カネカ塩ビモノマー原料のカーバイド法からの転換と、高砂へのオキシクロリネーション法設備の建設

ナフサか、エチレンか——資本金を上回る51億円を主力製品の原料工程に投じた1967年の選択

時期 1967年7月
意思決定者(推定) 鐘淵化学工業 取締役会
論点 塩ビモノマーの原料転換と製法の選択
概要
1967年、鐘淵化学工業(現カネカ)が塩化ビニールモノマーの原料をカーバイドから石油に改め、エチレンを原料とするオキシクロリネーション法の採用を決めた経営判断。米国ストーファー社の技術を導入し、高砂に51億円を投じて1968年10月の完成を目指した。
背景
通商産業省は1967年にエチレンプラントの最低規模基準を年産30万トンへ引き上げ、誘導品の設備も連動して大型化した。塩ビモノマーはコンビナートに組み込まれ、カーバイド方式から石油化学方式への転換が業界全体で進んだ。塩ビで国内首位にありながら、鐘淵化学工業の高砂は通産省が想定した4か所のモノマーセンターに入っていなかった。
内容
ナフサを原料とするウルフ法とエチレンを原料とするオキシクロリネーション法を比べ、海外に技術者を派遣して国内の原料事情を調べたうえで後者を採った。1キログラムあたりの金利込み工場原価はカーバイド法の58円に対し38円で、差は20円と見込まれた。
含意
51億円は当時の資本金43億8,000万円を上回る。1970年11月には共同出資の鹿島塩ビモノマーに連なる鹿島工場が竣工した一方、塩ビ樹脂は1971年から自主減産に入り、1972年1月には不況カルテルが実施された。
筆者の見解

自社技術の会社が、原料工程だけを買った意味

塩ビの企業化を自社技術で成し遂げ、それを国内首位の根拠としてきた会社が、原料の製法だけは米国ストーファー社から買った。判断の材料は1キログラムあたり58円と38円という原価の比較で、資本金43億8,000万円を上回る51億円を高砂へ投じている。自前の技術で押したのは樹脂までで、原料工程は他社から買って早く据えた。国内のナフサ供給が不足しはじめた時期にコンビナートのエチレンへ寄せた読みは、当時の材料で見るかぎり筋が通っている。

ただ、20円という原価差は、大澤孝常務取締役自身が稼働当初はそこまで届かないと断った数字であった。高砂の完成から数年で塩ビ市況は崩れ、1971年の自主減産を経て業界は1972年1月の不況カルテルに入る。誤算は転換の是非ではなく、同じ計算を各社が同時に済ませたところにある。6か所のセンターが揃えば、原価が下がっても差はつかない。原料を石油へ移して得たのは他社への優位ではなく、大型化した業界に残るための条件であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

カーバイドで築いた国内首位

鐘淵化学工業が塩化ビニールを企業化したのは1950年で、戦時中から続けた合成ゴム研究を転用した自社技術による。1967年には公称月産能力6,600トンに達し、日本ゼオンと並ぶ国内首位のメーカーとなった。世界で見ても11位から12位に入る。国内の塩ビ生産は1966年度に53万3,901トン、出荷は53万9,677トンで、塩化ビニール協会は内需が年平均7〜9%で伸びると推定していた。伸びる市場で首位を占める会社が、その原料の作り方を入れ替える[1][2]

通商産業省は石油化学協調懇談会の方式でエチレンプラントの最小規模を年産10万トンと定めていたが、1967年にこの基準を30万トンへ引き上げた。基幹設備が大きくなれば誘導品の設備も連動して大きくなる。塩ビモノマーやアンモニアはコンビナートに本格的に組み込まれ、カーバイド方式から石油化学方式への転換と設備の大型化が業界全体で進んだ。カーバイドから作る従来の製法に留まれば、原料の段階で新設の大型設備に差をつけられる[3]

