1918年〜 米の仲買から証券会社へ、兜町の地場証券として(1918〜1990)
松井証券の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
- 1918年 松井房吉商店を創業
- 1918年 東京株式取引所の一般会員に加入
- 1931年 松井商店を設立
- 1947年 松井證券に商号変更
- 1948年 証券業の登録
- 1949年 東京証券取引所の正会員に加入
六人の相場師が興した米の仲買商から
松井証券の起源は、1918年5月に六人の相場師が興した米の仲買商、松井房吉商店[1]にさかのぼる。同じ月に東京株式取引所の一般会員となり[2]、株式の売買にも加わった。屋号は六を丸で囲んだマルロク[3]で、屋号を持つほど古い証券会社は兜町でも数少なかった。1931年3月に株式会社松井商店を設立[4]して法人組織に改め、戦後の1947年12月には松井證券へ商号を変更した[5]。1948年8月に証券業の登録を受け[6]、翌1949年4月には再開された東京証券取引所の正会員に加わった。以後は信用取引に強い地場証券として[7]、兜町の一角を占めた。
- 松井証券 有価証券報告書【沿革】
- [1]1918年5月に松井房吉商店を創業し、同月に東京株式取引所の一般会員となった
- [2]創業は六人の相場師による共同事業で、米の仲買商として始まった
- [4]1931年3月に株式会社松井商店を設立
- [5]1947年12月に松井證券株式会社へ商号変更
- [6]1948年8月に証券業の登録、1949年4月に東京証券取引所(再開)の正会員に加入
- 週刊東洋経済 2001年8月4日号「[企業レポート]1部上場松井証券 老舗の弱小証券会社が大手を凌駕しえた理由」
- [3]屋号は六を丸で囲んだ「マルロク」で、屋号を持つ証券会社は兜町でも数少ない
- [7]信用取引に強いという独自色を持つ地場証券だった
もっとも、規模は小さかった[8]。1987年当時、東京証券取引所に会員権を持つ100社を超える正会員のなかで、松井証券の株式委託件数は下から二番目にとどまっていた[9]。1995年3月期の営業収益は21億円、従業員は128人、資本金は6億1000万円[10]で、東証での委託売買金額はバブル期の2.5倍にあたる約1500億円で、シェアは0.17%だった[11]。ただし国内証券222社のうち経常黒字を確保したのが20社だけ[12]という当時にあって、松井証券はその一社であり、当期利益も黒字を維持していた。顧客の7割が信用取引を使う構成[13]が、この収益を支えていた。
- 日経ビジネス 1995年6月12日号「松井証券 推奨販売なしの営業戦略 個人取り込み、黒字確保」
- [8]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人で、東証正会員のなかでは小規模だった
- [10]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人・資本金6億1000万円
- [11]1995年3月期の東証での委託売買金額は約1500億円(バブル期の2.5倍)、シェア0.17%
- [12]国内証券222社中、経常黒字は20社のみで松井証券はその一社だった
- [13]1995年時点で顧客の7割が信用取引を利用していた
- 週刊東洋経済 2001年8月4日号「[企業レポート]1部上場松井証券 老舗の弱小証券会社が大手を凌駕しえた理由」
- [9]1987年当時、東証正会員100社超のうち松井証券の株式委託件数は下から二番目だった
- 松井証券 有価証券報告書【沿革】
- [1]1918年5月に松井房吉商店を創業し、同月に東京株式取引所の一般会員となった
- [2]創業は六人の相場師による共同事業で、米の仲買商として始まった
- [4]1931年3月に株式会社松井商店を設立
- [5]1947年12月に松井證券株式会社へ商号変更
- [6]1948年8月に証券業の登録、1949年4月に東京証券取引所(再開)の正会員に加入
- 週刊東洋経済 2001年8月4日号「[企業レポート]1部上場松井証券 老舗の弱小証券会社が大手を凌駕しえた理由」
- [3]屋号は六を丸で囲んだ「マルロク」で、屋号を持つ証券会社は兜町でも数少ない
- [7]信用取引に強いという独自色を持つ地場証券だった
- [9]1987年当時、東証正会員100社超のうち松井証券の株式委託件数は下から二番目だった
