東京・兜町で土屋鋭太郎氏が株式現物商『土屋鋭太郎商店』を開いたのは1906年である[1]。東京株式取引所の一般取引員として有価証券の売買を業とし、店の名は創業者その人の名前だった。創業年については日本大百科全書が1910年とする[2]のに対し、1955年に刊行された『会社銀行八十年史』の日東証券の項は明治39年と書いている。後者は会社自身が提出した記載に基づく同時代の記録であり、本稿は1906年を採る。株式の現物商は、売買の相手方から信用を得ることそのものが元手になる商いであり、店に創業者個人の名を掲げることに意味があった。
先代の死去にともない事業を継いだのは土屋陽三郎氏だった。1943年9月6日、資本金100万円の土屋證券として株式会社に改組し、陽三郎氏が社長に就いている[3]。翌1944年3月、戦時の企業統合により角〆証券を併合し、社名を日東証券に改めた[4]。創業から38年で商号から創業家の名が消えたことになるが、これは合併の副産物であって理念の表明ではない。統制のもとで証券業者の集約が進み、併合した相手と自分のどちらの名も残さない中立の社名が必要になった、というだけの話である。もっとも、この一度目の改名によって、社名を替えながら会社の規模を広げる道筋が開かれた。以後この会社は二度、合併のたびに名を替える。
陽三郎氏がどういう証券マンだったかは、他社の社長の回想に残っている。のちに野村證券社長となる瀬川美能留氏は1939年10月に上京して株式課に配属され[5]、読売新聞で証券界を担当していた同級生から一人の若い男を紹介された。瀬川氏はその男について『なかなかしっかりした識見をもっている』[引用元]と書き、こう続けている。「土屋氏は、そのころ二十歳代半ばの理想に燃えた証券マンで、投機色の強い今の株式市場を産業資金調達の場である投資市場にしなければならない、そのためにはたくさんの人に株式をもってもらわなければならない、と説き、いずれわれわれの時代に必ずそうしようと目を輝かせていた」[6]。
株式の売買を投機から投資へ移すという主張は、当時の兜町では珍しい部類に入る。1939年といえば株価低落防止のために日本証券投資が設けられた年[7]であり、市場は戦時統制のなかにあった。その環境で『たくさんの人に株式をもってもらう』[引用元]という証券の大衆化を語った点に、この経営者の性格がよく出ている。ただし、理想を語ったことと、それを支える収益の仕組みを作れたかどうかは別の問題である。三洋証券が58年後に破綻したとき、経営を担っていたのは陽三郎氏の長男であり、彼もまた父とよく似た性格の理想を、まったく違う手段で追っていた。
戦後の日東証券は、証券市場の回復にあわせて増資と出店を重ねた。1949年4月に資本金1000万円とし、翌5月の東京証券取引所発足とともに正会員となる。同年9月には宇都宮と結城に出張所を、新橋と新宿に支店を設けた[8]。1951年3月には大阪支店を開いて大阪証券取引所の会員となり、1953年には大井と銀座にも支店を増やして資本金は7000万円に達している。1955年の時点で引受業務を担う13社の一社に数えられ、株式売買高も毎月十位以内を占めていた[9]。中堅ではあるが、業界の内側にきちんと位置を得た会社だった。
1954年8月、日東証券は野村證券との提携を強化した[10]。1955年の記録はこの一行を最後に置いて日東証券の項を閉じている。四大証券の一角と中堅証券の関係がどこまで踏み込んだものだったかは、この記述だけでは分からない。1954年に始まった関係は、資本を通じた支援にまで及びながら、系列と呼ぶには足りないところで止まっていた。
合併の相手となった江口證券は、1933年2月11日に江口治郎氏が大阪・北浜に資本金200万円で設立した会社である。1943年の企業整備令で香川琢磨商店と田中耕三商店を吸収し、戦後は特別経理会社の指定を受けたのち1949年に指定を解除された。1953年8月には丸二証券を合併して京都支店を開き、1955年2月に資本金1億円としている[11]。同じ年の日東証券の資本金は7000万円だったから、資本の規模では大阪の江口證券が東京の日東証券を上回っていたことになる。会長の江口治郎氏に対し社長を務めた高橋要氏は、のちに大阪証券取引所の理事長に転じている[12]。合併は、東京の会社が大阪の小さな会社を飲み込む形では起きていない。