需要の読みと、通産省が絞った拠点

需要が伸び続けるという読みが、原料転換を後押ししていた。塩化ビニール協会の需要調査委員会は1967年度の内需を61万2,000トンと推定したが、大澤孝常務取締役は、この推定は低めに抑えられており1967年度は69万トンに届くという見方もあると述べている。塩ビの年間需要が100万トンを超えるのはそう遠い先ではない、という見通しが前提にあった。米国でも1965年に84万トンだった需要が、1970年には159万トンになると推定されていた[4]

もう一つ、行政が絞り込んだ拠点の構想があった。通商産業省が従来想定していた塩ビモノマーセンターは徳山、千葉、水島、高岡の4か所で、大型の原料設備を置く場所をここに限る考えである。ここに入らなければ、モノマーを他社から買うか、割高なカーバイド法を続けるかしか残らない。塩ビで国内首位にありながら、鐘淵化学工業の高砂はこの4か所に含まれていなかった。樹脂まで一貫して自社で作ってきた会社にとって、原料を他社に握られる構図は選びにくい[5]

決断

ウルフ法とオキシクロリネーション法の比較

鐘淵化学工業が検討した案は二つあった。ナフサを原料とするウルフ法と、エチレンを原料とするオキシクロリネーション法である。同社はかなり長い時間をかけて両者を比べ、海外に技術者を派遣し、今後の国内の原料事情がどういう姿になるかを調査した。そのうえで1967年、オキシクロリネーション法を採用すると決めて発表した。塩素の扱いではなく、主力製品の原価を左右する原料をナフサとエチレンのどちらにするかを決める選択である[6]

ナフサ側の事情は、このとき既に危うくなっていた。石油精製業にとってナフサは低収益の製品で値上げ要求が絶えず、1965年以降は国内供給の不足が表面化する。同年1月には初の輸入ナフサが中近東から入り、1970年には輸入依存率が25.3%に達した。ウルフ法は、この不安定な原料に主力製品の原価を直結させる。大澤常務が語った「今後国内での原料事情」の調査には、この先行きをエチレンと引き比べる作業が含まれる[7]

20円の原価差と、51億円の設備

決め手として示されたのは、1キログラムあたりの原価であった。カーバイド法では原料用役費52円に工場固定費4円と金利2円が乗り、金利込みの工場原価は58円になる。オキシクロリネーション法では原料用役費が31円に下がり、固定費5円と金利2円を足しても38円で収まる。差は20円である。原料そのものの単価はカーバイドの28円に対しエチレンが30円と逆に高く、差は用役を含めた原料工程の費用で生じている[8][9]

米国ストーファー社の技術を導入する計画を立て、高砂では建設の準備に既に取りかかっていた。投じる資金はユーティリティー関係設備を含めて51億円、完成目標は1968年10月である。当時の資本金は43億8,000万円で、一つの原料設備に資本金を上回る額を積む計算になった。高砂が加われば塩ビモノマーセンターは5か所となり、三菱油化の鹿島を含めて6か所に増える。通産省が四つに絞った拠点に、自力で一つを加える投資である[10][11]

結果

単独の高砂から、共同出資の鹿島へ

高砂の設備に続いて、鐘淵化学工業は共同出資の側にも回った。1970年11月には鹿島工場が竣工した。三菱油化のエチレン30万トン計画に対応し、信越化学工業、旭硝子、鐘淵化学工業、旭電化工業の4社が共同出資した鹿島塩ビモノマーは、この時期の塩ビセンターの代表例にあたる。エチレン30万トン計画の多くは共同出資や輪番投資の形をとり、ナフサ手配と資金調達の負担を分け合った。単独で51億円を負う高砂のやり方は、3年のうちに業界の標準ではなくなった[12][13]

転換の効果が出る時期は、市況の崩れと重なった。塩化ビニール樹脂は相次ぐ増設で1971年春までに年産200万トンに達した一方、需要は1970年秋から停滞し在庫が急増する。業界は1971年初めから大幅な自主減産に入り、同年12月に不況カルテルを公正取引委員会へ申請して1972年1月から実施した。エチレンでも1972年3月に12社が申請している。原料ナフサ価格は1970年10月から上昇に転じ、原料を石油に移した各社は、その値動きを直接引き受ける立場になった[14][15]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号「鐘淵化学工業の現状と将来」(大澤孝)
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】

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