トレーディングセンター建設(1988年・三洋証券の決断)

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論点兜町を離れて売買部門を集約するか
三洋証券:業績の推移
売上高(億円)経常利益率(%)
兜町から4キロ離れた塩浜への、売買部門の一フロア集約

何をなぜ決めたか:兜町から4キロ離れた塩浜への、売買部門の一フロア集約

概要

1988年5月、三洋証券は東京・江東区塩浜に総工費80億円のトレーディング専用ビルを完成させた。4階建てで床面積は3,830坪、3・4階を吹き抜けにしたワンフロアは1,130坪(約3,700平方メートル)、天井までの高さは16メートルある。

800人のトレーダーを収容できる設計だったが、移転した時点で働く人員はその半分に満たず、翌1989年春でも約400人だった。世界最大級のトレーディング専用ビルとされた。

背景

三洋証券の源流は、1910年に土屋鋭太郎氏が開いた土屋商店にある。1971年10月に日東証券が江口証券・大一呉証券と合併して総合証券となり、1973年1月に三洋証券へ改称した。

土屋陽一氏は土屋陽三郎会長の子で、1981年3月に17年勤めた野村證券を退社して三洋証券へ移り、同年12月に副社長、1985年12月に社長となった。就任後は情報化を経営の軸に位置づけ、『情報を一刻でも早く正確に把握し、営業にどう活かすか。その鍵を握るのはネットワークだ』と語っている。

内容

それまで株式・債券・外国為替の売買部門は本社の各階に分かれていた。これを一つのフロアに集め、互いの動きを目で見てわかるようにしてリスク管理も徹底する狙いだった。立地には兜町から4キロ離れた塩浜を選び、大河内一彦取締役業務本部長は『我々のような準大手は限られた予算の範囲で他社との差別化を図ろうとしたら、兜町を離れるデメリットもあえて選択しなければならない』と、立地を捨てた理由を明かしている。

デスクごとの個別空調や美術品も備えた。土屋陽一社長は、このセンターを『世界の機関投資家と24時間ホットラインで結び、利益を生み出す工場にしたい』という構想を掲げていた。

含意

相場が崩れた1990年には、三洋証券が自慢のトレーディング専用ビルを売却に出したといううわさが業界に流れた。翌1991年には、トレーディング部門の月間コストは数億円ともいわれ、機関投資家相手の商いが減少するなかで無用の長物になりつつあるとみられた。

1994年3月期まで3期連続の赤字となり、同期の赤字は74億円に達した。土屋陽一社長は1994年に退任し、赤字は6期にわたって続いた。

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考察:読みは当たり、時計が合わなかった
考察

考察:読みは当たり、時計が合わなかった

この投資は、準大手が規模の差を立地ではなく情報網で埋めようとした賭けだったと読める。大手なら兜町に広い床を確保できるが、三洋証券は兜町を捨てて、売買部門を一つの床に集める広さと、全国を結ぶネットワークを取った。証券の売買が人の足から端末と回線の上へ移るという方向は、その後の業界が実際にたどった道である。誤っていたのは方向ではなく、到達までの時間と、そこまで会社を保たせる収益の水準だったのだろう。

もっとも、800人を収容できる床に約400人しか座っていなかったという事実は、需要を数年先に置いた設備の重さを物語っている。機関投資家相手の商いが減少すれば、床も回線も費用だけを生む。四大証券であれば引受や投信や海外業務が同じ固定費を分担するが、準大手にはその厚みがない。規模の差を技術で埋めるという発想は、埋める前に費用が先に来るという順序の問題を抱えていたと思われる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

参考文献

参考
  • 日本の経営者 平成5年版(時評社, 1992年)
  • 野村證券vs住友銀行激突の日(天山出版, 1988)
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号
  • 日経ビジネス 1989年1月30日号
  • 歴史に翔ける 三洋証券七十年史(松井経済研究所, 1981)
  • 日経ビジネス 1986年3月31日号
  • Decide 1990年(8巻7号)
  • Decide 1991年(9巻8号)
  • Decide 1994年(12巻3号)
  • Decide 1997年(15巻9号)
  • 日経ビジネス 1987年5月25日号
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号

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