高砂のオキシ法塩ビモノマー工場建設(1967年・カネカの決断)

更新:
カネカ:業績の推移
売上高(億円)当期純利益率(%)
塩ビ原料の石油系エチレンへの切り替えとナフサ方式の見送り1967年6月、鐘淵化学工業(現カネカ)は塩化ビニールモノマーの製法を、エチレンを原料とするオキシクロリネーション法(オキシ法)へ切り替えると決めた。技術は米国のスタウファー・ケミカル社から導入し、同年8月に技術導入契約に調印した。社長は1949年9月の会社発足から務める中司清氏であった。

何をなぜ決めたか:塩ビ原料の石油系エチレンへの切り替えとナフサ方式の見送り

概要

1967年6月、鐘淵化学工業(現カネカ)は塩化ビニールモノマーの製法を、エチレンを原料とするオキシクロリネーション法(オキシ法)へ切り替えると決めた。技術は米国のスタウファー・ケミカル社から導入し、同年8月に技術導入契約に調印した。社長は1949年9月の会社発足から務める中司清氏であった。

新工場は高砂工業所に建てた。1967年12月に着工し、11か月の工期で1968年11月に完成した。年産能力は12万トンで、国内で最大、世界でも2番目の規模である。モノマー関係だけで50億円、関連工事を含めると百数十億円を投じ、資本金43億8,000万円を大きく上回る投資となった。

背景

塩ビは鐘淵化学工業の中心事業である。1950年7月に塩化ビニル樹脂の製造を始め、1967年には公称月産能力6,600トンで日本ゼオンと並ぶ国内最大手にあった。原料はカーバイドで、1962年11月に米国ユニオン・カーバイド社とEDC法の技術導入契約を締結し、高砂でカーバイド法とEDC法の2本立てでモノマーを生産していた。

カーバイドは値下がりが見込めず、塩ビのコストを下げる余地は小さかった。一方、通商産業省は1967年にエチレン設備の認可基準を1工場年産30万トンへ引き上げ、エチレンは安く手に入る見通しが立った。冷却して液化したエチレンをタンカーで運ぶ技術も確立し、臨海の高砂へ海上で原料を運べるようになった。

内容

石油系への切り替えでは2つの方式を比べた。ナフサを分解する米国ウルフ社の方式は、手持ちのカーバイド法とEDC法の設備を生かせる半面、商業運転をしている企業がまだ無かった。エチレンを使うオキシ法は、エチレンの輸送に課題を残す一方、スタウファー社に操業の実績があった。当時はナフサ方式を推す意見が強く、社内の議論を経てオキシ法を採った。

1キログラムあたりの金利込み工場原価は、カーバイド法の58円に対しオキシ法は38円と見積もられた。ただし稼働の初めはエチレンの価格が高く、償却の負担も重いため、20円の差には届かない見込みであった。高砂ではエチレンタンカーを用船し、2,000トンのタンク2基を設け、地域のコンビナートに加わらずに石油化学へ進んだ。

含意

新工場が本格運転に入ると、1969年1月11日に大阪工場のモノマー工程と電解工場を閉鎖し、カーバイド法とEDC法のモノマー設備をすべて止めた。1950年に大阪で始めた塩ビの原料は、18年7か月で石油化学に置き換わった。売上高は決定した期の1968年3月期の344億円から1971年3月期には685億円へほぼ倍増し、当期純利益は9億円から38億円になった。

ただし同じ転換は業界の全体で進んだ。塩ビモノマーの拠点は通商産業省が想定した4か所に高砂と鹿島が加わって6か所になる見通しで、鐘淵化学工業も鹿島塩ビモノマーへ共同出資し、1970年11月に鹿島工場を竣工させた。塩ビ樹脂の能力は1971年春に年産200万トンに達し、業界は1972年1月から不況カルテルに入った。1972年3月期の当期純利益は14億円へ減少した。

