三洋証券資本金に匹敵する三百億円を投じた、世界最大の取引フロアの建設
準大手証券が情報化に会社を賭けた——1988年、江東区塩浜
- 概要
- 1988年、三洋証券は東京・江東区塩浜にトレーディングセンターを建てた。約6400平方メートルのワンフロアに端末3000台を並べ、最大800人のディーラーを収容できる規模で、ひとつの取引フロアとしては世界最大とされた。投資額は約300億円で、破綻時の資本金約398億円に匹敵する。
- 背景
- 1985年12月に44歳で社長に就いた土屋陽一氏は、野村證券で17年を過ごしたのち1981年に家業へ戻った三代目である。学生時代に野村證券会長の奥村綱雄氏から二十年先を読んで方向を示す経営を学んだと語り、自らの布石として情報化を選んだ。
- 内容
- 土屋氏は21世紀の初めに個人が三台ほどのコンピューターを持つようになると読み、ホールセールをトレーディングセンターで、リテールをホームトレードで担う組み立てを描いた。証券業務が人手から機械に移るという読みそのものは、その後の三十年でほぼ現実になっている。
- 含意
- バブル崩壊後、この投資は償却負担として残った。積極採用と店舗拡大による固定費も重なり、1997年3月期まで六期続けて赤字を計上する。設備の費用は相場に関係なく毎期出ていくのに対し、それを賄う株式委託手数料は相場に連動した。
読みは当たり、時計が合わなかった
この投資を無謀と片づけるのは易しいが、判断の中身は当時としても後から見ても筋が通っている。証券業務が人手から機械へ移ること、個人が自分の端末から市場に参加するようになること、その両方が現実になった。1999年秋に株式委託手数料が完全に自由化されたあと、生き残った証券会社が実際に投じたのも同種の設備だった。誤っていたのは方向ではなく、到達までの時間と、そこまで会社を保たせる収益の水準である。
三洋証券が抱えた問題は、投資の性質と収益の性質が噛み合っていなかったところにある。装置産業の費用構造を持ちながら、収入は相場任せの手数料に依存していた。四大証券であれば同じ設備を持っても、投信や引受や海外業務が費用を分担する。準大手が同じ設備を持てば、費用を分担する事業がないまま固定費だけが残る。規模の差を技術で埋めるという発想は、埋める前に費用が先に来るという順序の問題を抱えていた。三百億円の使い道が誤っていたというより、三百億円を回収するまで会社が保つ前提のほうが誤っていた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
野村で十七年を過ごした三代目
土屋陽一氏は1941年11月29日に東京で生まれ、1964年に慶応義塾大学商学部を出て野村證券に入った。株式部、公社債部、外国証券部、梅田支店営業課長、金融法人部次長と証券業務全般を経験し、1981年3月に野村證券を退社して4月に三洋証券へ移っている。同年9月に国際営業本部長、12月に副社長となり、1985年12月に社長へ就いた。祖父が開いた店を父が会社にし、その会社を継ぐまでに他社で十七年を過ごしたことになる[1]。
野村證券に入った経緯そのものが、この経営者の考え方を決めている。1963年春、慶応の学生だった土屋氏は同級生二人とともに、当時の野村證券会長・奥村綱雄氏を自宅に訪ねた。三人を前に奥村氏は、野村證券はインベストメント・バンクになる、証券業界もこれからどんどん大きくなる、ぜひ野村に来なさいと語ったという。土屋氏は父の陽三郎氏に相談しないまま野村證券を受け、あとで人事部長が陽三郎氏に息子かと問い合わせている[2]。
決断
二十年先を読んで方向を示す、という経営観
社長就任の直後、土屋氏はこの体験の意味を語っている。入社してみると現実の仕事と奥村氏のインベストメント・バンク論の間には相当な隔たりがあると感じたが、裏切られたとは思わなかった。奥村氏は二十年先を読んで布石を打っていた、いまそれが現実になってきている、会社の方向が明確に示されたことが現場の社員にとってどれだけ励みになったか分からない、と述べている。記事はこれを受けて、三洋証券のトップとなった土屋氏が自分の布石として情報化戦略を選んでいる、と結んだ[3]。
情報化への投資はまず海外から形になった。1984年、ジュネーブに現地法人「三洋セキュリティーズ・アンド・ファイナンス」を置いている。そして1988年、東京・江東区塩浜にトレーディングセンターを建てた。約6400平方メートル、サッカー場が入る広さのワンフロアに端末を3000台並べ、最大800人のディーラーを収容できる規模で、ひとつの取引フロアとしては世界最大とされた。投じた額は約300億円にのぼる。破綻時の資本金が約398億円だったから、資本金に近い額を一つの建物と一つのシステムに集中させたことになる[4][5]。
巨大な取引フロアは、それ自体が目的ではない。土屋氏は21世紀の初めには個人が三台ほどのコンピューターを持つようになると読み、法人向けのホールセール業務をトレーディングセンターに集約する一方、個人向けのリテールはホームトレードで広げる組み立てを描いていた。売買を人が電話で取り次ぐ商いから、機械が処理する商いへ移るという読みであり、その方向そのものは、その後の三十年でほぼ現実になっている。準大手が四大証券に先んじてこの設備を持てば、規模の差を技術で埋められるという計算も働いたとみられる[6]。
結果
相場が戻らない六年と、毎期出ていく費用
竣工の翌年に株価はピークを打ち、以後の相場は戻らなかった。設備とシステムの費用は相場が悪くても毎期出ていくのに対し、それを賄う株式委託手数料は売買代金に連動する。バブル期の積極採用と店舗拡大が積み上げた人件費も同じ性質を持っていた。三洋証券は1997年3月期まで六期続けて赤字を計上している。1997年秋の時点では、上場する証券会社25社のうち17社が中間期に経常赤字を出しており、収益源を株式売買以外に育てられなかったのは業界に共通する事情でもあった[7][8]。
会社が消えたあとも建物は残った。2000年、本社別館は東洋情報システム(現TIS)がデータセンターとして取得している。大量の端末と回線を収容するために設計された床と電源が、そのまま別の情報産業に引き継がれた形になる。証券会社が装置産業になるという読みは正しく、ただしその装置を先に持った会社が最初に倒れた[9]。
- 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
- ダイヤモンド・オンライン 2023年6月7日 深澤献「破綻した三洋証券、東洋一のトレーディングセンターで描いた証券界の未来」
- 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」