近づけてかつらの材料に用いた
    • [43]いろいろな合繊を使ったかつらが発売されたが1967年時点で残っているのはカネカロンのかつらだけであった

同じ時期、鐘淵化学工業の製品が大規模な健康被害を引き起こした。1968年10月、西日本を中心に広域にわたって食用油による健康被害が発生する。厚生労働省の説明によれば、カネミ倉庫が製造したライスオイルに、脱臭工程の熱媒体として使われていた鐘淵化学工業製のカネクロールが混入し[44]、ポリ塩化ビフェニールとダイオキシン類の一種であるポリ塩化ジベンゾフランなどが製品に入った。1954年に日本で唯一の製品として世に出した熱媒可塑剤が、14年後に食品の製造工程で漏れ出したことになる。被害者の届け出は1969年7月時点で1万4,627人にのぼり[45]、同年2月にはカネミ倉庫と同社長、そして鐘淵化学工業を相手取る訴訟が起こされた。1970年11月には国を被告とする[46]全国統一訴訟が続いている。

訴訟は長く続き、原告が国に対して地裁と高裁で勝訴したのち[47]、鐘淵化学工業とは和解に至った[48]。事件を単独の過失として見ると全体を取り違える。PCBによるカネミ油症事件は、阿賀野川のメチル水銀汚染[49]、四日市の大気汚染、神通川のカドミウム汚染、水俣湾のメチル水銀汚染と並んで、重化学工業化を急いだ産業構造そのものが問われた一連の公害の一つに数えられている。1974年4月には化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律が施行[50]され、新しい化学物質を世に出す手続きが根本から変わった。同じ時期、塩化ビニール樹脂は相次ぐ増設で1971年春までに年産[51]200万トンに達する一方で需要が停滞し、業界は1972年1月から不況カルテルに入っている。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [41]カネカロンはアクリル系繊維でわが国のトップを切ったが、その後エクスラン・ボンネル・カシミロンなど専門メーカーが進出した
    • [42]難燃性を生かしカーテン・カーペットなど室内装飾用と寝具に力を入れ、特殊処理で人毛に近づけてかつらの材料に用いた
    • [43]いろいろな合繊を使ったかつらが発売されたが1967年時点で残っているのはカネカロンのかつらだけであった
    • [44]1968年10月に西日本を中心に広域で発生し、カネミ倉庫社製ライスオイルに鐘淵化学工業(現カネカ)社製のカネクロールが混入した
    • [45]1969年7月における中毒の届け出者数は1万4627人、認定患者は913人であった
    • [46]カネミ倉庫らを訴えた「福岡民事訴訟」は1969年2月に提訴され、1970年11月に提訴されたのは国を相手取る「小倉民事訴訟」(別名「カネミ油症全国統一民事訴訟」)である
    • [48]1987年に原告とカネミ倉庫の間で和解が成立し、原告は約500万円の債権を強制執行しないことが確認された
    • [47]原告は地裁と高裁で国に勝訴し、鐘化とは和解した
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [49]PCBによるカネミ油症事件は阿賀野川のメチル水銀汚染・四日市の大気汚染・神通川のカドミウム汚染・水俣湾のメチル水銀汚染とともに公害問題として表面化した
    • [50]1974年4月から化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律が施行された
    • [51]塩化ビニール樹脂は相次ぐ増設で昭和46年(1971年)春までに年産200万トンに達する一方で需要が停滞し、昭和46年12月に不況カルテルの結成を公正取引委員会へ申請、昭和47年(1972年)1月から実施した

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

カネカの沿革1949〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1949〜1959年鐘淵紡績の第二会社として発足し塩化ビニールで自立の足場を得るまで鐘淵紡績から繊維部門以外の全事業を譲り受けて設立
東京証券取引所等に上場
塩化ビニール樹脂の製造を開始。以後これを中核に合成樹脂事業を組み立てていく★★
ショートニングの製造を開始
食品事業に参入★★
塩ビコンパウンドの製造を開始
アクリル系合成繊維「カネカロン」の製造を開始★★
1960〜1979年塩ビとスチレン系樹脂とカネカロンによる総合化学会社への転換高級製菓用油脂の製造を開始
モディファイヤー(MBS樹脂)の製造を開始
発泡樹脂事業に参入
塩ビ系特殊樹脂の製造を開始
塩ビモノマー原料のカーバイド法からの転換と、高砂へのオキシクロリネーション法設備の建設

1967年、鐘淵化学工業(現カネカ)が塩化ビニールモノマーの原料をカーバイドから石油に改め、エチレンを原料とするオキシクロリネーション法の採用を決めた経営判断。米国ストーファー社の技術を導入し、高砂に51億円を投じて1968年10月の完成を目指した。

詳細を読む
★★★
ベルギーにカネカベルギーN.V.を設立
香辛料の製造を開始
医薬事業に参入★★
医薬品バルク ユビデカレノン(コエンザイムQ10)の製造を開始★★
変成シリコーンポリマーの製造を開始★★
1980〜1999年ニッチ首位の規律と脱・石油化学への組み替え塩ビサッシの製造を開始
海外子会社カネカテキサスCorp.を設立
超耐熱ポリイミドフィルムの製造を開始
女性かつら直営会社フォンテーヌのアデランスへの譲渡と、人工毛カネカロンの素材供給への専念

1985年8月、鐘淵化学工業が女性用かつら『フォンテーヌ』を販売する全額出資子会社フォンテーヌ株式会社の株式全額を、男性かつら専業のアデランスへ譲渡した経営判断。買収費用は10億円強と推定された。同社が新納眞人社長のもとで進めていた事業の入れ替えの一つである。

詳細を読む
★★★
医療機器の製造を開始
子会社カネカメディックスを設立
液晶関連製品の製造を開始
住宅建築工事を開始
カネカソーラーテックの設立と、薄膜シリコン太陽電池への100億円超の投資

1998年10月、鐘淵化学工業(現・カネカ)が全額出資子会社カネカソーラーテック株式会社を設立し、1999年10月に電力用太陽電池の製造を始めた経営判断。住宅用太陽電池への進出に100億円以上を投じ、薄膜シリコン太陽電池事業に参入した。

詳細を読む
★★★
武田正利薄膜シリコン太陽電池事業に参入★★
2000〜2025年カネカへの改称と4つのソリューションユニットへの組み替え武田正利国内で機能性食品素材の販売を開始
武田正利海外子会社カネカニュートリエンツL.P.を設立
武田正利「鐘淵化学工業」から「カネカ」へ商号を変更
大西正躬カネカテキサスCorp.がカネカハイテックマテリアルズInc.を合併
菅原公一サンビックに追加出資し子会社化
菅原公一ユーロジェンテックS.A.に出資し子会社化
菅原公一アジア統括会社として鐘化企業管理(上海)有限公司を設立
菅原公一食品事業部門の販売会社4社をカネカ食品に再編
角倉護欧州統括会社としてカネカヨーロッパHDカンパニーN.V.を設立
角倉護セメダインを公開買付けによる株式取得により子会社化★★
田中稔プライム市場に移行
田中稔セメダインを株式交換により完全子会社化
藤井一彦北海道苫東工場を新設
藤井一彦EndoStream Medical Ltd.を子会社化
出典・参考

免責事項およびポリシー