- 日経ビジネス 1995年6月12日号「松井証券 推奨販売なしの営業戦略 個人取り込み、黒字確保」
- [8]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人で、東証正会員のなかでは小規模だった
- [10]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人・資本金6億1000万円
- [11]1995年3月期の東証での委託売買金額は約1500億円(バブル期の2.5倍)、シェア0.17%
- [12]国内証券222社中、経常黒字は20社のみで松井証券はその一社だった
- [13]1995年時点で顧客の7割が信用取引を利用していた
営業部隊の崩壊と、婿養子として入った異業種の人
1986年ごろ、松井証券は人件費を抑えるために給与体系を変え[14]、営業マンの歩合給を大幅に圧縮した。これに反発した営業部長・次長・課長といったエース級の営業幹部五人が退社し、重要な顧客も一緒に去った[16]。営業部隊は壊滅状態となり、残された手段として始めたのが新聞広告による集客だった[17]。売り込む人間がいないので、広告を見た顧客からの電話を受けるほかなかった[18]。この方法で集めた新規顧客は1996年には1日に50件を数える日もあり、口座数は3年前の3倍を超えて1万を上回った[19]。のちに外交営業の否定として語られる方針は、理念から出発したのではなく、営業部隊を失った会社の窮余の策だった。 [15]
- 日経ビジネス 1995年6月12日号「松井証券 推奨販売なしの営業戦略 個人取り込み、黒字確保」
- [14]給与体系の変更に伴う営業幹部の離脱が、営業体制の組み替えの発端になった
- [15]1986年ごろ人件費圧縮のため給与体系を変更し、営業マンの歩合給を大幅に圧縮した
- [16]反発したエース級の営業幹部5人が退社し、重要顧客も離脱した
- [17]営業部隊が壊滅状態になり、苦肉の策として広告営業を始めた
- [18]営業部隊を失ったため、新聞広告を見た顧客からの電話を受ける形に切り替えた
- 日経ビジネス 1996年8月5日号「松井道夫氏[松井証券社長]型破りの営業でタブー揺るがす 根底に流れる“権威”への反抗心」
- [19]広告営業への転換後、1996年には1日50件の新規顧客を得る日もあり、口座数は3年前の3倍を超える1万口座に達した
この会社を継いだのは、証券業界の外から来た人物だった[20]。松井道夫氏は1953年に長野県で生まれ[21]、1976年に一橋大学経済学部を卒業して日本郵船に入社した。タンカーや定期船を担当し、30歳で労働組合の書記長を務めた[22]。1986年に松井証券の社長だった松井武氏の長女と結婚し、務台姓から松井姓に改めて翌1987年に入社する[23]。当初は家業を継ぐ気がなく、結婚の条件として継がないことを挙げていたが、義父がすでに70歳に達し、このままでは会社が他人の手に渡ると判断して決断した[24]。1988年に取締役、1990年に常務取締役営業本部長となり[25]、社内改革の実権を委ねられた。
- 週刊東洋経済 2001年8月4日号「[企業レポート]1部上場松井証券 老舗の弱小証券会社が大手を凌駕しえた理由」
- [20]松井道夫氏は日本郵船から松井証券へ移った異業種出身者だった
- [23]松井武氏の長女と結婚して松井姓に改め、1987年に松井証券へ入社した(結婚年は1996年記事が1985年、1999・2004年記事が1986年と食い違う)
- 週刊東洋経済 2020年6月13日号「スペシャルインタビュー 松井証券 社長 松井道夫「社長業30年の自負は古いものを捨てたことだ」」
- [21]松井道夫氏は1953年長野県生まれ、1976年に一橋大学経済学部を卒業し日本郵船へ入社
- 日経ビジネス 1996年8月5日号「松井道夫氏[松井証券社長]型破りの営業でタブー揺るがす 根底に流れる“権威”への反抗心」
- [22]日本郵船ではタンカー・定期船部門を担当し、30歳で労働組合書記長を務めた
- 日経ビジネス 1999年9月13日号「ひと 競争力は野村を凌ぐ「兜町の素人」10月1日、手数料9割引きで大勝負」
- [24]当初は家業を継がないことを結婚の条件としていたが、義父が70歳に達し会社が人手に渡ると判断して継ぐことを決めた
- 松井証券 有価証券報告書【役員の状況】
- [25]1988年に取締役、1990年に常務取締役営業本部長に就任