1971年10月、日東証券は大阪の江口證券と大一呉証券をあわせて吸収合併し、社名を江口日東証券に改めた[13]。東京の日東証券と大阪の江口證券という、それぞれ地元の取引所で会員資格を持つ二社が一つになったことで、全国に店舗網を持つ会社の骨格ができた。1960年代の証券不況を経て免許制へ移り、体力の乏しい業者の整理と集約が進んだ時期にあたる。合併で規模を確保する動きは、この会社に限ったものではない。ただし江口日東証券という社名は二年しか使われていない。
1973年1月、江口日東証券は三洋証券に商号を変更し、総合証券会社となった[14]。合併で得た資本と店舗網を背景に、株式の売買取次だけでなく引受と募集までを担う体制に移ったことになる。その後は東京・大阪・名古屋の3取引所に上場する準大手証券として扱われた。創業から67年、法人化から30年をかけて、兜町の現物商は準大手の上場証券会社になった。売買を取り次いで手数料を得る商いに、引受という自己の判断で残高を抱える仕事が加わったことになる。前者は相場が動けば収入になるが、後者は相場を見誤れば損失が残る。
二度の改名にはそれぞれ違う意味がある。1944年の日東証券は戦時統合の結果として与えられた名であり、1973年の三洋証券[15]は合併を終えた会社が自分で選んだ名である。前者では創業家の名が消え、後者では合併相手の名が消えた。土屋家の持ち分がどれだけ残ったかを示す資料は手元にないが、社名から江口の二文字を外して新しい名を掲げた以上、統合の主導権が旧日東証券の側にあったと見てよいだろう。この会社を最後まで率いたのも土屋家の人間だった[16]。社名から創業家の名も合併相手の名も消えた一方で、経営の実質は創業家に残り続けたことになる。
土屋陽一氏は1941年11月29日に東京で生まれ、1964年に慶応義塾大学商学部を出て野村證券に入った。株式部、公社債部、外国証券部、梅田支店営業課長、金融法人部次長と証券業務全般を経験し、1981年3月に野村證券を退社して4月に三洋証券へ移る。同年9月に国際営業本部長、12月に副社長となり、1985年12月、44歳で社長に就いた[17]。家業を継ぐまでに他社で17年を過ごした計算になる。株式の売買から債券、海外、そして支店の営業と法人取引まで、証券会社の主要な部門をひととおり見たうえで戻ったことになり、家業に入ってから四年で社長に就いた速さも、この経歴があってのものだった。
野村證券に入った経緯そのものが、この人物の性格を示している。1963年春、慶応の学生だった陽一氏は同級生二人とともに、当時の野村證券会長・奥村綱雄氏を自宅に訪ねた。同級生の一人が奥村氏の家で家庭教師をしていた縁だという。三人を前に奥村氏は『野村証券はインベストメント・バンクになるんだ。証券業界もこれからどんどん大きくなる。君たち、ぜひ野村に来なさい』[引用元][18]と語った。陽一氏は父の陽三郎氏に相談しないまま野村證券を受け[19]、あとで人事部長が陽三郎氏に『おたくの息子さんですか』[引用元]と問い合わせている。家業がありながら他社の会長の言葉で就職先を決めた、ということになる。
社長就任の直後、陽一氏はこの体験の意味を語っている。入社してみると『現実の仕事と奥村さんのインベストメント・バンク論の間には相当ギャップがある』[引用元]と感じたが、裏切られたとは思わなかった。『奥村さんは20年先を読んで布石を打っていた。今、それが現実になってきている。それに会社の方向が明確に示されたことが、現場の社員にとってどれだけ励みになったかわからない』[引用元]。記事はこれを受けて、経営者として大局観を持つことの大切さを学んだ陽一氏が、三洋証券のトップとなったいま自分の布石として情報化戦略を選んでいる[20]、と結んでいる。20年先を読んで方向を示すことが経営者の仕事である、という理解が、この後の投資の規模を決めた。