いつ何が起きたか12件
筆者考察
考察

考察:商業運転の実績で選んだ製法

なぜナフサ方式ではなくオキシ法だったのか。ウルフ法なら、手持ちのカーバイド法とEDC法の設備をそのまま使えたはずである。それでもオキシ法を選んだのは、商業運転の実績を重く見たからだと思われる。ウルフ法を動かしている企業はまだ無く、オキシ法はスタウファー社がすでに操業していた。資本金を上回る投資で前例の無い方式を試せば、失敗したときに会社が持たない。しかも30万トンの認可基準でエチレンは安くなる見込みがあり、液化して船で運ぶこともできた。原料の制約が解けた時点で、実績のある方式に乗り換えた判断は筋が通っている。

もっとも、原価で20円の差が出るという計算は、鐘淵化学工業だけのものではなかった。塩ビモノマーの拠点は、通商産業省が想定した4か所に高砂と鹿島が加わって6か所になる見通しであった。各社が同じ時期に石油化学へ移れば、原価が下がっても他社との差は開かない。鐘淵化学工業自身も鹿島塩ビモノマーに出資し、高砂と鹿島の2か所に生産の拠点を持った。業界全体で能力が積み上がれば、値崩れの危険も大きくなる。原料の転換は他社に先んじる手段であると同時に、業界から取り残されないための条件でもあったのだろう。

結果からみると、オキシ法への転換は部分的な成功であった。工場は着工から11か月で完成し、1969年1月には大阪のモノマー工程を閉じて原料の転換を終えた。売上高は1968年3月期の344億円から1971年3月期の685億円へほぼ倍増し、当期純利益は9億円から38億円に伸びた。転換そのものは狙いどおりに進んだ。しかし塩ビ樹脂は1972年1月から不況カルテルに入り、1972年3月期の当期純利益は14億円に減少した。原価の引き下げは他社も同時に済ませており、高砂の工場は他社に対する優位ではなく、業界に残るための条件にとどまった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

数字で見る

カネカ:売上高と当期純利益の推移

カネカ:売上高と当期純利益の推移

売上高(億円)当期純利益率(%)

売上高は決定した期の344億円から3年で685億円へほぼ倍増

カネカ:売上高と当期純利益の推移
(億円)売上高当期純利益備考
1962年3月期1550
1963年3月期170△2
1964年3月期21331964年にEDC法の塩ビモノマー工場が完成
1965年3月期2394
1966年3月期2364
1967年3月期2915
1968年3月期34491967年6月にオキシ法の採用を決め、12月に高砂で着工
1969年3月期404141968年11月にオキシ法工場が完成。1969年1月に大阪のモノマー工程を閉鎖
1970年3月期54426
1971年3月期685381970年11月に鹿島工場が竣工
1972年3月期617141972年1月から塩ビ樹脂の不況カルテルを実施
出所:会社年鑑 1963年版・1967年版・1971年版・1976年版(単体、上期・下期を合算)
出所:会社年鑑 1963年版・1967年版・1971年版・1976年版(単体、上期・下期を合算)
参考文献

参考文献

参考

  • 変革と創造 鐘淵化学二十年史(鐘淵化学工業、1970年)「高分子路線の確立」第一節 塩化ビニールの飛躍
  • 変革と創造 鐘淵化学二十年史(鐘淵化学工業、1970年)「大型総合化学会社への挑戦」第二章 井上社長の就任
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)第3表
  • 会社年鑑 1971年版・1976年版
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学」
  • 変革と創造 鐘淵化学二十年史(鐘淵化学工業、1970年)「鹿島工場」
  • 会社年鑑 1963年版・1967年版・1971年版・1976年版(単体、上期・下期を合算)
  • 鐘淵化学工業 社史「変革と創造 鐘淵化学二十年史(1970年9月発行)」
  • カネカ 有価証券報告書「第102期(2026年3月期)【沿革】」

次に読む決断

同業他社の状況(総合化学)

免責事項およびポリシー