松井道夫氏には、当時の証券界が不合理に見えた[26]。入社当時の印象を、のちに「こんなにぼろい商売があるのか」(日経ビジネス 1996/8/5)[27]と述べた。保護行政のもとにある証券業を、業と呼べるものではないとも突き放した[28]。免許制に守られ、顧客のリスクで手数料を得る構造そのものへの反発[29]が、以後の施策の動機となった。日本郵船で経験した海運同盟の崩壊も判断の根拠になった[30]。運賃が同盟の交渉で決まっていた時代、差別化する手段のない船会社に荷主が求めたのは「誠意」だった[31]。ところが同盟が崩れて価格競争が始まると、荷主は格安の盟外船会社へ移った[32]。
- 日経ビジネス 1996年8月5日号「松井道夫氏[松井証券社長]型破りの営業でタブー揺るがす 根底に流れる“権威”への反抗心」
- [26]松井道夫氏は証券界の商習慣に強い違和感を表明していた
- [27]松井証券社長の松井道夫氏による発言(1986年に証券界へ移った際の印象)
- [28]松井証券社長の松井道夫氏による発言(保護行政下の証券業界について)
- [29]免許制のもとで顧客のリスクにより収益を得る構造への反発が施策の動機になった
- 週刊東洋経済 2020年6月13日号「スペシャルインタビュー 松井証券 社長 松井道夫「社長業30年の自負は古いものを捨てたことだ」」
- [30]日本郵船での海運同盟崩壊の経験が、手数料自由化時の行動の根拠になった
- [31]日本郵船時代、運賃は運賃同盟の交渉で決まり、差別化手段のない船会社に荷主は「誠意」を求めた
- [32]同盟崩壊後の価格競争で荷主は格安の盟外船会社へ移り、この経験が手数料自由化時の行動の根拠になった
- 日経ビジネス 1995年6月12日号「松井証券 推奨販売なしの営業戦略 個人取り込み、黒字確保」
- [14]給与体系の変更に伴う営業幹部の離脱が、営業体制の組み替えの発端になった
- [15]1986年ごろ人件費圧縮のため給与体系を変更し、営業マンの歩合給を大幅に圧縮した
- [16]反発したエース級の営業幹部5人が退社し、重要顧客も離脱した
- [17]営業部隊が壊滅状態になり、苦肉の策として広告営業を始めた
- [18]営業部隊を失ったため、新聞広告を見た顧客からの電話を受ける形に切り替えた
- 日経ビジネス 1996年8月5日号「松井道夫氏[松井証券社長]型破りの営業でタブー揺るがす 根底に流れる“権威”への反抗心」
- [19]広告営業への転換後、1996年には1日50件の新規顧客を得る日もあり、口座数は3年前の3倍を超える1万口座に達した
- [22]日本郵船ではタンカー・定期船部門を担当し、30歳で労働組合書記長を務めた
- [26]松井道夫氏は証券界の商習慣に強い違和感を表明していた
- [27]松井証券社長の松井道夫氏による発言(1986年に証券界へ移った際の印象)
- [28]松井証券社長の松井道夫氏による発言(保護行政下の証券業界について)
- [29]免許制のもとで顧客のリスクにより収益を得る構造への反発が施策の動機になった
- 週刊東洋経済 2001年8月4日号「[企業レポート]1部上場松井証券 老舗の弱小証券会社が大手を凌駕しえた理由」
- [20]松井道夫氏は日本郵船から松井証券へ移った異業種出身者だった
- [23]松井武氏の長女と結婚して松井姓に改め、1987年に松井証券へ入社した(結婚年は1996年記事が1985年、1999・2004年記事が1986年と食い違う)
- 週刊東洋経済 2020年6月13日号「スペシャルインタビュー 松井証券 社長 松井道夫「社長業30年の自負は古いものを捨てたことだ」」
- [21]松井道夫氏は1953年長野県生まれ、1976年に一橋大学経済学部を卒業し日本郵船へ入社
- [30]日本郵船での海運同盟崩壊の経験が、手数料自由化時の行動の根拠になった
- [31]日本郵船時代、運賃は運賃同盟の交渉で決まり、差別化手段のない船会社に荷主は「誠意」を求めた
- [32]同盟崩壊後の価格競争で荷主は格安の盟外船会社へ移り、この経験が手数料自由化時の行動の根拠になった
- 日経ビジネス 1999年9月13日号「ひと 競争力は野村を凌ぐ「兜町の素人」10月1日、手数料9割引きで大勝負」
- [24]当初は家業を継がないことを結婚の条件としていたが、義父が70歳に達し会社が人手に渡ると判断して継ぐことを決めた
- 松井証券 有価証券報告書【役員の状況】
- [25]1988年に取締役、1990年に常務取締役営業本部長に就任