情報化戦略はまず海外から形になった。1984年、ジュネーブに現地法人『三洋セキュリティーズ・アンド・ファイナンス』[引用元][21]を置いている。そして1988年、東京・江東区塩浜にトレーディングセンターを建てた。約6400平方メートルのワンフロアに端末を3000台並べ、最大800人のディーラーを収容できる規模で、ひとつの取引フロアとしては世界最大とされた。破綻時の資本金が約398億円だったから、資本金に匹敵する額を一つの建物と一つのシステムに投じた勘定になる。準大手の一社が動かせる資金としては、常識を外れた規模だった。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1906〜1955年兜町の株式現物商が戦時統合で社名を替え、投機を投資に変えると説くまで | 土屋鋭太郎が東京・兜町で株式現物商「土屋鋭太郎商店」を開業 | ★ | ||
| 先代の死去にともない土屋陽三郎が事業を継ぎの土屋證券としてに改組 | ★ | |||
| 角〆証券を吸収合併 | ★ | |||
| 日東証券に商号変更 | ★ | |||
| 東京証券取引所の正会員に | ★ | |||
| 宇都宮・結城に出張所を、新橋・新宿に支店を設ける | ★ | |||
| 大阪支店を開設 | ★ | |||
| 大阪証券取引所の会員に | ★ | |||
| 数次の増資を実施 | ★ | |||
| 野村證券との提携を強化 | ★ | |||
| 1955〜1975年東京の日東証券と大阪の江口證券が一つになり、総合証券として上場するまで | 江口證券と大一呉証券を吸収合併 | ★★ | ||
| 江口日東証券に商号変更 | ★ | |||
| 三洋証券に商号変更 | ★ | |||
| 総合証券会社に転換 | ★★ | |||
| 1975〜1993年野村で17年を過ごした三代目が、情報化に会社を賭けるまで | 土屋陽一氏が野村證券から三洋証券に入社 | ★ | ||
| 土屋陽一氏が副社長に就任 | ★ | |||
| ジュネーブに三洋セキュリティーズ・アンド・ファイナンスを設立 | ★ | |||
| 土屋陽一氏が社長に就任 | ★ | |||
| 資本金に匹敵する300億円を投じた、世界最大の取引フロアの建設 1988年、三洋証券は東京・江東区塩浜にトレーディングセンターを建てた。約6400平方メートルのワンフロアに端末3000台を並べ、最大800人のディーラーを収容できる規模で、ひとつの取引フロアとしては世界最大とされた。投資額は約300億円で、破綻時の資本金約398億円に匹敵する。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1994〜2009年支援の連鎖が切れ、コール市場に戦後初の穴が開くまで | 系列ノンバンクの債務保証を抱えたままの、増資と劣後ローンによる延命 1994年4月、東京銀行・日本債券信用銀行・大和銀行の主力3行と大株主の野村證券が160億円の第三者割当増資を引き受け、日本生命保険など生保9社が劣後ローンを供与する再建策がまとまった。1995年2月には劣後ローン200億円が実行され、自己資本規制比率120%の維持に充てられた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 生保9社から劣後ローン200億円を調達 | ★★ | |||
| 救済合併でも自主廃業でもなく、会社更生法の適用を申請したこと 1997年11月3日、三洋証券は東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請した。負債総額は3736億円。上場している証券会社に会社更生法が適用されたのは戦後初めてであり、免許業種の破綻が業界内の負担分け合いではなく司法の手続きに委ねられた最初の例となった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| コール市場で戦後初の債務不履行が発生 | ★★ | |||
| 12月28日、破産宣告を受ける | ★★ | |||
| 3月25日、破産手続が終結し法人が消滅 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三洋証券)